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【第22回】★THE GUILTY/ギルティ

『思い込むこと、その罪深さを描いた映画』


新宿武蔵野館で鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。


上映期間がもうそろそろで終わっちゃいそうだったんですが、ギリギリ鑑賞に間に合って良かった。良質のサスペンス映画です。





【導入】

第34回サンダンス映画祭で観客賞を受賞した、『電話口から聞こえてくる音のみ』を頼りに事件を解決しようとする、緊急ダイヤルオペレーターを主人公に据えたサスペンス映画。


監督は、これがデビュー作となるグスタフ・モーラー。主演はヤコブ・セーダーグレン。デンマークの方のようです。


キャストに関しては特に語ることなにもないんですよね。でも豪華なキャストを使っているから良い映画が出来上がるとは、必ずしも限らない訳で。





【あらすじ】

過去、とある事件がきっかけで現場を退き、今は緊急ダイヤル指令室の一員として働く警察官のアスガー・ホルムは、刺激の少ない日々に燻っていた。


緊急ダイヤルにかけてくるのは、風俗街でトラブルに巻き込まれた男や、麻薬の過剰摂取でラリったような「自業自得」で災難を呼び込む者ばかり。まるでクレーム処理に追われるカスタマーセンターのような、鬱屈とした毎日。


だがそんな退屈な仕事場とも、今日でおさらばだ。明日の裁判で同僚の警官が証言を偽証してくれることは間違いない。そうなれば過去の事件からアスガーは切り離され、警察官として復帰できる。上司だって、それを望んでいる。


裁判を明日に控えたその日の午後。一本の緊急ダイヤルが指令室にかかってきた。応対したのはアスガーだった。


ダイヤルは携帯電話からかかってきたものだった。基地局を通じてパソコンのモニターに表示される個人情報から名前は判明したが、呼びかけるアスガーに対し、電話先の相手は全く応じる様子がない。


いたずら電話か……そう思い込んで電話を切ろうとしたアスガーだったが、電話先の相手――イーベンという名の女性の様子が、どこかおかしいことに気づく。


緊急ダイヤルをかけてきたにも関わらず、まるで周囲にそのことを悟られないようなひそひそ声で、何かを話しはじめるイーベン。アスガーが慎重に耳を傾けると、イーベンの声に混じって、野太い男の声が聞こえてきた。


警察官として犯罪に携わってきたアスガーは、自らの勘を働かせ、イーベンに尋ねた。


「男がいるのか? 君が緊急ダイヤルをかけてきたことを知ってる?」


「知らない」


短く、だが怯えきったような声で応えるイーベン。


「もしかして、誘拐されたのですか?」


「――イエス」


イーベンの震えた声。それは少なくとも、退屈なオペレーター仕事に就いていたアスガーの警察官魂に熱を与えたに違いなかった。


誘拐犯と思しき男に悟られないよう、車種の特徴と目的地を聞き出すアスガー。電話口から聞こえてくる情報のみを頼りに、果たして彼は事件を解決に導くことができるのか……ただの一度も『思い込みの罠』に嵌ることなく……





【レビュー】

いやー、久々にいいサスペンス映画を観たなぁという感じです。


『音』を効果的に働かせた映画。その手の作品で私が思い出すのは、昨年公開された『クワイエット・プレイス』でしょうかね。


レビューは書いていませんが『クワイエット・プレイス』は劇場で鑑賞済み。あれは中々緊張感があって、ちょっと変わった映画体験だったなぁ。劇場という、不特定多数のお客さんを閉じ込めた、ある種の密閉空間だからこそ楽しさを味わえた映画でしたね。


ですが、『クワイエット・プレイス』が音のみならず映像にもそれなりの迫力があった一方、この『THE GUILTY/ギルティ』は映像面での動的な迫力というのは皆無です。


なにせ、音のみを頼りにして事件を解決しようとする、緊急ダイヤル指令室の職員が主人公なわけですからね。


そういった趣旨で創られた作品である以上、この映画は「密室サスペンス」としての側面も持ち合わせています。主人公は職場である指令室から、一歩も外には出ません。


で、密室という観点から見ると、ライアン・レイノルズ主演で話題になった『リミット』なんかと類似する点があるなぁと私は思ったんですが、あちらが『密室からの脱出』というキャッチーな要素を振りまいている……要するに『内から外へ』向かう映画であるのに対し、この映画はどんどん『内へ内へ』と向かっていくのです。


実際に、イーベンからの緊急ダイヤルを受け取った時のアスガーは周りに職員たちがいるオープンなスペースでやり取りを進めるんですが、その後、指令室内の個室に入り込み、しばらくするとブラインドを閉めて、外部からの干渉を完全にシャットアウトしてしまいます。


これってのは実に分かり易い比喩表現ですな。


イーベルとのやりとりや、配送室のオペレーターとのやりとり、誘拐犯とのやりとり、かつての上司とのやりとり、仲の良かった相棒とのやり取り……と、事件解決のためにどんどん周りを巻き込んでいくアスガーの『思い込みで突っ走っている感じ』を、この一連の『内へ内へ』向かう行動で表現しているんですね。


出口の見えない迷宮に入り込んでいくような演出。それを強化させる『内へ内へ』向かっていく仕草。で、それを眺めている観客が次第に抱いていく『この主人公、もうちょっと冷静になって周りを見ろよ』というツッコミ。


そのツッコミを観客に抱かせるために、あえて『映画』という手法でこの作品を創り上げたんじゃなかろうか。私にはそうとしか思えません。


そもそも『音』をメインとした映画なんて、それはラジオドラマと一緒じゃないかという疑問を多くの観客が抱くことでしょう。


けれどもやっぱり、このドラマをラジオで表現したら魅力が大幅に半減すると思います。ちゃんと『主人公を映す』ことに、この映画が映画たるゆえんである秘訣が隠されており、映画が持つメッセージ性がふんだんに込められているんです。


どういったメッセージ性か? それはつまり、こういうことです。


『君たちも、日頃からこうやって思い込みや勝手な想像だけで、物事を決めつけていないかい?』


人ってのは思い込みや想像で生きていかざるを得ないけれども、そればっかりを暴走させてはいけないわけです。


しかしながら、それを意識して主観の下に判断できる人が、果たしてどれだけいるでしょうか。


限られた情報の下で想像力を働かせ、この人はこういう人だと決めつける行為。私を含めて多くの人が、それを経験しているのではないでしょうか。


たとえばSNS上におけるやり取りが、その最たるところでしょう。


顔も声も分からない。キーボードを通じて発信される「文字」という媒体でしか、その人の性格や嗜好を判断する術がない。


ネットに発信されていく種々のメッセージを搔き集めて、その人がどういった人物であるかをプロファイリングする行為を、我々は無意識のうちに行っているわけです。


プロファイリングの確度ってのは、どうしても限界があります。なぜなら、集められる情報そのものに、どうしても限りがあるからです。また、集めた情報の全てが『正しい』保障なんて、どこにもありません。


だからこそ、人は想像力という武器でプロファイリングの穴を埋めていかざるを得ないわけですが、その時に生じる「ひずみ」から目を背けずにいる人って、どれだけいるんでしょうか。


テレビのワイドショーだってそうです。たとえば凶悪な事件が起こった時、犯人の日頃の生活態度や趣味や生まれ育った環境を掻き集め、それを下地にコメンテーターたちが勝手に論じている様を見て、視聴者たちもまた勝手に、犯人の人物像を想像していきます。


ですが、それが本当に正しい犯人像かと言ったら、そうではありません。なぜなら、犯人は常に視聴者側からしてみれば『犯人という名の他人』であるからです。


自己と他人。その二つを分ける境界線というのは、どれだけ情報を集め、どれだけ想像力を巡らせても、取り払われることはありません。


自分は自分。他人は他人。


どこまでいっても自己は決して他人と同化することを許されず、ゆえに他人が置かれた心理的状況を理解するのには大変な労力が必要であり、また労力を費やしたからといって真に理解できると約束されてはいません。


しかしながら、コミュニケーションを成立させている要素に『勝手な思い込みや想像力』が根付いている以上、どうしたって我々はそれを信じ、また頼らざるを得ないんです。


そのコミュニケーションの終着点に『この人は良い人』だとか『この人は悪い人』といった他者へのレッテル貼りが存在し、そこから『正義』と『悪』といった概念が生まれてくるのだとしたら。


まさに私たちの『勝手な思い込みや想像力』が、悪や正義を定義づけている最大の要因ではないのでしょうか。


それを観客に強く突きつけるために、この映画はアスガーという『他人』を置くことを選んだ。


アスガーを客観的に見つめる中で、観客は気づかされるわけです。


もしかしたら自分も、勝手な思い込みや想像力で、誰かを傷つけているのではないかと。


さて、ここまで『想像力が生み出すひずみ』について語った上で、この映画の特に秀逸な点を話しましょう。


ズバリ、ラストのシーンです。果たしてイーベルは本当に、陸橋から降りて自殺を免れたのかどうか……という点です。


私の『勝手な思い込みと想像』で言わせて頂くなら、きっとイーベルは飛び降り自殺をしたんだと思います。


配送室のオペレーターが、アスガーの心情を慮って、あそこで咄嗟に嘘の情報を与えた可能性だってあるわけですからね。


でも、もしかしたらイーベルは本当に陸橋から降りて、警察に保護されたのかもしれない。その可能性もまた捨てきれません。


結局のところ、本作における『真実』がどこにあるのか。その答えは最後の最後まで、観客に与えられることはありません。


観客もまた、劇中に散りばめられた断片的な情報からしか、イーベルの辿った物語の帰結を『想像する』ことしかできないんです。


想像力は偉大です。それがなければ、人類はここまで文明を発展させることは出来なかったでしょう。ライオンや鳥にはない、人間だけに許された未来を切り開く武器。それが想像力です。


しかしながら、こういった見方もできる。


我々はどこまでいっても、しょせんは『想像力の奴隷』に過ぎないのかもしれない。


なかなか面白いサスペンスでした。ちょっと違った映画体験をしたい方に、おススメです。

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