番外編 新海誠の作家性ー最新作『天気の子』は死生観の物語!?ー
本当にいまさらかもしれませんが、新海誠について語っておくべきことを語っておこうと思います。
『ほしのこえ』の発表以降、数多くの論客やメディアが新海監督について多角的に論じているし、それこそ、私のような『ただのファン』が語ることを許される内容なんて、たかが知れています。
それでも最新作『天気の子』の公開が間近に迫ってきている今、自分の中で一つ整理をつけておくべきだと強く感じたし、なにより純粋にどういうお話になるのか非常に気になるところでもあるので、ここでは『天気の子』がどんな展開の物語になるのか、そこでどのようなテーゼが持ち出されるのか、どんな展望を新海監督が示してくれるのを、厚顔無恥にも予想してやろうではないかというわけです。
しかしながら、いきなりばばんと予想を打ち立てるのもなんだか面白くないので、『ほしのこえ』に出会ってから十二年近く追い続けているひとりのファンとして、これまでの新海監督の活動を振り返るかたちで、本稿を綴っていきたいと思います。
というわけで、『MAD CINEMAX-ムービー・ロード-』、今回は番外編です。
■新海誠と『ポスト宮崎駿』
2016年に公開された『君の名は。』が国内のみならず海外(とくに中国などのアジア圏)で爆発的大ヒットを飛ばして以来、数多くのアニメメディアや、そうでないメディアも含めて、こぞって新海監督を『ポスト宮崎駿』の地位に祭り上げようと必死になっている様が目につきます。
ですが、そういった論調は私からしてみれば『なにを的外れな事を言ってんだろうか』って具合です。
この感覚はほとんど間違いないと思っています。なぜなら、戦後ニッポンのアニメ業界を牽引してきた宮崎駿と、ゼロ年代に生まれたクリエイターの代表格である新海誠とでは、アニメ制作に携わってきた土壌がまるきり異なるからです。
『東洋のディズニー』を目指して『白蛇伝』を製作し、家内制手工業による動画作成に終止符を打った東映動画(今の東映アニメーション)。宮崎駿や高畑勲を擁する東映動画こそが日本アニメ業界の王道をひた走る存在であるのだと、広く周知されてきました。
ですから、もしそういったアニメ的方法論や背景に則って考えるならば、『ポスト宮崎駿』として語られるべきは、元ジブリ・スタッフにしてスタジオ・ポノックの米林監督であり、東映で修業を積んできたスタジオ地図の細田監督であり、『風の谷のナウシカ』に参加していた庵野監督でしょう。好きか嫌いかは別にして。
新海監督がキャリアをスタートさせたのは、東映よりもずっとアングラなフィールド……日本ファルコムのアクションRPG『Ys II ETERNAL(通称・イース)』のオープニング映像からであり、新海監督が、今では消滅してしまった美少女ゲームブランド(早い話がエ〇ゲーでござい)の代表格『minori』にて、数々の鮮烈なオープニング・ムービーを手掛けてきたのは、ファンの方にとってはお馴染みの話です。
特に2006年に製作された『ef - the first tale』のオープニング・ムービーは出色の出来です。会社ぶっ壊れる寸前まで金と労力をかけただけあります。また、絵コンテと仕上げのみの参加だったとはいえ、2008年に製作された『ef - the latter tale』のオープニング・ムービーなんて、ご飯三杯はイケるくらいに素晴らしいです。
と、このように栄養分として吸収してきたオタク的素養や、現場で特化させてきた技術論法が似たようで異なるわけですから、同じアニメーションを舞台にしていながら、新海監督と宮崎監督一派が歩んでいる方向性が重なる可能性は低いと考えた方がいいでしょう。
これらの事実から類推しても、およそ新海監督が『ポスト宮崎駿』たりえる存在にはなりえないし、なる必要性も私は感じません。
メディアは分かり易い指標として『興行収入ランキング』を持ち出してきて『ポスト宮崎駿』に新海監督を押し上げてきているんでしょうが、そんなのはとてつもなくくだらない、馬鹿馬鹿しいにもほどがある戯言だと私は感じています。そんなものに拘らなくても、新海監督はとっくに日本を代表する凄腕のアニメーション監督なのですから。
■新海誠とセカイ系
もうこれもさんざっぱら議論されてきた話だし、まだ言うのかよという感じですが、自分の中の考えをまとめるためにも書かせてください。
新海監督の最大の持ち味とは何か。それはなんといっても、デジタル技術を駆使して表現される純化された日常風景と、風景そのものを『ことば』に置換して描かれる男女の細やかな機微であります。
光と影のコントラスト、キマりすぎなレンズ反射、地平線の彼方で輝く十字の太陽光、空にたゆたう銀河の渦、雪を踏みしめる湿った足音、情緒を匂わせる雨粒のきらめきなど、フランス印象派の画家に見られる表現作法に則って生み出される風景描写の数々は、写実性の法則を飛び越えて、完全にファンタジーの領域まですっ飛んでいます。(日常に隠れ潜んでいる、良い意味での異常性の発露とも言い換えることができます)
そのような類まれな武器を手に新海監督が描く傾向にある物語というのが、ゼロ年代にオタク界隈で旋風を巻き起こした、いわゆる『セカイ系』と定義されるジャンル物です。
なろうにはコアなオタクの方々が当然数多くいらっしゃるので説明するまでもないですが、いちおう知らない人の為に説明しますと、『セカイ系』というのは『主人公とヒロインの関係性が、直接的に世界の命運にリンクする』たぐいの物語です。
ここで言う『直接的』というのは、たとえばある特定の組織であるとか国家などの、我々の現実社会で世界の運営に少なからず影響を与えている集団を徹底して無視して(あるいは背景化させて)世界の滅亡にまつわる選択の鍵を、主人公とヒロインの関係性に握らせる、といった手法のことを指します。
起源となるのは『新世紀エヴァンゲリオン』であり、そこから『最終兵器彼女』やら『涼宮ハルヒの憂鬱』やら『イリヤの空、UFOの夏』やらと、いやぁ、書いているだけでも懐かしいものばかりですね。
また、『セカイ系』がゼロ年代初期に多用された分野の代表格が、今ではすっかり斜陽産業になりつつある『美少女ゲーム業界』や『エ〇ゲー業界』でした。
新海監督のキャリア・スタート地点は、前述したように美少女ゲーム界隈でありますから、彼の紡ぐ物語の骨子たる部分に『セカイ系』の色が濃く在るのも、納得がいくというものです。
しかしながら、新海監督だけではありません。『FGO』のメインシナリオライターを務める奈須きのこや、『仮面ライダー鎧武』や『アニメ版ゴジラ』などの脚本を手掛けた虚淵玄などの優秀なエ〇ゲーライターの多くが、アングラ界隈を飛び出して表舞台のコンテンツにまで活躍の場を広げているのです。
ニッチな需要を求められていた場で研磨された創作論やキャラクターアイデアが、日向におけるコンテンツの強度を支えているという今の状況は、なんとも見ていて面白いものがあります。
さて、ちょっとわき道に逸れちゃいましたが話を続けます。例をとって『セカイ系』を構築する要素を抜き出すと、こんな感じのものが挙げられます。
・内向的で自意識過剰な男主人公
・主人公に無条件で好意を寄せる『可愛らしい』ヒロイン
・良心的なアドバイザーに徹する、主人公とヒロインに近しい脇役
・不干渉な両親
・具体性を伴った敵の不在
列挙したこれらの要素が多分に詰め込まれたのが、『ほしのこえ』であり『雲の向こう、約束の場所』でした。
『ほしのこえ』では、キャッチーさとフックを入れるために、監督自身さして好きでもないロボットを投入してエイリアンとの戦いを演じていますが、戦闘は完全に背景化されています。
だから『ほしのこえ』を観て、人型機動兵器の哲学がなってないとか、ポリシーがイマイチとか言っているオタクの方々は、実に当たり前のことを言っているだけに過ぎないのです。だって、新海監督の興味の矛先ってそこじゃないもの。
ミサイルを撃ちまくってアクロバティックな機動の末にヒロインが語るのは、徹頭徹尾、主人公へ向ける愛の言葉です。
ここにきて、敵役であるはずのエイリアンも、味方側の兵器であるロボットも、完全に物語上における役目を放棄し、宇宙背景と同化しています。これは誰がどう見ても完全に『セカイ系』のやり口です。
『雲の向こう、約束の場所』もまたしかり。南北に分断された日本を舞台に戦争への機運が高まる中、国家間の工作合戦に市井の人々が巻き込まれる描写なんて、これっぽっちも描かれていません。(それが主題じゃないのだから当然なのだけど、凝った設定のわりにあっさりしているんですよねー)
空間情報置換能力を持つユニオンの塔も、最後まで兵器なのかそうでないのか判然としませんし、塔設計者のエクスン・ツキノエはヒロインの祖父という立場上、非常に重要な役目を担っているはずなのに、名前でしか出てこない。
ここにきて、『雲の向こう、約束の場所』における『戦争』は完全に背景と化し、物語上の設定としてだけ存在するのを良しとする。主人公はヒロインに逢いたいと願い続け、ヒロインもまた主人公に逢いたいと願う。そして、ヒロインの目覚めと共に彼女の中で失われる、青春時代の淡い恋心。
『戦争』という、本来なら物語世界を広くさせるはずのガジェットをあえて機能させない。その結果、『雲の向こう、約束の場所』は、とても『狭い範囲』での物語に終始するわけであります。
余談ですが、各映画レビューサイトのコメント欄を見るに、『雲の向こう、約束の場所』を『難解な作品』と捉える人が、巷には結構いるようです。
多分そういう人は、日頃からSFに触れる機会が少ないのでしょう。思い切って代表的な古典SFを数冊読めば、『雲の向こう、約束の場所』に登場している用語の九割方は理解できるはずです。
理解できたからといって、何か物語的に新しい発見があるわけではないですけどね。
■新海誠の傾向
このように、新海誠の初期作品は『セカイ系』の色が非常に濃かった。
それでも流行に乗っかっただけの凡作として斬り捨てられなかったのは、ひとえに、その圧倒的な背景描写に顕れる先鋭化された美的センスと、監督業の他に脚本業や原画作業までこなしちゃうというタスク処理能力の高さ、付け加えて背景美術のディティールに対する異様な拘りと、後述する編集技術の特異性にあるのは、言うまでもないでしょう。
繰り返しになりますが、新海監督は『美少女ゲーム』の文脈でアニメーションを撮ってきた方であり、その根底に流れる作家性は『ほしのこえ』から『君の名は。』に至るまで一貫しています。
すなわち『距離と別離と喪失』です。
新海監督が描く男女を結びつける距離には、三次元的な意味合いだけでなく、時間軸を加えた四次元的な広がりも含まれます。
『君の名は。』が時空間を越えた男女の出会いを描いていたのは、何もキャッチーさを狙ったわけじゃない。実は新海監督がいつもやっていることを、ちょっと見せ方を変えて実践しているだけなのです。
そして、そのように視覚的に分かり易い距離だけではなく、新海監督が重要視しているのは、むしろ『心理的な』距離の方ではないでしょうか。
内的、または外的な要因――不安や孤独、あるいは死など――によって気持ちが離れていってしまう男女。あるいは青春の卒業と共に記憶の一部と化す恋心。
そこから湧き上がる『喪失感』を描きつつ、それでも前を向いて生きていかねばならないと、新海監督が創り出す耽美にして流麗な映像の数々は存分に語ります。
映像表現の分野において唯一小説に劣るとされてきた『情緒の表現』を、彼の作品はなんなくこなしているのです。それもアニメーションでやっちゃうってところがたまげる。
生きた役者を起用するのではなく、無から生み出した完全なる人工の産物たるデジタルの風景が、人の心を、魂を揺さぶるのですから、これはとんでもないことですよ。
しかしながら、これは個人的な感想ですが、新海監督ってわりと両極端な方だなぁという印象が、私の中では強かったんですよね。ここ最近まで。
というのも、『ほしのこえ』や『雲の向こう、約束の場所』ではSF要素を入れ込んだ男女の悲恋物語であったのに対し、続く『秒速五センチメートル』では、SF要素をまるきり排除して、男女の繋がり『だけ』を描く方向にシフトしてるんですわ。
この『秒速五センチメートル』が公開されたのが確か二〇〇七年頃だったと記憶しているんですが、ちょうどその時に私は新海監督の『ほしのこえ』を拝見し、そっからノンストップで『秒速五センチメートル』を鑑賞したんですが、まぁ凄かった。
何が凄いって、吹雪のように舞い散る桜の花びらや、夜空に浮かぶ銀河の渦など、あからさまに現実の世界では起こり得ないファンタジーな描写を強調しているのに、ラストのラストでリアリズムの極点とも言える着地点を見せつける、その度胸に凄まじさを感じました。
私も含めて、一部のピュアなオタクたちの脳天を至近距離からショットガンでぶち抜くかのような、あの衝撃的なラスト。
いったいどれだけ多くのオタクたちが慙愧の涙を流し、怨嗟の声を上げ、鬱になったことでしょう。(つーか俺なんだけどさ)
公開当時、あのラストについてさんざっぱら話題になったし、賞賛と批判も凄く巻き起こりましたが、だからこそ『君の名は。』のラストにある種の感慨深さを抱けたわけです。
未見の方はぜひ視聴してください。私の言っていることの意味がわかると思います。
もう一つ『秒速五センチメール』で語るべき点があります。それは映画のラスト五分あまり。山崎まさよしの『One more time, One more chance』が流れる場面で、キマりにキマりすぎているモンタージュです。
モンタージュとは映画用語の一つで、ざっくばらんに言うなら、時空間的に多角方向からとらえた短いカットを大量に重ねていく編集技法であり、高速紙芝居とでも言うべき技術です。
貴樹と明里の過去から現在に至るまでの時の流れを交互に重ね合わせ、二人の歩みと別離と喪失を効果的に描き出すことで、非常に高いエモーショナルな予感を観客の胸の内に呼び起こすのです。
このモンタージュ技法は、2013年に製作された『言の葉の庭』や、監督の集大成的作品でもある『君の名は。』でも使用されています。
新海監督のモンタージュは、それが本来持つ表現の極点にまで至ることから、映画というよりも映像作品としての側面が強く出ています(岩井俊二監督もその傾向が強いと個人的に思います)。
ニュアンス的にはプロモーションビデオに近く、だからこそ『君の名は。』が批判される際に『PVっぽい』とか『映画じゃない』という指摘を受けがちなのだと思います。
では、この類まれなモンタージュ技法を監督はどこで磨いてきたのか。私が思うに、それはやっぱり美少女ゲームの制作をしていた時代なのでしょう。『ef - the first tale』のオープニング・ムービーを観れば、それがどれだけ高度なモンタージュ技法によって支えられているかが良く分かります。
男女の悲恋だけに焦点を当てた『秒速五センチメートル』。
その出来栄えのあまりの良さに、私を含めた当時の新海オタたちは、きっとこう思ったはずです。
ずっとこの路線でいくのだろうかと。そうであって欲しいなぁと願う方々も多かったことでしょう。
そんな観客たちを嘲笑うかのように、新海監督が2011年に送り出したのが、ガチガチのジブリっぽい異世界ファンタジー(つーか輪廻転生を描いた)映画『星を追う子ども』でした。
それも、テーマは『死生観』です。それまでの新海監督の作風からは大きく離れてしまい、多くのファンが困惑したと聞いています(実際、私の身近な熱狂的新海ファンは困惑していました)。
私も、正直言うと『星を追う子ども』は全く好きになれません。
通常なら、主人公が異世界に旅立つ際には確固たる動機というものが必要になってくるはずのに、それがあやふやなまま異世界へ旅立ち、旅の終わり近くになって『なぜ異世界へやってきたのか』という動機を再発見するという、非常に変わった創りになっているのが『星を追う子ども』なのですが、それが初見ではイマイチ伝わってこなかったし、あれから何度か見直しましたが、やっぱり首をひねりたくなる。
新海監督はインタビューの中で、『星を追う子ども』は、あえてジブリを意識して製作したこと、日本の伝統的なアニメーションの方法論に則って製作した旨を述べています。
日本の伝統的なアニメーションの方法論。それはまごうことなき『東映』を指しています。
すなわち、宮崎駿や高畑勲に連なるアニメの王道的表現に、新海監督は挑戦したかった。多分そこには、監督自身のコンプレックスが関係していたんではないかと邪推せずにはいられない。
美少女ゲーム業界をキャリアの起点にしていることに対する、ある種の負い目。アニメーション監督としての王道を歩んでいない自分に対して、どこか劣等感のようなものを抱いていたんじゃないのか。その反動として『星を追う子ども』を描いたのではないかと、私は考えています。
その『星を追う子ども』の次に製作したのが、原点回帰とでも言うべき恋ならざる『孤悲』の物語たる『言の葉の庭』でした。私、これが新海作品の中で一番好きです。
とにかく『言の葉の庭』に到達して、途端に映像表現のパワーが段違いになっているんですわ。一つの画面に含まれる情報レイヤーの厚みといったら、それまでの作品とは比べものにならないくらいですし、それでいて画面がすっきり見やすいって、ちょっと今考えても信じられない。
さらに、物語も良い具合に童貞をこじらせていて、フェティシズムに満ちていて最高です。年上の女教師(しかも古典の先生ってところがポイント高い)に憧れる男子生徒という、ともすればフランス書院的展開になりそうなお話を、雨の多彩な表現力で清涼感溢れる物語に仕立てている。
また、女教師・ユキちゃんせんせーの生足に触れさせるために、主人公の高校生に靴職人を目指すという設定を加えたのかもしれないなぁ、という監督のインタビューから、良い具合の変態性が漂ってきて、こっちはニヤニヤすると同時に安心します。
そうだ。新海監督はどんなに有名になっても、俺達のような『非モテ側の人間』の浅ましい欲望を、いい塩梅に満たしてくれる求道者なのだ!
■天気の子ってどんなはなし?
すんごい前置き長くなりすぎて申し訳ねぇ。
ここからは『天気の子』がどういうお話になるのかを、予報①と②、そして先日公開されたスペシャル予報の三つを材料に推測していきたいと思います。空手形になろうがならまいが関係なし! ここから先は私の勝手な妄想と受け取ってくださって構いません。
まず、どの予告編でも目に付くのが『雨』。雨の描写がそこかしこに散らばっています。実際にスペシャル予報では『雨が降り止まない東京』という、それどこのセブンの話だよとツッコミを入れたくなるワードが出てきていますから、雨の描写が『言の葉の庭』以上に重要な役割を担っているでしょう。
それも、『言の葉の庭』における雨が、雨本来の性質から外れることなく、登場人物の心理の代弁を担っていたのに対し、『天気の子』における雨は、現実の物理法則から外れた動きを見せています(魚に具象化した雨、逆さまに降る雨)。
天候の調和が乱れた世界を舞台にしたお話ということですから、天候を自在に操作することが、かえって調和を乱すことの一因に繋がるのではないか。常識はずれな雨の描写にエモーショナルな感覚を抱きつつ、それでもどこか言い知れぬ不安感がつきまといます。
『世界のかたちを変えてしまったんだ』という予報①で流れるモノローグも、そう考えると意味深です。それに、雨を操作して晴れ間を覗かせる力が、SNSを通じて商売化されていく様子も予報②にはありますし、これは天候の調和をますます乱していく伏線として機能するかもしれません。
次に人物の動作に目を向けていくと、どの予告編でもヒロイン・陽菜がビルの屋上で手を合わせて祈りの動作をしながら、小さな鳥居をくぐっている姿が見受けられます。
鳥居とは、神様の住む神域と人間の住む俗世界を分断する結界の役割を持っています。
新海監督はオカルト方面・呪術方面に関しても多大な知識を持つお方です。それは『君の名は。』の登場人物・テッシーが新海監督自身の若かりし頃の投影であることや、『星を追う子供』に使用されている神話的モチーフの多さからも伺えます。
特に『星を追う子ども』における主人公・渡瀬明日菜なんて、呪的意味に満ち溢れたキャラです。名字に『渡瀬=瀬を渡る=河という境界を渡って異界へ旅立つ』という意味合いを持たせているのは、これは完全に確信犯でしょう。
また、スペシャル予報では堂々とオカルト雑誌『月刊ムー』が『君の名は。』に引き続き登場していますから、何かしらのオカルト要素、疑似SF要素が物語の核となっている可能性が高い。
そう考えると、呪的意味合いが濃い『鳥居をくぐる』という行動には、絶対に何らかの意味があるはずなんです。
恐らくですが、陽菜は人間でありながら、神様の意志に通じる力・いわゆる『神通力』を持っている存在なのではないでしょうか。
だとすると、彼女自身に『天候を操作するウェザー・リポートめいた力』が宿っているのか、それとも……予告編で印象的に登場する、陽菜が首から下げている青い飛行石めいたペンダントに、その天候操作の力が宿っていると考えてもいいかもしれません。
あるいは、天候操作の力そのものは陽菜に宿っていて、その力を何倍にも増幅させる触媒効果のようなものを、あのペンダントは持っているのかもしれません。
次に家出高校生の帆高に目を向けてみましょう。スペシャル予報において、彼はネットカフェ難民となっており、持ち物の中に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の文庫本があります。
キャッチャー・イン・ザ・ライ。それは、近代アメリカ文学の至宝たるJ・D・サリンジャーが1951年に発表した青春小説です。主人公のホールデンが社会の欺瞞や大人たちの嘘に辟易としながら、純粋で無垢なるものを求めて放浪の旅に出るという話であります。
今年はサリンジャーの生誕百周年に当たる年で、サリンジャーの生涯を描いた『ライ麦畑の反逆児』なる映画が製作されたくらいです。それだけ、今もなお多くの若者に、そしてかつて若者だった全ての人に、多大な影響を与えている作品です。
そんな若者にとってのバイブル的小説を、家出してきた少年が持っている。これはもう、帆高は完全にホールデンのオマージュではないでしょうか。
つまり彼は、社会や大人に対する何らかのトラウマのようなものを抱えており、この世界のどこかに『汚れの無い純粋な存在があるはずだ』と無意識に強く求めているのではないか。そんな彼にとっての『純粋な存在』というのが、ヒロインたる陽菜なのではないでしょうか。
しかしスペシャル予告編では、そんな『純粋なるもの』を求めているのであろう帆高に向けて『もう大人になれよ、少年』と、小栗旬演じる雑誌ライター・須賀の言葉が印象的に挿入されています。
つまり『天気の子』は、世間の欺瞞さや残酷さから目を背けるばかりだった世間知らずの高校生・帆高が、世界に向けて立ち向かう強さを手に入れる物語ではないのか。あるいは、世界の残酷さを受け入れて、どうしようもない現状に呑まれていく映画なのかもしれません。
もう一つ気になるキャラクターというのがいて、それが平泉成さん演じる刑事・安井と、その安井の相棒にして梶裕貴さん演じる刑事・高井です。
安井、高井。音の響きが似ているなぁとかそんなのはどうでもいい。気になるのはスペシャル予報で高井と思しき人物が拳銃を振りかざしながら帆高を捕らえようとしているシーンです。
滅茶苦茶気になる。これってもしかすると、新海作品では初となる『具体性を伴った敵』の登場ではないのか。少女の力が天候=世界に直接作用とするというセカイ系の要素を取り入れつつ、そこに明確な敵を挿入するというやり方は、少なくともこれまでの新海作品には見られなかった傾向です。
ただ、あの時代錯誤なリーゼントヘアってキャラデザが凄い気になる。きっと小物キャラなんだろうな。みっともねぇ様を見せつけてくれるに違いない。
そして最後に、これが最もこの映画を不安にさせているのですが、この映画、予告編の段階からどこか『死』の匂いを感じさせます。
鳥居の近くに置かれた、ナスとキュウリで造られた精霊馬。下町のおばあちゃんの言葉にある『お彼岸』というワードと『空の上は別の世界』という意味深な言い回し。
これは、空の上=天国を意味しているのではないでしょうか。
かつて新海監督は『星を追う子供』において、地底世界・アガルタを登場させました。そこは黄泉の国であり、生者がいてはいけない場所。輪廻転生のしきたりによって支配された世界であり、死者の復活が禁じられた、閉ざされた異世界でした。
あの『星を追う子ども』で描かれた死生観は、少なくとも完璧なものではなかったと私は思っています。もしかしたら新海監督は、『星を追う子供』でやりきれなかった『生と死にまつわる話』を、今作でもう一度やろうとしているのではないでしょうか。
選択と祈りの末に導かれる、生と死の物語。あるいは、やっぱり別離と喪失の物語。
おそらく『君の名は。』よりもSF要素は抑えめでしょう。
なんにしても、公開が待ち遠しいです。
音楽が天門さんじゃないってところに、私の知る熱狂的新海ファンはひどく残念がるでしょうが(笑)。しかし美術監督が滝口比呂志さんってところは、信頼できますね。
滝口さんは特に空間演出に優れたアニメーターで、風景画から廃墟からビル群から何から何までハイクオリティに描けるから、美術に関してはめちゃくちゃ期待しますよ。
なにより、今まで田舎の風景を描いてきた新海監督が、今回は予報を見る限りだと都心部オンリーな絵に絞っているみたいだし(『言の葉の庭』は新宿御苑という『自然』メインの風景だったから、厳密には都市部だけを描いているわけではない)どれだけ純化された風景を見せてくれるのか、本当に楽しみです。期待します。




