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【第20回】アリータ:バトル・エンジェル

『圧倒的な現実感の下に立脚する虚構という名の映画』


上野のTOHOシネマズと日比谷のTOHOシネマズで合計2回鑑賞してまいりました。


巷ではやたらとキャメロンがフューチャーされていますけれども、私は中学からずっとロドリゲス・ファンですからね。『シン・シティ 復讐の女神』以来およそ5年ぶりの監督作ということで、ワクワクしてました。





【導入】

木城ゆきと先生が描くSFファン御用達のサイバーパンク・アクション漫画『銃夢(ガンム)』を、ついにハリウッドが『アリータ:バトル・エンジェル』と題して実写映画化。


製作・脚本は、かのジェームズ・キャメロン。もう説明すること自体アホらしいですが、念のために言うと『ターミネーター』『ターミネーター2』『タイタニック』『アバター』の監督を務めていた方です。こうして改めて書き出してみると、その時代時代でとてつもない影響力を与えている作品ばかりですな。


主人公のガリィ……ではなく、アリータ役を演じるのは、『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』『メイズ・ランナー3 最期の迷宮』でヒロインを演じていたローサ・サラザールなんですが、私、メイズランナーは一作目しか観てないんですよねー。


SF書いている身でこんなこと言っていいのか分かりませんが、どうにも私は『ヤングアダルトSF』に分類される作品が苦手みたい。なぜなのか、理由は自分でも判明していないんですが、いまいちハマれなかったです。


脇を固めるのは『007 スペクター』でコッテコテのブロフェルド役を演じたクリストフ・ヴァルツ。


『フェノミナ』で『蛆虫プール』という名の『おがくずプール』にダイブした姿が懐かしいジェニファー・コネリー。


『ムーンライト』で数々の賞を受賞し、3月に公開予定の『グリーンブック』で主演を演じるマハーシャラ・アリ。この人の作品あまり観たことないんですけど、ちょっとファンになりました。唇の演技がイイ!


そして意外なことに『ウォッチメン』でロールシャッハを演じたジャッキー・アール・ヘイリーを、バカみたいな剛腕サイボーグ役に抜擢してます。


そして監督はコイツだ。


低予算でハイクオリティをモットーにする経済的オタク男児の代表。


バカな話を豪華なキャスティングでやってのけてしまう根っからのB級野郎。


虚構のおもちゃ箱をひっくり返し続ける狂喜のクリエイター。


3D映画の真なる伝道者にして、タランティーノの永遠のお友達(ブラザー)


ロバート・ロドリゲスのご登場だ!


私、好きなんだよなぁ~ロドリゲスの映画!


二度目になるけど、巷じゃあキャメロンばかりフューチャーされているけれども、ロドリゲスのことも忘れないでくださいよ!




【あらすじ】

あの決定的な没落戦争(ザ・フォール)から300年後……


地上から伸びる何本もの長大なパイプラインによって、はるか天上に繋ぎ止められた、人類最後の空中都市・ザレム。


ザレムには、選ばれた人間だけが暮らすことを許され、そうでない人々は、ザレムのファクトリーが排出する大量の鉄クズで形成された地上の掃きだめ『アイアン・シティ』で暮らすことを余儀なくされていた。


ザレム人として暮らしていた経歴を持ちながらも、とある理由で下界に堕とされたサイバー医師のダイソン・イドは、その日、いつものようにサイバネ手術用の部品集めの為に、スクラップ置き場を漁っていた。


そんな彼の目に、ふと止まるものがあった。


眠るように打ち捨てられた、サイボーグ少女の上半身――天使の残骸(ラスティ・エンジェル)。それは明かな破壊の痕跡を刻まれながらも、なお失う事のない美しさと気高さを放っていた。


サイボーグ少女の残骸に強く惹かれたイドは、自身が経営する診療所に彼女を持ち帰り、あり合わせの機械部品を繋ぎ合わせて復元を試みる。


翌日、機械仕掛けの天使は、暖かなベッドの上で目覚めた。


脳、皮膚組織、味覚受容体……天使の体のどこにも異常はなかった。だが彼女は、自身の名前と記憶を喪っていた。


イドは天使に、亡くなった実の娘と同じ名前を、すなわち『アリータ』の名を授け、診療所に住まわせることにする。


アリータと名付けられた天使は、イドに案内されるかたちでアイアン・シティの街中を探索し、そこで驚くべき風景を目撃する。


ゴシック様式の建築に、生活感剥き出しの高層アパートメントの数々。肉体のあちこちを義肢に挿げ替えた人々。街頭モニターが映し出す破壊的競技・モーターボールの光景。警備ロボット・センチュリオンの巨大な脚部。そして少年・ヒューゴとの出会い……記憶を失くした天使は、乾いたスポンジが水を吸収していくように、アイアンシティの文化を学んでいった。


ヒューゴとモーターボールの真似事をして絆を深めていくアリータ。ヒューゴの夢は、100万クレジットにもなる大金を貯めてザレムへ移住すること。そのためのコネもあると言う。


アリータがスクラップ置き場で拾われたことを知ったヒューゴは、もしかしたら君はザレムに住んでいたのかもしれないと言う。アイアンシティのスクラップは、すべてザレムからもたらされるからだ。だがヒューゴの話を聞いても、アリータの記憶が蘇ることはなく、自身が何者なのか、依然として不明のままだった。


分からないことは他にもあった。恩人のイドが、ときおり夜遅くに診療所を抜け出すのだ。そして必ず、体のどこかに怪我を負って戻ってくるのである。


折しもアイアンシティでは、女性ばかりを狙った通り魔事件がニュースになっていた。イドの不審な行動に居ても立ってもいられなくなったアリータは、こっそりイドの後をつけることにする。


そこで彼女が目撃したのは、路地裏の一角に潜んだイドが、手持ちのバッグからロケットエンジン内臓の巨大な戦槌(ハンマー)を取り出し、通りの向こうからやってくる女性を待ち構えている光景だった。


『イド! やめて!』


イドが凶行に出ることを恐れて、思わず彼を止めるアリータ。イドは突然のアリータの登場に驚き、急いで通りに出て周囲を確認する。


『しまった! 罠だ!』


ついさっきまで通りを歩いていた女性は、忽然と姿を消していた。


その時だった。イドの背後で、野太い男の声がした。


振り返ると、灰色のフードをまとった、見上げるほどの巨大な男が立っていた。そのそばには、さっきまで通りを歩いていた女が、凶悪な笑みを浮かべて立っている。


さらに振り返れば、通りの向こうから、これまた全身を改造されたサイボーグが一体、獲物を狩る野獣のような眼を向けてきている。濃密な殺意の匂いを振りまきながら。


サイバー医師・イド。彼には、凶悪犯罪の末に指名手配されたサイボーグたちを狩る事で賞金を獲得する、ハンターウォリアーとしての裏の顔があったのだ。


この日彼は、世間を騒がせている通り魔殺人の犯人を狩る(ハント)するために出向いていたのだが、まさかアリータに尾行されていたとは……


『アリータ! 逃げろ!』


三体の凶悪なサイボーグたち相手に勝ち目がないと悟ったイドは彼女を逃がそうと声を張る。


だがアリータはイドの忠告に反し、体の奥から湧き上がる戦闘衝動に駆られるがまま、通りの向こうからやってくるサイボーグへ襲い掛かり、これを簡単にねじ伏せてみせたのだった。


鉄くずの中から拾い上げられた機械仕掛けの天使が、戦士としての血を覚醒させた瞬間だった――




【レビュー】

ジェームズ・キャメロンとロバート・ロドリゲス。


数多くの映画人の中でもオタク監督として知られる両者ですが、このお二方の映像的作家性というものは、互いに低予算映画から経歴を出発させているにも関わらず、笑ってしまうくらい全く異なるものです。


多くの映画人がそうであるように、キャメロン監督もまた「いかに嘘のお話を現実的に魅せるか」ということを意識し、それを非常に高いレベルで実践し続けている方です。


説得力のある絵作り。我々の現実世界を侵食するような映像の力。


それは『ターミネーター2』における燃え盛る公園の遊具シーンからも分かる通り、観客の脳裡に『もしかしたら近い将来に、こんな世界がやってきてしまうかもしれない』というイメージを徹底して植え付けてきます。


すでに歴史の1ページとなった海難事故を迫力たっぷりにラブロマンスを絡めて描いたことで、どこかファンタジーの出来事という印象が強かった過去の惨劇を、我々の世界に根付くように再定義した『タイタニック』を、一体彼以外の誰が撮れたと言うのでしょうか。


キャメロンの作品はどれも『現実を侵食する映像を生み出す』という映画的イデオロギーの下に製作されており、そのためならどんな労力すらも惜しまない。まさに映像の魔術師という言葉がぴったりな方です。


それに対しての、ロバート・ロドリゲスですよ。


メジャー映画を好む方はあまりご存じないかもしれませんが、私は中学生の時にこの方の『パラサイト』をテレビで観て以来、すっかりファンになってしまったクチなんです(笑)。


『低予算でハイクオリティ』を監督デビュー時から現在に至るまで貫いている彼の作家性は、キャメロンとは対極のところにあります。


すなわち『嘘の話をより嘘くさく魅せる』ことに、彼は全力を注ぎます。CGから3Dの力を借りてまでも、その一点に集中して作品を創り続けています。


『デスペラード』では、後にその名を冠することになる『デスペラード撃ち』と呼称される射撃スタイルに代表されるような、現実的ではない姿勢からのギターケース・ロケットランチャーが目を惹きます。


『レジェンド・オブ・メキシコ』では更にこれを発展させ、ギターケース型の火炎放射器だったり、リモコン操縦式のギターケース型移動式対戦車地雷をドカンと炸裂させます(こうして書いていても実にアホらしいガジェットだなと思う。たまらんなぁ)。


『シン・シティ』では、四肢を切断されてもニタニタ笑みを浮かべるイライジャ・ウッド(ロード・オブ・ザ・リングで主人公を演じた方よ!)を平気でカメラに収め、胸を矢で射られてなお、平然としゃべり続けるモブキャラを登場させる。


『マチェーテ・キルズ』における、おっぱいマシンガン&股間マシンガンの描写。殺し屋の内臓を引っ張り出してヘリコのローラーに絡ませる描写も、大味過ぎてまるで説得力がありません。


何から何までロドリゲスの映像は嘘っぱちで、そこにリアリティの欠片は全くないのです。


本来、映画というものが宿命的に科せられた『いかに映像を通じて物語に現実的な説得力を持たせるか』という行為を、ロドリゲスは鼻から完全に捨て去っています。その度胸たるや恐るべし。


彼の作品の総てに共通しているのは『映像の力で物語の虚構性を高める』という点であり、そんな手法で作られた映画は、通常ならば『バカバカしい話』として相手にされない危険性をはらんでいます。


しかしロドリゲス・クラスの作家性ともなると『虚構としての物語を限りなくどこまでも虚構的に魅せる』ことで、映像は映画の中に留まり続けるしかなくなり、我々の住む現実の世界には決して足を踏み入れないことを約束させます。


そうすることで、映像で語られる物語は現実との馴れ合いを拒否するかたちになり、それが本来宿していた『おとぎ話』としての側面を強く開花させ、観客を文字通りの『夢の世界』へ誘う力を獲得するのです。


ロドリゲスの作品を楽しむ時、観客はいつも、激しく燃え盛る対岸の火事を見届けるような心地を味わうことを強制されるのです。


さらに言えば、物語の虚構性が臨界点ギリギリまで高められることにより、しょせんは空想の産物に過ぎないキャラクターたちが、彼の生み出す嘘くさい映像の中では、逆説的に生き生きと輝きを放つことになります。


それゆえに、ロドリゲスの作品では、ギターケース・ロケットランチャーやイエロー・バスタードのような、現実にはあり得ない非論理的なガジェットやキャラクターが何よりも力ある存在として君臨し、逆に『シン・シティ』のハーティガンのような、いかにも現実世界にいそうなスタイルで動くキャラクターが、どことなく浮いて見えてしまいます。


そこがロドリゲス映画の『虚構性を徹底したが故の逃れられぬ欠陥』なのですが、しかしそこも含めて、私は彼の作る作品が大好きなのです。彼の映画は、彼の映像が語る物語は、真にノン・リアリティとしての味わい深さを獲得しているのです。


こういった点から見て、ロドリゲスは世界で唯一『漫画』という、虚構の代表的産物を映像に落とし込むのに最適な監督であると言えるでしょう。


多くの映画人は(特に邦画に携わる方に多いようですが)漫画の持つ虚構性を映画のフレームに落とし込む際に、その虚構性を信じ切れずに妙なリアリティ感を入れてしまいがちですが、ロドリゲスはそんなことしません。


原作漫画の持つ虚構性をそのまま受け入れられるだけの、映画作家としての懐の深さが彼にはあるのです。だからこそアメコミを原作とする『シン・シティ』は彼の代表作たりえる傑作となったわけです。


ですが今回の映画は『漫画』を原作にしているとは言え、あくまで脚本・製作を担当したのはキャメロン本人に他なりません。


そのイメージ作りは『アバター』の製作前から始まっていたということですから、かれこれ十年近くもの間……あ、デルトロに銃夢を紹介された時期を考えればもっと昔からですが……キャメロンは『アリータ』を己の映像的特質の下で世に出そうと試みていたわけです。


こうなると、ロドリゲスの作家性が画面を通じて滲み出てくる余地はありません。キャメロンの映像的思想の下で固められていた作品に、ロドリゲスの個性はどうやったって融合できません。水と油の作家性なのですから。


なので、この映画を批判する時に『ロドリゲスの作家性が出てきていないから微妙』と仰る方は、実に当たり前なことを大それた風に言っているだけに過ぎないのですね。


ではこの映画におけるロドリゲスの役割とは何か?


とても簡単な話です。『アリータ:バトル・エンジェル』におけるロドリゲスの役割。それはキャメロンの影武者として指揮をとることです。


キャメロンの物語に対する意識や考えをそのままトレースして実行に移すだけの精密無比な装置となること。それが今回のロドリゲスに求められた、またロドリゲス自身がそうなることを望んだ立ち位置なのです。これは雑誌のインタビュー記事からも伺えることです。


だからこの映画は、製作・脚本・そして『監督』も含めて、全てジェームズ・キャメロンが撮った作品として観るのが、正しい鑑賞方法である。


そんな映画的理論武装を施して劇場に足を運んだわけですが……全体的にはこちらの予想通り、キャメロンの思想で描かれた画面が広がっていました。


それでもやっぱり、アクション・シーンになると、どうしてもロドリゲスの味が出てしまっているんですよね(笑)。ヤー、これはロドリゲスのファンとしては嬉しい発見でした。


アリータと敵対するサイボーグたちの造形なんかにも、ロドリゲスの趣味が如実に現れていますね。漫画よりも過剰で、これまた「いかにも」という印象を与えてきます。


原作から引っ張ってきているとはいえ、その造形は映画的なリアリティをとことん逸脱しています。なんだったら『マチェーテ』とか『シン・シティ』に登場しても違和感ありません(笑)。


サイボーグたちのやられっぷりも実に派手で、機械の肉体が輪切りにされたり圧し潰されたりする様などは、やっぱりロドリゲスだなぁと嬉しくなります。と同時にかなりの予算が費やされた結果、安っぽさは微塵もないので大変に良い。


あれだけ人体の機能美からかけ離れた姿を映像で表現されると、普通なら嘘っぽく見えてしまいがちなんですが、それでもやっぱり、ロドリゲスは上手いんですよねココが。


お前、そんな図体でどうやって普段生活してるの? 手先が刃物って、生活しづらくないの?と、思わずツッコミを入れたくなるような奇抜な姿形のサイボーグたち。


しかし、そんな彼らが自分自身の存在を全力で肯定し、且つその複雑な肉体機構を完全にコントロールしているがゆえに可能な凄絶なアクションが描かれると、映画を観ているお客さんは(特にロドリゲスオタの私なんかは)映画内におけるサイボーグたちが放つ『虚構であり過ぎるがゆえの存在感』に打ちのめされてしまうわけです。


物語を立脚させるキャラクターとしての機能。それが虚構に過ぎれば過ぎるほど、しかし妙な現実感を匂わせてくる。その要因となっているのは、キャメロンが徹底して造り込んだ『映画の世界』が宿すリアリティの高さにあります。


物語を進行させるうえで全く必要のないガジェット(特にヒューゴの自宅の小物配置)にまで手を入れ込んでいるため、世界観の持つ情報量の多さが画面全体をずっと支配し続けています。


リドリー・スコットの『グラディー・エーター』や、メル・ギブソンの『アポカリプト』で描かれた『かつてあった世界をすべて再現する』という試みを、キャメロンは架空の世界でやってのけたのです。


驚いたのは、窓越しに映るアイアンシティの風景すらも、精緻に描写されているところですね。こういったところで手を抜かないんですわこの映画は。


それに関連する話ですが、今回の映画では世界最高峰の映像集団と称えられる『WETAデジタル』が、どれだけ重要な役割を担っているかが分かります。


『ロード・オブ・ザ・リング』でゴラムを完全再現した時も凄かったけれど、今回は更にサブサーフェイス・スキャタリングに磨きがかかり、アリータの手の質感(人体の皮膚下で日光が散乱した結果、ほんのすこしだけ半透明になる描写)が、とてつもないリアリティで表現されています。


ですが私が一番驚いたのは、物語の中盤から後半にかけて、アリータがヒューゴに自分の人工心臓を取り出して、自分の手の平に乗せてみせるシーンでした。


ここの箇所は当然すべてCGIで表現されているんですが、アリータの心臓が密やかに揺れる度に、それを包み込むようにして持っている彼女の手も、心臓の鼓動に当てられて微妙に揺れるんです。


このリアリティ! その現実感の描写! 剥き出しの心臓もなにもかも、全てがCGIという『虚構を生み出すために開発された技術』で造られているのに、まるで本物の生きた心臓がそこにあるのでは? と思わせる視覚的魔術の凄さたるやとんでもないです。


たしかにアイアン・シティの描写が、かの『ブレードランナー』の呪縛から逃れているかと言われれば決してそんなことはありませんし、見ようによっては『高度に発展したメキシコ』と言われても違和感ゼロ。ジェシカ・アルバやダニー・トレホの顔したサイボーグが歩いていてもいいと思います(てか私はそれを観たかった)。


しかし私は満足しました。『ブレードランナー』はあまりにも偉大過ぎますが、それはそれとして、ここまで世界観をリアルに描写すると、虚構の塊として作り上げられたキャラクターや、そのキャラクターのアクションそのものまで『本当にこういう動きがサイボーグにならできるかもしれない、いや、できるのだ』という説得力を獲得したことが嬉しかった。


圧倒的なリアリティは、過剰に盛られた虚構すらも吸収し、それでもって我々の現実世界に深く食い込んでくる。キャメロンとロドリゲスのマリアージュが、まさかこんな結果を生むとは思わなかった。てかロドリゲス、しっかり予算使って楽しんでるなーって感じがビンビン伝わってきて、私としてはとても幸福だったんですわ(笑)。


もう一つ述べさせていただくと、今回のロドリゲスが監督したアクションは『いいアクション』です。


いいアクションってのは、物語中でドラマとドラマの『つなぎ』以上の役割を果たしていないとダメなんですな。『マッドマックス-怒りのデス・ロード-』で既に証明されていることですが、アクションはドラマと連動してこそ輝くものであり、無言の会話でなければならないんです。


無言の会話。つまりアクションを通じて、各々のキャラクターにどんな精神的変化が訪れているのか? その精神的変化が、今後キャラクターにどのような選択をさせるのか? あるいはどんな運命へ導くことになるのか? それを描いてこそのアクションなわけです。


単なる尺稼ぎとしてはダメなのです。巷では、本作におけるアクションの目玉の一つであるモーターボールの描写を『スター・ウォーズ エピソード1』のポッドレースに例える人がちらほら見えますが、それは見た目だけの話で、アクションという観点で私から言わせてみれば、あれこそまさに尺稼ぎです。


ロドリゲスのモーターボール描写は実に締まっています。ダラダラとは描写しません。そしてドラマティカルです。なぜアリータがその場でそうしなければならないのかの理由がキチンと描かれていますし、アクション自体に彼女の想いが込められている。各サイボーグごとに動きの描写が異なるのも尋常ならざるこだわりです。


普段のロドリゲスなら、もっと大雑把に大味に済ませるものですが、キャメロンの影武者となった彼は、キャメロンならアクションにどんな意味を持たせるのかを考えて撮影したんでしょう。


お話は、言ってしまえばごく普通のものですけれど、でも映画というのは映像で語る物語でありますから、この作品はしっかりと映画としての『品位』を保っている作品だと思います。


なにより、今までずっと低予算映画で、自宅スタジオで撮影し続けてきたロドリゲスが、膨大な予算を使って本当に楽しそうに撮影している様子が浮かんできたし、私はとても満足しました。


キャメロンのファンにも、ロドリゲスのファンにも、おススメできる作品です。

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