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【第31回】アンダー・ユア・ベット

『原作の色気・存在感が際立つ映画』


テアトル新宿で鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。


ツイッターでとある方がこの作品を褒めていらっしゃって、調べてみたら大石圭原作の小説を映画化した作品ということでね。えー、大石圭。大学時代にそれなりに読んでいましたが、ここ最近は全く触れていなかったので、どんなもんかと思って劇場に足を運びました。





【導入】

幼い頃から両親からもクラスメイトからも無視され続けてきた孤独な主人公が、たった一度だけ一緒にコーヒーを飲んだ仲の女の子に執着し、大人になってもその感覚が忘れられずに彼女の私生活を監視していくようになるという映画。


監督は安里麻里。『リアル鬼ごっこ』の『3』と『4』と『5』を監督したり『バイロケーション』を監督したりと、ホラー業界で活躍されている方です。


ということで、この『アンダー・ユア・ベット』もホラーの文脈で語られているのかと思いきや、どちらかというとヒッチコックの『裏窓』を彷彿とさせるようなサスペンス風味なんですよね。


で、主演を演じるのは高良健吾。個人的には『悼む人』の静かな演技が印象に残ってますかね。『シン・ゴジラ』でゴジラのことを『まるで霞食ってる仙人みたいだ』と喩えた、志村内閣官房副長官でもおなじみの方です。


ヒロインを演じるのは西川可奈子。浅学ですみませんが今まで知りませんでした。どことなく顔つきが『フィギュアなあなた』の佐々木心音に似てるんですよね。つまり薄幸な存在感が抜群というわけ。





【あらすじ】

石の裏を捲ると、そこに小さな虫たちが蠢いていることに、人々は気づかない。


ぼくは子供の頃から、石の裏で生きている男だった。


両親はぼくのことをほとんど無視していたし、クラスメイトもそうだった。


卒業式のアルバムにぼくは載っていない。休んだ学生はアルバムの隅に顔写真だけ掲載されるものだけど、ぼくは卒業アルバムの撮影日に、学校を休んでなんかいない。それなのに載っていない。


理由は簡単だ。ぼくはあの日、写真撮影の時間に遅れた。でもそのことに誰も気付かなかった。クラスメイトも、担任の先生も、ぼくの不在に全く気付かなかった。だからぼくは映っていない。それだけのことだ。


その時、ぼくはぼくの人生というものをほとんど理解した気になった。このままずっと孤独を抱えて、その孤独を誰にも知られることなく、ひっそりと生きていくんだろうと。石の裏で蠢く虫のように。


けれども、そんな穏やかな絶望に満ちた人生に一筋の光が差したことが、たった一回だけぼくの人生にはあったんだ。


それは大学生の時だった。フランス語文法の講義を受けていた時に教授から問題の解答を答えるよう指名された僕は、顔には出さなかったけれど、内心では焦っていた。


まさか石の裏で誰にも知られることなく生きてきたこのぼくが、そんな目に遭うなんて思ってもいなかったからだ。


問題に答えられないぼくは右往左往するばかりで、周りからくすくすと聞こえる笑い声に耐え難い羞恥を感じていた。


「三井くん」


その時、不意にぼくの名前を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには百合の香りを漂わせる女の子が座っていた。


女の子は自分のノートを差し出すと、問題になっている箇所とその回答を、こっそり教えてくれた。それでぼくは難を逃れたわけだけど、そんなことはもうどうでもよかった。


三井くん……たしかに彼女はぼくの名前を口にした。これまで誰一人として、ぼくの存在に気づいてこなかったのに、彼女は、佐々木千尋だけは、ぼくの名前を覚えていてくれたんだ。


ぼくは感激のあまり、講義が終わったその直後に、勇気を振り絞って佐々木千尋をお茶に誘った。


適当に入った喫茶店で、彼女は色々なことを話してくれた。自分の所属しているテニスサークルの話や、洋服や、ブランド物のバッグの話を。


けれども、彼女が楽しそうにお喋りをするたびに、ぼくの心はまた孤独感を強めていった。彼女の住んでいる世界が、ぼくとはあまりにも違いすぎたからだ。曖昧に相槌を打つだけで、ぼくは一言も口を開けなかった。


「三井くんて、無口なんだね」


ぽつりと佐々木千尋が言った。それから少しだけ目を伏せて、手持ち無沙汰な態度を取り始めた。


ぼくは慌てた。このままでは、彼女は去ってしまう。なんとか引き留めないと。


でも、ぼくの口から上手い台詞は一向に出てこなかった。人との接触に恵まれない人生を送っているうちに、ぼくの口はすっかり錆びついてしまったようだった。


「ねぇ、三井くんて、趣味はなんなの?」


ぼくはしばらく考えて、それから答えた。


「えっと……グッピー……グッピーを……買ってる……」


「グッピー? グッピーって、あの熱帯魚の?」


思いのほか食いついてきてくれたことに、ぼくは気分を良くした。夢中になってグッピーの話をした。一旦喋り出すと止まらなかった。ぼくの口は、自分でも信じられないくらいに軽やかに動き始めた。


ぼくが喋るたびに、彼女は笑みを浮かべて何度も相槌を打ってくれた。それがたまらく嬉しかった。まるで彼女の存在が、ぼくの錆びついた口に油を差してくれたようだった。


あの時、佐々木千尋と一緒に飲んだコーヒーの銘柄は、今でもはっきり覚えている。マンデリン。彼女はそれが好きだと言っていた。


彼女はカップに唇をつけてマンデリンを飲んでいた。「三井くん」と、ぼくの名前を呼んでくれた、あの滑らかな唇で。


ぼくはあの日、生まれてはじめて、幸せというものを知った。


あれから11年。大学を卒業して会社に就職した今になっても、彼女のことが忘れられなかった。


彼女は今、どんな人生を送っているんだろう。ぼくの名前を呼んでくれた彼女は、幸せに過ごしているんだろうか。


ぼくは興信所を使って佐々木千尋の行方を探させた。三日後に調査報告書が送られてきた。それによると、彼女は大学を卒業後に年上の男性と結婚して、浜崎千尋になっていた。今はとある港町で過ごしているらしい。丁寧に、住所まで添えてあった。


居ても立ってもいられなくなって、ぼくはその住所に向かった。


彼女と会って、何かを伝えたいわけじゃない。もちろん、旦那さんから彼女を奪おうというつもりもない。


ただ、一目で良いから、もう一度彼女の姿を見たかった。彼女の姿を見て、あの時抱いた幸せの感触を、その手触りを感じたかっただけなんだ。


あの日、ぼくは何度も浜崎家の周りをうろうろして、千尋が出てくるのを待った。一度だけ目にできたら、それで満足して帰るつもりだった。


けれども、生垣越しに玄関から出てきた彼女の姿を見て、ぼくは愕然となった。


千尋の横顔はひどくやつれていて、およそ生命力というものを感じさせないほどになっていた。髪は艶を失って、一気に何十歳も老いたような顔つきをしていた。あの朗らかな笑みも消えて、人生に疲れ切ったような、陰鬱な空気を纏っていた。


ぼくとすれ違っても、彼女はこちらには気づかず、そのままふらふらとどこかへ消えていった。彼女の髪から、百合の香りはこれっぽっちもしなかった。


千尋の後ろ姿を……よれよれのカーディガンを羽織って亡霊のような足取りで消えていく彼女を見て、ぼくは平静ではいられなくなった。


「三井くん」


ぼくの名前を呼んでくれた、あの優しかった彼女に、いったい何が起こったのか。


ぼくは会社を辞めると、千尋の家の近くに自宅兼用の熱帯魚店を開いた。それから、二階にある自室の改装に着手した。学生時代の千尋の顔写真を拡大した巨大なポスターを壁に貼り、購入したマネキンに彼女が大学時代に着ていた服と同じブランドの服を着せて、亜麻色のかつらを被せて、百合の香水をかけた。


千尋の存在をすぐ近くに感じながら、ぼくは毎晩毎晩、望遠レンズ越しに浜崎家を観察し出した。


その観察過程の中で、ぼくは、千尋の身になにがあったのか、徐々に知る事になっていくのだった。





【レビュー】

そうそう、大石圭ってこういう作風の作家だったよねと感じながら鑑賞しました。


SとM。嗜虐と被虐。暴力と快楽。人体破壊と、どうしようもない不器用で乱暴な愛情表現。それを落ち着いた筆致で淡々と書いていくのが大石圭という作家の特徴で、特に私の好みとするところは『湘南人肉医』ですね。凄腕の美容整形外科医が女たちを次々に殺してその肉を料理して食べるって、ただそれだけの悪辣とした話なんですが、終わり方の乱歩っぽさも含めて、私はいまだにこれが大石圭の最高傑作だと思っています。


で、大石圭の特徴として挙げられるのが、モノローグなんですね。基本的に一人称で進んでいく話がほとんどで、主人公の独白のトーンが常にフラット。主人公によって語句の使い方も几帳面に変えていく。その徹底した創り込みも私は好きです。


まさに大石圭の小説の魅力は、この主人公の独白にあるわけで、それを映画にも採用した監督の判断は正しいと感じました。


しかも秀逸なのは、小説とは違って、モノローグが事実の説明だけに使われていることですね。『その時ぼくはこう思った』とか、そういう感情の発露はすべて目線や表情で表現する。当たり前のことなのかもしれませんが、この当たり前が出来ていない邦画監督ってけっこういます。


たとえば二年ほど前に映画化された『虐殺器官』というのがありますが、あれも小説を原作とした映画だったんですよね。それでやっぱり、モノローグが非常に重要な作品だったわけ。それなのに三人称的な視点で映画化しちゃって、感情描写もほとんど口で説明し出すから、映像はそれなりに面白いのに、お話としては微妙な感じになってしまった。映画の終盤になって『これがぼくの物語だ』って、いや一人称捨てておきながらその台詞は入れるんかい!と突っ込みたくなる映画でした。


もしも『アンダー・ユア・ベット』からモノローグを消してしまったら、途端に味気ない映画になるのは明白。逆説的に言えば、モノローグがあるからこそ、この映画は原作の持つ魅力を余すところなく伝えているんじゃないかと。


魅力とはすなわち『孤独の描写』ですよ。大石圭のいいところは『エヴァ』みたいに孤独に酔って浸るナルシスティックな感じに主人公を描くんじゃなく、孤独を既に受け入れてしまっている主人公を描くところにあるんですが、それを高良健吾はしっかり演じているんですわ。


部類で言えば「イケメン」に当たる高良健吾ですが、今回の彼はかなり鬱屈とした雰囲気を全身から発散させていて、いかにも友達が一人もいなさそうな、もっと言えば『なにを考えているか分からない』という雰囲気を存分に発揮しています。確かにこの男なら、一人でアクアリウムやってそうだなという謎の説得力があるんです(笑)。


一方でヒロイン役の西川可奈子は、これはさっきも口にしましたが、もう本当に薄幸な演技がうまい。それが目線や表情や仕草だけじゃなく、文字通り裸体に現れているんですね。


本作では西川可奈子のオールヌードが、それこそ陰毛までくっきりと描かれているわけですが、その華奢な体つきから匂い立つ如何にも『不幸』な感じを見るにつけ『なんであんなカワイイ子がこんなになっちゃったの!?』という悲哀を抱かざるを得ないわけ。


そんな薄幸な彼女に何があったのか知りたくて、主人公の三井くんは色々な手を尽くすんですな。旦那のライターに盗聴器を仕掛けるのは序の口。『アンダー・ユア・ベット』という題名の通り、旦那と彼女が添い遂げるベットの下に忍び込んで、江戸川乱歩の『人間椅子』とか『屋根裏の散歩者』みたいに、見えざる観測者としてヒロインの生活を監視するわけです。


この『見えざる観測者』というのがポイントで、もしもこれをただの偏執的な性格のネクラがやろうものなら、ただのピンク映画・ポルノ映画的な面に走ってしまいそうなものです。


しかしそうならないのは、主人公が常に孤独を背負っている男だからです。それも自分の行動が原因で周囲から疎外されたのではなく、初めから『なかったもの』として扱われているという特徴を備えているから、変態性よりも観測者としての側面が非常に強くなる。物語を進行していく上で、なぜ彼は平然となってそれが出来るか。そこにある種の必然性が発生するわけですね。


そして、このベッド下からのカメラワークが、本作の見どころの一つです。ベッドの下から見えるヒロインのくるぶしをしつこく追い回すカメラワークもいいのですが、一番『おお』となったのは、やっぱコトに及んでいるシーンですね。


ヒロインと旦那がヤッているところを直接映すのではなく、女の荒い息遣いだけをバックに流しながら、上下するベッドマットのみをローアングルで下から映し出す。


この一見してシュールな画面構成が、大石圭の小説が持ちうる妖しさと危うさと哀しさを見事に表現していて、これはもう観ていてたまりませんでしたねぇ。


小説原作の映画を観て「ああ、あの文章を映像化するとこうなるのね」という感心は覚えても、小説自体が持つ色気というか存在感というか、それを表現できるかどうかって中々難しいと思うんです。


日本で製作されている江戸川乱歩原作の映画が、乱歩の持つ幻想的且つレンズ越しに歪んだ世界観をうまく表現できていないのを考えると(フランス版の『陰獣』も中々にひどかったけど)、『アンダー・ユア・ベット』は奇蹟的なつくりの作品と言っても過言じゃないでしょう。


ほかの方がどう思うかどうか分かりませんが、大石圭のファンなら観に行った方がいいと思います。サスペンスとしてもかなりいい出来なので、サスペンス好きにもおススメします。


ちなみに容赦ないDVシーンやお色気シーン満載です。なので、こういう性的且つ暴力的な表現に寛容な女の子を彼女にしていない限り、カップルで観に行くのはおススメしません。

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