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【第26回】★ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ

『ファンタジー、あるいはキャラクターとしてのゴジラ映画』


上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。


私がどれだけゴジラ好きであるかは、第9回の映画レビュー『GODZILLA 星を喰う者』でさんざっぱら話したので今回はカット。


ツイッターなどの各種SNSでは評判かなりいい本作ですが、結局のところは観客自身が『ゴジラ映画に何を求めるか』ってところじゃないですかね。評価に関わってくるのは。



【導入】

ギャレス・エドワーズの手で2014年に製作されたハリウッド版『GODZILLA』。その直接的続編にあたるのが本作『ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ』。レジェンダリー・エンタテイメントが推し進める怪獣映画企画『モンスター・バース』に連なる作品となります。


前作ではゴジラと新怪獣ムートーの二種類しか登場しませんでしたが、今回はみなさんおなじみのモスラ・ラドン・キングギドラが登場します。


監督は『スーパーマン リターンズ』のマイケル・ドハディ。本人はかなりのゴジラオタクで、インタビューなどでは東宝映画に登場する怪獣たちへの愛であふれかえっています。


主演は『ファースト・マン』でも重要な役どころを演じたカイル・チャンドラー。共演は『エスター』でおなじみヴェラ・ファーミガ。そして前作に引き続き渡辺謙も出ています。


個人的には『初恋のきた道』や『グリーン・ディスティニー』で一躍その名を知らしめたチャン・ツィーが出演しているのが意外。相変わらず美しかったです。





【あらすじ】

古代ペルム期に地上を支配していた怪獣・ゴジラと、その天敵たるムートーとの想像を絶する争いは、ゴジラの勝利で幕を閉じた。


しかし、両者の戦場と化したアメリカ・サンフランシスコは焦土に成り果て、多くの人命が理不尽にも奪われることに。


長年ゴジラを始めとした超古代生物の研究を続けていた秘密機関・モナークの存在も世間に露見し、国民の怒りはピークを迎えていた。怪獣の存在を公表しなかったモナークの責任は重大であると断じ、解体を声高に叫ぶ。


一方で、怪獣というかつてない脅威を前にしたアメリカ軍は、これを機にモナークを軍に編入しようと画策する。


だが、モナークの中枢メンバーたる芹沢猪四郎博士は、軍がゴジラ殲滅を基本方針としている限り手を組むことはないと発言。我々人間は、ゴジラたち偉大なる怪獣たちの下僕に成り下がるしかないと主張するが、それは軍の上層部にとって、とてつもなく受け入れ難い極論であった。


サンフランシスコでのゴジラとムートーの争いに巻き込まれて息子を失った過去を持つモナークの研究員、エマ・ラッセルは、夫と別れ、娘のマディソンと共に、中国雲南省にあるモナーク前線基地で、新たに発見された怪獣の調査に取り組んでいた。


ある日、連絡を受けて娘と共に基地に駆け付けたエマ博士は、モナークが発掘した巨大な卵から、今まさに一匹の怪獣が孵化する瞬間を目撃することになる。まるで芋虫に酷似した、その超古代生物――コードネーム・モスラと呼ばれる怪獣を、ただちに隔離システムで保護しようとする研究員らだったが、原因不明の故障によりシステムは破損してしまう。


慌てふためく人間達を前に暴れ狂うモスラを前に、しかしエマ博士が怖気づくことはなかった。博士は娘の静止を振り切ってモスラの前に躍り出ると、特定の周波数を送り込むことで怪獣をコントロール可能とする音響兵器『オルカ』の力を使い、なんとかモスラの怒りを鎮めることに成功するのだった。


だがその直後、元イギリス軍人にして環境テロリストであるアラン・ジョナが傭兵を引き連れて基地を強襲。研究員たちを銃殺し、エマとマディソンを人質に、オルカを奪い去る。


そうして人間たちが争っているのを尻目に、モスラは基地を破壊すると、いずこかへ去っていってしまうのだった。


雲南省の基地が襲撃された事実を知った芹沢博士は、エマの元夫にして動物学者のマーク・ラッセルに接触する。実は『オルカ』の試作品を開発したのはマーク本人であり、エマはそれを改良して、怪獣の隔離に活用していたのだ。


息子をゴジラに殺された過去を持ち憎しみを募らせるマークは、ゴジラとの共存を主張する芹沢博士を拒絶しかけるが、私情を押し殺し、娘と妻を取り返すという目的のため、一時的にモナークに協力することを約束する。


一方その頃、アランに拉致されたエマとマディソンは、モナークの前線基地の一つがある南極に向かっていた。そこには、巨大な氷河に閉じ込められた【モンスター・ゼロ】と呼ばれる怪獣が眠り続けていた。


基地の武装兵士たちを殺害して基地を占拠すると、アランは怪獣を閉じ込める氷河のあちこちに掘削機で穴をあけ、爆薬をしかける。アランは、世界中で眠る怪獣たちを順番に目覚めさせていき、地球の支配権を彼らに譲渡しようとしていたのだ。


爆薬のセットを完了し終えた直後、モナークの司令船『アルコ』が南極基地に飛来する。人質の身柄確保とオルカの奪取に臨むモナークの戦闘部隊は、アランの傭兵部隊と激突。銃声が鳴り響く中、マークはアランと共に基地を脱出しようとするエマとマディソンを発見する。


しかし、エマはマークの呼びかけを振り切ると、覚悟を決めたような眼差しで、手に持った爆薬の起爆スイッチを作動。妻がとった予想外の行動に衝撃を受けつつも、轟音と共に崩落する基地内部からなんとか脱出するマークと、モナークの戦闘部隊たち。


命からがら逃げ出した彼らが目撃したのは、長き眠りから目覚めた黄金色の皮膚に覆われし、三つ首の巨大な龍。モンスター・ゼロ。気象すらも操るその強大無比な怪獣を、古代の人々は『ギドラ』と呼び懼れた。


そうして今、人間達の手で復活したギドラは、手始めにとばかりにモナークの司令船『アルコ』に向かって襲い掛かる。


だがそこへ、太平洋の彼方から威風堂々と咆哮を上げて迫る、もう一匹の怪獣の姿があった。


ゴジラ――太古の地球を支配していた怪獣の王。


ちっぽけな人間達の眼前で、いま、怪獣世界の頂点を決める熾烈にして壮大な闘いが、幕を開けた。





【レビュー】

ゴジラに何を求めるか、というのは個人個人が持つ、ゴジラに対するイメージに依るんではないかというのが私の意見です。


個人的に感じるゴジラの特徴というのは、一言で表現するなら『公平さ』の象徴であるってところ。つまり、どれだけ金を稼ごうが、どれだけ充実した毎日を送っていようが、ゴジラが上陸した瞬間にその全てが崩壊する。貧しい人々の暮らしはさらに貧しくなり、秩序は乱れに乱れていく。人間社会を縛る法律すらもゴジラという巨大質量の動きを封じることはできず、いくら策を練ろうとも何一つとして通用しない。


言い換えればこういうことです。人間はゴジラの脅威を目の前にした時、何気なく送っていた怠惰な日常がすっかり変貌した事実に狼狽し、怯えるしかない。どれだけの武力を持っていようとも、ゴジラを前にしては意味をなさない。みな、ゴジラの脅威を前にした時には『等しく』そして『公平』に、ただの一つのちっぽけな生命体として、せわしなく振る舞う事しか許されない。


そんな状況へ否応なく落とし込んでしまうところが、ゴジラという存在が醸し出す最大の魅力なのだと感じます。


ゴジラという理解不能の体現者。人間の物差しでは決して計りようのない、無尽蔵の器。その器に、ゴジラ・シリーズの制作に携わった方々は様々な要素を投入していきました。


ある時は水爆実験の被害者。ある時は地球の守護神。ある時は破壊者。ある時は戦没者の怨念。時に子供騙しのような地位に成り下がろうとも、そして作り手側の自分勝手な理念や理想を注入されても、ゴジラのキャラクターとしての基底部分が壊れることはありません。


現代社会の一般常識や法律なんてお構いなしに、自分のやりたいようにやるゴジラ。リアルタイムでVSシリーズを観て育った私にとって、ゴジラとは怪獣としての品位を保った、圧倒的に強大な無法者なのです。しかし、そんな無法者たちばかり暮らしている怪獣の世界にも、彼らなりのルールがあるんだよと匂わせているのが本作『ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ』です。


ドハディ監督の考えるところのゴジラとは『怪獣世界の王』であり、怪獣世界の秩序を統べるに相応しい力を持つ権力者として描かれています。つまり、当人同士の間でしか通用しない『法』の中で怪獣らは生きており、その法を勝手に改ざんして世界を乱してやろうとする外様の怪獣・キングギドラが悪役を担うこの構図は、普段は陰に隠れて伺いようのない怪獣たちの序列を垣間見ているようで、非常にユーモラスです。


特にラドンの振る舞いがユーモアに過ぎていて、個人的に気に入りました。鳥の怪獣らしい風見鶏っぷりです。封切り早々、一部では『ゴマすりクソバード』と呼ばれ早速ネットミーム化していますが、言い得て妙とはこのことです。長いものに巻かれていく精神。変わり身の早さは、縦社会でへいこらするサラリーマンに通じる部分があるでしょう。


正直、そんなにラドンは好きな怪獣じゃなかったんですよね(ちなみに一番好きな怪獣はビオランテ)。それが今回は、着ぐるみ特撮ではできないCGによる描写のため、怪獣としてのカッコよさがふんだんに詰め込まれていて、印象がいい方向に変わりました。急静止から間髪置かずに翼をたたんで急上昇するシーンや、バレルロールで戦闘機を墜落させていくシーンなどは、ラドンにさして思い入れのない私でも「おお!」となったぐらいですから、ラドンファンは垂涎のシーンなんじゃないですかね。


しかし改めて思うのは、『怪獣世界の王』という言葉の持つ奇妙さです。そもそも『王』という名称それ自体が人類社会で生まれた専門用語であるから、これを怪獣の世界に組み込んでゴジラを怪獣王とあだ名するのは、「自分達の理解できる存在に対象を矮小化させる」という傲慢極まる使い方だと感じなくもありません(とエラソーなことを言いつつ、私も普通に『怪獣王』という表現を使っているんですが)。


別にそういう使い方をするなと言っているわけじゃありません。しかしそれを抜きにしても、本作におけるゴジラというのは、人間の価値観で推量可能な存在として画面の中に留まっています。


人間達にとって、地球にとって都合の良い存在。平たく言うなら、本作におけるゴジラに与えられた役割は、元ネタの『三大怪獣 地球最大の決戦』に代表される昭和シリーズに散見される『地球の守護者』であります。しかしながらこの『地球の守護者』というのも、あくまで過去の文献やゴジラの行動様式をパターン化させた末に人間達が勝手に導き出した結論であり、必ずしもゴジラ自身がそうであるとは限らないはずです。


ところが、ゴジラは自らを語る言葉を持たないがためか、『地球の守護者』としての役割を愚直なまでにこなすよう意図的に設定され、地球に対して誠実であろうとする一部の人間達の心を汲んで、不当に怪獣王の座を簒奪したキングギドラと戦うという『描写』が本作では為されています。


ここのところなんかは、ものすごく『ファンタジック』と言わざるを得ません。我々にとってのアリがそうであるように、ゴジラにとって有象無象にあたふたする人間達なんて全員同じに見えても不思議ではないはずなのに、まるで区別がついているかのように要領がいい。どこまでも主人公や芹沢博士の意に応えるように進撃するゴジラ。ドハディ監督は意識的にそういうつくりにしているのでしょう。


人間側の論理がゴジラという異物相手に通じ過ぎた映画。本作を一言で表すなら、そんなところでしょうか。


完全にゴジラの臣下にくだれば、ペットとしての立場になれば、とりあえず人類圏は怪獣の脅威に脅かされなくて済むという、画面全体を支配するこの考え。こちらが礼を尽くせば、あちらもそれに応えてくれるのかどうか、疑問の余地を挟まない一方的な決めつけに、しょーじきなところ違和感を覚えたのは事実です。


怪獣世界のルール。その枠組みに、果たして人間の生活圏に関する項目が含まれているかは、観客の知るところではないし、ましてや登場人物の推測が及ぶべきところではないはずです。それなのに、まるで人間の価値観がゴジラ側にも通じるような描写をけっこう多めに取り入れ、自然の調律者としてのゴジラという、自分達の住む地球にとって『益なる存在』としての強度を確保していくんですねこの映画は。


地球にとっての『益なる存在』。エンドロールで描かれる地球自然の回復描写なんかはその極みです。怪獣たちが活動を開始してバランスを取るようになったから、人間が破壊した自然が蘇るようになったというくだり。自分達の行き過ぎた生存活動の末に地球環境が悪くなっているのに、当の人間達はその責任を取ることなく、怪獣たちの登場というたったワンポイントで全てがなかったことになる世界。これを『ファンタジック』と言わずしてなんと呼べばいいのか。


同じく地球の守護者としての立場を確保している有名怪獣に大映のガメラがいますが、実は本映画、ガメラ・インスパイア映画と見なされてもおかしくないくらい、平成ガメラ・シリーズの影響が随所に散見されるんです。


南極で睨み合うギドラとゴジラの構図は、『ガメラ 大怪獣空中決戦』のコンビナートで睨み合うギャオスとガメラのカットそのままだし、ゴジラが芹沢博士の力で息を吹き返すシーンは『ガメラ2 レギオン襲来』で、子供たちの祈りで復活するガメラを彷彿とさせます。


なぜゴジラ映画なのにガメラ映画としての側面が匂い立つのか。私が思うに、ドハディがゴジラに与えた「役割」を徹底して表現していて、のみならずゴジラに神話的なモチーフを持たせるようになったからではないかと考えます。


ギャレゴジが生物としてのゴジラにフォーカスを当て、その誕生背景にSF的な解釈を加えていたのに対し、本作は各怪獣の『役割(ロール)』がクローズアップされた、ファンタジックな雰囲気の漂うキャラクター映画です。それらの各キャラクターの役割の根幹を支え、作品全体の空気感を支配する要素に、本作ではSF的解釈ではなく神話的エッセンスが適用されています。ゴジラの眠る古代神殿。ゴジラと他怪獣との戦いを伝承する古代壁画。これらは平成ガメラ・シリーズ(特に第一作目)が持ち味としていた古代感、神話としての怪獣という部分に通じるところがあり、だからこそガメラの亜流として見る事もできるってことです。


まごうことなく本作はファンタジーの系統にあたる作品です。『いま、ここにある緩慢とした日常』が、怪獣という神話的生物の出現によって揺らぎ、『どこにもなかった日常=異世界』が顔を覗かせてくるという物語の展開方法は、ファンタジーの正統な手段であると感じます。そのファンタジー要素を補強するために、古代神殿などのガジェットを登場させたわけです。


前述した神話的モチーフを取り入れつつ、実在する動物の声を合成したり、仕草や動作に動物的な要素を組み込んで、一定のリアリティラインを確保したドハディ監督のゴジラ映画ですが、それが顕著なのはあくまでも怪獣たちのみ。背景描写にはなんのリアリティもありません。


なぜなら、元も子もない話ですが、ドハディ監督が『怪獣という個体』にしか興味がないからです。


とってつけたような人間ドラマも、マクガフィンに成り下がったオキシジェン・デストロイヤーも、ゴジラ復活のために節操なく投入される核兵器も、実はドハディ監督にしてみれば作劇を進行させるだけの小道具に過ぎず、あくまでも描くべきは『キャラクターとしての怪獣』であると肚をくくったから、こういう作りになっているのではないか。


この考えに基づくと、怪獣は『怪獣という個体』だけに魅力があるのではなく、その怪獣を取り巻く環境や背景とセットで楽しみたいんだという方には、あまりウケが良くないつくりになっているのかもしれません。


さてさて、そんなドハディ監督渾身の『キャラクター怪獣』たちのド派手なプロレス合戦のつくりはどうなっているんだと言いますと、正直なところあまり上手い撮り方とは言えません。


怪獣たちが取っ組み合っているすぐ足元で、わちゃわちゃと人間達が動く場面なんかは、人間と怪獣の圧倒的な身体格差を通じて巨大感を演出しようとしているんだなってのは分かるんですが、いかんせんカットバックが雑な部分があって遠近感が掴めない。


怪獣映画とは巨大感の演出技量を披露する場であり、そこには観客の『こんな映像を観たい』という願望を越えて『こんな迫力ある映像なんて観たことない!』ってところまでいかなくてはなりません。『ガメラ3 邪神覚醒』や、話題作となった『シン・ゴジラ』では、ローアングルから怪獣を見上げたり、ビルとビルとの間に挟まれた怪獣を映したりするなど、巨大感の演出のために様々な趣向を凝らしています。『ゴジラVSヘドラ』では、車という車に覆いかぶさって排ガスをたっぷり吸い込むヘドラを映し出すことで分かり易く巨大感を出しているだけでなく、ヘドラという怪獣の持つ異質さを表現しています。『ゴジラVSビオランテ』では、ゴジラよりもはるかに巨大な植獣状態のビオランテを動かすことで『そんなに図体デカい癖に動くのかよ!』といった驚きを与えてくれています。


ギャレゴジも無論のこと、そのような努力を怠りません。たとえば潜水するゴジラが鉄橋に差し掛かった時に上体を起こす際に、ゴジラの背びれらしきものが海面を突き破ってくるわけですが、じつはそれが尾びれであることが分かって、どれだけデケェんだよとおったまげるシーンや、照明弾で照らされたゴジラのごつごつとした皮膚が画面いっぱいに映し出されるシーンなど、ゴジラの『怪獣としての品格』を保とうと必死なつくりにしています。


そういう過去の怪獣映画と演出的な面を比較してみても、ドハディ監督の怪獣演出が現状での最適解なのかと言われると、どうしても首を傾げたくなってしまうところです。


しかしこれも、ドハディ監督がキャラクターの立体性に着目しているのではなく、キャラクターが「そこにいる」という存在それ自体に興奮するたぐいの方ならば、納得するつくりであると言えるかもしれません。


と言いますのは、本作のラスト付近でゴジラとギドラが決闘する場所が、すでにあらかた破壊し尽くされ、瓦礫の荒野と化した市街地であるからです。これは紛れもなく、闘いのために体よく用意されたプロレス・リングであり、怪獣のバトル・シーンを映すためだけに、自分がやりたい作劇のためだけに用意された代物に他なりません。


ゴジラやギドラが市街地を破壊し尽くすという、やり方によっては最高のカタルシスになり得るであろうシーンを放り出して、最初から完成された舞台(破壊済の市街地)で取っ組み合う。異世界を描くファンタジーな作品でありながら、これは妙なポイントです。我々が何気なく漫然と過ごしている『いま、そこにある日常』をゴジラが破壊し、その延長線上に他怪獣とのプロレスシーンがあるのだという作りを放棄していると見る事ができるからです。(その一方で、監督お気に入りのラドンには街破壊させているんですけどね)。


この瓦礫のプロレスリングでのシーンは、徹底して怪獣同士のぶつかり合いを描きたいし、そこしか描きたくないという、監督の我儘な欲望が特に強調されている場面であると言えますね。


要するに、怪獣のフォルムや、怪獣と怪獣のバトル・シーンだけを撮ることに全力を出していて、それ以外の部分に関しては、割とどうでもよいつくりになっているんです。


だから、ゴジラに街を破壊させるなんてまどろっこしいことはせず、いきなり崩壊した都市部にゴジラとギドラを放り込んで戦わせる選択をしたわけです。言ってしまえばこれは、バカみたいに金を投じた「お人形遊び」なんですな。だからどこか、昭和的な匂いがするのかなと思います。


怪獣がもたらす間接的な影響力よりも、直接的なド突き合いを描きたくてしかたないんだという身勝手なオタク心にあふれていて、なんか頭抱えちゃいますね。まぁ、巨大感の演出が上手くないという点は差し置いて……怪獣の背景や環境の掘り下げが足りなかったり、ゴジラが地球、ひいては主人公たちにとって、あまりにも都合が良すぎるという点に目を瞑れば、本作は『キャラクターとしての怪獣』を描いた映画として、十分に楽しめるレベルの作品だと思います。


特に前述したようなラドンのゴマすりクソバードっぷりは笑えるし、東宝では完全に死に設定となっていた『ギドラの首にはそれぞれ異なる性格が宿っている』というのを、ちゃんと誠実に取り入れていて面白いし、完全にヒロインと化したモスラの薄幸ぶりにため息を漏らすなど、キャラクターとしての怪獣に愛着を持っている方なら楽しめると思いますし、おススメします。怪獣の実在性やリアリティを描くことを放棄した『アニゴジ』よりも、ずっと健全に怪獣映画やってます。


また怪獣バトルの面でも、ゴジラVSギドラとモスラVSラドンのシーンなんかは、ここはさすがに怪獣好きとしての業を隠せず、年甲斐もなく興奮してしまいました。


特にモスラがラドンに尾っぽの針を刺して一時的に身動きを封じたシーンなんかは『おお!やるじゃないかモスラ! あんまりモフモフしてないけど可愛いぞ!』となりましたし、一本の映画としてはそこそこ楽しめるんじゃないかと思います。

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