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【第1回】検察側の罪人

この内容は、9/1の活動報告から、明らかな誤用や誤字を修正した内容を一部転載しています。

『社会的に許される殺人と、そうではない殺人についての映画』


上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。



【導入】

原作は『犯人に告ぐ』でミステリー業界でその地位を確立させた雫井脩介。


監督は『クライマーズ・ハイ』『突入せよ!あさま山荘事件』『関ケ原』など、社会派映画や歴史映画を手掛ける原田眞人。


主演はキムタク、そしてニノでございます。SMAPが解散して、事務所内での派閥争いが消失したからこそ実現した初共演らしいです。ジャニーズの裏事情には詳しくないのでよくわからんけど。


初めに言っておきますと、私、キムタクの演技って結構好きです。世間では『何やってもキムタクになる』と散々な言われようですが、それって裏を返せば、役を喰ってしまうくらいに『木村拓哉』の『個の力』が強すぎる事を意味していると思うんです。ケイスケ・ホンダも驚くぐらいの『個の力』です。


それがでっかいスクリーンでバーンと出てくるのは、観ている側としては気持ちがいい。喋り方とか結構いいと思うんだけどなぁ。何がいけないの?いいじゃんキムタク。


そして彼の今回の役どころと言ったら、検事なんですよ。


そうですよね。おそらく私と同年代の方は『木村拓哉+検事=HERO』の公式が脳裡に浮かぶことでしょう。


しかし、あの法廷ドラマで彼が演じていた『ひょうひょうとしながらもバリバリの正義感を宿した検事』は今回では鳴りを潜め、また一風変わった検事役を演じています。



【あらすじ】

「罪を洗い流す雨……そんなのないからな」


東京地検の検事・最上毅と同じ刑事部に、検察教官時代の教え子だった沖野啓一郎が配属されてきた。


沖野は老夫婦刺殺事件の容疑者・松倉重生を取り調べることとなる。しかし松倉は、かつて最上が関わった女子中学生殺人事件の関係者でもあった。


2012年4月、大田区蒲田で刺殺事件が起きる。被害者は都築和直(74歳)と晃子(71歳)、2人暮らしの老夫婦。


老夫婦は年金のほかに、アパート貸しの家賃収入で生活をしていたが、和直は競馬が趣味で、競馬仲間たちに数万から数十万円程度の金貸しをしていた。


最上の指導のもと、沖野はこの捜査本部事件を担当することになる。捜査に立ち会った最上は、複数の容疑者リストの中から一人の容疑者の名前に気づき驚愕する。


松倉重生――それは、すでに時効となった23年前の根津で起きた、女子中学生殺人事件の有力容疑者と当時目されていた人物だった。


殺された少女・久住由季(当時中学2年生)は、最上が大学時代に親しくしていた寮の管理人夫婦の一人娘であった。しかし結局は証拠不十分で逮捕には至らず、事件は迷宮入りしたまま時効を迎えた。


松倉は、リサイクルショップでアルバイトをする、現在63歳の風采のあがらない男であった。


最上は、松倉が今回の蒲田の刺殺事件の犯人であるならば、今度こそ松倉に罪の償いをさせ、法の裁きを受けさせなければならないと決意する。


だが、そんな最上の決意とは裏腹に、捜査が進むにつれ新たな有力容疑者が浮上する。


次第に松倉犯人説は難しくなっていく。しかしそれでも、最上はあくまでも松倉にこだわり続ける。


一方、松倉の取り調べを担当する沖野は、最上が松倉へ向ける異様な執念を訝しく思い、彼が指示する捜査方針に疑問を持ち始める。



【レビュー】

社会的システムの矛盾性や人間の善悪を描く作品において『法廷劇』ほどよく使われてきたガジェットもないでしょう。『十二人の怒れる男』は、その最たる例であると言えます。


日本でもこの手の作品はよく作られていて、直近では是枝裕和監督の『三度目の殺人』が挙げられます。あちらは弁護士が主人公で、今回の検事が主人公の映画とは対照的に見えますが、取り扱っている内容というのはほとんど同一のものであると言えます。


現代日本の裁判制度が抱えている問題。『出来レース感』や『パワー・ゲーム感』を彷彿とさせる、弁護士と検事の利害調整を経た裁判の流れというのは、舞台劇における台本に近いものがあります。


裁判と言うと、リアルタイムで進行していく『善と悪の闘い』のように思えますが、そんなものは全てまやかしです。


『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』で被害者の遺族が仰っているように、事前の打ち合わせがあり、おおよその裁判結果をどうするか、ある程度見通しを立たせたうえで始まります。


報道で流れている法廷ニュースは、既に確定している『結果』へ至るまでの『過程』を見せているに過ぎません。


それを、我々一般人は、さもリアルタイムで進行している司法の闘いであると錯覚させられているだけなのです。


実に巧緻にして玄妙と言わざるを得ない、複雑怪奇な『社会の流れ』が生み出す事実を、大衆が真実と誤認してしまうのも、致し方ありません。


被疑者を有罪、あるいは無罪にするため、あらゆる法的知識を総動員して対立する検事と弁護士。自由意志により成立していると思われるその(一見して正義心に満ちていると見える)仕事は、現代における議員の多くがそうであるように『サラリーマン化』されてしまっています。


司法従事者たちは――意識しているかそうでないかは別として――『国家の安全維持』という名の巨大なシステムの歯車の一部として動くことを良しとするしかないのではないでしょうか。


だとすると、そこには人間個人の良心が入り込む余地など、きっとないのでしょう。一人の、個人の思想や道徳観念が何よりも重要視されるようになったら、多数決の原理で動く資本主義社会の構造は根底から崩れ去ってしまうからです。


つまり死刑というのは、社会や国家を存続させていくために『世間を混乱させている(と社会が勝手に定義している)人間を排除する』うえで必要とされるシステムの一つであり、合法的な殺人というわけです。国の根幹を守るために許された、都合の良い殺人と言い換えることも出来る。


これに並ぶものがあるとするなら『戦争』しかないでしょう。


『一人を殺せば犯罪者だが、千人殺せば英雄になれる』という使い古された陳腐でシニカルなこの言い回しは、しかし的を得た表現です。


『戦争』で殺人を犯したとしても、それは自国に迫る脅威を打ち払った『功績』として称えられ、人間としての倫理に背いていると断罪されることはまずありません。


それが罰せられるときは、国が負けた時だけです。戦争裁判は戦勝国側の勝手な都合の下で『誰と誰と誰をA級戦犯とするか』を決める打ち合わせがあったうえで始まる、ただの『システム』としてしか機能しません。


我々は、裁判制度に夢を見過ぎている。


裁判というのは、司法の原則に則って人を裁くということは、実は個人個人の正義で為されるものではなく、ただの『システムが決めた流れ』に沿って事案を処理していくだけの、ベルトコンベア的作業以上の意味を持ち合わせてはいません。


そこに『現実のやるせなさ』を無意識に、あるいは意識的に見い出し『これはちょっとおかしいんじゃないのか』と遺憾の念を覚えている人達が少なからずいるからこそ、21世紀を迎えた今に至っても『敵討ち制度を復活させろ』といった論調が、ヤフコメやツイッターを賑わせるのでしょう。


人間は社会性を身につけた生物であるはずなのに、実は心のどこかで『社会に従順として帰属すること』を拒んでいる存在であるのかもしれません。


『社会に従順として帰属することを拒む』……それが、この映画においてはキムタク演じる主人公・最上の性格に顕れています。


彼は『検事』という『司法システムの部品』の一つでありながら、ある事情がきっかけで部品であることを逸脱し、己の感情を優先させるがままに、何としても松倉を死刑台へ立たせてやりたいと願います。


事件の真実を闇に葬り去ってでも、松倉を罰してやりたい。それが、最上にとっての『絶対に譲れない正義であり現実』なのです。


押井守監督の作品群(特に『劇場版機動警察パトレイバー movie2』)に共通するテーマと同じテーマを、この映画は内包しているように私は思います。


正義や悪について語るということは、我々が現実と認識している現実は、他人からしてみれば虚構に過ぎない、といったことと同値であると言えます。


そのカギとなるのは『主体性』です。正義も悪も、現実も虚構も『主体性』により、その性質を変えていきますが、我々は決して、その『本質』を捉えることはできません。


いや、そもそもが『正義や悪』『現実と虚構』に『本質』なんてあるんでしょうか。我々が、ただなんとなく『そう錯覚してしまっているだけ』なんじゃないでしょうか。


世界に無情として存在するのはグレー・ゾーンの価値観。どこまでも広がる灰色の風景。我々は、その中を空ろな視線で彷徨う亡霊であることに耐えられないから、自分達にとって『都合の良い世界や価値観』を演出しているだけなのではないでしょうか。


そういったことを色々と踏まえてこの映画を観ていると、実に最上のキャラクターが魅力的に映るのです。彼は他人を利用してでも、自らの信じる正義を貫いていきます。


たとえそれが『虚構に囚われた愚者だ』と咎められても、それでも彼は止まりません。


劇中で彼はある『罪』を犯しますが、映画を観終わってみると、彼の犯した罪を、果たして糾弾する権利が観客にあるのかどうか、分からなくなります。


我々の倫理観や道徳観は、実はただの『思い込みに過ぎない』……そんな事実を突きつけられるような映画です。

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