【第33回】アス
『抑圧され続けている私たちのための映画』
上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。
以前にアマゾンプライムで『ゲット・アウト』を観て以来、ずーっと気になっていた作品です。
【導入】
ドッペルゲンガーを題材に、盲目的に国家に従う人々や、愛国心があれば幸せになれると信じ切っている人々を痛烈に批判する物語を、ホラーサスペンスのテイストで描いたのが本作です。
監督は、俳優にしてコメディアン。黒人差別を描いたホラー映画『ゲット・アウト』でアカデミー脚本賞を受賞した実績を持つ、ジョーダン・ピール。
『ゲット・アウト』も本作も、かなーり社会的な要素を含んでいます。ちょっと近年のホラー作品にはないくらい、メッセージ性の強い作品を創る監督ですね。ちなみに本作が長編映画二作目ということで、今後がますます楽しみです。
主演は『それでも夜は明ける』やスターウォーズ続三部作に登場したルピタ・ニョンゴに、『ブラックパンサー』のウィンストン・デューク。いやー、この二人の演技が特にすさまじいです。
そして印象的な音楽を担当するのはマイケル・エイブルズ。やべー知らねー(笑)。でもこの映画、本当に音楽が印象的に使われていますよ。
【あらすじ】
1986年。ロサンゼルスからニューヨークまでの約6600kmを15分間、600万人の握手で結ぶチャリティ・イベントが開催された。
のちに『ハンズ・アクロス・アメリカ』と呼ばれる、アメリカ国民の愛国心を試すかのような史上空前のビッグ・イベントが開催されている頃、黒人家族に生まれた少女のアデレード・ウィルソンは、誕生日に家族と共に西海岸・サンタクルーズの行楽地へ遊びに出かけた。
そこで家族とはぐれて迷子になったアデレードは、『ビジョンクエスト 本当の自分を探せ』と題された、怪しげなハウスへ足を踏み入れてしまう。そこは、全面鏡張りの迷宮仕掛けをウリとするハウスだった。
異様なハウスの景観に恐怖を覚えたアデレードはハウスから脱出しようとするが、その時、彼女は出会ってしまったのだ。鏡に映っているはずの自分ではない、正真正銘、もう一人の生きた自分に。
そのもう一人の自分は、アデレードを見つめると、邪悪にその口を歪めるのだった。
言いようのない恐怖心に苛まれながらも、なんとかハウスから脱出したアデレード。しかし、もう一人の自分……ドッペルゲンガーと遭遇した事実は彼女の中に深い傷を刻み、トラウマとなり、失語症を患ってしまう。
悪夢のようなハウスでの出来事から十数年後……失語症を克服したアデレードは結婚し、夫との間に二人の子供を授かった。
そんなある日、夫・ゲイブの提案で、一家はサンタクルーズの行楽地へ遊びに出かけることになる。過去の出来事からサンタクルーズへ行くことを拒むアデレード。しかし、最終的には長男のジェイソン、長女のゾーラがビーチへ行くのを楽しみにしていることをゲイブから伝えられ、渋々了承するのだった。
サンタクルーズにはウィルソン一家と交流のある白人家庭・タイラー一家も遊びに来ていた。一家水入らずの交流の最中、長男のジェイソンはビーチのトイレへ向かう途中、ある一人の不審者を見つける。
その不審者は、真夏のビーチだというのに分厚いボロボロのジャンパーと赤いツナギを着て、じっとビーチの一点に立ち尽くしていた。
その日の夜。ペンションに戻ったウィルソン一家だったが、アデレードは過去の記憶をぶり返して、一刻も早くここから立ち去りたいとゲイブに要求する。しかし、元からかなり楽観的な性格のゲイブは、アデレードが体験した恐ろしい出来事について話を聞かされても、それほど真剣に取り合おうとはしない。
その時、不意に停電が起こった。補助用の電源を探しにいこうとしたゲイブの下に、眠ったはずのジェイソンがやってくる。
「外に誰かいるよ」
息子の言葉通り、窓から外を眺めてみると、暗闇の最中、四人の不審者が手を繋いで家の敷地内を陣取っていた。
ゲイブはバットを手に不審者を追い払おうとするが、彼等は人間とは思えぬ運動神経で散開すると、ドアを蹴破り、窓ガラスを割り、あっという間にペンションを占拠してしまう。
突然の凶行に恐れ慄くウィルソン一家。異様なる不審者たちの姿を、暖炉に灯された明かりが露わにする。彼らの顔を見た瞬間、ジェイソンは思わずつぶやいた。
「僕たちだ……」
黄金色の植木ばさみを胸の前で捧げ持ち、赤いツナギを着た四人の不審者。
彼らの顔かたちは、ウィルソン一家の四人と、何から何まで同じだったのである。
しかし、異変が起こっているのはウィルソン一家だけではない。隣に住むタイラー一家にも、いや、アメリカ全土に、自分と全く同じ顔をした『もう一人の自分』――ドッペルゲンガーが出現し、人々を殺し回っていたのだ。
何の前触れもなく突如としてアメリカに現れた『私たち』。彼らの狙いとは、果たして――
【レビュー】
ドッペルゲンガーを題材にした映画の中では、個人的にかなり突き刺さる映画でした。『ヘレディタリー/継承』以来に、当たりだなと思えるホラー作品に出会えてうれしく思います。
まず何と言っても役者の演技が凄まじい。ドッペルゲンガーを題材にしたホラー映画はそれなりにありますが、そのほとんどが、たとえば黒沢清監督の『ドッペルゲンガー』に代表されるように特撮CGで『もう一人の自分』を演出しているのに対して、本作では生身の役者が『もう一人の自分』を演じているんですけど、この演技が凄い。
自分と全く同じ顔、全く同じ振る舞い、全く同じ思考をする人間が相手だと、当然会話の意志疎通も図れると思いがち。しかしそんなことはなく、ウィルソン一家と対峙する『ドッペルゲンガーとしてのウィルソン一家』は、どこか知能が足りない言動ばかりを繰り返す。
唯一会話が通じるのが、主人公・アデレードのドッペルゲンガー『レッド』ですが、それも意味深な言葉を吐き連ねるだけで、まるで要領を得ない。目的が分からないのに手段だけはやけに暴力的だから、この時点でもう怖い。
そしてこの『レッド』を演じている時のルピタ・ニョンゴの演技がもう圧巻ですよ(笑)。アデレードとは対照的な、喉が潰されたような声色。常に植木ばさみを胸の前で捧げ持ち、意味もなく後ろ歩きしたり、踊るように体をくねらせてハサミで攻撃。とても同じ役者が演じているとは思えません。
そこに重ねるように、あの切れ味良くもどこか調子はずれな音響を持ってくるから、なおのこと怖いんですよー。自分と全く同じ顔をした奴が、自分の想像もつかない行動を取っている。その様を直視している状況が、いかに気味悪くいかに悍ましいものであるか。それを観客に伝える演出が際立って上手いですね。
まぁドッペルゲンガーモノってそこがキモだから、出来て当然なんでしょうけど、でもこの映画は特にそれが上手いなぁと感じましたね。わざとドッペルゲンガー側に言語不明瞭な設定を置いて、ゴキブリみたいに四肢を使って床を這わせるシーンを撮っちゃったりして、明らかにロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』からの引用が見られるのですが、ドッペルゲンガーモノにゾンビ要素を足すという監督のセンス、私は好き。
しかしですねー私、この映画の中盤くらいから、実はアデレードたちではなく、気持ち悪い挙動で襲い掛かってくるドッペルゲンガーの方に感情移入しちゃって、たまらなく哀しい気分になったんですね。
実はこの映画は、『サプライズ』や『ホーム・アローン』に似た『家にヤバイ奴が来たから追い払う系』の作品でありながら、その追い払われる側のドッペルゲンガーの演技にとてつもなく引き込まれるようになっています。
私が特に印象に残っているのが、タイラー一家のドッペルゲンガー。エリザベス・モス(ドラマはほとんど観ないので『噂のモーガン夫妻』くらいしか出演作知らんけど)演じるタイラー夫人が、オリジナルの婦人が使っていた口紅を鏡を見ながら丹念に塗るシーンがあるんですけど、ここが本当に、実に楽しそうな表情なんですよ。
いままでこういうお洒落なことがしたくてたまらなかったんだなというのが強く伝わってくるんですが、そこで分かるのは、彼らドッペルゲンガーは何も闇雲に人々を殺しているのではないということ。それはあくまでも手段の一つに過ぎず、真の目的は別にあることを示唆しています。
その目的というのが『自分も幸せになりたい』という原始的な欲求であり、またここで哀しいことに、彼らはそれを『アメリカ人になること』で叶えようとしているんです。
ウィルソン一家のペンションにドッペルゲンガーが侵入してきた時、ゲイブは彼らに『お前たちは何者だ?』と問いかけます。ここでアデレードのドッペルゲンガーであるレッドが、こう答えるわけです。
「私たちはアメリカ人だ」
この言葉の本当の意味というのは、物語の終盤になって明らかになるので、詳細についてはここでは省きます。問題は、では何を以てドッペルゲンガーたちは自分達はアメリカ人であると主張し、何を以てアメリカ人たろうとしているのかということです。
その鍵となるのが、あらすじにも書いた『ハンズ・アクロス・アメリカ』というイベントです。
ドッペルゲンガーたちは突如としてアメリカ全土に現れたかと思いきや、1986年にアメリカ合衆国で行われた『ハンズ・アクロス・アメリカ』の儀式を真似るわけですが、これが彼らにとっての『アメリカ人になるのに必要な儀式』であるという風に、この映画では描かれています。
つまりドッペルゲンガーたちは『ハンズ・アクロス・アメリカ』を実際にやることで、それでアメリカの一員になろうとしたわけです。
この『ハンズ・アクロス・アメリカ』、実際にレーガン政権時代に行われたチャリティーイベントらしいです。さながら人間の鎖とも呼ぶべき偽善的な行為であるのに、当時の人々にとって、このイベントに参加すること自体がアメリカへの愛国心を示す、まるで踏み絵のような儀式であったことに疑いの余地はありません。
ジョーダン・ピール監督は子供の頃に、この『ハンズ・アクロス・アメリカ』を見て、ひどく気持ちの悪いイベントだと感じたそうです。
分かる、分かるぞその気持ち。つまるところこれって、日本で言うところの『24時間テレビ 愛は地球を救う』と同じなんですよね。
ただ手を繋ぐだけで世界から貧困を失くそうと標榜する『ハンズ・アクロス・アメリカ』のうさん臭さと、出演者に高額のギャラを払い、クソみたいなアイドルたちを起用して障碍者たちをおもちゃのように扱う『24時間テレビ 愛は地球を救う』は、偽善や悪徳というラインにおいて同一線上にあるイベントです。
余談ですが、うちの会社の上司があのクソみたいなチャリティーイベント大好きなんですよね。もうね、言葉も交わしたくないくらいに嫌いですね(笑)。馬鹿なんじゃないかなと思いますね。
ですからこの映画、『ハンズ・アクロス・アメリカ』がどういうものか分からなくても、我々日本人は楽しめます。どこの国にもそういう偽善的なチャリティーイベントというのはあるのでしょうが、このドッペルゲンガーたちは『24時間テレビ 愛は地球を救う』に出演することで、日本人としてのアイデンティティーを獲得しようとしているのだなという風に脳内変換してやりさえすれば、これがいかに愚かで物悲しいものであるか分かるはずです。
愛国心というのは、私思うんですけれど、自分の国だけでなく、他の国々の文化や価値観を愛して、はじめて『自分は愛国心を持っている』と胸を張って言えると思うんですよ。自分の国だけを愛するという行為は『国粋主義』であり、愛国家とは似て非なるものです。そこんところを全く理解していない、ノミ並の脳味噌持ちのネトウヨが多すぎてホントイヤになりますね。
しかしながらドッペルゲンガーたちは、その『国粋主義』を、とにかくアメリカという国を信じれば自分も幸せになれるんだと盲目的に信じていて、そのために活動を開始するんです。
そんなことをやっても幸せになれないじゃん!と、もうドッペルゲンガーたちにすっかり感情移入してしまって哀しい気分になる私。しかしそんな鬱屈した気分は、この映画の最後の最後に覆されることになります。
はい、そうです。ホラーサスペンスの醍醐味、どんでん返しです。
このどんでん返しはですねー、そうですね。たとえばロバート・アルドリッチ監督の『何がジェーンに起ったか?』に近いものがあるなと感じましたが、いや、個人的にはかなりスカッとする展開でした。
こんな感想を持つの、たぶん私くらいのもんなんでしょうけど、でもとてつもなく『スカッ』としたのは事実。『ゲット・アウト』の時も感じましたが、ジョーダン・ピール監督のホラー映画って、観終わった後にイヤな感じが残らないってところが特徴ですね。
さて、前作の『ゲット・アウト』では黒人差別を取り上げてホラーテイストに仕上げたジョーダン・ピール監督ですが、本作にもそういった社会的要素はふんだんに詰め込まれています。
前述した盲目的な国粋主義の愚かさもそうですが、しかしそれ以上に強調しているのが、やはり今回も『差別』。しかし黒人差別といった人種的な違いからくる価値観の隔たりを描いているのではなく、今回は『見えざる者達』を被差別者として描いています。
前にレビューした『存在のない子供たち』も、この見えざる者達をテーマにした作品ですが、まさに『アス』もそうなのです。
それまで差別の対象としてあった黒人たち。しかしバラク・オバマが大統領となり、時代は明らかに別の潮流へ向かい始めました。その結果としてトランプ政権が誕生し、新たに差別の烙印を押された人たちというのが、メキシコの向こうからやってくる『移民』たちであり、それは同時に、社会的に無視されている人々や、貧しく自由を謳歌できない人々、鬱屈した感情を抱えて都市を生きる人々でもあるのです。
『見えざる人々』の復讐をホラーテイストで描いた作品。『アス』をそんな風に捉えることもできるでしょう。
富める者と貧する者。生まれつき恵まれたごく一部の人たちは、生まれつき希望なく人生を歩まざるを得ない人々の存在に気づこうとせず、そういった人たちがいるおかげで豊かな生活を送れているのだと自覚することはありません。
思い出したのは、3.11の時、テレビの向こうで、やれ『絆』であるとか、やれ『頑張ろう!日本!』と、さも真剣そうな表情で、被災者である私たちに平然とありがたそうな言葉を向けてくる、金と地位と名誉に恵まれた芸能人たちの姿です。
あの時、一方的に優しさや親切心を刃のように向けてくる、あの手のくだらないCMを企画したテレビ屋と、CMに出ていた全ての芸能人のことが、今でも心の底から嫌いです。(ただし、実際に精力的に募金活動を行っていたサンドウィッチマンは除く)。
『頑張ろう!日本!』――この抽象的なフレーズのどこに、被災者の存在が含まれていると言えるのか。水も電気もガスも止められて、被災情報も入ってこないで、配給車の配るパンにかじりつくしかない。あのとき私が実際に経験した『現実』を彼らは見ているつもりなのでしょうが、実際はテレビというフィルターを通じて、見た気になっているだけです。
テレビという仕切りのこちら側と向こう側。目に見えない境界線によって、理不尽な哀しみを背負わざるを得ない人間と、そんな人間のことはさっさと忘れて呑気に笑っている人間とが、明確に区別されている。そのことを気づかせてくれた3.11のあの日を、私はこの映画を鑑賞している最中に思い出しました。
この世界はコインの裏表のような存在で、悲劇を被る側と、喜びしか覚えない人々の二つで成り立っています。そんなことないよという人は、きっととても幸せな経験ばかり積んだ人なのでしょう。私みたいに捻くれたオタクには、実体験も含めて、とてもそんな世界には見えませんよ。
小説、映画、漫画に限らず、私は『二項対立』や『二元論』をモチーフにした作品がめちゃくそ好きなんですが、そんな私の好みをドンピシャで突いてくるのがこの映画。私みたいに『こんなクソみたいな人生嫌だなぁ』とか、幸せな人生を送っている人々へ複雑な感情を抱く捻くれたオタクたちには、まるで救世のような存在たりえるのが『アス』でございます。
最後に一つ付け加えると、本作はどういうことか、諸星大二郎の『生命の樹』と似通ったテーマを内包しているように感じました。この世界には『あだん』と『じゅすへる』の二人の人間から生まれた人々がいて、『あだん』の子孫は地上で楽しく暮らしているけれど、『じゅすへる』の子孫は『いんへるの』に堕とされ、煉獄のような責め苦を味わい続けている。
おらといっしょに『ぱらいそ』さいくだ!――『いんへるの』に堕とされた人々を、そう言って導く救世主は誰なのか。そこんところもちゃんと映画では示されていて、だからこれ、観る人によってはホラーの形を借りた『救世』の物語なんですね。
グロテスクな描写はほとんどないので、ホラーが苦手という方にもおすすめの一作です。




