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【第24回】プロメア

プロの声優じゃなくて俳優を客寄せパンダの如く使っているから見ないと仰られるそこのあなた。


たしかにこの世には政治的なキャスティングというのは多々ありますが、何も知らないうちからそうやって決めつけるのは良くないです。偉そうに言うなら、見識を狭めているだけです。


キャラデザが微妙だから見ないと仰られるそこのあなた。


あなたはアニメーションの何たるかが分かっていません。キャラクターじゃなくて、キャラクターの『ガワ』だけを見て、アニメーターの意図を知ろうとしないだけです。


全編手書きアニメじゃないとイヤだ!と仰られるそこのあなた。


あなたはただの懐古厨です。CG技術がアニメの世界に定着してから、もうずいぶんと月日が経過したんですから、いい加減に目を覚ましてください。


さてさて、のっけから一部の方々に攻撃的な態度で始まりました今回の『MAD CINEMAX-ムービー・ロード』。私のテンションは炎上覚悟で燃え上がっています。いつもの定型文からの始まりでないことからも、それはお察ししていただけるかと思います。


ということで、上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、レビューを書きたいと思います。


6月からTOHOシネマズが料金値上がりしてしまうので、5月中に鑑賞しに行った方がおトクですよ。





【導入】

『キルラキル』『ニンジャスレイヤー・フロムアニメイシヨン』そして『SSSS.GRIDMAN』などの話題作を世に送り出してきた、かつてのガイナックス・メンバーたちを中核に結成されたアニメ制作会社『TRIGGER(トリガー)』が手掛ける、オリジナル劇場版長編アニメーション『プロメア』


監督は金田イズムの申し子にして、リミテッド・アニメーションの探究者。デザインをこよなく愛する猛者。TVアニメ『天元突破グレンラガン』『キルラキル』で監督を務めてきた、今石洋之。


脚本には『いのうえ歌舞伎』の要石。劇団☆新感線の座付き作家として『髑髏城の七人』『野獣郎見参』『アテルイ』『蛮幽鬼』などの娯楽舞台劇を上梓してきたのみならず、『天元突破グレンラガン』『キルラキル』のほか『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』に『仮面ライダーフォーゼ』などの脚本を手掛けてきた、アニメだけでなく特撮の世界にまでその名を広げる、中島かずき。


『キルラキル』の放送終了後に、また今石×中島タッグで何かやってくれるだろうと期待していた私にとっては、まさにご馳走を目の前に出されたような幸福感。飛びつかずにおれようか。


さて、インタビュー記事などを読んでいると、今回のストーリーラインやキャスティングには、かなり中島さんの意向が反映されている様子。主人公のガロ・ティモス役に松山ケンイチ。ガロと敵対するリオ・フォーティア役に早乙女太一。そしてプロメポリスの司政官クレイ・フォーサイト役に堺雅人など、劇団☆新感線で重要な役どころを経験した方々ばかり。


アニメや特撮に限らず、舞台劇に特にその傾向が出ていると思うんですけど、中島さんが書く台詞は歌舞伎調をマイルドに崩したような、独特のクセがあるんです。


『キルラキル脚本全集』を御覧になられた方々には分かるかと思いますが、あそこに書かれている台詞を『よくある声優演技』で声に出すだけでは、物語のピークに差し掛かった時にストーリーに全く起伏が生まれないんです。


つまり、中島さんの脚本は非常に真っ当なんです。言い換えるなら、ただの『肉体』。それ単独で完全に機能することはなく、肉体にぴったりのリズムを持つ『声』や『作画』という名の『魂』が吹き込まれない限り、活性化することはない。それが中島脚本の特徴です。


だから、中島さんとの仕事を経験されていて、その『リズム』を理解している俳優の方々が声優に抜擢されるのは当然のことです。


ここを理解しないで『声優に俳優を使うな』と、使い古された批判を延々とする方々には「落ち着くのじゃ!素数を数えて落ち着くのじゃ!」と言いたくなる。


そういうわけで、脇役の方々も『グレンラガン』や『キルラキル』をすでに観たよーって方々にはお馴染みの面子。佐倉綾音とケンドー・コバヤシだけ初参加って感じ。


しかしまさか、古田新太まで参加するとはなぁ。中島さんに古田さんといったら、どうしたって捨之介のイメージが強いぶん、どんな演技をしてくれるのか、期待に胸を膨らませて鑑賞してまいりました。


またスタッフもすげぇの。だって魔砂雪さんも吉成さんもすしおさんも雨宮さんもいるんだよ? そんなのさ、すんごいグリグリ、ゴリゴリのアニメーションをやってくれるんだなって、期待しちゃうじゃないですか。


音楽は澤野弘之。安心しなさい。今回も抜群の働きぶりです。





【あらすじ】

日本。サンフランシスコ。パリ。


世界の各地で同時多発的に発生した、謎の炎上事件。


この世ならざるピンクとエメラルド色の火炎をところかまわず撒き散らし、街という街を、人という人を徹底的に焼き尽くしていく新人類・バーニッシュの誕生は、地球に二度と消えぬ焦げ付きを刻んだ。


その結果として、世界の半分の人口が焼き尽くされるという未曽有の悲劇が発生。バーニッシュの恐ろしさを目の当たりにした旧人類は、世界を安定化するための道を歩むべく、努力を続けてきた。


あれから、三十年。


バーニッシュの中でもとりわけ狂暴な一部の面々は、己の内に宿る『炎の声』に誘われるがままに『マッド・バーニッシュ』を名乗り、世界各地で炎上テロを起こし続けていた。


自治共和国プロメポリスの司政官クレイ・フォーサイトは、日々激化を辿るマッドバーニッシュへの対抗策として、耐火構造素材と瞬間凍結材の開発に着手。


と同時に、対マッドバーニッシュ用に国家救命消防局を創設し、高機動救命消防隊・バーニングレスキューを組織したのであった。


ある日、フォーサイト財団が保有する製薬ビルが、マッド・バーニッシュの襲撃に遭う。緊急連絡を受けたバーニングレスキューの面々は、隊長のイグニス・エクスの下、レスキュー・モービルに乗り込み現場へ駆けつける。


そこで目にしたのは、果てどなくうねり狂う、この世ならざる炎――バーニングフレアが、今まさにビルを呑み込もうとしている姿だった。


新人隊員のガロ・ティモスはレスキューギアへ果敢に乗り込むと、仲間のアイナ・アルデビットの手を借りて、ビルに取り残された研究員を無事に脱出させることに成功する。


だがその直後、ビルの頂上付近で渦を巻く黒曇の彼方から、ビルを燃やし尽くそうと迫る三人のマッド・バーニッシュの姿が。漆黒を基調として、毒々しい蛍光色に染まる炎の鎧・バーニッシュアーマーに身を包んだ彼らのうちの一人は、マッド・バーニッシュのリーダーを務める男だった。


世界炎上の火元たる彼らを前に、意気揚々と、高らかにガロは吠える。


「一消火完全燃焼! 燃える火消し魂のガロ・ティモス様だ!」


バーニングレスキューのメカニック担当・ルチアが製作した、東洋の火消し職人をモチーフとした消防戦闘強化服・マトイテッカーに乗り換えたガロは、持ち前の猪突猛進な性格のままに、救命活動の一環として、マッド・バーニッシュとの交戦へ移行する。


強力無比なバーニングフレアに翻弄されつつも、仲間たちの協力もあって、ついにガロはマッド・バーニッシュのリーダーである容姿端麗な優男、リオ・フォーティアを、幹部もろとも確保するのだった。


働きが認められ、プロメポリスを統治するクレイ・フォーサイトに「若き英雄」と表彰されて、まんざらでもない顔のガロ。


ガロにとっては、クレイこそが英雄だった。幼き頃にバーニングフレアの火災に見舞われた自宅に取り残されたところを、左腕を犠牲にしてまで救ってくれたのが、他でもないクレイだったからだ。


クレイを『旦那』と呼び慕うガロは、彼のために働くことを誓う。だがその一方では、バーニッシュたちを取り締まる軍事組織、フリーズ・フォースの強硬的な姿勢が気がかりであった。


バーニッシュは、見た目には普通の人間と大差ない。大人しくしていれば何も問題はないはずのに、どうしてマッド・バーニッシュなどという存在が生まれるのか。


そしてなぜ、フリーズ・フォースは、マッド・バーニッシュでないただのバーニッシュを次々に逮捕しては投獄しているのか。


世間がバーニッシュに対して排他的な行動を取る中、悶々とした思いを抱えていたある日、ガロは一筋の炎の塊が空を突っ切って墜落する様を目撃する。


毒々しい色味の炎からして、マッド・バーニッシュ絡みであると判断したガロは、単身で墜落地点を捜索。


そこで目撃したのは、みすぼらしい姿になりながらも、懸命に生きようと肩を寄せ合うバーニッシュの生き残りと、強制収容施設に収監されたはずの、リオ・フォーティアの姿だった。


並のバーニッシュ以上の力を有する彼は、凍結手錠をヒートショックにより破壊し、幹部たちや囚われていたバーニッシュたちを引き連れて、フリーズ・フォースの追手から逃げる途中だったのだ。


捕えられたガロは、見下すような顔つきのリオに食ってかかる。なぜ世界を燃やすのかと。燃やさなければ、こんな苦労もすることなく、社会で暮らせるはずだろうがと。


だが、それに対するリオの答えは、ガロの想像を超えるものだった。


「炎は僕らの一部だ。燃やさなければ生きていけない。それが、バーニッシュだ」


バーニッシュが操るバーニングフレアは、文字通り彼らの命だった。その命が、内なる炎が燃え続ける限りは、肉体は炎に対する耐性を獲得し続けられる。


だが肉体が寿命を迎えた時、残された炎に燃やし尽くされてその体は灰となり、跡形もなく消え去る。


魂に宿る炎の声の命じるままに燃やさなければ、自分という存在を保てない。それがバーニッシュの、生まれ以ての悲業。


さらにリオは、ガロにとって衝撃の事実を口にする。


「みんな、クレイ・フォーサイトに殺されかけた。奴は僕らバーニッシュを切り刻み、解剖し、データを取る……同じ人間なのに……ッ!」


フォーサイト財団は、人知れずバーニッシュを人体実験に利用していた――それだけを伝えると、リオは仲間たちを引き連れて、どこかへと去っていった。その憎悪に燃える瞳は、自分達を差別する世界へ歩み寄ることを決定的に拒否していた。


アイナに助けられたガロは、その足でフォーサイト財団ビルに向かい、クレイに直談判を申し出る。


本当のことを教えて欲しいと迫るガロに対し、どこか諦めたような調子のクレイは、彼を財団ビルの地下施設に招き入れる。


そこでクレイが明らかにしたのは、地球の地殻内のマグマが暴走しかけているということ。このままでは、近いうちに地表はマグマに覆い尽くされ、地球が死の星になってしまうという、人類の存亡にかかわる、恐るべき内容だった。


最後の手段として、クレイは財団の力を使って「パルナッソス号」と名付けた宇宙移民船を秘密裏に建造し、アルファ・ケンタウリへの避難を画策していた。


だが、パルナッソス号に搭乗可能な人口は、たったの1万人。


さらにガロに追い打ちをかけるように、クレイはある実験の様子を彼に見せる。それは、フリーズ・フォースに捕らえられた罪なきバーニッシュが、謎めいた円盤状の装置にかけられ、体内のバーニングフレアを絞り尽くされ、灰となって散る様だった。


数光年も離れたアルファ・ケンタウリへの渡航方法。それを実現するには時空間移動を可能とするワープ技術を確立せねばならない。


その核となる『プロメテックエンジン』の起動には、バーニッシュの命そのものであるバーニングフレアのエネルギーが必要になると、クレイは言い切る。


自分達が生き延びるためなら、罪なき人々も平気で犠牲にするその姿勢は、ガロがかつて憧れていた英雄の姿からはほど遠い、ひどく独善的なものだった。


悲しみと絶望と怒りのままに、ガロはクレイに向かって叫ぶ。


「バーニッシュだって人間だ。確かに火事を起こすのは許せねぇが、むやみに人を殺していいはずがねぇ!」


俺がマグマをどうにかして止めると、無謀にも告げるガロに対し、クレイの拳が飛んだ。その拳は、ガロを助けた際に犠牲にし、すでに動かないはずの『左腕』から放たれた。


「クレイの旦那……どうして……」


部下に命じてガロを地下施設の檻に閉じ込めるように命じるクレイ。秘密を知ったものを外に出す訳にはいかないと言う彼は、最後に一言、こう付け加えた。


「その『旦那』って呼び名、昔から気に入らなかったんだ。目障りなんだよお前はッ!」


冷酷非道な本性を露わにしたクレイ。燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんやと言わんばかりに、ガロの声に耳も貸さず、クレイはパルナッソス号の起動に力を注いでいく。


一方その頃、バーニッシュの隠れ家をフリーズ・フォースに襲撃され、仲間たちをパルナッソス号のエンジン起動用の材料として拘束されたリオは、自身も重傷を負いながらも、バーニッシュへの非人道的な行いを続けるクレイへの憎悪に燃え滾っていた。


「許さんぞ……クレイ・フォーサイトッ!」


烈しい怒りに満ちたリオの呼びかけに応じるように、バーニッシュの聖域たるフェンネル火山のマグマが、超巨大なバーニングフレアと化し、リオの力の一部となる。


巨大な龍の姿を象ったバーニングフレアを駆り、我を忘れて怒り狂い、プロメポリスへ進撃するリオ。


果たして、プロメポリスはリオの怒りの炎に焼かれてしまうのだろうか。


そして、捕らえられたガロの運命は、一体、どうなってしまうのか!





【レビュー】

劇団☆新感線。つまるところ『いのうえ歌舞伎』


高校生の頃にBSで放送されていた『野獣郎見参』を鑑賞して以来、すっかりその魅力の虜になったあの頃が懐かしい。死ぬまでに一度でいいから、生で劇団☆新感線の舞台を見るのが私の夢です。


しかしながら、舞台劇とはなんとも面妖なジャンルであります。


現実空間に根差していながら、舞台という激しい虚構の世界で繰り広げられる物語。演じるのは生身の人間でありながら、全体にかかる演出や台詞回しは限りなく空想的で、鑑賞者をどこか別の世界へ誘うかのような魔力を帯びています。


これを映像の世界に落とし込むというのは、蛮勇ともとらえられかねない冒険なのではないか。そんなことを考えずにはいられないのです。


海外の舞台劇となるとシェイクスピアぐらいしか知らないものですから割愛するとして……日本の舞台劇を原作とした実写映画の中で、そこそこの評価を得ている作品ともなると、そんなにないんじゃなかろうか。ぱっと思い付くだけでも10作品程度。


しかもそのうち大半を占めるのが『12人の優しい日本人』や『キサラギ』や『ラヂオの時間』や『笑の大学』など、クローズド・サークルを舞台としたものばかり。例外なのは『蒲田行進曲』くらいですかね。他にもあったら教えてください。


さて、中島さんが脚本を手掛けた舞台『阿修羅城の瞳』も、ヒロイン役に『あの』宮沢りえを据えて実写映画化されているんですが、これは個人的にはサッパリ感動できないものでした。


つーか面白くなかった。そして思い知らされました。『あ、劇団☆新感線の作品って、全く実写映画向きじゃねぇんだな』と。


理由は明快です。物語の展開領域が一か所に留まっているクローズド・サークルものならいざ知らず、豪勢なセットや過剰な装飾芸術で目を奪い、円形客席をあつらえて三次元的な広がりを構築したり、花道までも演出のために徹底して消費尽くし(つーか、なんなら客席に乱入するし)、中だるみギリギリのギャグを差し込み、グダグダのトークタイムを挟み、アドリブや『トチり』すらも突発的な笑いとして吸収してしまう、リアリズムをかなぐり捨てたライブ感たっぷりの『いのうえ歌舞伎』は、舞台上演を前提とした娯楽劇に留まっているだけで、そのまま工夫もなしに『映画』のフレームへ放り込んだからといって、自動的にリアリティや写実性が担保されるわけではないのです。


まずそもそも、舞台劇であるからこそ許され、しかし映画であるからこそ許されない要素というのが多分に存在してしまうのが難点。


舞台劇は、物語設定や人物描写がどれだけ嘘っぽくても、先に述べたようにそもそも『舞台』の存在それ自体が虚構の土台であるから、どれだけナンセンスな演出が為されようとも関係ないし、なんならその『ナンセンス』な部分を楽しむのが中島脚本の、ひいては『いのうえ歌舞伎』の醍醐味な訳です。


これが実写映画となると許されない。


しかし、アニメーションならどうでしょうか。


それも、キャラクターを写実的に描く『フル・アニメーション』ではなく、キャラクターの仕草や動作を面白おかしく簡略化した『リミテッド・アニメーション』なら、舞台劇調のストーリーラインに宿る虚構性を殺すことなく、一つの作品として結実するのを可能とする。


そのことを、私は『天元突破グレンラガン』と『キルラキル』から学びました。


もちろんこれらの作品も、そして『プロメア』も舞台用に書かれた話ではありません。


しかしその台詞回しやストーリーライン、キャラクター造形には、やはり中島かずきらしい『舞台劇の味』が滲み出ています。


それを一つの物語要素として的確に活かす事ができたのは、中島さんと相性抜群な今石監督の手腕があってこそ。実に安定感のあるコンビプレイで、ファンにはたまらんのです。


舞台劇の匂いを纏う外連味ある『肉体』と、ダイナミズムなアニメーションの『魂』が、寸分の狂いなく合体を果たした快作。ひとことで表現するなら『プロメア』とはそういう映画なのです。


今石監督がリミテッド・アニメーションの探究者であることが、この作品の凄味を支えていると言っても過言じゃない。『パンティ&ストッキングwithガーターベルト(以下、パンストと呼称)』もその手の代物として、けっこう面白いレベルまで達していました。


『プロメア』は『パンスト』よりも派手なエフェクトだらけなはずなのに、画面がすっきりとして見やすい構造になっています。特にカメラワークの使い方が、明らかに『パンスト』の頃よりも遥かに向上しているのが分かります。


この立体的なカメラワークが表現する作画、よく動くんですよ。いや、『よく』どころじゃない。『めちゃくちゃ』動くんですよ。アニメーション好きとしては、これだけで視覚的に腹いっぱいになります。


なるたけ線の数を少なくした抽象的な、コンセプトアートに近いデザインというのは、やっぱり動かすのにとてつもなく都合がいいんでしょう。


これがたとえば『キルラキル』のように劇画的なデザインだと、二時間という枠に収まりきらせるのに労力が掛かるし、一つの画面に含まれる情報量が過多になり過ぎてしまう嫌いがあります。


この線の少ないデザインが、本作の特徴の一つである『3D作画と2D作画の融合』の境目を曖昧にしているのも、個人的にかなりキました。


実際目にしてみた感想としては、明らかに「ここは3Dでやってるな」と分かる部分はあるんですが(たとえば、バーニッシュの隠れ家崩壊シーンなど)、でもそうじゃない部分がほとんど。


今回は3D特技演出に大塚さんと雨宮さんが関わっていて、このお二人が色数を抑えて2Dと3Dの境目を曖昧にするのに、どれだけ重要な役割を果たしていたかが良く分かります。


かつてCGがアニメーションの世界に投じられた時、多くのアニメーターは『CGを駆使していかに写実性を高められるか』という挑戦に駆られました。ロトスコープなんかは、その前日譚として編み出された、疑似CG技法と捉えることもできるでしょう。


が、個人的な意見を言わせてもらえば、リアリティだけを追求するためにCGを消費するのは『邪道的』な使い方ではないかと感じます。


別に邪道であることが悪い訳ではありません。ただ、ある技術を選択した時点で、表現のイデオロギーをすでに決定していることに気づくべきです(これは、ある文体を決定した時点で、描くべきものが既に決まっているという、小説執筆にも言える事ではありますが)。


CGを使ってリアリティを突き詰めていけばいくほど、写実性との決定的な違いが浮き彫りになっていくのは、間違いないと感じます。キャラクターの息遣い。空間の肌触り。実写フィルムが可能とするこれらの細やかな情報量の再現を、いまだにCGでは達成できていないのですから。


CGで完全に固められたキャラクターの行きつく先というのは、限りなく精巧につくられたフィギュアと、なんら変わりないのです。それがCGが持ちうる力の全てなのか? 私は違うと思います。


デジタルを突き詰めると自然になるという、落合陽一が唱えるところのデジタル・ネイチャーな理念は、アニメーションの世界では通用しない。


アニメーションでデジタルを突き詰めると、それは本来目指していたはずの日常性(リアリティ)からは乖離して異常性(ファンタジー、あるいは隠された日常)の領域に到達するのだと、他でもない新海誠作品が証明しているではありませんか(もちろん、新海さんはそこを意識して、ファンタジーの構築に全力を出しているわけですが)。


アニメーションにおけるCGは『完全なるリアリティ』の創出に適用可能な、魔法の道具では決してない。そんなことは断じてありえないと、勝手にそう考えてますよ私は。


単純化されるはずのアニメーションをトガらせる(あえて雑なシェーディングをする)ために各ポイントに差し込むような使い方をするか、異空間(異世界)を演出する為にシェーディングを極めてフルに使うか。アニメーションにおけるCG(3DCG)の役割とは、大きく分けてこの二択であると思います。


しかも現時点でのアニメーション事情を鑑みるに、どうやら後者を実現するためにはかなりの美的センスと空間センスが必要になると思われます。(昨今の『異世界アニメ』の質の悪さを見るに、そう思わざるを得ないのは当然。アレらの数々は、異世界でもなんでもないでしょ)。


私みたいなのが口にするのもおこがましいですが、今石監督も、キャラデザ担当のコヤマシゲトさんも、アニメーションのプロでありますから、そこをしっかり理解していると思うんですね。


だからこそ、CG(とくに3DCG)に対して夢見がちな幻想を抱くことなく、あくまでも、自分が目指すアニメーション表現を生み出す為の『一つの手段』として使いきるという、クレバーな選択が出来ているのだと思います。


しかも彼らはCGの使い道を決定した時点で、同時に映像表現のイデオロギーが決定されていることを理解しています。インタビュー記事を読むに、そう感じます。


そのイデオロギーの下に今石監督が選択したのは、雑なシェーディングを更に雑に崩したような、ロー・ポリゴン・モデルのタッチ。これに色数を制限させた上で3D作画と2D作画を混合させた結果、奇妙な立体感を放つダイナミズムなアクションが可能になった。


CG作画の『新しい使い方』のお手本として『プロメア』は今後重要な役割を果たしていくのではないでしょうか。


もう一つ、この作品を支えているのは何かというと、圧倒的に色彩です。


予告編の時点で感じていましたが、今回は全編に渡ってかなりのハイトーン調です。しかも明度をほとんどいじらず、コントラストの上げ下げを大胆に駆使して影と光を表現しています。


これがとてつもない視覚的な異化効果を生んでいます。


たとえば冒頭の部分。自治共和国プロメポリスの街並みを映したシーンは、特にこの異化効果が働いています。


CG技術だけに頼って『リアルに』ビルを表現しようとすると、そこに現出するのは、限りなく現実に近づいた『つまらないビル』です。


でも前述したCG表現と、このハイトーンな色彩効果が合わさることで『かなり面白いビル』が誕生しています。簡素で平べったそうなデザインなのに、立体感がところどころに現れる。ここなんかは、全く話は動いていないんですけど、観ているだけで楽しかったです。


この色彩効果が特に生かされているのが、物語のキーガジェットである『バーニングフレア』です。ピンクとエメラルドという、およそ自然界には存在しえない色彩を使う事で、『この世ならざる炎』であることを一目見ただけで分からせる、この説得力ある絵作り。アニメーションにおけるフォーヴィズム的表現と言えばいいのでしょうか。


他に特徴として挙げられるのは、これは『キルラキル』でも見受けられた、今石監督が得意とするところのデザイン・モチーフの多用です。今回は『図形』のモチーフがいたるところに散りばめられています。


リオを始めとするマッドバーニッシュたちが操る炎は、すべて三角形の組み合わせで表現されています。


有機化学や分子構造学の知見では、三角形型の化合物……いわゆる三員環と呼ばれる有機化合物は、環状化合物の中でも、立体的な分子の配置がいびつなことから、極めてエネルギーが高い=不安定な物質として知られています。


対して、プロメポリスの街並みに多用されるのは四角形です。司政官クレイ・フォーサイトが統治する世界は、三員環よりもエネルギー的に安定な四員環構造(つまり四角形)のデザインが散りばめられています。街に降り注ぐ太陽光にも、調和のとれた自然を意識してか、四角形のモチーフが適用されています。


マッドバーニッシュには不安定なモチーフを、プロメポリスには安定のモチーフを与える。


こういうところも「いいねぇ~やってくれたねぇ~」と、個人的にはめちゃ好きなポイントです(鑑賞済みの方なら、私の言いたいことが分かるはず)。


モチーフを大切にするアニメ、私好きなんです。なんで? って聞かれたら、それが私の嗜好だから! としかいいようがないのだけれど。


さて、それでは肝心の物語の部分はどうかというと、ええ、ええ、みなさんご安心ください。


いつもの中島脚本。いつもの「TRIGGER」でございます。


これといって、物語の面で何か新しいことはやっていません。マジで。臆面もなく普段通りの中島脚本であり、普段通りの劇団☆新感線のノリでやっちゃってます。


前半部分は、前述した色彩表現に圧倒され過ぎたせいか「あれ、いつもの感じとなんか違うな」という印象を抱いたんですが、後から思い返してみると、やっぱり中島テイストばっちりでしたよ。


人類の移住先にアルファ・ケンタウリを設定するなんて、古典もいいところですし全然新しくないんだけど、でもそれすらも持ち味としてしまうのは脱帽です。そうでなければ中島脚本じゃないと言わせるだけの、不思議な説得力があるんですね。


特に後半になっていけばいくほど「これ……アレじゃねぇか」ってシーンがたんまり出てきます。もうこれまで散々TVアニメで観た展開をなぞっています。手癖という手癖が顔を出しまくります。


ただ、それでも要所要所で、「きっとここは我慢してるんだろうな」と思わせる展開があり、映画という媒体でやる以上、それまで「TRIGGER」の物語を知らない新規顧客を獲得するための努力が見受けられるのも事実。


とはいっても、キャラクターは間違いなく、劇団☆新感線でやってきたことの再生産。主人公のガロ・ティモスは「とにかくアツい奴」という紋切型なイメージが先行しやすいですが、実際に鑑賞してみると「熱血バカ」とはちょっと異なる趣向のキャラであることが分かります。


ガロを演じた松山ケンイチさん曰く『髑髏城の七人に登場する捨之介をイメージして演技した』とのことですが、私はどちらかというと『アテルイ』の坂上田村麻呂に重なるキャラだなと思いました。無頼にやつしたような言動の底に、周りを冷静に観察できるだけの理性がある。いわゆる『大人な無頼』という奴ですかね。


このガロと宿敵キャラのリオ・フォーティアの対比なんて、どう見ても『アテルイ』における坂上田村麻呂とアテルイだし、『グレンラガン』のシモンとヴィラルだし、『キルラキル』の纏流子と鬼龍院皐月です。


しかしながら、キャラクターの面での面白さで言うと、ガロやリオ以上に堺雅人さん演じるクレイが凄い。クレイの底知れぬ残酷性が露わになっていく過程などは、『髑髏城の七人』における天魔王が『信長の怨念に報いる』などとうそぶいていながら、実は自分が天に立つために全てを仕込んだのだという過程が暴かれていくのに通じる部分があります。


クレイの本性が暴かれていくのに比例するかのように、堺さんの声のテンションが上がっていくのが、まるでギアチェンジをしているようで迫力があるんですよ。半沢直樹とは別のベクトル、狂気に振り切った演技です。


劇団☆新感線ファンなら、中島×堺というと『蛮幽鬼』における『サジと名乗る男』をきっと思い出すでしょう。物語の裏で暗躍する、あの謎めいたニヒルな男を演じていた時とはうって代わって、今回の堺雅人は叫びまくります。


しかも「技名」を叫びます。その技名が物凄くアホらしくて……(笑)。あれですよ。『キルラキル』の『片太刀鋏・武滾流猛怒(ぶったぎるモード』とか『弩血盛武滾猛怒どっちもぶったぎるモード)』を超えるボンクラ具合で、もうこれが私にはツボにはまって仕方なかった(笑)。最高です。


で、こういった部分が相変わらずいつも通りということは、中島かずきさんが描く物語の基底部分にも変化がなくて、そこが私はとても嬉しかったんですわ。


つまり、社会からはじき出された者。まつろわぬ者へ向ける慈愛の視線ですね。


『髑髏城の七人』でも『野獣郎見参』でも『アテルイ』でも『キルラキル』でも描かれてきた、マイノリティへ向ける愛おしさってのが、今回も存分に発揮されています。あまりにも直接表現過ぎて、ちょっとマジでこっちの心が痛くなってくるくらいです。


このように、まぁいつも通りの中島脚本ですから、物語の新鮮味のみを楽しむ方にはお勧めできないですね。とても偉そうに言えた身分ではないですが、話の整合性を求めようとすると、穴とかヌケが目立ちます(そこも私は大好きなんですけど)。


その穴やヌケを徹底して覆い隠すかのように繰り広げられる色彩と作画の暴力に、おもいきり網膜をぶん殴られてくるってのもまた一興です。


総合的に評価しますと個人的には大好きな作品です。一般ウケするかどうかは知らん。でも、ボンクラなアニメを愛せる方ならハマること間違いなしです。


まだ一度も『TRIGGER』の作品を観ていない、という方にも、是非とも拝見していただきたい。その際には物語の筋を追うよりも、色彩に注目してみると鑑賞後に心地よい汗をかけること間違いなしです。

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