【第21回】運び屋
『失ったものを取り戻すのに、遅すぎることはないと教えてくれる映画』
上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。
今回はクリント・イーストウッドです。彼が監督した映画は7割ほど観ていますが、個人的には『許されざる者』と『ミスティック・リバー』が大好きです。
【導入】
映画界の至宝にして、ジョン・フォードから連綿と続く伝統的アメリカ映画の最後の継承者たる巨匠、クリント・イーストウッドの最新作。
今回の映画では監督だけでなく『グラン・トリノ』以来およそ10年ぶりに主演を務める彼ですが、なんと88歳というから驚きです。
そして、自身の年齢に合わせ、今回演じるキャラクターは90歳のおじいちゃん(しかも麻薬運搬のドライバーで実在した人物!)というから、観る前から期待値が上がります。
脇役を固めるのは、イーストウッドの実の娘アリソン・イーストウッド。『タイトロープ』以来の親子共演になります。
また、『アメリカン・スナイパー』でタッグを組み、『アリー/スター誕生』の監督も務めたブラッドリー・クーパーが参加しています。
ちなみにブラッドリーが『アリー/スター誕生』でレディー・ガガを起用するという話を耳にした時、イーストウッドは「ガガ? あいつ演技できないだろ。やめとけやめとけ」と忠告したらしいですが、ブラッドリーはその忠告を無視してガガを採用した結果、興行的に成功を収めました。
イーストウッドは「ブラッドリーの判断は正しかった」と、周囲に笑い話のように話しているようです。カッコイイ。見習いたい。驕り昂りとは無縁の人なんだなぁ。私もこんな人になりたい。
その他にも『ミスティック・リバー』のローレンス・フィッシュバーン、『ミリオンダラー・ベイビー』のマイケル・ペーニャなど、イーストウッド映画おなじみのメンツが揃っています。
【あらすじ】
デイリリー。
一日に一度だけ花を咲かせたら、あとはただ枯れてゆくのみというその奇特なユリ科の花に魅せられた男がいた。
名前はアール・ストーン。彼は自前の農園でメキシコ系の従業員を多数雇い、デイリリーの品種改良や育成に長年力を注ぎこんできた男だった。
彼は老境に差し掛かってもなお仕事への情熱を失うことなく、アメリカ中の品評会を駆けずり回り、数多くの賞を受賞してきた。
その一方で、仕事にかまけるあまり、家族との溝は取り返しがつかないくらいに深まっていた。
長女のアイリスは結婚式をすっぽかして品評会に参加していた父を許せず、十二年近く口を利かずに無視し続けていた。
忙しい仕事の合間を縫って、結婚式を控えた孫娘・ジニー主催のブランチ・パーティーに顔を出しても家に入れてもらえず、逆に追い返される始末だ。
妻のメアリーはそんな彼を庇うどころか「仕事ばかりで家族を大切にしてこなかったあなたが悪いのよ!」と責め立てる。
一方で、順調に経営を続けていた農園も、急成長を遂げる通信販売の波に呑まれて業績が悪化し、あっけなく農園を手放すことになってしまった。
家族からは拒絶され、大切な農園も失い、途方に暮れるアール。そんな彼の下へ、花嫁付添人の友人と名乗るひとりの男が声を掛けてくる。
御年90歳を迎えたアールが、これまでにアメリカ中をトラックで走り続け、違反切符を切られたことが一度もないと知った男は、彼にある仕事を依頼する。
農地を取り戻し、家族との関係性を修復する上でお金が必要になると考えたアールは、考えた末に男に手渡された連絡先に電話をかける。
それから数日後、メキシコ国境近くのテキサス州にトラックでやってきたアール。男に指定されたタイヤ屋を訪れると、アサルトライフルを手に持つ、見るからに怪しげな男達が待ち構えていた。
戸惑うアールに対し、男達は「とある荷物を指定したホテルの前まで運んでほしい」と言って、オンボロのトラックに謎めいた荷物を積んでいく。
「荷物を運び終えたら、鍵を置いて車から離れろ。一時間たったら戻ってこい。ダッシュボードに報酬金を用意してやる」
訳も分からず、言われるがまま長距離運搬の仕事をやり遂げるアール。ダッシュボードを開けると、分厚い封筒が置かれていた。
「なんてことだ……」
封筒の中身を見たアールは、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた信じられないほどの大金を目にして驚愕した。
動揺するアール。もしかしたら自分はとんでもない奴らと関わってしまったのではないか……だが、全ては農園と家族との絆を取り戻すためだと言い聞かせた彼は、それからも怪しげな男達の依頼を着実にこなしていく。
その仕事の中で、彼は自分の運んでいる荷物が、数百キロのコカインであることを知ることになるが、それでも彼は「お金が全てを解決してくれる」と信じて、麻薬カルテルに手を貸し続ける。
アールの運転はその日の気分任せなところがあり、約束の時間に遅れることもあったが、その予測不可能な「遊びのある運転」が連邦麻薬捜査官たちの目をくらませた。
そのうえ、決して速度違反も駐車違反もしない彼の堅実な仕事ぶりはアウトローの業界で話題となり、彼の働きはメキシコ最大の麻薬カルテルのボスの耳にまで届くことになる。
一方、連邦麻薬捜査官たちはメキシコから流れ込んでくる麻薬ルートを調査していくうちに『爺』の符丁で呼ばれる、謎めいた凄腕の運び屋が関わっていることを突き止める。
爺――そのコードネームは間違いなく、アール・ストーンのことを指していた。
【レビュー】
クリント・イーストウッド。
彼が監督してきた映画は、そのほとんどが「はみ出してしまった者達」を主軸に置いたものでした。
はみ出し者。すなわち「アウトロー」ということですが、これは何も法律から逸脱した悪党のことばかりを指しているのではありません。
学校から、家族から、会社から、組織から、そして社会からはみ出してしまった者達。
コミュニティに己を馴染ませることが出来ず、他者から距離を取らざるを得なくなった者達。
そんな「はみ出してしまった者達」のドラマを、彼は長年に渡るキャリアの中で数多く真摯に撮影し、時に演じ続けてきました。
ドン・シーゲル監督の下で主演を務めた『ダーティハリー・シリーズ』を始めとして、『許されざる者』『ミスティック・リバー』『マディソン郡の橋』『パーフェクト・ワールド』『ファイヤーフォックス』……彼の映画の中には常に、はみ出し者たちへ向ける慈愛と敬意の眼差しが存在します。
その作家性を映像の奥に感じ取るたびに、私はいつも泣けてきてしまうわけです。つまりイーストウッドの映画は「泣ける」映画なんです。
「商業化された感動」を売り込んでくる下品な映画では決して及びようのない、人生や人間の存在それ自体が持つ悲哀と、その悲哀を乗り越えようとする勇敢さ。そこから滲み出てくる「天然の感動」が、彼の映画にはふんだんに込められています。
はっきり言います。イーストウッドの映画を観て「心で泣けない奴」は男じゃない。
女性には「はみ出し者の生き様」なんて理解してもらわんでも構いません。でも男なら! あなたが真なる「男」になりたいと望んでいるのなら、イーストウッドがこれまで数多く演じてきた、カッコ良くも不器用な渋い生き様をその目で観るべきです。
イーストウッドの映画は、現状にくすぶっている人や、目標を見失ってしまっている人が見ると、とても心を震わされます。
なぜなら彼の映画は常に、社会からも国からも爪弾きにされ、落ち着ける場所なんてどこにもないけれど、それでも自分の歩むべき道を歩んでいくしかない「男」という生き物を真正面から描いているからです。
この、現代では忘れられてしまった「男」という生き物を表現するために、イーストウッドは淡々としつつも基本に忠実な撮影方法で作品を作り続けているのです。まさにアメリカ映画界の至宝と呼ぶに相応しい存在なのです。
男が生来持ち合わせている「人間性の味わい深さ」に寄った彼の映像作品は『グラン・トリノ』で一応の完成を迎えるわけですが、今回の『運び屋』でも、彼の作家性が初っ端からいかんなく発揮されています。
イーストウッドが演じる「アール・ストーン」は仕事一筋の頑固爺で、家庭を持っているのにも関わらず、デイリリーというユリ科の花の栽培にしか熱意を向けられない哀しい男です。
そしてデイリリーの栽培で世間から評価されることを「正しいこと」だと信じている、愚かな男でもあります。
口が達者で、品評会にやってくるお客さんに対してもジョーク混じりで愛想よく接する一方、「ふん! インターネットなんてくだらん!」と、流行りの通信販売に手を出す業者を唾棄します。
このステロタイプな頑固爺の演技がとてつもなく微笑ましく見えるんですが、「おじいちゃん、そんなことじゃ世間から置いてけぼりにされちゃうよ……」と、観客は思わずアールの不器用な生き様を案じてしまいます。
そんな彼が、嫌っていたインターネットの波に呑まれて悪化していく業績を止める事ができず、農園を手放し、傷心のままに孫娘に合いにいったら、娘とばったり再会してしまうんです。
娘は老いさらばえた父とは目も合わせず、口も利くこともせず、その場から追い返してしまいます。追い打ちとばかりに、アールの奥さんは家庭を大切にしてこなかった彼を突き放してしまいます。
情熱を注いでいたデイリリーの栽培からも手を引かざるを得なくなったばかりか、心の休まる場所であるはずの家族からも拒絶されてしまうアールを観て、私はもう泣きそうで仕方ありませんでした。
自業自得とはいえ、自分は正しい道を歩いているんだと信じていたアールの心が、ぽっきりと折られてしまったこのシーンを観て、思わず目頭が熱くなってしまいました。
しかも、このアールを拒絶する娘役を演じているのが、イーストウッドの実の娘であるアリソン・イーストウッドってところが、また泣けます。
イーストウッドは、その渋い演技からは一見して想像できないかもしれませんが、その私生活は乱れに乱れていました。
浮気に浮気を重ねて、分かっているだけでも5人の女性と関係を持ち、8人の子供たちを抱えています。最後の子供を作った時、彼は66歳でした。とてつもない性豪ですし、ちょっと大丈夫かなと心配になるレベルです。
娘のアリソンが3歳の頃、イーストウッドは家庭を捨てて、別の愛人の下へ通い続け、それは14年間も続きました。
今ではお二人は共演するくらいの仲ですが、イーストウッドがアリソンとの関係を修復するのにどれだけの苦労を重ねたか、私は独身であるために想像できませんが、とてつもなく長く、そして慎重な話し合いがされたのは容易に想像がつきます。
娘から拒絶されてしまう老いた父親……ただでさえ泣けるシチュエーションが、ダブルパンチで泣けてくるんです。
もうこの時点で「あ、この映画はきっと傑作になるに違いない」と、私の映画センサーはビンビンに反応していました。
さて、こんな悲壮感たっぷりの始まり方をして、しかもお話のメインが「麻薬カルテルと関わってしまった老齢の男」という設定の場合、普通なら重苦しくシリアスたっぷりな作品になることでしょう。
ですが、この映画はそうはなりません。というのも、イーストウッド演じるアール・ストーンというキャラが、とてつもなく可愛らしいし、笑っちゃうくらいに図々しいし、とにかく90歳のジジイとは思えないほどにエネルギッシュなんです。
どれだけエネルギッシュかと言うと、麻薬を運んでいる最中に立ち寄ったモーテルで、美女を口説き、そのままベッドイン! しかも二人を相手に「夜の性的なプロレス」をおっぱじめるわけです。
「おじいちゃん! 無理すんなよ! 90歳にもなってそんなことしたら腹上死しちまうぞ! いや、そもそも勃つのかよ!?」と、観ているこっちは驚き混じりに笑ってしまいます。
また、アールが間違って別組織のアジトに車を停めてしまい、その組織のメンバーと彼の監視役を務めていたカルテルの若衆が睨み合って一触即発の状況になるんですが、その時アールは何をしているかというと、なんと! 呑気にリップクリームを塗ってるんですね。
「おじいちゃん! なに素知らぬ顔でリップクリームなんか塗ってるの! あんたのせいでこうなってんだよ!」と、突っ込まずにはいられません。
終いには、その堅実な働きぶりが認められてカルテルのボスの自宅に招待されるわけですが、そこでもアールは若い女の子の尻に見とれて、ボスに用意された部屋に女の子を連れ込み、またまた「夜の性的なプロレス」を(しかも2人を相手に!)始めてしまうわけです。
これで笑うなという方が無理です。「なんなんだよこの爺さん」と、呆れを通り越して笑えてきてしまいます。
一方で、まさか90歳の老人が運び屋をやっているとは知らない連邦麻薬捜査官たちが「この爺とかいう運び屋、月に200キロ以上ものコカインを運んでいるぞ!」「マジでヤベぇ。いったいどれだけ凄腕の運び屋なんだ……ゴクリ」と、話し合っている次のシーンでは、呑気に鼻歌を歌いながらアールが車を運転しているシーンを映すなど、明らかにコメディとしての作りを意識していて、とても明るい作風になっています。
しかしこの爺さん、ただ飄々とした頑固なスケベ爺ではありません。
物語の中盤。コカインを運んでいる途中で捜査官から怪しまれてしまうシーンがあるんですが、思いもよらぬ機転でこの窮地を乗り越えるんです。
その時に、アールの監視役を務めていた生意気な若衆が、「この爺さんスゲェ!」と、尊敬にも近い眼差しを向けるわけです。それまで反抗的な態度を取っていたのが、即落ち2コマ漫画の如く手の平を返してしまうんですね。
また、マフィアから銃を突きつけられて脅されても「俺は戦争を生き抜いてきたんだ。こんなものを向けられたってどうってことはないんだぞ」と毅然と言い放つシーンなんて、カッコよさが有頂天レベルにまで高まっています。
ここまでくると、俺TUEEEEEEならぬ「ジジイTUEEEEEE」です。とにかくアールの一挙手一投足が時に面白く、時にカッコイイ。そんなシーンを外連味を抜いたさっぱりとしたカットで山ほど撮っていくために、約2時間という長尺を感じさせない仕上がりになっています。
先ほど「ジジイTUEEEEEE」と言いましたが、何もふざけている訳ではありません。思い返せばこの映画は終始一貫して「ジジイTUEEEEEE」な映画であったと思います。
どういうことか。つまり「人間は、老いてしまって棺桶に片足を突っ込んでいたとしても、それでも人生をやり直せるのだ」という、決して悲観的にもニヒリズムにも陥らない前向きな生き方をアールが表現しているというのが、この映画のキモであるわけです。
インターネットや機械に頼りっぱなしの人生とは無縁のところに立ち、経験と知識だけで己の人生を歩んできたアール。
羅針盤も持たず、人生と言う名の広大な砂漠を渡る彼は、常に「俺はこれでいいんだ!」という覚悟の下に、ハングリー精神たっぷりに生きてきたのでしょう。
ですが長い年月の果てに、覚悟は錆びて「頑固」という性格の一部となってしまい、大切にするべきはずだった者達を置き去りにしてしまった。
そこで活きてくるのが「人は永遠には走れない」というキャッチコピーです。
そうです。人は永遠には走れません。人生の終着点が見えてきた時には、足を止め、自分の歩んできた人生が正しかったのかどうか、もう一度振り返る時がやってくるのです。
その時に、自分の手の平からこぼれ落ちてしまったものを手に取る勇気と賢さがあれば、人生は何度だってやり直しが利くのだという、とても勇気溢れるメッセージが詰まった映画だと思います。
最近はポリコレに配慮した映画ばかり観てきた中、イーストウッドならではの「本音で語る」この映画、紛れもない傑作であり、現時点でイーストウッドの集大成といって間違いない作品でしょう。
全ての方に、とくにご高齢の方にお勧めいたします。




