表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/110

【第19回】ヘレディタリー/継承

この映画、荒木飛呂彦先生絶対に観てるだろ。

ジョジョの根底にある恐怖って、これに通じるところがあるもん。

『立ち向かう事も、逃げることも許されない、史上最悪の呪詛映画』


あつぎのえいがかんkikiで、マジで今更ながら鑑賞してきました。これ、去年の11月に公開された映画ですからね。


何と言うかねぇ、なんで今までこんなに最悪(誉め言葉)なホラー映画をスルーしていたかね。ホトホト自分の審美眼の無さに呆れかえるばかりですよ。


スレた人間ってのはこういうところがいけませんね。周りが絶賛しているから逆に見ないという天邪鬼的選択をしてしまうところがね。


でも、いやぁ。これを終映ギリギリとはいえ劇場で観れたってのは、十年後くらいに多分すごい自慢になるんじゃない?『ブレードランナー』が従来のSF映画の文脈を破壊したようにさ。こいつぁ間違いなく近代ホラー映画の金字塔になり得る作品です。


ただ、人生に深い影を落とすこと間違いなしです。


そして、鑑賞後は公式パンフレットの購入必須です(とはいってももう関東圏で上映しているのって、あつぎのえいがかんkikiしかないけどな。それも2/22までしかやってないし)




【導入】

家族の崩壊をホラーの文脈で描き出し、世界各国を絶望のどん底に叩き落とすばかりか、こういったエンタメ映画に対して手厳しい評価を下すことが多い評論家の多くが揃って『近来稀に見る傑作』だとか『21世紀最高のホラー映画』だと絶賛する作品。


それが『ヘレディタリー/継承』です。


監督と脚本はアリ・アスター。若干31歳の新人監督が最初に手掛けた長編映画がこれとか、もうね、どんだけ世界を呪っているんだって話ですわ。一体どれだけ心に深い傷を負ったら、こんな作品が撮れるんだ? こんなの観ちゃったら、もう他のホラー小説とか映画とか楽しめなくなるやん。最悪に最高だぞコラ。


主演はトニ・コレット。シャマランの『シックス・センス』に出てましたね。


自分の顔面偏差値を棚に上げて言うのもなんですが、前々から思っていたんだがこのトニ・コレットって方、顔の造りが異様なんだよね。失礼かもしれないけど顔の造作に『異星人』みたいな怖さがあるんだよね。


その異様に怖い顔が、今回はかなり良い方向に働いています。恐怖が倍化されています。


しかし、そのトニ・コレット以上に異物感ある……いや、失礼なのは分かってるんだけど本当に異物感が凄まじいのよ。誰がって? 子役のミリー・シャピロですよ。


凄い怖いんだよミリー・シャピロの顔。なんなんだよこの子役。どっから見つけてきたんだと思ってググってみたら、素顔はまぁ可愛らしい。美人ではないけど、なんか愛くるしい顔してるんですわ。


それが今回は(多少メイクされているとはいえ)とてつもなく不安を煽ってくる顔つきになってます。皮膚のすぐ下にかったいボルトが埋められてそうな肌の質感といい、虚ろな表情といい、改めてコイツなにもんだ? グラミー賞にノミネートされちゃうくらいの天才子役? いや、でもやっぱり怖いよこの子の顔。


そして今回は音楽がいい味出してます。サックス奏者のコリン・ステットソンです。アーヴァンギャルドな超絶技巧演奏とか言われても音楽に疎い私はピンと来ませんが、むかし「In The Clinches」という彼の曲を聞いて、驚嘆しました。


サックスの演奏って、こんなに怖えのかと。




【あらすじ】

その日、グラハム家の女家長が死んだ。


名は、エレンと言った。


内向的且つ秘密主義な性格のために、娘のアニーとは折り合いが悪く、晩年は精神が崩壊し認知症に罹ってしまい、終末医療の世話になるほどだった。


母と言う名の呪縛。そこから解き放たれたアニーとその家族たちに、どうして涙など流せようものか。棺に納められていくエレンの姿を、どこか遠い出来事のように眺める事しかできない彼らを、一体だれが責められるだろう。


その中でただ一人、グラハム家の末娘のチャーリーだけが、寂しそうな表情で祖母が納められた棺を見つめていた。彼女は生まれた頃からエレンに可愛がられていた。いや……執着されていたと言った方が、正しいだろうか。


グラハム家の女家長・エレン。

そもそも彼女が生きていた頃から、その周囲では不幸なことばかりが続いていた。


彼女の夫……つまりアニーの父は、既にこの世を去っている。死因はなんと『餓死』。統合失調症に罹った彼はあらゆることに神経過敏になり、ついには物を口に運ぶことさえできなくなり、その生涯を終えた。


また、アニーには兄がいたが、その兄も妄想症の果てに、16歳という若さでこの世を去っている。死因は自殺だった。自宅のベットの上で首を括り死んだのだ。『母が、なにかを自分の体に入れようとしている』との言葉を遺して……


統合失調症で亡くなった父。妄想症の果てに自殺した兄。そして認知症に罹って精神が崩壊した母・エレン。


アニーは、内心では恐怖していた。精神を病んで死んでいった父や兄に母のことを思えばこそだ。


精神病質に罹りやすい一族の先天性遺伝が、もし自分にも受け継がれていたら? 


いや、自分だけではない。


彼女の愛する二人の子供、息子・ピーターと娘・チャーリーに、それが受け継がれてしまったら?


母・エレンへの愛憎入り混じる感情を宥めようとしてグループ・セラピーにも参加するが、思ったような効果は得られない。


彼女は母のことを忘れようと……そして、しっかりと自分の家族と向き合おうと、ミニチュア模型を製作する仕事に没頭するようになった。


母の死から数日後、ピーターは友人宅で行われるパーティーに参加するために、車を借りたいとアニーに打診する。


息子がパーティーついでに酒を飲むだろうと予想したアニーは、牽制の意味も込めて妹のチャーリーも連れて行くように伝える。


夜の田舎道。チャーリーを後部座席に乗せて、友人宅へ向けて車を走らせるピーター。


彼は、知らなかった。


自分を含めた家族の総てが、もうこの時、悪夢の只中に呑み込まれていることに。




【レビュー】

上映時間、2時間と7分。


一般的なホラー映画にしては長尺と言って良い映画体験を終えた私は、明るさを取り戻した劇場の席から立ち上がりつつ、何か釈然としないものを抱えていた。


酒は飲んでいない。居眠りすらしていない。それどころか、画面に集中しっぱなしの2時間あまり。


だというのに、どうしたことか。話の内容が7割ほどしか理解できていなかったのだ。


加えて、消化不良のまま思考の胃袋に収まっている残り3割の部分に、私は言語化しがたい異様さを覚えていた。


物語の大筋は理解できた。この作品が持つ恐怖の意味も、あらかた咀嚼できたつもりでいた。


それでも、まだ脳内で有機的に結びつかない物語の断片が、ちらほらと浮遊していた。その残り3割の物語の断片を、足りない頭で結び付けようと試みるたびに心のざわつきを感じ、どうしても抑えることができなかった。


私は劇場を出てしばらく立ちすくんだのち、何かに導かれるように売店へ向かい、公式パンフレットを購入した。


自宅に持ち帰って読むのも惜しいとばかりに、人もまばらな休憩スペースに腰を下ろし、約20ページに渡るそれを読みふけった。


監督のインタビュー記事と、宇野維正の評論と、ネタバレ厳禁と銘打たれた解説文を読み込んだ。


これで9割ほど理解できた。それでもまだ、何かが足りなかった。この映画を完全に『理解』するための何かが。


消化されつつある物語。そこに秘められた恐怖の根源が何なのか依然として分からないまま、私は劇場を後にした。


小田急線に乗って自宅に帰るまで2時間近くかかる。近くの飲み屋で軽く一杯引っ掛けるかと思い立ち、私は駅前の、ちょっとした居酒屋に足を踏み入れた。


入ってメニューを眺める。焼酎にビール。沢山あるアルコールの中で、私は電気ブランをロックで注文した。ついでに、店一番の人気メニューだという焼餃子も頼んだ。


注文を取ったウエイターが厨房に消えていくのを見届け、喧騒に揺れる店内を軽く見渡してから、私はジッポで煙草に火を点けた。


その時だった。


脳裡に残っていた『ヘレディタリー/継承』の断片。それが突如として何の前触れもなく結合したのは。


そこから立ち上がってきたのは、まさしく『呪い』だった。世界を恨む呪詛そのものを、私は目撃してしまったのだ。


呆然とした心地のまま煙草をくゆらせた。味なんてしなかった。己の感覚の総てが、あの作品に込められていた恐怖のポテンシャルに吸い取られてしまったかのようだった。


もう以前の私には戻れない。そんな確信があった。


電気ブランが届いた。一杯飲んだ。気分が悪くなった。


餃子が届いた。一つ口にした。ますます気分が悪くなった。


私はふと店内を見渡した。若者たちが奥の席で賑わっていた。


私は途端に、彼らが憎らしくなった。どうしてそんなに人生を楽しそうに謳歌できるのかと、ヘレディタリーのパンフレットを突き出して恫喝してやりたかった。


貴様ら、これを観ろと。


貴様らもこれを観て、アリ・アスターの呪詛を受けるべきだと。


そう言ってやりたかった。


結局、三十分も経たないうちに店を後にした。


道端に出ると、そこかしこを人が歩き回っていた。ネオンの光が、夜の飲食街を染め上げていたが、もう何も食べる気は起きなかった。


明らかに、体調に異変が生じていた。


小田急線に乗ってからも、恐怖は続いた。電車に揺られる私の中に根付いた呪詛は、肥大を続けるばかりだった。きっと、ひどい顔をしていたと思う。


私はなんとかして逃げたかった。この恐怖から逃げたかった。ヘレディタリーに仕込まれた呪詛に、私の世界が壊されるのを避けたかった。


だから無心で、無言で唱え続けた。


大丈夫だ。大丈夫だ。俺は大丈夫だ。俺の家族は大丈夫だ。


俺は違う。俺は違う。俺は違う。俺の今の生き方は正しい。


自己暗示にも似た言葉を心の中心に放り投げていくと、次第に恐怖心が落ち着いていった。


そしてまた、私の脳裡に浮かんだキーワードがあった。


世界精神(ヴェルト・ガイスト)型の悪役』


それは、かのSF作家・伊藤計劃が自身のブログで残した言葉だった。


私は伊藤さんの小説以上に、彼の綴った映画評論が大好きだ。それは映画という映像の物語を、文化論的に紐解き、常に新しい発見を与え続けてくれた。私がクローネンバーグの良さを知れたのは、彼の影響が大きかったように感じる。


その彼が遺した言葉。それが世界精神(ヴェルト・ガイスト)型の悪役という言葉だった。


これは伊藤さんの造語であるのだが、その元ネタはヘーゲル哲学に散見される、精神的な渇望を埋める為に自由を実現しようと世界に働きかける『世界精神』にあるのだろうと私は見ている。


伊藤さん曰く世界精神(ヴェルト・ガイスト)型の悪役とは、監督のキャラクター化であると言う。


物語が本来持つ世界観を、己の思考で上書きしようとする存在。世界の根幹を揺るがすような演出を施す、創作者側の代弁者(スポークスマン)。世界に『ある問い』を投げかけ、その問いが物語世界を侵食していく様を楽しむ存在。その問いのほとんどは物質的な欲望から来るものではなく、精神的な渇望を求めての発露である。


代表的なところで言えば『劇場版パトレイバー movie1』の帆場英一であり、同じくパトレイバーの劇場版2作目に登場する柘植行人であり、『セブン』のジョン・ドゥであり、『ダークナイト』のジョーカーだ。


近年の作品で言えば『シン・ゴジラ』の牧教授がそれに当たるだろう。『私は好きにした、君らも好きにしろ』という彼の言葉は、HOSの開発者にして、BABELを撒き散らして東京を騒乱に呑み込んだ帆場英一に繋がるものがある。


そして『ヘレディタリー/継承』だが、これはまさに世界精神(ヴェルト・ガイスト)型の悪役の話である。


しかも前述した作品群のほとんどが、悪役に立ち向かい、あるいは打破する(セブンは少し違うが、しかしラストのサマセットの科白から闘う事の意義は見出されている)という物語であるのに対して、ヘレディタリーのそれは、まず立ち向かう事さえ許されない。


立ち向かえないのではない。そもそもそのステージに上がる前の問題なのだ。


この物語に登場する悪役に、人は立ち向かえない。それどころか、逃げる事さえ許されない。


家族が崩壊していく中にあって、目に見えない呪いが、呪詛が、常に登場人物たちの運命を支配し続けるからだ。


家族。この世界で生きる何十億もの人々は、その原始的なコミュニティから己のキャリアをスタートさせる。


もしもその時点で、己の運命が救いがたい悲劇の下に終わってしまうことが約束されていたとしたら、その人の生きる意味を、一体どこに見い出せば良いと言うのか。


生まれてこなければ幸せだったのか。だが人は生きなければ、幸せという言語に価値をつける機会にすら恵まれないのだ。


家族を虚無へ還す呪詛。その恐るべき悪夢は物語が始まった瞬間、いやそれ以前から、物語の枠の外で連綿と受け継がれていたのだ。


それを理解したからこそ私は心底恐怖した。それを引き金にして、また別の感情が沸々と湧き上がってきた。映画がもたらす恐怖に対してどこか『怠惰』だった自分を激しく叱りたくなったのだ。


私はこれまでの人生で、それなりにホラーを嗜んできた。しかしその全てが、物語の構造を紐解き、映像を味わっただけで恐怖した気になっていたに過ぎなかった。映像で語る物語。それが生み出す恐怖の表層をなぞっていただけなのだ。


私は怠惰だった。恐怖することに怠惰だった。映像の向こう側にある創作者の地獄をまざまざと見せつけるこの映画は、私のそんな姿勢を徹底して糾弾するインパクトがあった。


かつて『エクソシスト』があった。かつて『ローズマリーの赤ちゃん』があった。かつて『オーメン』があった。


それらの物語はすべて、超常なるモノとの戦いを描いていた。恐怖と戦う事こそが、人間に残された唯一の美しさであると主張するような作品たちだ。


それらと同じ映画的文脈に存在するヘレディタリーだが、これはダメだ。これは本当にダメだ。


だって、戦うことすら許されないのだから。逃げることすら許されないのだから。


ただのオカルト・ホラーなんてものではない。ヘレディタリーは呪詛なのだ。アリ・アスターは現代に蘇った映像の呪術師として、世界をこれからも、恐怖と絶望で染め上げるつもりに違いない。


彼は間違いなく世界に絶望している。家族というかたちに絶望している。


この作品を前にしては、あらゆるホラー映画は過去の遺物とならざるを得ない。


しかし意外なことに、この映画の評価は真っ二つに分かれている。


私のように、アリ・アスターの呪詛をまともに喰らって、もう以前の自分には戻れないと自覚する人々がいる一方、それほど恐怖しなかったという人も多数存在するようだ。


そういった方々はきっと、パンフレットを買っていないのだろう。あるいはもともと、映画に対するリテラシーが低いのかもしれない。


だが、この映画に関して言えば、それはとても幸福なことだ。イヤミではない。本当に幸福なことだ。


あなた方は知らなくていい。アリ・アスターの呪いに精神を蝕まれる必要なんてどこにもない。


ただ、これだけは覚えておいてほしい。


私たちが雲のかたちを知らないように、愛のかたちを知らないように、人生のかたちを知らないように。


私たちは家族のかたちを、知らないのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ