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【第30回】存在のない子供たち

『存在のない子供たち、ではなく、存在のない人間たち、という映画』


シネスイッチ銀座で鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。


『メタルギア・ソリッド・シリーズ』で知られる小島監督からの評価も高いこの映画、やはり評判が良いのかミニシアター系を中心に話題を呼んでいるようですね。





【導入】

レバノンのとある地区を舞台に、貧しさゆえに親からまともな愛情も教育も受けることができずに生きる12歳の少年の目線を通し、この世に確かに存在する『地獄』を描いた一作。


監督は『キャラメル』で知られるレバノン出身の女性監督、ナディーン・ラバキー。やや情緒感の強かった『キャラメル』とはまた違う、リアリズムの極致とでも言うべき映像演出が楽しめる一作です。


それで出演者の方々についてなんですが、主人公であるゼイン役を含め、ほとんどのキャストが演技未経験の素人であり、その大部分が作中の人物と同じ過酷な境遇に置かれているというから驚きです。


たとえば主役に抜擢されたゼイン・アル・ラフィーアは、現在はノルウェーに住んでいるのですが、その前はレバノンで難民として暮らしていたようです。


物語の中でゼインと一緒に暮らすことになるエチオピア人の赤ん坊・ヨナス役を演じたボルワティエフ・トレジャー・バンコレはアフリカ系不法移民であるため、本作の撮影中に彼の両親が逮捕されてしまうという事件が発生しました。


また、ゼインの妹、サハル役を演じたシドラ・イザームはシリア難民であり、日銭を稼ぐためにチューインガムを売っていたそうです。この子も不法移民ということで映画の撮影中に逮捕されてしまうのですが、ナディーン監督が保証人となったために無事に釈放されたそうです。


とにかく政治的なトラブルに巻き込まれながらも、これだけのパワーを秘めた作品を完成させてしまったナディーン監督。やはり只者ではないのでしょうなぁ。





【あらすじ】


その日、レバノンに暮らす一人の少年が殺人未遂罪で逮捕された。


名前はゼイン。年齢は、おそらく(・・・・)12歳。


出生届が出されていないので正確な年齢は分からないが、彼の検診を担当した医者の話では、たぶんそれくらいだろうとされている。


留置場に放り込まれたゼインはあるきっかけをつかんだことで、両親を訴えることを決意する。


わずか12歳の少年が両親を告訴する。苛烈な状況を自ら進んで作り出すような行動の根底には『こんな世界に僕を産んだから』という、胸が詰まりそうになる切実な願いがあった……


レバノンで暮らすゼインには7人の妹がいる。彼は毎日妹たちと路傍に立ち、道行く人々に手作りの野菜ジュースを売る事で家族の生活を助けていた。


ゼインたちは、シリア内戦の惨禍からレバノンに逃れてきた難民である。そのために肩身の狭い暮らしを送らざるを得ず、自分達が済んでいるアパートの大家にして雑貨店の店主であるアサードに、頭の上がらない日々を過ごしていた。


どこか高圧的に接してくるアサードが、ゼインは嫌いだった。それにアサードは、ゼインの一つ下の妹であるサハルに色目を使っており、彼女のことを虎視眈々と狙っているのだ。それに気づかないゼインではなかった。


だから、サハルに初潮が来た時も、ゼインは強い口調で警告したものだった。「このことをアサードに言っちゃだめだぞ」「でもあの人、良い人よ。ラーメンくれるし」「どこが。嫁いだら狭い鼠だらけの部屋に押し込まれて、一生ひどい暮らしをさせられるに決まってる」


必死になって大切な妹をアサードから遠ざけようとするゼイン。しかしそんな彼の努力もむなしく、食料欲しさに喘ぐ両親の手によって、サハルは鶏と交換されるかたちでアサードのもとへ無理やり嫁がされてしまう。実の娘を物のように扱う両親を見て怒りに駆られたゼインは、勢いそのままに両親の静止も聞かず、家を飛び出してしまう。


当てのない放浪の果て、ゼインはある一人のエチオピア人女性と出会った。ラヒルという名のその女性は、遊園地の清掃員として労働に勤しみながら、一人息子である赤ん坊のヨナスを育てている不法移民。闇市場で滞在証明書を偽造販売しているブローカーから偽の証明書を買う事で、周囲に不法移民であることをひた隠しにしながら生活していた。


ひょんなことでラヒルに拾われる格好になったゼインは、赤ん坊であるヨナスを甲斐甲斐しく世話しながら、貧しくも充実した生活を送っていく。


だが、そんなゼインを余所にラヒルは焦っていた。アスプロから買った滞在証明書の期限が、あと少しで切れそうだったからだ。


新しく滞在証明書を買おうにも、金が足りない。もしも不法就労者であることがバレたら、自分は間違いなく捕まってしまい本国へ送還される。そうなれば愛しい我が子とは引き離され、二度と会えなくなるかもしれないのだ。


遊園地の同僚の協力を仰いで給料を前借りしようとしたり、新たな職を探したりするラヒル。しかし、ことごとく上手くいかない。そうこうするうちに偽造証明書の期限が切れてしまい、ついにラヒルは逮捕、投獄されてしまう。


そうとは知らないゼインはラヒルがいつまで経っても家に帰ってこないことに疑念と不信感を募らせながらも、ヨナスを懸命にあやしながら貧しさの中で生きていくのだったが……





【レビュー】

あらすじからも察せられる通り、この映画はレバノンで暮らす貧民層の方々についてのお話であり、「見えざる人々」についての話でもあります。


「見えざる人々」とは読んで字の如く、確かにそこに存在するのに意図的に無視されてしまう人々のことを指しています。貧しさゆえのみすぼらしい風体。それゆえに、道を歩く人は臭いものに蓋をするように、彼らの存在から目を背けます。


それはなにも、中東に限った話ではありません。上野や秋葉原、有楽町のガード下に行ってごらんなさい。貧しさゆえに半ば死んでいるように生きているホームレスたちがいますから。そして彼らのすぐそばを、何事もないように過ぎ去る人々が沢山います。私もそのうちの一人なのだけど。


この映画は、そんなどの世界にも一定数は存在しているであろう「見えざる人々」をドキュメンタリーチックなカメラワークで切り取った映像作品です。


雰囲気的には、かの有名な『シティ・オブ・ゴッド』に通じている面があると思います。あちらも演技未経験の、本物のストリート・チルドレンを多数キャスティングしていますしね。


しかし、本作と『シティ・オブ・ゴッド』の本質的な部分は全然異なります。


ブラジルのスラム街を舞台にした『シティ・オブ・ゴッド』では、犯罪に手を染めてでも生き抜こうとする少年たちを描くことで、熱情ほとばしる、実にパワフルな『命の詩』という側面を獲得していました。


しかし、本作が炙り出す中東の惨状は『シティ・オブ・ゴッド』とは真逆です。どこまでも袋小路な世界観であるということを、風景から、そしてなにより食糧事情から訴えてきます。


袋入りラーメンを食べようにも、それに使うだけのお湯がないのか、あるいは袋入りラーメンの正しい食べ方を知らないのか、そのまま乾いた麺をごく当然のようにバリバリ音を鳴らして食べる子供たち。


子どもを学校に通わせようとするその目的が、教育を受けさせることにあるのではなく、学校から支給される食糧や衣類目当てという卑しさ。


息子の誕生日に廃棄された食べかけのケーキを持って帰り、『ほーら、誕生日ケーキよ~』と言ってハッピーバースデーを祝うラヒルとゼイン。


ラヒルがいなくなった後、ご飯がないから、製氷機で作った氷を皿の上に乗っけてスプーンですくって食べることで、なんとか飢えを凌ごうとするゼインとヨナス。


これらの『貧しい食事シーン』を少しの遠慮もなく堂々と見せつけてくるから、映画を見慣れていない人や、中東の情勢についての知識がほとんどない方は、自分達の住んでいる世界とのあまりのギャップに、かなりのショックを受けてしまうかもしれません。


そういった生活には発展途上国に特有の教育レベルの低さや、おざなりな福祉政策という背景があるのですが、それをほとんど匂わせることなく演出するナディーン監督の意図に、とにかく『地獄』をつくりださなければどうにもならないという、ある種の狂気的な覚悟が感じられます。


自分達の暮らしている世界とは大きくかけ離れている生活水準。それを目の当たりにした結果、『きっとこれは架空の出来事に違いないのだ。あえてドキュメンタリーっぽく撮っているだけなんだ』と、頭のどこかで囁く自分がいる。


しかしながら、リアリズムに傾注した淡々とした素朴な演出の数々によって、そんな我々観客が抱きがちな『逃げの幻想』を木っ端みじんに打ち砕いてくるという容赦のなさがこの作品にはあって、それが本作の魅力の一つとなっています。


私が本作を観て最も感心し、そして最も恐ろしいと感じたのは、この作品が政治的な背景というものをことさら振りかざすことなく、あくまでもただの置物として設定したところにあります。


作中では、物語の舞台になっている場所が中東にある『レバノン』という国であることは、登場人物たちの台詞からなんとなく分かるのですが、ゼインたちが暮らしている場所がレバノンのなんという名前の地区なのかというのは、最後までセリフとして出てきません。


もし予告編を観ずに、且つ前情報を何も仕入れずに鑑賞したら、ここがレバノンであるということにすら気づけないかもしれません。風景からして中東っぽいけど、ここってアラブなの? シリアなの? サウジなの? と、舞台がどこなのか分からないという方も、決して少なくはないと思います。自分の生活とは無関係と切り捨てている事象に対しては、まったく興味を示さない『恐ろしく共感性の低い人々』にとっては、なんのこっちゃわからん映画であるのは事実です。


登場する人種もレバノン人だけでなく、エチオピア難民、シリア難民など多種多様ですし、ある種の『人種のるつぼ』的な描かれ方をしています。


名前も知らないレバノンの『とある地区』。そのとある地区を上空からの引きの絵で、まるで空撮映像のように映し出す演出が二回登場する場面がありますが、これがたまらなく印象的なのです。そう、まるで神の視点から見下ろしているかのような、あの演出が実にいいんです。


そして、前述した政治的な背景への言及の少なさ。


以上のことを総合すると、この映画はレバノンという国を舞台にしていながら、その実、名前すらわからない、しかしこの世界の必ずどこかに存在する『地獄めいた場所』に客観性を与え、物語内で独立した存在として描くことに成功しています。


実はこの映画は、我々の意識のすぐ身近にある、しかし我々の住む空間からは最も遠く隔たれた『地獄』というものの存在を虚飾なく認識させてくる、れっきとした異世界映画であるのです。


やろうと思えば、もっと政治的なメッセージをふんだんに込めた創りにして、現在の中東情勢の問題点を、よりドキュメンタリチックに、劇的に描くこともできたはずなのです。


しかし、この映画はそれをしなかった。分かり易い説明台詞や、過剰に涙腺を刺激するわざとらしいシーンを入れるのを拒んだ。それはナディーン監督が映画の節度、映画の役割、そして映画の力を知っているからに他なりません。シーンというシーンは事実を淡々と映し出し、目を背けさせるのではなく、逆に釘付けにするだけの力がある。


政治的な背景や、時代的な背景をセリフとして文章化せずに『そうとしか生きられない人々』の悲哀を映し出すことに終始するこの映画。繰り返しになりますが、そこがレバノンのなんという地区なのか、我々日本人は知りません。知る機会すら与えられてはいないのです。上空から神の視点で映し出される貧民街の光景には、舞台をただの地獄として描こうとする監督の冷徹な覚悟が強く感じられます。


そういう生き方しか知らない人々のみじめな姿。それは、社会の皺寄せによって決められた運命の可視化です。その運命の袋小路から脱出したいのは、なにもゼインだけではありません。裁判のシーンや家賃の支払いに頭を悩ませるゼインの両親の姿からも分かる通り、彼ら大人たちだって、どうして自分達だけがこんなにひどい生活を送らざるを得ないのか、全く分かっていないのです。


しかも、どう計画を立てて生きていけば分からないという、状況の過酷さや知識教養の無さを浮き彫りにするかのように、彼らが出来る事といったら「労働力である子供をこさえること」という、じつに動物的な選択しかできないところに、たまらないやるせなさがあります。


ですからこの映画、一つ文句をつけるのだとしたら邦題が酷い。『存在のない子供たち』では不適当です。『存在のない人間たち』とするべきなのです。見えざる人々、社会に殺された人々として描かれているのはゼイン達だけでなく、その両親やアサードも含めてなのです。


本作はエンターテイメントして楽しむタイプの映画ではありませんし、観る人によっては『深刻な話を深刻そうに描いているだけ』だとか『ひたすらにただ〝痛い"だけの映画』という感想を持たれるかもしれません。


ですがこの映画、決して状況を整理しにくい、見にくい作品ではありません。ゼインが両親の下を飛び出してレバノンのあちこちを漂流し、最終的に家に帰ってくるというパターンは物語の王道である貴種流離譚に通じるところがあります。


まぁ貴種流離譚は身分の良い主人公である必要があるので、この場合は『卑種流離譚』と言うべきなのでしょうが(このネーミングも実に差別的ですが、こういう表現しか今のところ思い付かない私のセンスの無さを呪うばかりです)。


とにかく物語の類型に沿っているから、非常に状況把握が掴み易い映画になっています。それでもまだ文句を言う方がいたら、放っておきましょう。そういうことを口にする人ってのは、映画の力を信用していないからそんなことが言えるんです。この映画の価値は、分かる人達だけで共有した方がいいのかもしれません。


ちなみに余談ですが、劇中でゼインが騙る偽名『イブラヒム』について一言。


イブラヒムとは旧約聖書の登場人物・アブラハムのアラビア名です。アブラハムはノアの大洪水後に神によって選ばれた最初の預言者であり、人類救済の要とされている人物です。


イスラムの教義では、あらゆる法律はイブラヒムから始まるとされており、全てのアラブ人の祖先と考えられていることからも、どれだけ重要な存在であるかが伺い知れます。


ちなみに旧約聖書ではイブラヒム(アブラハム)の神とされているのがオカルト民大好きなヤーハウェ。シナイ山でモーセに十戒をさずけた神とされています。日本では「エホバ」という呼び方が一般的かもしれません。


そんな『神に選ばれし人類救済という役目を背負った人物』の名前を主人公に騙らせてレバノンの地獄めぐりをさせるのです。その上で「育てられないんだったら、子供を産むな」とレバノンの人々に呼びかける。これはもう痛烈な皮肉に他なりませんね。


完璧な〝地獄"という名の異世界を堪能したい方にお勧めです。

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