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【第2回】ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男

この内容は、9/2の活動報告から、明らかな誤用や誤字を修正した内容を一部転載しています。

『栄光と挫折よりも、ずっと価値あるものを手に入れた二人のテニスプレーヤーについての映画』


日比谷のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。


あ、ちなみに当方はテニスについては初心者です。ボルグ?マッケンロー?誰それって具合の知識レベルです。



【導入】

1980年のイギリス・ウィンブルドンで実際にあった『テニス史上最高の名勝負』と今なお語り継がれている、3時間55分に及ぶ死闘を描いた物語。


ウィンブルドン選手権五連覇を目指す絶対王者として君臨するビヨン・ボルグ役をスヴェリル・グドナソンが演じています。スウェーデンの方みたいです。


“悪童”と仇名されるジョン・マッケンロー役を シャイア・ラブーフが演じます。『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』に出てた方ですね。スピルバーグが絶賛するほどの演技力が、今作品でも発揮されています。


監督はこれが長編作品二作目となるヤヌス・メッツ。この方デンマークの方らしいです。ウィキに詳細が載ってないので、どんな方なのかはよく知りませんが、でも並々ならぬ才覚を持った方なのだろうなと感じます。


主演俳優さんはスウェーデン人ということで、映画製作には北欧が絡んでいます。


配給にはアメリカも入っておりますが、製作自体は北欧……スウェーデン・デンマーク・フィンランドで為されています。


だからなんでしょうかね。画面から匂い立つ空気が、ちょっとハリウッド映画とは違う感じがあったのは。



【あらすじ】

1980年。イギリス。ウィンブルドン。


世界ランキング1位のテニスプレーヤー。『絶対王者』としてテニス界の頂点に君臨するビヨン・ボルグは、精神的な危機に立たされていた。余人には到底理解のしようもない重圧のせいである。


全世界が注目する『ウィンブルドン選手権五連覇』という前人未到の偉業を、なんとしても達成せねばならない――想像を超えるプレッシャーと、ボルグは一人でストイックに闘っていた。


ボルグは、勝つためのトレーニングを欠かさないプレーヤーだ。修行僧のように研鑽を積むことを忘れない男だ。到達点へ至り、人々の記憶に残る選手になろうと努力を惜しまない一人の人間だ。


それらの積み重ねの結果、彼は体得した。冷静沈着としてゲームを分析し、時に機械的とさえ思える精密無比なプレー・スタイルを。


ゆえに、ボルグは『氷の男』の異名で呼ばれていた。


しかしながら、異名は独り歩きして『ビヨン・ボルグ』の姿を歪なものと化していった。街へ一歩繰り出せば、端正なマスクと人気ゆえにファンからの黄色い声が飛び、そうでない一般人からは好奇の目線に晒される毎日。


皆、メディアを通じて『テニスプレーヤー、ビヨン・ボルグ』の姿を知ってこそすれ、『人間、ビヨン・ボルグ』のことは知らないし、知ろうともしない。


ビヨン・ボルグは『孤独の人』であった。


一方のアメリカでは、ボルグを打倒しうる最有力候補として、一人の人物の名が上がっていた。


世界ランキング2位。“悪童”ジョン・マッケンロー。新進気鋭の若手選手にして天才的テニスプレーヤー。


ネット際における絶妙にして技巧の結晶としか言いようのないネット・プレー・スタイルで、他の若手選手を全く寄せ付けない彼には、だがしかし、決定的とも言える難点があった。それはもはや、悪癖としか言いようのないものだった。


悪癖――審判への『暴言』を飛ばすことで、彼は有名だった。


怒りに駆られるがあまり、テニスラケットを地面に叩きつけることなど日常茶飯事。その『非紳士的な』姿勢にブーイングを飛ばす観客や、彼をおもちゃのように扱おうとするメディアに対しても、彼は容赦なく問答無用で噛み付く。


その野獣のような暴走的振る舞いは、さながら『炎の男』と表現するほかはない。


しかしマッケンローは、世間が思っているような狼藉者では決してなかった。


彼は『この世界で俺が一番テニスを愛しているんだ』と言わんばかりの、強烈なテニス愛に満ちた人物であり、怒りを露わにするのは『試合に集中するため』という、彼なりのルールに基づいた行動だった。


だが、そんな彼の紛れもない本物の情熱を観客たちは理解しないし、理解しようともしない。


ジョン・マッケンローは『孤独の人』であった。


そうして始まる、ウィンブルドン選手権。


一回戦から本調子が出ないながらも、なんとか勝ち上がっていくボルグ。


調子は良いものの、同僚のテニスプレーヤーから『お前は世界の頂点に立つだろうが、人々の記憶には決して残らない』と断言されてしまうマッケンロー。


誰にも理解されない苦悩と孤独を抱えて歩む二人の男の道は、ただ一点、ウィンブルドン選手権の『決勝』の舞台で、ついに交わる。


氷の男・ボルグ。

炎の男・マッケンロー。


伝統と格式あるセンターコートで、氷が炎と、炎が氷と出会う時。


1980年のウィンブルドン選手権決勝戦は、かつてない静かな熱狂に包まれる。



【レビュー】

人が人とコミュニケーションを交わす際、当たり前の話ですが、そこには言葉が存在します。人は、言葉により社会を造り上げ、言葉によって文化や文明を生み出してきた生命体です。


しかし、言葉が完全無欠のコミュニケーション・ツールであるかと言えば、そんなことは勿論ありません。


言語化によって零れ落ちてしまう感情や思考というのはある程度存在していて、その欠如ゆえに誤解が生まれ、衝突が生まれてしまいます。


なぜ『スポーツは美しい』といった定型文が生まれたかというと、実はこの部分が大きく絡んでいるのではとしか思えない。


つまり、コミュニケーション・ツールとして存在するのは『言葉』だけではない。スポーツもまた『言葉』たりえるのだという事です。


そして世界には『共通語』というものがある以上、同水準の力量を持つ一流のスポーツマン同士の闘いそのものが『無言の共通語』であるというわけ。


人は孤独な生き物です。家族や友人、恋人がいても、決して理解はしてもらえない心の深淵がある。それは、繰り返しになりますが決して理解はしてもらえません。


心の深淵がどれだけ深いかは、当人しか知らないし、知り得ないからです。それは言葉社会が生み出した一つの限界でありましょう。


ですが、奇妙なことに、実に奇妙なことに、スポーツはその限界を超えることがあるんじゃないかと、この映画を見るとそう思わずにはいられない。


誰にも理解できない孤独を抱えた者同士ということは、言い換えれば『孤独を抱えているからこそ理解しあえる余地を残した者同士』ということになりませんかね。


この映画はスポーツの本質を描いています。本質とは何か。それは『観客の残酷さ』にあります。


当の選手同士が命とプライドを振り絞って闘っている様を、我々観客は実に安全な立場から見ることを、半ば強要されています。


会場で、あるいはテレビ越しに。闘っている本人同士の気持ちなどこれっぽっちも知らずに、そこから生み出すドラマを、ただただ娯楽として消費し続け、それを当然のように受け入れてしまっている。


これほどまでに残酷なことがありましょうか。その残酷性を無自覚に受け入れている「わたし」という存在の、なんと罪深いことか!


ボルグもマッケンローも、いや、いまテニス界で活躍している錦織選手だって、きっと命を削って闘っているんです。『スポーツは血の流れない戦争である』と私は昔から思っている訳ですが、この映画はまさにそれを体現しています。


それ故に、試合を安全地帯から眺める、我々観客の『社会的に許されている無責任具合』を、強烈に意識せざるを得ないのです。ゆえに、ずーっと息が詰まったような感覚に陥ってしまうのです。


この映画は『人間ドラマ』としても重厚な造りになっており、勝負の世界には一切の妥協がないことを分からせてくれます。


その最たる点が、結末の部分。


歓喜の雄叫びを上げる勝者と、項垂れる敗者とを、ワン・フレームの中に納めることを平然とやります。これまたなんと残酷なことでしょう。


しかしそれは勝負の世界における『事実』であり『結果』であり、そこから逃げようとしない絵を映そうとする、ヤヌス・メッツ監督の『冷徹なプロ意識』にぞくぞくさせられます。


勝敗がつく。それは前述したように勝負世界の事実であり結果でありますが、しかし『真実』ではない。


真実とは、試合に勝つ、あるいは負けるといった『表面上の出来事』を通り越した先にあります。


それを象徴するかのように、ウィンブルドンのセンターコートへ続く扉の上には、以下のような詩が刻まれています。





『もし、栄光と挫折に向かい合い、そのいずれの虚構をも、等しく受け止められるなら――』






勝利も敗北も、一つの虚構に過ぎない。


たとえ勝負に勝ったからと言って気を緩めていては転落してしまうし、敗北に打ちひしがられてしまえば『引退』の二文字が脳裡をよぎります。


それらが全て虚構の幻であると『理解』した時、きっとかけがえのないものが手に入ることを、この詩は示しているのです。


重要なのは、そう、重要なのは。試合を通じて、自分に欠けていたものを吸収したり、あるいは、自分が内に抑え込んできた想いを爆発させること。


炎が氷を、氷が炎を理解した時。


お互いにしか分からない『無言の共通語』でコミュニケーションを交わし始めた時。


ボルグとマッケンローの二人が描き出す試合は、鋭い刃となって観客の命へ迫ります。それだけの『静かな迫力』がこの映画にはあります。


わたしは、この映画を観て泣きました。


特に、ボルグが自らを追い込み過ぎるがあまり、コーチや奥さんを遠ざけるシーンで。


そこから先はずっと泣いてました。隣の観客から変な目線を向けられたかもしれませんが、そんなの構わず泣き続けました。


わたしにとって『泣く』というのは、映画という娯楽に熱中した結果引き出される一つの生体反応に過ぎない訳で、必ずしも泣けるから良い映画という訳ではありません。


しかし、それを差し引いても、この映画は素晴らしい。素晴らしい娯楽映画です。『普遍的』な感動があるのです。


そして何より、ハラハラするし面白い。


音楽のピークの持っていき方や、俳優さんの「目だけで語る演技」など、あらゆる諸要素が一つに、綺麗に、見事にまとまっています。


ヤヌス・メッツ。文句なく素晴らしい監督です。これがまだ二作目とは末恐ろしい。今後、どんな作品を創り出してくれるのか、実に楽しみです。


ちなみに……この試合の後、ボルグとマッケンローは生涯の友人になったそうです。


それまで互いのことなど良く知らなかったのに、あの1980年のウィンブルドン選手権が、二人の孤独を埋めたのだと考えると、なんとも言えない感慨深さがあります。

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