【第35回】HELLO WORLD
『セカイ系の新たな枝葉としての映画』
西新井のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。
パンフレットによると『君の名は。』の影響を受けて作られた映画らしいですが、ゴリゴリのハードSFでございました(笑)。
【導入】
2027年の京都を舞台に、未来からやってきたもう一人の自分と協力して、愛すべき人を死の運命から救うというのが、本作のおおまかなストーリー。
監督は『世紀末オカルト学院』でデビューを果たし、人気アニメ『ソードアート・オンライン・シリーズ』や『ソードアート・オンライン・オーディナル・スケール』の製作を務めた伊藤智彦。なーんか川原礫作品との相性がかなりいいよなーと個人的に感じます。
製作会社は、虚淵脚本なのに人が死なないことで有名(笑)な『楽園追放 -Expelled from Paradise-』を手掛けたグラフィニカ。ということは当然、『機動戦士ガンダム』で知られる板野一郎さんがグラフィック・アドバイザーとして参加しているわけですが、今回は板野サーカスはなしです。一部それっぽいシーンはありますが、かなーり控えめ。
しかし驚きだったのは、製作協力会社に新海誠を抱えていることで知られるコミックス・ウェーブ・フィルムの名前があったこと。ですが背景映像が際立って美しいか……と聞かれたら、正直なところ『うーん』です。精緻ではあるけれども、美しくはないですね。
いくらコミックス・ウェーブ・フィルムとは言え、やっぱり背景美術に優れたセンスを持つ人を据えないとだめですね。まぁこのあたりは『ビーフン映画』こと『詩季織々』を観て痛感したことなので、特にがっかりしたとか、そういうマイナスな印象はありませんでした。
主演キャラの声優を務めたのは北村匠海と浜辺美波。実写版『君の膵臓を食べたい』で主人公とヒロインを務めたこのお二方が、今度はアニメ声優に挑戦というわけですね。
どうでもいい話ですが、ウチの70歳越えた母親がね、実写版『君の膵臓を食べたい』をめちゃ気に入ってましてね。まぁ半分は小栗旬目当てだったっぽいんだけど、えらく感動して地上波放送も録画しちゃったくらいで。ボロ泣きしたと言うんですね。
たしかに実写版『君の膵臓を食べたい』は私もそれなりに好きです。私は小栗旬じゃなくて(笑)北村匠海と浜辺美波の演技に好印象を持ちましてね。私が本作を鑑賞する気になったのは、このお二方が声優演技をやると耳にして『お?』と興味を持ったのが理由です。
だから正直、脚本があの『know』の野崎まどだとは知りませんでした。エンドクレジットで名前を見かけた時に『そーいえば終盤でどどん!と物語的な飛躍を見せるところがknowっぽかったけど、それかー!』と、なんか一人意味わからんところで興奮してました。
興奮と言えば、この映画、意外なことにあの藤田和日郎がデザインアートで参加しているんですよ。これもかなり驚いたなー。
【あらすじ】
2027年の京都では、とある一大プロジェクトが始動していた。
無限の記憶領域を持つ量子記憶装置「アルタラ」を用いて、京都の過去の歴史から現在に至るまでを、時間軸も含めて極めてリアルな三次元的データとして蒐集しようとする歴史保存計画・クロニクル京都。
そんな壮大なプロジェクトとは無縁のところで過ごす、一人の高校生がいた。
堅書直実。読書を趣味とする、どこにでもいる普通の高校一年生男子。臆病で優柔不断な性格を変えたいと思っているが、なかなかそうはうまくいかないことに悩んでいる、本当にどこにでもいる普通の高校生だ。
ある日のこと、図書館で本を借りて家路へ着く途中、直実は赤い光を放つオーロラを目撃する。突然の異常現象を前に困惑していると、オーロラの彼方から一羽のカラスが飛来してきて、直実の借りた本を器用に嘴で咥えてどこかへ飛び去ってしまう。
慌ててカラスの後を追いかけて伏見稲荷大社の鳥居をくぐった時、周囲の風景が奇妙な歪みを見せたかと思いきや、突然、直実の目の前に白いフードを被った青年が現れる。
その青年は、十年後の2037年からやってきた、大人になったもう一人の「カタガキナオミ」であった。
ナオミの語るところによると、高校生の直実が過ごしているこの時代の京都は、実は「アルタラ」によって保存された過去の京都……膨大なデータがシュミレートされた「記録世界」とも呼ぶべき仮想世界であり、自分は現実の世界から「ある目的」を実行するために記録世界の京都へやってきたのだと言う。
カタガキナオミの目的……それは、記録世界の直実が今から三ヶ月後に付き合うことになる、生まれて初めての恋人・一行瑠璃を、死の運命から回避させることにあった。初めてのデートで恋人を落雷で失った彼は、現実世界で瑠璃との想い出をつくれなかったことを悔やみ、せめて記憶の世界の中でいいから、生きて幸せな人生を送って欲しいという、切実な願いを抱えていた。
現実世界からやってきたもう一人の自分が口にする言葉に突き動かされて、直実は瑠璃を助けるための協力関係を彼と結ぶことになり、便宜上、ナオミのことを「先生」と呼ぶようになる。
しかし、瑠璃を助けると決めたのはいいものの、無力な自分になにができるのか。そう問いかける直実に、先生はささやかなプレゼントを差し出す。それは『神の手』という名の、記録世界に直接干渉することで物理現象を捻じ曲げる量子ツールであった。
来る運命の日に瑠璃を助けようとすれば、記録世界は世界を修復するために自動修復ツールを起動し、なんとしても彼女を死なせようとするはず。それを防ぐためにも、神の手を使いこなせるように努力して、思い通りの武器を生成できるようにならなければ意味がないと、先生は語る。
直実は特訓に励むと同時に、先生が現実世界から持ち込んできた、一行瑠璃と恋人同士になるまでの道程がこと細かに書かれた「最強マニュアル本」に従い、少しずつ瑠璃との距離を縮めていく。
優柔不断な自分とは違って、きっぱりと自らの意見を口にし、常に堂々とした態度の彼女に最初は引け目を感じていた直実だったが、同じ図書委員であることを生かして彼女の人となりに触れていくにつれて、その胸の内に淡い恋心を抱いていくことに。
先生の最強マニュアル本に従い、時に先生ですら意図しない行動を取らざるを得ない事態になりつつも、直実は一歩ずつ、しかし着実に瑠璃との関係性を縮めていった。そうしてある日、図書委員の主催する古本市が成功に終わった日、直実は瑠璃に告白し、晴れて二人は恋人同士になる。
だが、瑠璃が落雷に撃たれて死亡してしまう運命の日……2027年7月3日は、すぐ間近に迫っていた。
はたして直実は、愛する人を死の運命から救い出すことができるのか。
そして、先生が記録世界にやってきた本当の目的とは、一体何なのか――
【レビュー】
あらすじだけ読んでみると、なんだかガイ・ピーアス版の『タイムマシン』に似ているなぁと思う方、おられるかもしれません。あるいは『シュタインズ・ゲート』っぽいと。
でも、さすがに令和の時代になって、いまさらそれは古い。いくらなんでも手垢が付き過ぎてる。というわけで『タイムマシン』や『シュタインズ・ゲート』からの影響は多少なりともあるのかもしれませんが、着地点はそれとは全然別なので安心(?)してください。
私はむしろ、直実の持っている通学用鞄にデカデカと「The One」と書かれているのを見て、こりゃあ『マトリックス』オマージュかと最初は感じました(物語の途中で主人公、サングラスかけて闘うシーンありますし、あれもおそらくそうでしょう)。
The Oneという表記は『マトリックス』をご覧の方なら御馴染みでしょうが、これには「救世主」という意味があります。何のとりえもなかった主人公が、神の手なる大層なネーミングのツールを使って、記録世界(つまり仮想世界)を救う救世主になると、そういう文法で展開される映画なんだろーなと思って観てました。
序盤の段階で「実はこの世界は記録された世界で、君達はデータの中でしか存在しえないんだ」と伝えられるところなんか、もう完全に『マトリックス』なわけです。
ただ一点違うところがあるとすれば、記録世界と現実世界との量子通信は互いに不可逆になっていて、それゆえにそれぞれの世界とそこに住む人々は完全に独立したものとしてある……つまり一つの人格を仮想世界と現実世界の二つで分け合っているわけではなく、仮想世界の直実と現実世界のナオミは、それぞれが独立した生命体である。そこが『マトリックス』との構造的相違点でしょうか。
しかし自分達が仮想のデータに過ぎないと判明しても、まるでグレッグ・イーガンの小説みたいだなぁとあっさり納得してしまう直実。このライトな展開が現代的ですね。「自己とは何か?」「自己存在の定義とは?」なんて、そんなの三十年以上も前に通過したじゃないかと主張するような軽やかな話運びは、『ソードアート・オンライン』を手掛けた伊藤監督ならではと言えるかも。
もともと『ソードアート・オンライン』だって、原作小説からして「仮想の生命にも人権はあり、それは現実世界に生きる我々と何ら違いはない」という主張を全面的に展開していますからね。ユイの存在や、アンダーワールドを巡る一連の騒動なんかがそれです。
そういうわけで、自己存在意義への問い掛けを放棄した本作に対して、私は感心を覚えたというよりも、伊藤監督が仮想世界を舞台にしたオリジナル映画を作ったら、まぁそういう話になるよねと、一人納得しました。
しかし『マトリックス』よりも『タイムマシン』よりも、そしてイーガンの『順列都市』よりも、演出面において本作に多大な影響を与えているのが、クリストファー・ノーランのドリームSF『インセプション』であることに、疑いの余地はありません。本当にありがとうございます。
そこのあなた、嘘だと思うなら見比べてみてくださいよ。デジタルの街が遠景から谷折りにされていく場面とか、重力方向を無視した風の動きとか、画面の切り取り方とか、なんならトーテム紛いのガジェットだって出てくるし、『インセプション』からの影響を絶大に受けてます。絶対スタッフにファンがいるだろ(笑)。
しかも演出だけでなく、物語構造に至るまで『インセプション』そのまま。ここまで似せちゃう? と開いた口が塞がらないこと間違いなし。
そもそも「夢」と「仮想世界」って、言葉が違うだけでそこに含まれている意味は同じなんですよ。夢の世界は、一見して現実世界と同じ風景、同じ物理法則が働いているのかと思いきや、明晰夢という言葉があるように、イマジネーションの力で世界を書き換えていくこともできる。それは、たった一行のコードで世界を書き換える仮想世界・電脳空間と何ら変わりはありません。
だから『インセプション』内を支配していたあの夢の法則が、本作の記録世界に適用されようとも、そこに違和感というのは全く生まれません(当たり前だけどさ)。
本作に登場する神の手は、装着者の脳内イメージをそのままデジタル世界に投影してしまうという、量子脳理論に基づいたかのような説明がされていますが、これってつまりイメージ力が世界を塗り替えるということで、記録世界は完全に「夢」として扱われているんですねぇ。
では問題になるのが、一体「これ」は誰の夢なのか。仮に主人公たちの住んでいる世界が誰かの夢であるとするのなら、一体誰の夢見ている世界が、スクリーンに投影されているのか。
まさにそこが本作の最も語るべき点であり(とってもここではネタバレになるから語れないけど)本作が『インセプション』と異なる結末へ至るのに必要不可欠なターニングポイントになるわけです。
最初から夢の世界に没入することが分かっている『インセプション』とは異なり、観客は物語の終盤付近になっても、この仮想世界に仕組まれた真実を知らされることはありません。
はたしてここはどこなのか。自分達はなにを見せられているのか――ゲーム的視点で繰り広げられる戦闘シーンを挟みつつ展開されていく『愛と青春の物語』に対して、観客が漠然と抱かざるを得ない物語への違和感。意図的に現実世界の描写を排除したかのような話運びに対する、ある種の不安感。
そうして最後の最後に、その違和感の正体と世界の秘密が明らかにされて、夢の主が徐々に輪郭を伴ってスクリーンに映し出された瞬間、本作は令和時代のサブカルチャーにおける幕開けを担うに相応しい、第三の選択を決断した『セカイ系の物語』としての価値を獲得し、堂々とエンディングクレジットを迎えるのです。
なんだよ結局セカイ系の話? それはもうお腹いっぱいだよという方もいるかもしれませんが、思えば『天気の子』がセカイ系からの脱却を(意識的にかどうかは知らんけど)目指してああいった着地点を掲示した一方で、本作のような映画がつくられるとは、なんとも奇妙な縁を感じすにはいられない。
もともと『君の名は。』からの影響を受けて製作されたことが公式に明言されている本作です。あのエモーショナル・ムービーが、ストーリー展開や演出面で新海誠の集大成であることを鑑みれば、本作の根底に何が横たわっているかは自ずと知れてきます。『君の名は。』からの影響を受けたと公言するということは、つまりそれって、新海誠の作家性を濃い密度で受け継いだことと同義であり、セカイ系を描くことに必然的に繋がる訳ですね。
本作は、そのセカイ系を野崎まどの力で、かなりSF方面に力を入れるかたちで描いているだけにあらず、実は物語の着地点は『君の名は。』よりも『天気の子』に通じるところがあって、新海誠の猿真似で終わってたまるかという作り手たちの焦りと悩み、そしてやる気を感じなくもない。
従来のセカイ系物語が、たとえば『イリヤの空、UFOの夏』や『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』に代表されるように「幸福感に包まれた悲劇」を背景に置き、腹立たしいほどの男性本位な身勝手なワガママの具現化に過ぎなかったのに対し、『天気の子』では主人公とヒロインの関係性を社会に根付かせて世界を「開く」ことで、セカイ系に新たな枝をつけました。
『HELLO WORLD』は、従来のセカイ系に近いようで実際には遠くあり、『天気の子』と似たような、しかしそれともまた異なる「第三の枝葉」をつけることに成功しています。
これだけだと「なにそれ?」ってなりそうなのでもう少し具体的に話すと、従来のセカイ系では世界の命運を背負わされるのが決まって美少女であり、男は基本的に美少女の側にいるだけ。とくにこれといった努力はしないのに、なぜか美少女はそれに安心感を覚えるという……書いててイライラしてきた(笑)。この部分は『天気の子』も同じだったんです。
しかし『HELLO WORLD』はその点が違うんですね。世界の命運を背負うのが美少女じゃない。『天気の子』と近いようで、実はそうじゃない。じゃあ世界の命運を背負わされるのって誰?って、それを話すとオチが読めちゃうので話しません。
こういった物語の構造以外に、もう一つの特徴として挙げられるのがキャラクターです。
CGで描かれるキャラクターほど人形芝居めいた印象を与えるものはありません。CGやCGI、3DCGはただの優れた映画的技法のひとつであり、アイデアを効果的に魅せるための道具にすぎないのに、CGそれ自体が未知のイマジネーションに繋がると評している映画評の多さには、思わず辟易としてしまいます。
結局のところデジタルに出来る事って……これはディズニー作品の『トイ・ストーリー』で決定的に明らかになったことですが、アニメに近い抽象的な描き方をするか、実写の背景を補強するための道具としてしか有用性を発揮できないんですな。
だからコンピュータ内で製作したキャラクターを見せて「リアルでしょ」というのはとんでもないお門違い。それは確かに精緻に出来ているに違いはありませんが「よく出来ている」だけの人形。いくら2D作画に寄せた作りをしようと、デジタルを使っている時点で終着点がリアル寄りになることは決してないと私は考えています。
出来上がったキャラクターを見て、3DCGイメージに対する感心こそ高く抱くかもしれませんが、決定的な驚愕を抱くことは皆無です。実写映画が獲得している日常的な仕草や風景と比肩しうるような「リアリティ」とは全く結びつきません(その実写映画でも、細やかな仕草を無視してただただ筋書だけを馬鹿正直に追う作品が結構ある……十二人の死にたい子供たちとか)。
この作品もその例に洩れず、CG技術(特に3DCG)をフルに活用した、実に人形臭い「甘ったれた造形の」キャラクターたちがわちゃわちゃと動いているんですね。一行さんが可愛い可愛いとか、そんなのはどーだっていい。堀口さんが作り出すただの記号的フレームにオタクが好みそうな萌え属性(クール、カワイイ、大人しい、カワイイ、愛情深い、カワイイ)を詰め込んだだけ。それを分かっていて可愛い可愛い言ってんならいいですが、それを意識せずに可愛い可愛い言うのは、私からすれば甘ったれてます。
しかしですねーこれがイイんです。
いや、イイと言うか、物語を紡いでいくのに適した人形臭さなんですわ。
だってこれ、仮想世界の話ですからね。生身の人間なんているわけがない。そこはデジタルで生み出された、いかにも作り出された「精緻な」人形たちが暮らす世界であらねばならないんです。繰り返すようですいませんが、この映画が描いているのは「仮想」の世界なんですから、そこにどれだけ記号的なキャラを詰め込もうが、実は映画的論理においてなんら破綻をきたしていないんです。
だからこの映画を観て「キャラクターにリアリティがない。もっと滑らかに動いて欲しい」と評価している映画レビュアー、映画評論家の方々は、当たり前のことをドヤ顔で言っているだけだということに気づいてほしい。
とにもかくにも、『天気の子』の公開二ヶ月後にこういう作品が作られることで、また「セカイ系」がブームになるのかなぁと考えますが、後に続く人たちがこれらの作品を受け次いで新しいビジョンを示さない限り、それもないのかなと思えたり。
量子脳理論とか、マイクロチューブルとか、精神テレポートとか、SFを好んでいる方々からしてみれば当たり前なキーワードを事前に頭に叩き込んでいれば筋を追うのに苦労はしません。
『君の名は。』がユルめのSFだったのに対し、本作はガチめのSFのために『君の名は。』と似たような雰囲気、似たような展開を期待しているとちょっと面食らうかもしれませんが、物語的に興味深いのは事実ですし、仮想の住人を愛する伊藤監督らしい地点に着地していますから(この着地点については『ストーンオーシャン』を読んでいればわりとあっさり理解できます)。
SF好きにはおススメできる作品です。




