【第28回】★天気の子
『印象の脆さを描いた映画』
新装オープンしたグランドシネマサンシャイン池袋で二回観てきましたので、軽くレビューをしたいと思います。
この映画、最低二回は観た方がいいです。結構いろんな発見があって、個人的には楽しめました。
しかし、新海監督ご自身も仰るように、これはたしかに賛否両論だと思います。
結末がではなく、映画全体に流れる雰囲気が、という意味で。それまで風景や天気に寄り添うような描写の多かったこれまでの新海作品とは大きく異なり、風景や天気を攻撃的に、突き放して描いている一作だと感じました。
新海監督って見た目にそぐわずロックというか、パンクな精神の持ち主なのだなぁと感じた一作です。
【導入】
2002年に個人製作した『ほしのこえ』にはじまり、純化させた日常風景の演出とモンタージュを多用した編集力に定評がある新海誠。
2016年に製作された『君の名は。』が興行収入250億円以上を達成したおかげで、一躍人気監督に押し上げられた悲劇(?)の人。
その新海監督の最新作が『天気の子』であります。
主演は醍醐虎汰朗と森七菜。すみません、ご両人ともよく知りません。しかしながら演技は上手いです。今までの新海作品に特有の「十代男子女子の定まらない声の感じ」ではなく、かなり危うい「尖り過ぎた薄いナイフ」のような演技を見せてくれています。
脇を固めるのは小栗旬に本田翼。小栗旬クソ上手いです。『シュアリー・サムデイ』なんていう、どうしようもないボンクラ映画を創った小栗旬はここにはいません。演者としての小栗旬が楽しめます。
本田翼も予告編を聞いた時点では微妙かなーと思ったけど、実際に劇場で拝見してみるとなかなかどうして、キャラにフィットしていましたね。
他には平泉成、梶裕貴、花澤香菜、佐倉綾音、倍賞千恵子が登場。花澤さんで新海作品ゆーたら『言の葉の庭』のゆきちゃんせんせーですが、今回はロリボイスの花澤さんが楽しめます。
あと、『君の名は。』を観た方へ向けてのファンサービスが本作には盛り込まれてます。どんなファンサービスかはここでは言いません。ただ、得した気分になれることは確かです。
おんなじことを『君の名は。』でもやってたから、勘のいい方なら気づくでしょう。
【あらすじ】
少女は、重く垂れ込む鉛色の雲間から差し込む天使の梯子に、一瞬で目を奪われてしまっていた。
この世ならざる聖なる光は、東京・代々木の廃ビルへと少女を誘う。ビルの屋上には彼岸の時を待つように精霊馬が置かれ、こじんまりとした古ぼけた鳥居だけが、静かにたたずんでいた。
少女は自らの足の赴くまま、鳥居をくぐる。
瞬間、あらゆる重力を置き去りにしたような感覚に包まれて、気づけば少女は、天上の世界へ舞い上がっていた――
ある曇り空の日。
身の回りの束縛から逃げたくて、離島に住む十六歳の高校生・森嶋帆高は家出を敢行する。
目指す先は東京。そこになら、きっと自分の探し求めているものがあると、彼は信じていた。
しかしながら、現実はそれほど容易くない。住み慣れた故郷を離れて訪れたコンクリート・ジャングルは、有象無象の人の波に溢れていた。
初めて見る景色。初めて見る人々。初めて見る建物に囲まれているうちに、帆高の未熟な精神は次第に擦り減っていき、孤独感がゆっくりと加速をはじめていった。
親元を離れて一人で生きていこうと決意するも、身分証もないために中々仕事が見つからない毎日。
ネットカフェ難民となって夜の東京を彷徨い歩き、ふらりと入ったマクドナルドで、これからのことを考えていた時、帆高は一人の少女と出会う。
少女は腹を空かせた野良猫に餌を与えるように、帆高にビッグマックをプレゼントした。帆高の十六年に渡る短い人生の中で、その特別なビッグマックは心の底から美味しいと思える食べ物だった。
それから数日後、東京へ向かうフェリーの中で出会った一人の怪しげな男・須賀から名刺を貰ったことを思い出した帆高は、仕事のツテを頼って須賀の仕事先を訪ねる。
オカルト系雑誌のしがないライターとして活動している須賀は帆高を気に入り、住み込みでの仕事を了承する。須賀の助手として働く謎めいた美女・夏美も加わり、こうして帆高は、東京での奇妙な同居生活をスタートさせるのだった。
そんなある日のこと。いつものように雨空が広がる東京の一区画で、帆高はあの時の少女と思わぬかたちで再会を果たす。
少女の名は、天野陽菜。複雑な家庭事情から弟と二人暮らしをしている彼女には、ある「秘密」があった。
「ねぇ、もうすぐ晴れるよ」
少女の祈りが天へ届いた時、分厚い雲の切れ間から、さざ波のような眩しい光が東京の街並を照らし始める。
天野陽菜は、祈るだけで晴天をもたらす「100%の晴れ女」だったのだ。
【レビュー】
まさか本当に『選択と祈り』の物語だったとは……前々回のエッセイで書いた予想が微妙に的中するとはね。
それはともかく、ガイアの恒常性とか、ガイア理論好きには結構たまらないオカルト・ワードが飛び出るあたり、新海監督って本当に月刊ムーが好きなのだなぁと分かって嬉しい。そして、身内にリアル雨女がいる私からしてみると、とても他人事とは思えない(笑)。
てなわけで、早速レビューしていこうと思うんですが、さて何から話した方がいいんでしょうね。
とりあえず本作を見て感じたのは、やっぱり新海監督は今も昔もファンタジーの映像作家なのだなぁということ。えーと、念のため言っておきますと、ここで言うファンタジーとは、なにも異世界のことを指しているのではありません。世間から忘れ去られてしまった、あるいは世間の陰に潜む事象や文化をちょっと他とは違った目線で描く。それがファンタジーなのだと私は考えています。そのファンタジーな面というのが、新海監督の過去作で散見された『純化された風景』に現れているのです。
新海監督が世に送り出してきた物語は、その多くが現実の世界を舞台にしているにも関わらず、レンズ反射の演出などに始まり、時に現実の物理法則を無視した描かれ方をされています。私一番のおススメである『言の葉の庭』では『平安時代の恋ならぬ孤悲』を主軸に置いたり、『君の名は。』では組紐の描写に力を入れてみたりなど、すでに過去のものになった、あるいは世間の表舞台に出てこない文化を懇切丁寧に描いていて、こういったところからもファンタジー映像作家としてのたしかな力を感じます。
その流れは本作でも受け継がれています。しかも題材にしているのが『人柱』という、強烈な死の匂いを放つ日本文化の伝統要素。なのでこの作品も、間違いなくこれまでの新海作品と同様のファンタジーに分類される話なのです。
先に結論から述べましょう。
本作を一言で述べるならば、本作は『君の名は。』に対するアンチテーゼとしての物語。あるいは『君の名は。』を酷評した者達へのアンサーです。そして、新海監督、鬱憤溜まってんだなぁと見れば分かる、ヤケクソな展開ばかり続く映画です。
おそらくこの映画は古くからの新海ファンほど困惑する作りになっていると思います。私も初回の鑑賞を終えた直後は、この映画をどう自分の中に落とし込むべきか悩みました。
というのも、本作は『君の名は。』以前から脈々と続く新海監督の得意技――男女の別離、セカイ系の文脈、夢と現――が散見される一方で、作品全体に流れるエモーショナルな感じは『君の名は。』に通じているし、けれども最終的な着地点は『君の名は。』とは全く対極のところにあるからです。
なんといっても帆高と陽菜のキャラクター性が、これまでの新海作品に出てくる主人公たちとは微妙に違うんですよね。
主人公の帆高君は、ひもじさに苦しんでいた時に美少女から差し出されたビッグマックを口にして「16年生きてきた中で、いちばん美味しい食事だった」と、お前はやなせたかしワールドの住人ですか? と言わんばかりの自意識過剰な、いかにも新海さんが好きそうなセリフをかましてくる。しかしながら、物語が進んでいくと、帆高や陽菜は『秒速』や『雲のむこう』に登場する内省的なキャラたちと比較すると、意識をかなり外側へ(世間へ)向けていることが分かってきます。
付け加えますとこの二人、『君の名は。』の瀧君と三葉に比べると非常に危うい行動を取り続けます。
その危うさは彼らの精神的な幼さからくるものであり、未熟であるがゆえの怖いもの知らずな傾向が顕著に描かれています。
それこそが物語における推進力を担っているんですが、物語の基本的な描き方はまさにセカイ系のそれです。
陽菜が天候と繋がってしまった世界。東京を犠牲にしてでも人柱にされた陽菜を救い出すのか、それとも、世界の天候調和を維持する為に陽菜をそのままにしておくのか。
「きみとぼく」の関係性が世界の命運に強く関与するこの展開はまごうことなきセカイ系の文脈であり、災害を「なかったことにする」のを目的に行動するのがヒロインの命を救うことに繋がる『君の名は。』もまた、それに連なるものです。
ですが『君の名は。』と比較すると、本作はちょっとセカイ系から外れている系譜になると思います。
なぜなら、今までの新海監督ならセカイ系の話を描くにあたって、「きみとぼく」と「世界」をつなぐ社会的な中間要素(つまり警察)は設けなかったはずだからです。付け加えるなら、ここまで『社会』と対峙する構図を打ち出してきたこと自体、従来のセカイ系の物語からは大きく逸脱しています。
さて私、7/11にこのエッセイに投稿した『番外編 新海誠の作家性ー最新作『天気の子』は死生観の物語になる!?ー』の回で、今回はセカイ系の文脈を用いつつも明確な敵を用意して、それが警察組織に相当するのではないかといった趣旨のことを述べましたが、まぁものの見事に外れました(笑)。
はい、警察官たちは敵じゃないっす。
いや、帆高君追っかけられてるじゃん! 警察が敵じゃん! と指摘する方もいるでしょうが、彼らは敵ではありません。どちらかというと障害に近いかも。
では本作における『敵』とはなにを指すのか。
それは『大衆』です。
厳密には、『世界が誰かの犠牲で成り立っていることに気づかないor気づこうとすらしない人々』です。
天気の巫女という、天候にまつわる人々の願いを神々へ伝える役目を誰かに背負わせて生け贄とし、それで世界の調和を保つことを良しとする人々。
誰かの犠牲で成り立っている世界を安穏と過ごす者達へ、主人公の帆高は明確な怒りを向けます。『誰も陽菜さんが犠牲になったことを知ろうともしないくせに』と。
ですから、映画のラスト。帆高が自身にとって最も大事な存在である陽菜を救い出すにあたって、社会全体が「誰かを犠牲にすることの重み」を味わうべきだという苛烈な選択をしてしまうのは、振り返ってみれば当たり前の事なんです。
そう考えますとこの映画、伊藤計劃の『虐殺器官』に少し通じるものがあるかも。
犠牲を平然と受け入れてきた大衆たち。彼らが無自覚に背負う罪に対する『罰』を東京の水没と仮定すると、これは『虐殺器官』の終盤における虐殺の文法の扱い方に似ています。
そして、大衆を敵として設定したところから察するに、これは社会の生み出すエゴとの対決も意味しているのだと思います。
社会が生み出すエゴ。それは『社会貢献をしなければ生産性のある人間として認められない』という、半ば脅迫めいた通俗理念のことを指しています。
本作では、そのエゴを粉々に壊すというよりは、ぽーんと飛び越えるような回答を帆高や陽菜は示してくれているんですね。
世間が押し付けてくる役割や、社会における自分の立ち位置を全うすることが、大人としての一歩を踏み出すことに繋がるわけではない。もしそれで本当の大人になれると信じているなら、そんなものはしょせん幻想に過ぎないんだよと鼻で笑うかのような展開。
社会貢献しなければという脅迫的な世間の風潮。社会に自らを馴染ませなければ、落伍者としての烙印を押されてしまうのではないかという恐怖や焦り。しかし、そんなものに縛られる必要なんて、どこにもないと訴えるのがこの映画です。
通俗理念なんてものは有象無象の大衆が生み出したエゴそのものに他ならない。そんなエゴが作り出す社会の枠に無理矢理収まらなくてもいいんだと、本作は主張します。
その体現者として描かれているのは帆高や陽菜だけでなく、サブキャラの夏美もなのです。
夏美は自堕落な生活を送っているように見える一方、就職活動に臨む際にはパリッとしたスーツに身を包み、エントリーシートを書いて、真面目に就職活動に励んでいます。ですが、なかなか上手くいきません。
社会のレールから外れないように必死に自らを取り繕って「御社が第一志望です!」と、あちこちの入社面接で上っ面の言葉を吐かざるを得ない現状に、夏美は心の奥底でもやもやとしたものを抱えていると描写されています。台詞には出さなくても絵がそのように表現されています。
しかし物語の終盤で、夏美は警察から逃げる帆高をバイクに乗せて助けるという、世間一般で言うところの「犯罪幇助」に手を出してしまいます。この、社会の理念から大きく外れた倫理観が欠如しているともみられる行動を取ってしまったことに、普通の感覚を持つ人なら恐怖心を抱くはずです。社会の枠組みに自らを収めようとしていたのに、逆に枠から弾かれるような行動を取ってしまったのですから。
ですが、夏美は恐怖どころかスリリングな展開に興奮しっぱなし。警察の追手を振り切る中で、バイクを巧みに操る自分の才能に気づきます。自分にはこんな特技があったんだ! あたし、白バイ警官になりたーい! とまで口にしています。
流れとしてギャグ的な描かれ方をしていますが、後にも先にも「自分がどうありたいか」を心から夏美が叫んでいるシーンは、この場面だけなのです。
成り行きとはいえ、社会に背を向けるような行動をとった夏美が、自己実現の鍵を見つけるのです。
これぞパンク! 反抗心の塊と言わずしてなんでしょう。実のところ監督の精神性というのは、案外この夏美の行動に反映されているのかもしれません。
他にもエゴとの対決というのはあって、やっぱり代表的なのは帆高と陽菜と凪先輩の逃走劇。少年少女たちを元のコミュニティに戻して、あるべき社会の枠組みに閉じ込めようとする警官なんて、社会が押し付けてくるエゴの代表格じゃないですか。
これに対して、帆高たちも躊躇しません(笑)。とにかく雷は落とすわ車を爆破させるわ拳銃を撃つわ体当たりをするわ、もう暴力ばっかり振るいます。
こういう若さゆえのがむしゃらな行動を真っ向から描かれると、どうしても「青くせぇな」という感想を抱きがちで白けてしまいそうになりますが、なんかやることのスケールがどんどん大きくなっていくから、もうそこまでやるなら徹底的に振り切れよ! と、気づけば彼らを応援しかけている自分がいるという謎の新海マジックが炸裂するわけです。
ですからこの映画、こんなハチャメチャに行動する主人公やヒロインに感情移入する方がいるとするなら、それは恐らく十代前半のピュアッピュアな方々。
それ以上の年代の方々には、ちょっと受け入れがたい展開になっているとも言えます。
しかし、私は満足しました。映画というのはキャラクターへ感情移入できなくとも、キャラクターの行動原理が理解できさえすれば、ストンと自分の中に物語が吸収されてくるものです。
私も初回鑑賞の際は頭に「?」が浮かんでいましたが、二回目でようやく、帆高の鋭くも脆い生き方を理解できた。だからこの映画、あくまでも私個人にとっては当たりの映画なわけ。
犠牲の上に成り立つ社会への反逆と、それに絡めた帆高と陽菜のロマンス。しかし新海監督が描いたのは、それだけではないのです。
編集とカットの狭間。会話と会話から見え隠れする重大な描写。そこに描かれているのは、人が他人へ抱きがちな『印象』の脆弱さです。我々がどれだけ自分勝手な認識で世界を生きているかってのを、しつこいくらい描写してくるんですわ。
この映画、とにかく『印象』や『思い込み』や『先入観』に頼った発言をするキャラが多い。それも大人も子供も関係なく、誰しもが相手へ勝手に抱く『印象』に縛られて生きているんです。
まずはじめに挙げていきたいのは、須賀さんの義理のお母さんです。(劇中では間宮さん?って呼ばれてたような気がします)
物語の前半部分、須賀がお義母さんに「そちらで預かってもらっているウチの娘とそろそろ会わせてほしい」と直談判するんですが、お義母さんはそれを断ります。「あなた、煙草を吸うじゃない。ぜんそく持ちのあの子に、そんな男を会わせるわけにはいかない」と。
しかし須賀は食い下がり、煙草を止めたことを告白します。ところが、ここでお義母さん、すごいことを口にします。
「たとえ止めたにせよ、あなたにはそういうイメージがあるのよ。だから会わせられない」と。勝手に須賀を『そういう人だ』とカテゴライズして、固定観念から抜け出せないでいるんですね。
須賀のお義母さん、このワンシーンしか登場しないんですけど、今回の映画における敵役=大衆の代弁者みたいなところがあるんです。「昔は良かったわ。四季がちゃんとあって。今の若い子が可哀想」と、雨模様の空を見ておセンチな台詞を吐いちゃう。
そもそも天候に『バランス』なんて概念があるのかどうか分からんのに、昔は良かったとか言っちゃうんですよね。絶対昔も似たような水害は何度もあったはずなのに、それを自分の勝手な思い込みで上書き修正して、さも今の時代がおかしいかのような言動をするんです。
陽菜と凪が二人暮らしで過ごしている団地でも、同じようなシーンがあります。団地に住んでいるご近所さんが「親もなしに、たった二人で暮らすなんてどうかしてるわ」的なことを平然と口にするんですね。陽菜たちの事情も知らないのに、『親から離れて暮らす姉弟』という『印象』だけで、なにか腫物を触るような扱いをしている。
拳銃強奪事件を追う刑事の安井も、「今どきの子はなんでもかんでもSNSにアップしちゃうんだろ」と、今どきの子の生活事情なんて知らないだろうに、勝手な『先入観』でそんなことを言う始末。SNSに犯罪自慢しない子だっているだろうに、まるで若者の全てがそういうことをすると思い込んでいる発言です。
同じことが安井の相棒である高井にも言えて、この人、まるで野鳥の住処になりそうな時代錯誤のリーゼントヘアスタイルをしているんですが、そのチンピラめいた『印象』のおかげで、てっきり乱暴な人なのかなと思ったら、警察官として実直な働きを見せるんです。
しまいには、あの帆高を殴ったヒョロガリのチンピラ! あいつ絶対独り身でどうしようもない生活してんだろうなと思ったら、奥さんもいて子供もいるし、なかなか良いマンションに住んでいるってことが後に判明するんですねぇ(陽菜の犠牲でもたらされた晴れ間を覗く人々の中に、ちょびっとだけ映ってます)。
あの人はこんな服装や言動をするから、きっとこんな性格なんだろうな……そんな風に勝手なイメージを持ってしまう観客の意表を突くかのように、そしてまた『印象』に基づいたキャラクターのプロファイルがどれだけ意味のないことか嘲笑うかのような展開が、本作では多く描かれています。
帆高も陽菜に対して『先入観』に基づいた発言をするんですね。陽菜が「次の誕生日で18歳になる」と口にしても、そんな風には見えないと訝しみ、実年齢よりも低く見られそうな体つきを見て「そんなんじゃ夜の世界で働けっこないよ」と、見た目の『印象』から勝手に『天野陽菜』という人物を規定します。
この『印象による思い込み』というのは、人物のみならず土地にも当てはまります。
帆高は東京にやってきてすぐの頃に、東京に住む見知らぬ人々から邪険に扱われたり、自分がかつて住んでいたところにはない危険や猥雑に満ちた光景を見て「東京ってこえぇぇ……」という印象を抱きます。これは何度も何度も、しつこいくらいに台詞に出してます。
しかし、そんな東京に対するマイナスな印象も、須賀や夏美、陽菜や凪との出会いを通じて、徐々に帆高にとって『心休まる場所』というプラスの印象に変化していくんですね。
この一連の心境変化を、陽菜の天候操作によって覗く晴れ間とリンクさせたり、ミュージック・ビデオ風に描いていたりするのが、本作の特徴と言えるでしょう。
余談ですが、主人公が東京を目にした時の第一印象が『君の名は。』と『天気の子』ではまるきり真逆であるというのも興味深いですね。
『君の名は。』では晴天下の新宿(昼間)を描き、『天気の子』では雨空の新宿(夜)を描いている。ここからも、本作が『君の名は。』と表裏一体の映画であることが伺えます。
他者へ一方的に向ける『印象』だけで、その人の全てを規定してしまうかのような振る舞いをするキャラクターたち。そんな人々が数多く登場する本作ですが、その『印象の不確定さ』が最も効果的に反映されているのが、タイトルにもなっている『天気』のシーンです。
そもそも天気なんてのは印象のかたまりです。帆高も劇中で言っていましたが、どうして人間の気分というのは天気に左右されがちなのか。それは、人が天気に対して様々な印象を抱き、それを自身の感情と結びつけるからに他なりません。
晴れの日になるとなぜか気分が前向きになったり、雨の日に憂鬱な気分になったりするのは(至極当然のことですけども)天気自身にそういった力があるわけではないのです。人が勝手に、そのような印象を抱いているだけに過ぎない。
逆に、雨の日が好きで晴れの日は嫌い、という方もいるでしょう。それも勝手な印象と思い込みによるものです。
人は皆、印象と思い込みに支えられてこの世界を生きているのだし、そういった誤魔化しの効く世界でしか生きられない。
そんな中で、帆高は『天気』に対して周囲の人間とちょっと違う反応を見せます。
陽菜と出会って以降の、雨雲漂う東京の日々を楽しく過ごす一方で、陽菜の犠牲と引き換えにやってきた晴天を見上げた時、彼の心は全く揺さぶられません。
多くのキャラクターが物事の表層部分を覆うヴェールに目を奪われて、何一つとしてその本質に気づけずに、あるいは須賀のように『わざと』気づくことなく毎日を送る中で、ただ一人だけ『これは違う』と反抗の意志を露わにした帆高。
彼だけが、印象や先入観や思い込みといった表層的部分を突き抜け、世界の本質に迫ろうとするのです。
そんないたいけな少年ががむしゃらに突き進む姿が、『天気』という自然現象と自らの感情を勝手に紐づけている我々一般人から見て、どこか突飛な存在に思えてくるのは、ごく当然のことなのでしょう。
しかしながら同時に、これだけの危うい生き方しかできない帆高ならきっとそうするだろうなという妙な説得力もあって、キャラクターの感情描写が非常にユニークなことになってます。
映画の終盤で、大衆が持つ天候への印象を『東京の水没』というかたちでまるっきり変えてしまった帆高は、印象や先入観による他者への接し方を脱却しました。それが正しいのか悪いのかは別として。
その証拠に、陽菜の実年齢が明らかになり、彼女が自分よりも年下だと分かった後も、帆高は陽菜のことを「陽菜さん」と呼んでいます。「陽菜さん、ぼくたちはきっと、この先も大丈夫だ」と。
たとえ陽菜が幼い印象であろうと、たとえ年齢を偽っていたとしても、彼女がそう言ったのならそうなのだという、自分にとって大切な他者の意見や考えを『尊重する』ことを少年は学び、大人への階段を踏みしめたのです。
本作のラストに不満や不快感を抱く方は一定数いることでしょう。東京が水没したまま主人公とヒロインが再会してキャッキャウフフするエンディングに「なんだかなぁ」と首を傾げたくなる気持ちも分かります。
ですが、観客が抱く不快感の正体というのは、もっと深いところにあるのではないでしょうか。
我々が何気なく過ごしている『なんとなくのイメージ=印象』によって支えられた世界。その世界が破壊され、奥に隠れ潜んでいたはずの狂気的とも言える天気=世界の本質をまざまざと見せつけられたことに本能的に抱いてしまう、居心地の悪さや戸惑い。それが、本作を見た際に抱く不快感の正体ではないでしょうか。
普段は隠されていて目に見えないもの。それをこういった形で観客の前に掲示してきた力技は、ただの幼稚な、いきがった背伸びでは決してなく、きちんと今までのキャリアに基づいた着地点に帰結しています。
そう考えると、いま日本のサブカルにおいて、真っ当なファンタジーを描けるのは新海誠くらいしかいないのかも。
『天気の子』はセカイ系の文脈を『世界系』へ変換させたロマンス・ストーリーである一方で、『印象や先入観、思い込みからの脱却』を描いている。そんな見方もできるんじゃないかなと私は思います。
でも、そうは言ってもさ。
2回本作を鑑賞した今でも思うんだけどさ。
はたして帆高と陽菜は、本当に世界のかたちを変えてしまったのだろうか。
なぜなら『犠牲』という視点に立ってみれば、東京の水没以前と以後で、世界を取り巻く状況は何一つとして変わっていないんですよ。
たしかに、陽菜を人柱に捧げて太陽を取り戻した東京では、陽菜の犠牲がしっかりと描かれていました。世界は晴れたがしかし、その陰で一つの命がたしかに消えた。
んで、陽菜を救出して東京を水没させてしまった以上、当然ながら何十名、あるいは何百名、いやそれ以上の人々が水害の犠牲になったと考えるのが自然です。
死者数については比較するまでもありません。ですが『誰かの犠牲によって成立している世界』という点では、水没前の東京も水没後の東京も、どちらも同じではないのか。全く変わっていないのではないか。
私が本作を鑑賞していて違和感を覚えたのがまさにそこで、東京の水没による犠牲者数が明確に描写されていないんですよね。ここも『君の名は。』と比べて、まったく対照的なつくりになっています。
『君の名は。』は一部界隈から「災害をなかったことにする映画だ」と批判されていましたが、世界改変前の糸守町が被ってしまった災害の惨状と、失われてしまった命の軌跡を『犠牲者の名簿』というかたちでしか知ることができないってところで、しっかり災害の恐ろしさとやるせなさは描けていると思うんです。
しかし『天気の子』は、東京が水没するという未曾有の大災害に見舞われたはずなのに、画面からは全くといっていいほど死の匂いが漂ってきません。
三年も降り続いた大雨ですから、絶対に犠牲者は出ているはず。しかし新海監督はそこを描いていません。
ニュースは普段と変わらずじまい。水害の犠牲者を悼むような人々も出てこず、死者の気配を明確に描くことを意図的に避けているとしか思えない。
そこがこの映画で唯一『ズルいなぁ』と感じるところです。描かなきゃダメというわけでもないですが、なんか『ズルいなぁ』と苦笑してしまいます。
私よりもずっとディープな新海オタクの友人は、ここの部分が気に入らなかったようです。死者を描いていないから嫌い、というよりかは、ラブホテルで陽菜が消えてしまって以降の展開が好きじゃないと。
その友人から、本作に関していくつか面白い意見を頂戴したので、ここからはそれを紹介しつつ気になったところを上げていこうと思います。
とにかく本作はこれまでの新海作品と比べて生々しさが格段に違います。人が殴られる描写、というのは『雲のむこう』や『言の葉の庭』でも描かれてきましたが、あちらでは途中でカットを挟んだりして、センチメンタルっぽい作りになっているんです。
今回は『殴る』という行為を真正面から描いています。暴力行為の恐ろしさや無謀さを描いているとかそういったのではなく、とにかく『痛そう』に描いています。
ここで、本作の予告編を全く見ていなかった私の友人は、結構やられてしまったようです。なんか違うなぁ、と。
私も初見の時はけっこうびっくりしました。銃も平気で出てくるしね。それ出すんだぁって感じ。
新海作品で銃というと、あの忌まわしき『星を追う子ども』が思い出されますが、あの頃と比較してまったく銃の演出に成長が見られない! というのが友人の意見。分かるぞ。結局はただの暴力装置でしかないんだもん。
たぶん、引き金を引くだけで人を殺せる銃というのを、帆高が持つある種の『危うさ』や『周囲を省みない突破力』に結びつけようとしているんだなってのは分かるんです。
それでも結局ね、銃なんてものはただの暴力装置でしかないんですよ。アメリカの銃乱射事件を見てごらんなさいよ。人差し指に軽く力を込めるだけで簡単に人を殺せちゃうのが銃の恐ろしいところなんですよ。
やっぱりあそこは銃ではなく、言葉の力で事態を突破して欲しかったなぁと思う。少なくとも、須賀さんや刑事たちに銃を向ける場面は、もう少し別の表現もあったんではないかと思ってしまうのよ。
だけどだけど、ここが本作におけるキャラメイキングの上手くて『ズルい』部分で、あんな無鉄砲な十六歳じゃそんな行動に出ちまうだろうなぁって、観客は思っちゃうわけ。言葉で説き伏せろってのは大人の論理なんだけど、それが帆高に通用しないのは当たり前なんですよね。
そもそも、この帆高という主人公は、瀧君のような、あるいは孝雄君や貴樹君のような、まっとうな十代と認識してはいけないのかも。
離島から東京まで家出してきたり、好きな子の誕生日に指輪を送ろうとしたり、なかなかぶっ飛んだ行動をする子だから、頭のネジが元から緩んでいるんでしょう。
新海監督も、ヤケクソ感を前面に出す為にそのようなキャラメイクにしたとしか思えない。それでも映画的な矛盾はなにひとつとして生まれてないから、ヤケクソ一辺倒で描いた映画でないのはたしかです。
もう一つ友人が口にしていたのが、物語の中盤で須賀さんと夏美に天気の巫女についての伝承を聞かせていた寺の住職。
友人曰く、あの住職だけ完全に他のキャラクターたちと比べて絵が浮いていたらしい。
ええ、そうかなぁ? と最初は思ったんですが、思い返してみるとたしかに頭身も物腰も含めて非常に違和感を覚えます。フル・アニメーションの世界には似つかわしくないキャラデザです。
瀧君のおばあちゃんはあんなにしっかりとしたリアリティある頭身で画面の中に存在しているのに、なぜか同じ老人にカテゴライズされるはずの寺の住職だけ異様に頭身を小さく、それこそ『使い古されたアニメ的な』描かれ方をされています。
こういった脇役のディティールを今までの新海監督なら結構丁寧に描いてきたと思うんですが、今回ははっきり言って雑な印象を抱きました。
と言いますのは、前述した『印象』に関わる点で考えると、まさに作り手たちの勝手な『印象』でこの寺の住職を創り出したんだろうなぁと分かるからです。
『なんか、物珍しい逸品を抱え込んでいる寺の住職って、生き字引的な老人って、こんな感じだよね?』
そんな勝手な印象で物語世界から乖離したキャラクターを臆面もなく登場させておきながら、描いている話が『印象からの脱却』『狂った世界という本質を受け止めるべき』というのだから、これは何なんでしょう。
作り手側が既にキャラクターメイキングの時点で『印象の罠』に囚われていることに、笑えとでも言うのでしょうか。笑えませんよこんなの。
あともう一つ。私の友人は東京都内に長年住んでいて物語舞台になった場所にも詳しいのですが、彼曰く警察署から帆高が逃げ出す場面はどっからどう見ても池袋なんだそうです。
そこから代々木のビルを目指すわけですが、その間たったの十キロ。
しかも最初は夏美のバイクに乗っけてもらって、途中の坂道で下ろしてもらってますよね。
友人曰く、あの坂道も実際にあるんだそうですが、そこから代々木のビルまでとなると、なんと六キロくらいしかないと。線路沿いに走っているから、まずそれぐらいの距離しかないのだと。
あれだけガンガンキメキメにRADWIMPSの音楽鳴らして壮大なエンディングに向けて突っ走ってますよって感じを演出している割には、距離がしょぼくないか? というのが友人の意見です。
なるほどなぁ。うーん、十代の少年が全力で走ったとなると、だいたい四十分くらいで着けちゃうことになりますね。四十分って、俺の高校時代の通学時間と一緒じゃん(笑)。
現実世界を舞台にしているからこその弊害……とも言えますが、前作の『君の名は。』はその辺りもしっかりクリアしていたんですよね。
総評すると、決して見応えのない映画というわけではない。むしろ見るべき点に溢れていて、一度の鑑賞だけでは全てを掴めない、掴ませない構造になっています。そういう点も『君の名は。』とは全く逆で、良い意味でお客さんに優しくない。
ただ、私が新海演出の中でも特に好きな『光のレンズ反射』がかなり控えめで、天使の梯子(雲間から薄い光が差し込む自然現象)がやたらと描かれていて、なんだろう、『言の葉の庭』や『秒速五センチメートル』を初鑑賞したときのような衝撃はやや薄かったです、正直言っちゃうと。
そりゃあ、天使の梯子の描写だって美しいけれど、でもやっぱり数少ない晴れ間が覗いた時くらいには、やって欲しかったなぁレンズ反射。
ただ、過去の新海作品……『雲のむこう』や『秒速五センチメートル』や『星を追う子ども』で良く見られた『熱で画面がゆらゆら揺れる描写』が観れたのは、個人的にはよかったです。
雨どいを流れる水の動きとか、ガラス窓を伝う水滴の描写は見入っちゃいましたし、あの具象化スレスレの雲の動きも好きな部類ですね。
キャラクターで割と気に入ったのは須賀さんですかねぇ。明らかに『星を追う子ども』の森崎先生(ムスカ大佐のパチモンですよ)を意識してのキャラクターであると同時、森崎先生の上位互換として成功しています。
森崎先生は「好きな人が死んだ世界で生きるの、やっぱつれぇわ」となって「死者すらも復活できるのだよ! フハハハハ!」とのたまってアガルタを目指すわけですが、一方で須賀さんは奥さんを亡くした事実に対して、いちおう折り目をつけようと頑張ってるんだけど、そんな世界で生きる自分にどっか懐疑的になってる。
「人柱を捧げて世界の調和が保たれるのなら別にいいじゃん」という一見冷たく見える反応も、大切な人を亡くしてもこの世界で生きていかなくちゃならないんだと自らに言い聞かせているようで、いいキャラしてんなと感じました。
またまた余談ですが、たぶん須賀さんの奥さんも陽菜と同種の神通力を宿した晴れ女だったんじゃないかと思います。
というのは、『君の名は。』で瀧君と三葉が再会した場所の近くに『須賀神社』ってのがあるんですが、この須賀神社って稲荷系の神社なんですよねぇ。主祭神に祀られているのがウカノミタマという女神さんなんですが、この方は京都の伏見稲荷大社の主祭神でもあるんですよ。
んでんで、映画の前半に登場した占い師の言葉通りなら、稲荷系は晴れ女の系譜となります。
稲荷系神社の名前を持つキャラクターの奥さんが、稲荷系に通じる天気の巫女だったのではという仮説は、あながち間違いでもないでしょう。須賀さんの奥さんは呪術的な意味合いでの『晴れ女』としての役割を全うした結果、人柱として天に召されたのではないでしょうか。
劇中では「事故」で亡くなったとされていますが、どういう事故で亡くなったかは一切語られませんし、他の誰かに「妻は人柱になって消えたんだ」と言ったら「はぁ?」って顔されるに決まってますから、世間体のために「事故死」と偽ってるんじゃないだろうか。
多分、ぜんそく持ちの娘が公園で遊べるように毎日を晴れの日にして欲しいって願い続けていたんでしょうね。それがいつまでも胸に残っている須賀さんは、表面的には全然興味ない感じを装っていても、実はわりと早い段階から帆高と陽菜が作ったサイトに依頼を出してます。
それがはっきりと分かるのが、RADWIMPSの二回目の曲が流れるシーン。フリマの開催日に晴天を到来させた直後のダイジェスト場面です。
ここで帆高と陽菜が覗いているスマホの画面が一瞬だけ映るんですが、そこにご丁寧にも『ぜんそく持ちの娘が公園で遊べるように……S.K』と明記されているんです。S.K。すなわち『須賀圭介』です。
須賀さんがどのタイミングで帆高たちに依頼を投げていたか初見では分からなかったんですが、二回目でこのシーンに気づいて確信しました。なんだ、須賀さんの奥さんも、そういう能力を持っていたんだねと。それが忘れられなくて、ホイホイ帆高たちの作ったサイトに釣られちゃったんだねと。
こういう細やかな演出部分ってのは、やっぱり新海監督の得意とするところなんでしょう。
ただ、全体的に観てあんまりにもヤケクソなつくりだなぁと。しかもそのヤケクソ感が中途半端。天気って、別に東京だけじゃなくて世界に関わる話なんだから、もっとスケールでかくして描いても良かったと思います。
身の丈以上の大成功を無理矢理掴まされてしまった一方、これでもかというくらいの悪罵を受けてしまって、新海監督、かなり傷ついてしまったんだなあというのが分かる本作。なんだか、ちょっぴり悲しくなりましたね。
別に友人の言葉を代弁するわけじゃないですけど、ここでひとつ、新海監督は川村元気プロデューサーやRADWIMPSから離れて、もう一度天門さんと組んで60分くらいの短編映画を撮っていただきたいですね。
まー、色々と得るものはある映画なので、あともう一回くらいは観にいきます。
恐らくだけど、観れば観るほどだんだん好きになっていくタイプの映画だと思います。




