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【第23回】ハンターキラー 潜航せよ

『架空に過ぎることを描き、現実の困難さを浮き彫りにする映画』


渋谷のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。


『プロメア』と『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の二つに焦点を絞っていたんですが、やっぱ定期的に映画成分を補給しないとストレスが溜まるなぁとのことで、適当に見繕って鑑賞してきました。


これが、なかなか面白い。得をした気分になれる映画です。


なお、映画後半部分で泣きました。感動したからではなく、ただ画面に集中した結果なのだけど。でも時間を気にせず集中できるってことは、映像的に見処のある内容だってことの証明になりえるのではないんでしょうかね。





【導入】

2012年に刊行されたシュミレーション小説『ファイアリング・ポイント』を原作に、ワイルド・スピードの製作陣が放つ潜水艦アクション映画。


近年、原子力潜水艦……原潜のテクノロジーがフィクションを追い越す勢いで発展していくにつれ、その手の映像作品にドラマ性を持たせることが困難になっているにも関わらず創られた、中々の意欲に富んだ作品です。


監督はドノヴァン・マーシュ。長編映画はこれが二作目ですね。たしか一作目は南アフリカを舞台にしたクライムアクションだったような。題名は忘れてしまいましたが、なかなかホモ・ソーシャルな映画だったのは記憶に残ってます。うむ、監督の『(へき)』が今回もたっぷり発揮されている。


主演は『300 スリーハンドレッド』や『ベオウルフ』『エンド・オブ・ホワイトハウス』のジェラルド・バトラー。久しぶりに出演作品を見たからか、昔と比べて少し印象変わりました。いぶし銀のおっさんになってます。


また、ロシア原潜の艦長に『ジョン・ウィック』でジョンに怯える小物なボスを演じたミカエル・ニクヴィストが出演しているのも、個人的にはポイント高し。


で、パンフレットや公式サイト等で二番目にクレジットされているのが、我らがゲイリー・オールドマン。イカした悪徳警官役で出演した『レオン』が代表的なところでしょうか。『裏切りのサーカス』でも出色の演技をしていたので、そちらもぜひ合わせて観てみてください。


でも今回、ゲイリーの出番ほとんどないんですよね。これには驚いた。いつになったら出てくんだよと思ったら、参謀本部のお偉いさんとしてちょこっと顔出すだけ。でも迫力は十分。流石です。





【あらすじ】

生身の人間では到底生きていくことのできない世界。すべての生命の源でありながら、人類の生存圏であることを徹底して拒否するような凍てつく大海。


分厚い氷河に閉ざされたロシア近郊のバレンツ海に、沈黙の戦艦が二隻あった。一つはロシア原潜。もう一つは、そのロシア原潜を追跡するアメリカ原潜『タンパ・ベイ』だ。


当の昔に東西冷戦が終結してもなお、シリア紛争における立ち回りに代表されるように、両国は互いの情報を奪い合う影なる戦いに没頭していた。


だが、武力をちらつかせ、表立って睨み合うことはしない。そんなことになれば、第三次世界大戦の勃発は決定的なものとなる。だからタンパ・ベイの乗組員たちは、真綿で首を絞められるような緊張感を味わいながらも、灰色の平和がこの先も続いていくのだろうと思い込んでいたに違いない。


目の前で、追跡対象のロシア原潜が不可解な爆発と同時に、沈没するまでは。


その光景を目撃した直後に、自分らの命を預けているタンパ・ベイが、正体不明の魚雷攻撃を受けて無惨にも海の藻屑と化すまでは。


――タンパ・ベイからの通信が途絶えた。


不測の事態を受けて、アメリカ国防総省は不穏な空気に包まれていた。偵察行動に従事していた原潜からの連絡途絶。それが何を意味するのか。海軍少将のフィクスを始め、国の防衛に関わる者達は皆まで言わずとも予感していた。最悪の予感を。


まさか、ロシアの手で沈められたのではないか?


彼方から近づいてくる軍靴の音を掻き消すためには、事実を明らかにせねばならない。統合参謀本部と協議した結果、バレンツ海の調査のために、艦長不在のまま保管されていたヴァージニア級攻撃型原子力潜水艦(ハンター・キラー)・アーカンソー号の潜航が決定される。


そしてアーカンソー号の艦長には、海軍兵学校の出身でないにも関わらず、一兵卒から現場叩き上げでのし上がったジョー・グラスなる人物が任命されたのだった。


一方、国家安全保障局の局員から、ロシアの国防大臣ドゥーロフが怪しげな動きを見せているとの通達を受けたフィクスは、アメリカ近代特殊部隊のはじまりにして、海軍の特殊戦コマンドに連なる陸海空戦のスペシャリスト・ネイビーシールズに極秘任務を要請する。


認識票(ドッグタグ)を外しての潜入工作。それが意味するのは、国家から切り離された個人として活動すること。その死に対し、国は何の責任も負わないこと。


それでも、ビーマン隊長率いる四名の精鋭は、ドゥーロフの動向を探るためにロシアへの潜入を決行する。


ネイビーシールズが危険極まる任務に就いた頃、バレンツ海に到着したアーカンソー号の乗組員たちは、怒りと屈辱に苛まれていた。


魚雷によって無惨にも破壊されたタンパ・ベイと、恐怖に引き攣って海底に沈む同胞たちの死体を目撃したからだ。やはり、タンパ・ベイはロシアの手で沈められたのだ。


決定的な事実を掴んだアーカンソー号へ不意打ちを食らわすかのように、タンパ・ベイを屑鉄と化させたロシア原潜が魚雷攻撃を見舞う。


グラス艦長はすぐさま指示を出し、デコイを発射。極寒の海底を舞台にした爆雷戦の最中、グラス艦長は敵のロシア原潜が氷河を陰にしていることを探知。デコイの機能を存分に活かし、これを返り討ちにする。


その後もバレンツ海の調査を続けていくと、先ほど沈めたロシア原潜とは別の原潜を発見するアーカンソー号。タンパ・ベイが追跡していたと思しき、全ての発端となったロシア原潜の残骸だ。その分厚い土手っ腹には、巨大な破孔が穿たれていた。


一見、魚雷による攻撃痕にも見えるが、グラス艦長はすぐにそうではないと気づく。破孔は外側へ向かって捲れるような形状をしていたのだ。


原潜内で乗組員たちが反乱を起こして内部から破壊されたのではないかという推測の下、調査船を送り込み、艦長を始めとする三名の乗組員たちの生存を確認。


アーカンソー号の副長を務めるエドワードの反対を押し切り、グラス艦長はロシア原潜の艦長・アンドロポフを客人として迎える。怪我をしていた彼らに治療を施し、船員らの頑なな態度にもめげず、グラスは聞き取り調査に乗り出す。


その頃、ロシア海軍基地へ潜入したネイビーシールズは、世界の均衡に綻びが生じる瞬間を目撃していた。ロシア国防大臣ドゥーロフが『叛逆行為(クーデター)』を起こしたのだ。


彼は基地を訪れたロシア大統領ザカリンを拘束すると側近を銃殺して海へ投げ捨て、自国の利権を守るためにアメリカに戦争を仕掛けると宣言する。弱気な大統領はこの国に必要ないと斬り捨てて。


ロシア憲法に則り、大統領が機能不全に陥った場合は、国防大臣が全権を委任される――ドゥーロフは憲法を逆手に取るかたちで、着々と戦争の準備を始めていたのだ。


彼は軍部を掌握すると、タンパ・ベイの撃沈を、ロシア原潜へ攻撃してきたアメリカへの報復行為というかたちへ偽装することで、戦争開始に必要な大義名分を獲得しようとしていたのだ。


ドゥーロフの暴走を止めなければ、世界が三度目の戦火に包まれるのは必至。


ネイビーシールズを通じて恐るべき事実を掴んだアメリカ統合参謀本部のドネガンは、キューバ危機以来となる最高防衛準備状態・デフコン2の発令と、空母艦隊の派遣によるクーデター鎮圧を、アメリカ大統領ドーバーに直訴する。


しかしフィクスはグラス艦長とネイビーシールズの力量を信じ、ザカリン大統領の救出作戦を提示する。


双方の意見をくみ取り、ドーバー大統領は空母艦隊の派遣と並行して、ザカリン大統領の救出作戦をアーカンソー号とネイビーシールズへ任せることを決定。


ここに、第三次世界大戦の勃発を防ぐための、熾烈な暗闘の火蓋が切って落とされたのだった。




【レビュー】

初めに言っておきますが、私はいわゆる『シネフィル』じゃありません。


よく観る映画はSFとかサスペンスとかホラーとかアクションものばかりだし、たまにヒューマンドラマ系が混じる程度。ドキュメンタリー映画なんて一度もまともに鑑賞したことありません。


恋愛はまぁ気分程度だし、アニメ映画に関して言えば、気になる制作会社や脚本家さんやスタッフが関わっていない限り見ない。だから『クレしん』でおなじみの原恵一監督の最新作は別に観なくてもいっかなって感じです(あの人は日常にないものを描くよりも、日常そのものを精緻に積み上げる小津的な系譜に連なる人だから、ファンタジー自体にはあんまり興味湧かないのよなぁ~)。


ミリタリー関連の映画なんて、それこそ『Uボート』とか『地獄の黙示録』とか『プライベート・ライアン』などの、有名どころしか観た事ありません。


なので、この映画におけるミリタリー描写にどれだけのリアリティがあるかは、まるで語れません。


とくに原潜なんて、それこそ知識の範疇外もいいところです。ソナー探知のシステムとかはおおよそのところ検討がつくけれど、デコイがどんだけ高性能なのかなんて知らん。だから魚雷がデコイにつられて、あんなにぎゅんぎゅん海中を旋回する描写には、ちょっと驚いた。


ですが、そんな戦艦ミリタリ方面に疎い私でも、流石に『プライベート・ライアン』と『ハンターキラー』を同種のカテゴリとして語ったりなんてしませんし、本作が戦争映画の枠組みから大きく外れていることも察することができます。それくらいの良識は弁えているつもりです。枠組みから外れているというより、そもそも枠からはみ出すのを前提にしているといった感じでしょうかね。


戦争映画が背負いこんでいる要素は多分にありますが、乱暴にまとめてしまうならばこうです。惨禍の極みたる『戦争行為』を通じて引き出される人間の通俗的な怪物性の描写。結果として展開される反戦的なヒューマニズム賛歌、あるいはメロな方向に寄りがちなドラマに焦点を当てた物語。それが広義的な意味での戦争映画ではないでしょうか。


そう考えると、ハンターキラーは戦争そのものを描いた『戦争映画』たりえないのです。むしろ、戦争にいたるまでの道程をドラマ仕立てに組み上げた、まさに原作がそうである通りの『シュミレーション映画』なわけですね。


ただ、このシュミレーションとしての部分にリアリティがあるのかってったらそうじゃない。リアリティを感じるのは美術の部分に限られます。


つまりはヴァージニア級の戦艦内部がどんな風になっているかを、なかなか面白い角度から見せてくるんですね。『非日常な日常』を送る船員たち。迷路のように入り組む艦内で、どのような段取りで任務に従事しているのか。そこのところの表現ってのは、ミリタリー映画に馴染み切れていない私にとっては結構新鮮に映りました。


余談になりますが、戦艦モノに登場する『解析値』って、なんだか興奮するワードですね。それが何を指しているのか全く分からないんだけど、なんだか興奮してしまう。言葉の印象というんですか。解析値を割り出してから武装を確認するってー段取りは、毎回観る度にドキドキしちゃう。


さて話を戻しますと、とにかく美術はイイです。ファースト・マンのように細部にまでこだわっています。本作は海軍の協力を取り付けて実際の戦艦を短期間とはいえ貸し出しているし、専門家も呼んで指示の出し方や言葉遣いまで徹底して指導していますから、乗組員同士のやり取りは中々のものがあります。


特に感心したのは、原潜の造形が『あまりカッコよくない』ことです。私は、戦闘機とか潜水艦とかに異様なメタリックさを装飾する類の美術が苦手なんです。なんだろ、包丁の刃にラメを塗りたくっているような気がして、どうにも気持ち悪く感じちゃうんですね。別にそんな見せ方をする必要はないだろと。


でも本作では、原潜の見た目も動きも武骨そのもの。物言わぬ巨大な黒い鉄の塊がじわじわと航行している様は、いい意味で飾りっけがなくて、気取っている感じがまるでしない。あれは、ひとつの『機能美』としての側面を見せつけてくれたようで、実に心地よかったですね。


ですが、映画全体に渡る雰囲気というか、物語的な面に焦点を当ててみると、まるでリアリティがありません。圧倒的にフィクショナル。コッテコテのドラマ性を見せつけてきます。


念のため言っておきますが、別にけなしているわけじゃありません。フィクショナルな要素を搔き集めつつも、物語をリアリティ且つドラマティカルに組み上げようとするのは、映画のみならずあらゆる創作活動に見受けられる基本的な特徴ですが、そこから大きく逸脱していたって何の問題もないし、むしろロドリゲスオタな私からしてみれば、どれだけ虚構性が高まろうが全然オッケー。リアリティがないから駄作だなんて、そんなバカなことを言うつもりは毛頭ありません。


さて繰り返しになりますが、この映画はドラマ性がヤバいくらいにコッテコテです(笑)。令和の時代を迎えてまさか「いいニュースと悪いニュースがある」なんて陳腐すぎる台詞をリアルで聞くことになるなんて、予想だにしていませんでしたよ。あの台詞が出てきたとき、しばらくポカンとしましたもん。


上記に書いた台詞を始めとして、この映画には「軍事アクション・スリラーアクション」のお約束が目白押しです。


結構な怪我してんのに、応急処置を施されたとはいえ、なぜかネイビーシールズの動きに平気でついていける大統領の側近。新米でどこか頼りないのに、いざってときには男気を見せつけて部隊の窮地を救う兵士。兵隊ヤクザめいた乱暴者で短気なくせに、実は部下想いなところがある『ガハハ系』の隊長。もう戦争しかねぇだろ!と喚き立てる、やたらと好戦的なお役人(老人)。


上げればキリがないほどのステロタイプなキャラばかりです。しかしながら、この物語は先ほども申し上げたように『シュミレーション映画』なので、実はキャラの造形に関してはこれくらいコテコテな方が物語の筋を追うのに混乱しないという、とても親切なつくりになっています。


そうしたキャラ達の行動様式もまた例外なくお約束の連続です。それでもテンプレ的な飽きというのはほとんど皆無です。なぜなら、彼らの軍事行動のどれもがスペシャリスト感に溢れていて、あからさまに不合理な行動を一切取らないから安心できるんですね。やっぱりホモ・ソーシャルな世界観の作り方というのが、この監督本当に良く分かっているんだなぁと嬉しくなりました。


それに加えて、飽きがこない理由がもう一つあります。それは、本作が観客に持たせることになる『興味の持続力』がとても高いことです。それもキャラクターへの興味ではなく、作中で描かれる『世界のありよう』への興味です。


とにかく、この作品内における『世界』が最終的にどんな選択をするのか、気になってしょうがない。その選択に至るまでの道筋を一つ一つ説明するとネタバレになるので言えませんが、特に物語のラスト付近。世界の選択に関わる重要な『爆破』シーンのくだり。ココですよ。あんまりにもドラマ性を優先させすぎていて、軍事に詳しくない私でも、反射的にこう感じました。


いや……その距離でそんなやり方ありかよ。ありえねぇだろ。


例えるのなら、『ミッション・インポッシブル』のラストで、イーサン・ハントの首元でプロペラが止まるシーンと同じくらいにあり得ない。


まぁ、『ミッション・インポッシブル』はイーサンの超人性に基づく、ある種のヒーロー映画であるから、ああいった嘘くさいシーンでも十分に説得力があるんですが、この映画はそうじゃない。リアルな美術で組み上げられた原潜や艦隊で視覚的な現実性を帯びていながら、その現実を生かすための方法が極端にフィクショナルで、とてつもない違和感があるわけ。


でもね……私、自分でも結構驚いたんですが、この映画の後半部分、ずーっと泣いてたんですね。涙が溢れて溢れて止まらなかったんです。


このエッセイの【第二回】でも書いたと思うんですが、私にとって『泣く』という行為は映像に集中した結果として引き出される一つの生体反応に過ぎないので、『泣けたから名作』とか『泣けたから感動作』とか、そんな安直な結論には結びつきません。無論、全てがそうとは限りませんが。


それでも私がこの映画を観て思わず涙腺を緩めてしまった理由。それは、この物語が啓示してきた世界の平和を保つ方法が『勇気と信頼』に任せるしかないという、実に突拍子もないものだからです。


人の善性に頼らざる以外に戦争回避の道はないと示し、それが我々の住む現実世界ではひどく難しい、理想論と鼻で笑われても仕方ないものだと強く意識させられたから、私は思わず涙を零したのです。


結局、人の手で恣意的に作り出された危機的状況を解決するには、人の心を信じるしかない。それがどれほど残酷にして無謀なことか。


自らが身を置く組織が誤った方向に進んでいることに意識的に気づき、それを正そうと声を上げて実際に修正してみせる行為は、これまでの人類の歴史の中でとても数多くあったことでしょう。


でも、それらは全て過去の事に過ぎませんし、その全てが成功を勝ち取り、ほとんどの人々にとって理想の社会が構築されたというようなケースはごく稀です(ていうかまったくない)。


だから『現代』という名の牢獄に住む私には、この映画が導き出した結論が、どうしたって信じられない。


人が人を信頼し、組織と組織が手を取り合い、国と国が互いの立場を慮るなんて、それこそ映画の中でしか起こり得ないんじゃなかろうか。


それでいいと言う人もいるでしょうが、ここまで徹底した美術を披露しておきながら、最後にあのような架空っぽい手段で物語の幕を閉じさせられたら、現実を憂いて溜息の一つも出るってものです。


リビア紛争なんかいい例じゃないですか。今の泥沼な状況に事態を持ちこんだ張本人たちが、『勇気と信頼』の名の下に平和を築き上げようだなんて結論、下すと思いますか? 私はどうも信用しきれないし、信用するだけの勇気も持ち合わせられない。でもそれは、私だけではなくて、ほとんどの方がそうなのではないでしょうか。


人間の精神的気質を低めに規定したがるのは謙虚に基づくものでは決してありません。そう認識せざるを得ないくらい『国』の根底原理を支える種々の社会的規範のどれ一つとして、真新しく更新されていないからです。その気配すら見せていない。


この半世紀の間、人類は国を運営しているようで、国の傀儡となっていただけです。国のかじ取りをせねばならない相応の立場の人たちも含めて。


しかもこの映画、前述したフィクショナルな方法論で事態を収めておきながら、ラストでとある人物の口から吐き出されるのは、やけにスクリーンの向こう側を……現実世界を意識している警鐘めいた発言です。


『次は最悪の事態になるかもしれないな』


次というのは、物語の延長上にある『次』ではありません。スクリーンを飛び越えた先にある、我々の住む『現実』を指しているのではないでしょうか。それを暗示するかのように、カメラは人物からどんどん遠ざかり、物語のページを閉じるように終局へ向かいます。


だ・か・ら。私は、この映画を観終わって『リアリティがある映画だったなぁ』なんて、口が裂けても言えません。そんなことを平然と言う人にはなりたくないと心底思った。感受性や想像性が欠如していることに気づいていない、あるいは気づこうとすらしない人々にはなりたくありませんから。


映画だからフィクショナルな造りになるのは当然です。しかしこの映画は、そのフィクショナルな結論を通じて、現実に住む我々に凄まじい難題を突き付けてくるのです。


とまぁ、グダグダと小難しい言い回しを繰り返してきましたが、何はともあれ「映画」として迫力たっぷりなのは揺るぎようがありません。


「腐ったトマト」こと「Rotten Tomatoes」での評判は散々ですが、一般のお客さんからの評判は中々という、いつもの「Rotten Tomatoes Theory」とでもいうべき天邪鬼めいた法則がキチンと発動(笑)していることからして、映画として健全なつくりであるのは間違いないですね。


あらゆる事柄から何らかの訓戒を得ようとあれこれ考察するのは人間の性です。ここに述べた通り、私にもそういった傾向が多分にありますが、んなこと気にせずに楽しむのも吉。


デコイと魚雷の凄まじい追いかけっこや、ネイビーシールズのスナイピング技術や、腹に銃弾喰らってるのになぜか軽やかに銃をぶっ放す大統領側近のクールさに見とれるもアリでしょう。


出来れば多くの方々に観て頂きたい、おススメの映画です。

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