【第27回】ハウス・ジャック・ビルト(無修正完全ノーカット版)
『恐怖の予兆、あるいは証人として立たされる映画』
新宿バルト9で鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。
実は最近、あまり映画を観れていません。それでもいちおう『アメリカン・アニマルズ』とか『ジョナサン~ふたつの顔の男~』とか『新聞記者』とか観たんですけど、レビューを書く機会を逸してしまいました。ひとえに、私の怠惰な部分の為すところです。
ということで、今回はまじめにいきます。L.V.トリアー五年振りの、ポリコレを全力でぶん殴る映画です。
ちなみにこの映画の鑑賞中、前に座っていたお客さんのうち10人くらいが途中退席してました。
【導入】
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『アンチクライスト』『ドッグウィル』『メランコリア』などを手掛けた、鬼才にして異才の知的監督、ラース・フォン・トリアー。
母国デンマークで神のように崇められ、数多の映画祭でグランプリを獲得するも、そのあまりに露悪的な作風からポリコレ連中からは蛇蝎のごとく嫌われ、ついには「いやぁ、ヒトラーって本当にいいものですね(要約)」とフランス国内で発言しちゃったおかげで、カンヌ国際映画祭を出禁になったヤベー奴(あと、なんかビョークにセクハラで告発されちゃったらしい。ドンマイ)。
えー、ヒトラーの件に関しましてはですね、無教養な私でも、さすがにフランスでそれ言う? って思いましたよハイ。長崎や広島に行って「いやー、原爆ってマジ卍」って言うのと同じくらいやべーよ。『ソドムの市』を監督したパゾリーニみたいにならなくて良かったね。
でもトリアーがヤベーのは、学生の頃に『アンチクライスト』を観て以来なんとなく分かっていたので、らしいなとは思いましたがね。
それにこの人のヤバさってのは、かなり緻密に構造的に計算された『ヤバさ』だから、映画を観終わった後には「素晴らしい映画を観たなぁ」というポジティブな感想が残るんです。
そんなトリアー監督が五年振りに監督を務めたのが本作『ハウス・ジャック・ビルト』
主演はマット・ディロン。私の中では『どんでん返しサスペンス』の代表格『ワイルドシングス』のエロ教師役って印象が強いんですが、以前にフォロワーさんから教えていただいた『クラッシュ』にも出演されていたみたい。
正直、そんなに詳しく知らない私は本作を観た瞬間「え? これがあのワイルドシングスでデニス・リチャーズのパンツをズボンのポケットに入れてた人?」ってなって、かなりギャップがありました。すごい演技してますよ。
で、そのマット・ディロンが演じるジャックって男が、これがいわゆるシリアル・キラーな訳です。彼の犠牲になる演者もまた豪華。
最初に犠牲になるのはユマ・サーマン。『キル・ビル』の方ですと言えば分かるかな。まぁ、スゲームカツク女の役なんですわコレが。正直、殺されても仕方ないね!
でも一番ビックリしたのは、ライリー・キーオですよ。そうです、なんとこの映画には、エルビス・プレスリーの初孫、ライリー・キーオが出てるんですよ。あの世紀末アドレナリン大放出傑作映画『マッドマックス-怒りのデス・ロード-』にケイパブル役で出演されていた方ですよ。
『マッドマックス-怒りのデス・ロード-』は、女性キャラも魅力的。フュリオサ大隊長の男前に惚れるも良し、スプレンディドの妊婦姿に萌えるも良し。ダグのお茶目な身振り手振りに笑うも良し。
でも私、ケイパブルが一番好きなの!
分かるよね!? あんなイイ子に人生励まされたいよね! 仕事に失敗した時に「それが天命ではなかったのよ」って言われたいよね!? 私は言われたいよ!
ニュークスといい関係になる、あの優しく知的で勇敢なケイパブルが! なんと、今回は徹底してバカな女! 悲惨なことにジャックにおっぱい切り取られて殺されちゃいます。モザイクなしです。
トリアーふざけんな! おまえ撮影現場でケイパブルの生おっぱい見たんか! うらやましいぞ!
はい。とまぁこんな感じで、かなりのビッグ・ネームな女優さんやら、トリアー作品でおなじみの女優さんらが、ばったばったと殺されていきます。
そんな中で異彩を放つのが、今年の二月に逝去してしまったドイツの名優、ブルーノ・ガンツ。
え? 誰だか知らない? いえいえ、みんな知ってますよ。特にニコニコ動画を視聴なさっている方は絶対、一度は見たことありますよ。
ブルーノ・ガンツは総統閣下です。そうです。『ヒトラー~最後の十二日間~』でヒトラー役を演じられていた方です。あの『おっぱいぷる~んぷるん!』って、皆がネタにしている人です。
でも『ヒトラー~最後の十二日間~』は本当に素晴らしい映画だから、ネタとして消費して満足するだけじゃなく、ちゃんと映画の方も観ていただきたいですね、はい。
【あらすじ】
1970年代から80年代にかけて、およそ12年の間に60人以上を殺害した連続殺人犯がいた。
犯人の名はジャック。名字は不明。強迫性障害という精神疾患を抱える彼は、建築家を夢見る技師だった。家を作るために材料の吟味に余念がない彼だが、いつまで建っても家は建たない。どんな素材を使えば良いのかすら、気づいていないようだ。
ジャックにはもう一つ、大事な仕事があった。
それは、つまるところ殺人だった。
殴殺、絞殺、銃殺、刺殺……考えうる方法でありとあらゆる殺人を実行し、遺体は友人からいただいた巨大な冷凍倉庫に保管し、死後硬直が取れた後に関節や眼球をいじって、肉の塊はオブジェと化す。
ジャックにとっての殺人行為。それは芸術への挑戦でもあった。
破壊から始まる芸術。賞賛の価値を落とし、滅亡の価値を上げる。ブドウが腐敗し、芳醇な甘露を獲得していくように。やがて闇の中に光は顕れ、破壊の果てに辿り着くであろう至高の境地。それが何なのか知りたくて、彼は殺人を繰り返す。
ジャッキで高飛車な女を殴り殺す。
金にがめつい女の首を締め上げる。
ハンティングの要領で親子を銃殺する。
バカな恋人の乳房を切り取る。
ナイフで老人の喉をかっさばく。
ありとあらゆる罪業に手を染める彼は、煉獄への水先案内人に語り始めた。
散発的に思い出した、五つの殺人の物語を。地獄めぐりの始まりを。
【レビュー】
要するにこの作品ってのは『殺人鬼が、自身の犯した殺人内容のうち五つを思い出しながら、時系列バラバラに語る』という、身も蓋もない話です。
端的に言えばジャンル映画ですね。『シリアル・キラー』というのはテッド・バンディの登場以後に定着した造語ですが、そのような類の映画ってのは沢山つくられてきました。時に観客を震え上がらせ、時に観客を安心させる目的で(人は異常者の観測を通して、自らの健常性を自覚します)。
しかしながら、この映画ほど身に迫る殺人ってのもありません。
身に迫るとはどういうことかと言いますと、これはトリアー作品のほとんどに当て嵌まりますが、まるであたかも、自分の目の前で現象(本作だと殺人)が発生しているかのような、気味の悪いリアリティがあるということです。
トリアー監督がよくやる手法として、連続的な撮影方法というのがあります。それもホームビデオのようにわざと手振れを加えながら、眼前に起こる事象を淡々とフィルムに収めていくわけです。
たとえば、これから殺される人物の表情を撮影したら連続的にカメラが移動して、ジャックの顔を映し出す。こういう映像が全編に渡って画面を支配しています。
長回し、というのとは微妙に違うんですよね。しかしこれが、驚くほど映画の品格を保持するのに役立っている訳です。リアリティを出そうとして、変にモキュメンタリー風に撮影しているわけでもない。やりすぎなんじゃないかと思うくらい演者の表情をアップで撮影したりするんですが、かえってそれが恐ろしい。
リアルとフィクションのギリギリのせめぎ合いを演出する編集とカットの技術。そこから立ち上がってくるのは、映画を鑑賞するという安全地帯からの観測ではなく『出来事に立ち会わされている』という『実感』です。
恐るべきことに、この映画は『シリアル・キラー』というファンタジーな(非日常的な)存在を主人公に据えていながら、観ている側を、実際の殺人現場に立ち会わせているような、圧倒的なリアリティを獲得しています。
それは、先ほども言いましたような連続的な撮影方法が、大きく関与しているのでしょう。
通常、映画における殺人場面というのは、人を殺す瞬間に前後して、なんらかの編集やカットが入るものなんですが、この映画はそれをしません。シームレスに人を殺します。
三番目に語られる子供を銃殺するシーンも、弾丸の発射から標的の破壊までをカットや編集なしでそのまま撮影してます。頭が柘榴のように弾け飛んで地面に倒れるまでを、まるで自然の作用のように撮影しています。
四番目に語られる、恋人の乳房を切り取るシーンも、そのまま映してます。そのままです。ナイフが乳房にめり込む瞬間から、血がドロっと溢れる瞬間から、被害者の絶叫まで、全部、なにもかもをあけっぴろげに撮影しています。
観客への配慮など全然考えていないシーンが続きますが、そこまでグロテスクというわけじゃない。この映画にもし恐怖を見出す人がいるのなら、それは人体破壊の描写にあるのではなく、その破壊に至る前の『予兆』でしょう。
たとえば最初に紹介される殺人。ユマ・サーマン演じる高慢ちき女の乗っていた車がパンクして立ち往生しているんですが、そこにたまたま真っ赤なバンでジャックが通りかかります(この真っ赤なバンってのがまた悪趣味)。
高慢ちき女はジャックを呼び止めると、「車を直して欲しいのよねん」と媚び媚びな態度で迫りますが、ジャックは凄く迷惑そうな顔してるんですわ。
んで、女の持ってるジャッキが壊れていることに気づいたジャックは、近くの修理工場に寄ってジャッキを直してもらうように提案するんです。
しかし女は「あなたの車に乗せて、修理工のところまで連れてってよん」と、どこまでも厚かましい。
仕方なく女を車に乗せるジャックですが、この時点でしつこいくらいにジャッキのアップを映すわけです。
そうして修理工のところへ向かう途中、高慢ちき女が徹底的にジャックをこき下ろします。初対面で、それも助けてもらったはずの相手に向かって「知らない人の車に乗っちゃいけないんだったわ」とか「あなた、本当は殺人鬼なんじゃないの?」って。
冗談でも失礼ですよね。私だってムカつきます。
高慢ちき女のしつこい絡みを、イライラしながらジャックは適当にあしらおうとするんですが、そこにやっぱり、壊れたジャッキが合間合間にアップで映し込まれるわけです。
そこで観客は誰しもが直感します。そうか、この女はジャッキで殺されるんだなと。
問題なのは、どのタイミングで『それ』が起こるかということ。
この『それ』が起こるまでの間の取り方が上手い。長すぎず、短すぎず、しかし『それ』は必ず訪れる。だからこそ怖い。
『それ』が確実にやってくるのを我々は知っているし、現場に立ち会わせるようとする臨場感あるカメラワークも相まって、観ている最初のうちは自然と頬に緊張がはしるものです。
ところが、これが二度、三度と続いていくうちに、あまり怖くなくなってきます。
むしろ『慣れ』のようなものが芽生えてきて、スクリーンの向こうで人が死んでも「あ、死んだな」というあっさりした感覚しか抱けないし、しまいには「そんな方法で本当に人を殺せるんだろうか」とか考えてます。
別に、私が異常者ってわけじゃない。実はそうなるよう工夫がしかけられているだけの話。
約3時間の本作の中で、観客は幾度となく高度な撮影レベルで殺人の予兆と実行を感覚させられます。そうすると観客が自然と取る行動は二つに一つ。「トリアーなんかしんじゃぇ~」と罵詈雑言を吐いて途中で席を立つか、恐怖に耐性をつけようと脳が指令を下すかのどちらかです。
後者の場合、突発的に襲い掛かってくる恐怖から心を守ろうと脳が働いて『予兆』と『実行』の因果関係を相関付けようとします。そのようにして無意識に映画内で起こりうるであろうことを学習しているうちに、観客は『慣れ』を獲得するのです。こういう『予兆』がきたから、次はきっとこういう殺人が『実行』されるのだろうと。
観客の映画を観る力を信じなければ作れないであろう構造を有する本作は、観客の感覚を麻痺させるだけではありません。映像に対する検分をうながし、画面の中に観客を引きずり込もうとするのです。
さて、トリアー監督の映画は『予感とモチーフ』の映画だと私は考えています。特に、聖書的な価値観を皮肉るようなモチーフの使い方をします(キリスト教圏の文化に疎い私でも、そう感じます)。
たとえば二番目に告白する殺人。これから殺す相手の自宅をジャックが訪問した際に、わざと一瞬だけ、ジャックの横顔にピントを合わせた状態で画面の奥に建つ家をなんとなくぼかす感じで映すんですが、その家の屋根にでかでかと十字架のオブジェが置かれているんですよね。
三番目の殺人の告白……キャンプにやってきた子供と母親を『狩る』場面でも、キャンプ指導員に扮したジャックがいきなり銃でバンバン撃ち殺すのではく、ちゃんと『前フリ』が用意されていて、これが殺人の予感としてしっかり機能しています。
四番目の恋人の殺人では、電話機の赤くて長いケーブルを描くことで『運命の赤い糸』を演出すると同時、もしかして今度は絞殺か? と観ているこちら側に想像させます。
ですが後に、恋人のおっぱいに施した『ある行為』から「もしかして乳房切り取るのか?」と想起させ、その一方では電話線をこれみよがしに映すのも忘れないから「絞殺なの!? 刺殺なの!? どっちなんだよ! 怖い!」とさせられる。
言うなれば、本作は観客の映像を観る視点を誘導する映画なのです。凄惨な事象を導くモチーフをさりげなく映すことで『予兆』のインスピレーションを与えられると、観客は殺人が起こる場面そのものよりも、殺人が起こる『直前の描写』に意識を奪われてしまうのです。それゆえに、いざ殺人のシーンがスクリーンに映し出されると「あ、本当にそれは起こったのだな」という、居心地の悪いリアリティが生み出されるのです。
トリアーの掌の上で、観客は徹底的に転がされてしまいます。映画を観に来たはずなのに、逆に映画内の出来事に立ち会わされる。監督の意志が観客の『視線』をコントロールするかのような演出の数々。イヤですねー(誉めてます)。これほどまでに予兆の恐怖を演出できる監督って、他にいるんだろうか。
そりゃあ、たしかに描かれている内容は悪趣味極まります。倫理観が圧倒的に欠如しています。なにせこの映画は、人を殺しておしまいではなく、肉の人形と化した死体を文字通り人形として扱う(目ん玉いじったり関節折ったり)のですが、それをモザイクで隠したりすることなく淡々と見せつけているんですね。不謹慎ですねー。
でも、グロさを強調した映画ならこの世に掃いて捨てるほどあります。『ファーザーズ・デイ 野獣のはらわた』とか『サンゲリア』とか。邦画なら『オールナイトロング』とか『ギニー・ピッグ』とか。
それらの直接的な、しかし本当はとても安っぽい人体破壊描写では決して届き得ない『いま、そこにある恐怖を実感させる』パワーが本作には確かに息づいています。
ですが皆さま。
この映画の秀逸なところは、ただ『怖い』ところにあるんじゃないんです。むしろホラーとして観るべきではない映画です。怖さだけを期待すると、少し失敗すると思います。
なんといっても本作の醍醐味は、殺人と殺人の合間合間に差し込まれる、美麗にして奇妙な、トリアーお得意のイメージ映像の数々でしょう。
いや本当に凄すぎる。私は映画技術に関してはとんと素人だから不思議に思うんだけど、編集技術って才能によるところが大きいんでしょうか。だとしたら、やっぱりトリアーって感覚がずば抜けてるんだなぁ。
編集の重要性というのは映画の創成期から語られてきましたが、その編集の妙技たるクレショフ効果……前後する映像のカットがもたらす相関関係を、ここぞというくらいに発揮する編集力。その編集力を楽しむのが、この映画の最大の味わい方と言っていいでしょう。これはもう、実際に鑑賞してみないと分からない。鑑賞しても言語化不可能だけど。
トリアーが作り出す鮮烈に過ぎるイメージ――たとえば真っ黒な背景に白文字アルファベットの羅列、規則的に草を刈る農夫たち、家の骨組みを壊すブルドーザー、ヒトラーとスターリンの肖像、ゴミように廃棄される死体、ゴーギャンの『月と六ペンス』、ピカソのキュビズム――それらの映像は、それ単体では映画的にあまり意味を持ちえませんが、これらを連続的につなぎ合わせていくと、劇中でジャックが自ら語るところの『殺人の芸術性』が内包するであろう奇妙な崇高さが、あたかも世界の真実であるかのような効果をもたらすのです。
冲方先生の言葉を借りるとするのなら『原始のコズミック・ダンス』とでも言えばいいのでしょうか。殺人という原始的な行為を繰り返した末に、宇宙の真理へ到達するかのような、そんなありうべからざる『気配』を観客に自覚させるだけの『映像のパワー』が、この映画にはあるのです。
ピカソは言いました。全ての芸術は破壊から始まると。
ドラクロワは描きました。キオス島の虐殺を。
ダ・ヴィンチも死体を漁り、調査し、人体の秘密を解き明かそうとしました。
もしも破壊が芸術に先立つものであるとしたら、社会における芸術の役割とは何なのでしょうか。愛だけでは足らず、直接的に何らかの破壊を経験しなければ芸術の本質に至れないのだとしたら、芸術こそ社会を乱す根源ではないのか。
しかしながら、芸術に救われてきた人はたくさんいます。私がそうです。オルセー美術館でモネの「かささぎ」を観た時、私はあの絵の中に立ち会っていました。涙が出ました。もう二度とあの感覚はやってこないのかもしれないけれど。
けれども、私はあの時の感覚こそが芸術の本質なのだと信じます。
私もジャックと同じで中身が空っぽの、ともすれば善悪の境界を簡単に超えてしまいそうなダメ人間だけれども、それでもなんとか生きていこうかな。
個人的には物凄く突き刺さる映画でした。7月の時点で、ついに『ジュリアン』を抜いて暫定1位の座を獲得しました。
物凄い映画を観てしまったなぁ、という感覚を胸に抱きながら、私は真夜中の新宿バルト9を去ったのでした。
この調子で、L.V.トリアーには頑張っていただきたいです。
~鑑賞中の所感をいくつか~
①この映画、二番目に紹介する殺人のシーンで『嘆きのピエタ』のオマージュ的な場面があって、なんか得した気分になりました。
②親子をハンティングするシーンで、鹿のハンティングにおけるルール(母鹿と子鹿を発見した場合、生存率を考えて子鹿のみを殺すのがセオリー)が説明されていましたが、かつてTBSの番組「情熱大陸」でサバイバリストの服部文祥さんが全く逆のことやってて、すごい批難されていたなぁなんてことを思い出してました。
③四番目に紹介される殺人物語。恋人がジャックに殺されそうになった時に助けを求めて大声で叫ぶも、マンション住人全員が無視するって下りは、キティ・ジェノヴェーゼ事件から着想を得たんだろうか。多分そうだと思います。




