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【第17回】サスペリア(2018年版)

『機能美の破壊を通じて抑圧からの解放を描いた映画』


西新井のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。


全国のダコタ・ジョンソン・ファンよ、喜べ! ついに彼女の正真正銘の代表作が出来たぞ! 俺達はもう『フィフティ・シェイズ・シリーズ』のクソ悪夢に悩まされなくていいんだッ! ヤッターーーーー!!


あ、今回は私、とても気持ち悪い文章をところどころに書くと思いますので、どうかご容赦くださいませ。





【導入】

1977年に公開されて以来、その鮮烈な色彩表現と恐怖心を煽る音響効果によって世界を恐怖のどん底に突き落とした、ダリオ・アルジェント監督の傑作イタリアン・ホラー映画『サスペリア』。


その『サスペリア』を14歳の時に鑑賞して以来、ずっと自分なりの『サスペリア』を撮影したいと願い続けてきたルカ・グァダニーノの手で再構築(リビルド)されたのが、今回レビューする『サスペリア(2018年版)』です。


以降、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』をオリジナル版と呼称して話を進めていきます。


あ、ちなみに自分はアルジェント監督の作品はほとんど観てます。サスペリアも昔に三回ほど鑑賞しました。


でも個人的にはサスペリアもそうですが、フェノミナも好きなんですよね。あの『美少女が蛆虫のプールに突き落とされる』ってシーンがたまらなく最高です(まぁおがくずなんだけどさ)。


監督は『君の名前で僕を呼んで』が世界中で絶賛されつつ、しかし実はかなりクセが強い映画を撮る事で知られるルカ・グァダニーノ。彼の映像感覚が本作ではいかんなく爆発しています。


そして主演はダコタ・ジョンソン! きた! ダコタ・ジョンソンですよみなさん! 私の敬愛するロバート・ロドリゲス監督と縁の深いアントニオ・バンデラスを義父に持ち、ロドリゲス監督の作品にも出演したことのある名優ドン・ジョンソンの実の娘です!


そういうわけで『ソーシャル・ネットワーク』の頃から注目していたわけですが、決して良作に恵まれているとは言い難いそのフィルモグラフィ。


マミーポルノ映画『フィフティ・シェイズ』三部作で主役に抜擢されましたが、そのあまりにもクソな脚本とゴミのような映画の出来に怒りを覚え、SMプレイの快楽に溺れていくマゾ女子大生役を彼女が演じた時は悔しくてたまらなかった。くそ! なんだよ! 俺だってダコタの美しいボディを鞭で叩き……失礼。


ルカ監督に見い出されたのが幸いというか、同年に『胸騒ぎのシチリア』に出演できたから、まぁいいか……ってよくねーよ! やっぱよくねーよ! 『フィフティ・シェイズ』はやっぱよくねーよ! 三部作に渡ってダコタのヌードシーンしか見せ場がない映画ってなんだそれ! しかもダコタとねんごろになるのが金持ちのイケメンパリピ野郎ってふざけんな! 俺の陰キャ魂に火を点けたな! くそ! くやしい! でも右手が止まら……失礼。


……というわけで、随分と彼女の扱いに悶々としていた私ですが、いやーここにきて傑作が出来上がるとは。人生何があるかわかったもんじゃないっつーか、彼女の持つ肉体の美しさが良い方向で開花されましたね。


脇を固めるのは、これまたラース・フォン・トリアーなんていう変態的映像作家にして映画の申し子たる監督の『ニンフォマニアックVol2』で知られるミア・ゴスに、『キック・アス』のヒット・ガール役でその名を広く知らしめたクロエ・グレース・モレッツ、ダニー・ボイルのサスペンス映画『ザ・ビーチ』での好演が懐かしいティルダ・スウィントンに、そしてオリジナル版のサスペリアで主役を演じたジェシカ・ハーパーまで出演と、ルカ監督のオリジナル版に対する敬意が見て取れる布陣となっています。


でもこの映画、アルジェント監督からはすごい不評とのこと。なんでも『オリジナル版の精神を侮辱された』とかなんとかで、大変ご立腹されているみたい。


彼が言うところの『オリジナル版の精神』とはなにか。本作を鑑賞すれば、彼が何に怒っているのかが分かります。





【あらすじ】

1977年。ドイツの首都ベルリンは、怒りと憎しみに満ち溢れていた。


東西冷戦の象徴たる壁は依然として君臨し続け、西ドイツではドイツ赤軍による反体制デモが続いていた。全体主義の復興を掲げる彼らの暴力は加速し続け、ついにはドイツ経済連盟の会長を誘拐するだけでなく、航空機をハイジャックするなどの事件を起こすまで膨張していた。


混乱と狂気に渦巻くベルリン。そこで心理療法士として勤めるジョゼフ・クレンペラーの下を、パトリシアという一人の少女が訪れる。


ドイツでも名高いマルコス・ダンス・アカデミーの生徒である彼女は、あろうことか籍を置いているはずのアカデミーに大いに怯えていた。常に何者かに見張られていると意識し、憔悴しきっている彼女は、クレンペラーに対して驚くべきことを告白する。


『あの学校には魔女がいる』


その台詞を最後に残して、パトリシアは忽然と姿を消した。


時を同じくして、アメリカから一人の女性がマルコス・ダンス・アカデミーを訪れる。


彼女の名はスージー・バニヨン。キリスト教メノナイト派の家庭で育った彼女は、厳格な掟で行動を縛り上げる実家に、とてつもない息苦しさを覚えていた。


スージーは己の心の内に眠る『私のいるべき場所へ行きたい』という願望に従い、はるばる大西洋を渡って、マルコス・ダンス・アカデミーの門を叩いたのだ。


推薦状もないままにアカデミー入門のオーディションを受けるスージー。周囲からはさほど期待の眼差しを向けられていなかったが、彼女の肉体に宿る機能美が熱情をほとばしらせて躍動するにつれ、アカデミーの講師たちの目の色が変わっていく。


スージーに熱い視線を向けていく講師陣。その中には、アカデミーの有力者である振付師、マダム・ブランの姿もあった。


晴れてオーディションに合格し、アカデミー生徒の仲間入りを果たしたスージー。さっそく翌日から練習に入る彼女だったが、公演を控えている『民族』と題名されたダンスの練習中、生徒の一人であるオルガが、マダム・ブランに噛み付いた。


オルガはパトリシア失踪にマダムが、いや、アカデミーが絡んでいると思い込み、烈しい口調で彼女を罵る。


『あなたが全てを操っているんでしょう!? この魔女め!』


怒りのままに練習場を飛び出すオルガ。彼女はパトリシアの代役として『民族』の主役を演じることになっていたのだが、これではまた代役を立てなければならない。どうするべきかと悩む講師陣に、スージーは勇気をもって『自分がやります』と名乗り出る。


マダム・ブランはスージーの才能を認めつつも、その動きには粗さがあると見ていた。それでも試しに踊ってみせてという彼女の要求に、スージーは素直に応えていく。


一方で、アカデミーを抜け出そうと荷造りをして寮の部屋を飛び出したオルガだったが、何の前触れもなく流れ出す涙に困惑しきっていた。そうして階段を下りていくと、何者かが自分を呼ぶ声が聞こえ始めた。


『オルガ、こちらです。こちらに来なさい』


声に従ってはならないと理解しながら、まるで操り人形のように声の導かれる方向へ向かわざるを得ないオルガ。そうして彼女が辿り着いたのは、四方が鏡張りの、見た事もない練習場だった。


ここはどこなのか――嫌な予感を覚えて元来た道へ戻ろうとするオルガだったが、出口は何時の間にか塞がれ、逃げ出す事ができない。恐怖に怯えていると、彼女の腕が突然、あり得ない方向に捻じれはじめた。


その頃、スージーはマダムの助力を受け、外が雨嵐へと変わるなか、激しく踊りを披露し続けていた。


そんな彼女の動きに合わせるように、遠く離れた謎の部屋に閉じ込められたオルガの肉体が、恐るべき変容を来たしていく。


スージーが腕を伸ばせば、オルガの腕が折れ、スージーが腰を捻ればオルガの腰が砕け散り、スージーが足を延ばせば、オルガの大腿骨がありえない方向へねじ曲がる。


スージーが躍動すればするほど、オルガの肉体はとことん破壊し尽くされていくのだ。


想像を絶する恐怖と苦しみと痛みに襲われ、絶叫と尿を撒き散らすオルガ。それでも肉体の破壊は止まらず、ついには口から血と泡を吹き出して倒れ込む。


そこにあるのは、かつてオルガだったもの。今では虫の息と化した、ただの『肉の塊』に過ぎなかった。


――マルコス・ダンス・アカデミーは、普通のダンス学校ではない。


パトリシアの言葉は妄言では無かったのだ。


マルコス・ダンス・アカデミーはいまや、絶対的君臨者としてアカデミーを長年に渡って裏から支配する『魔女』マザー・マルコス派と、彼女と対立する『魔女』マダム・ブラン派の二大勢力が暗闘を繰り広げる場と化していた。


マザー・マルコスは朽ちていく己の肉体を捨て、新たなる魂の『器』を求めていた。パトリシアもオルガも、彼女の器候補として重宝されていただけの存在だった。


だがここに来て、彼女の獰猛とも呼べる興味の矛先は、アメリカから渡ってきたスージーただ一人へと向けられていた。


動乱と混乱に陥るベルリン。その一角を占める『魔女の園』で、血の惨劇が降り注ぐ。


全ては、嘆きの母(サスペリオルム)の導きのままに――





【レビュー】

『機能美』という言葉がこの世にはあります。


辞書によれば『機能美』とは『余分な装飾を排してむだのない形態・構造を追求した結果、自然にあらわれる美しさ』のことを言うのだそうです。


その『機能美』に代表されるのがまさに人体。人間の体です。人間という生き物は進化の過程で余分な機能やそれを備えた器官を排し続け、最もシンプルな造形美としての肉体を獲得しました。


本作は人間の体に宿る『機能美』を描き、その機能美を破壊するシーンによって秩序を破壊し、また新たな秩序を生み出すということを暗喩的に描いた映画です。


この人体の機能美を強調する上で、劇中のコンテンポラリー・ダンスは極めて重要な位置を定めています。


オリジナル版のサスペリアではガジェット以上の役割を与えられなかったバレエというものを、人間の身体性が宿す美しさや躍動感を発露するのにうってつけなコンテンポラリー・ダンスへ、つまり、より生々しい『舞踏』へ置き換えたことで、この映画の持つ物語的強度というものは随分なレベルまで高まっています。


スージーの美しいボディが激しく情熱的に踊る様には生命を謳歌する生物の本質が現れ出ており、その動きに合わせて破壊されていくオルガの体からは、強い死の匂いが感じ取れます。


どぎつい彩色やGoblinの音響効果に頼る必要はありません。人体本来が獲得した生々しい美しさに陶酔する一方、それが永遠のものではないと皆が無意識に感じている肉体への儚さを呼び起こすこの映画は、観客を静かな恐怖へ誘い込みます。


この映画は『生と死』をグロテスク且つエロチックな手法で描きつつも、単なる監督の自己満足な作品として完結してはいません。ここでは、我々人間の持つ肉体の外的な弱さが描かれており、ひいては社会に抑圧される人々の内的な弱さも描かれています。


単なる娯楽性以上のものを追求している以上、どうしたって160分もの長尺にならざるを得ないのですが、私としてはむしろ、よく三時間いかなかったなぁと感心してしまいます。長いんだけれども、とても濃く描かれています。


ここでまた話を『機能美』に戻しますが、科学の発展により我々の肉体の構造が数学的に大方明確化できるようになった今、機能美とは『目に見えて明らかな秩序である』と言い換えることもできます。


遺伝子が持つ精密な設計図の下に成り立つ我々の肉体は『秩序』の塊でありますが、その秩序が、すなわち肉体が、この映画ではとことん破壊されていきます。


人体はゴミクズのように吹き飛び、首は千切れ、内臓は吐き出され、死屍累々の山が築かれていきます。


秩序の破壊は魔女の園たるマルコス・ダンス・アカデミーだけでなく、物語の骨格の淵でも繰り広げられています。すなわち1977年のドイツ。左翼テロによる凶悪犯罪は、現政権という『秩序』を破壊しようという行為に他なりません。


しかし、魔女の園で行われる『秩序の破壊』と、左翼が起こす『秩序の破壊』は、その二つが互いにメタファー的視点においてリンクし合い、物語に推進力を与えつつも、含まれる意味合いは全く違います。


抑圧された人々の解放。それが魔女の園で行われる『秩序の破壊』の正体です。嘆きの母(サスペリオルム)は弱き人々が地下に暮らさざるを得ないのを嘆き、そんな現状を己の権力の下で維持し、ディストピア化しようとする学園の支配者達に対しても嘆きます。


本作では画面全体が落ち着いた色味で展開されていますが、その色味は嘆きの母(サスペリオルム)の淡い吐息に色を塗ったかのような仕上がりとなっており、魔女の園が抑圧された人々を囲む檻であることの象徴であるかのようにも見えます。


抑圧された人々というのは、つまり『魔女』のことを意味します。


そもそも魔女というものは、超自然的な力を操り、様々な現象を人々に引き起こしながらも、その精神性が土着の神と一体化しているという、シャーマニズム的思想の下に生まれた存在です。


それが、キリスト教の伝搬によって土着の神は異教の神と再定義された結果、魔女たちは処刑の火に焼かれてしまうようになった。自分達の存在意義を捻じ曲げられた挙句、その辛さをただ孤独の中に圧し留めて、土に還るしかなかった。


元来の居場所を喪失し、こうあるべきだという価値観を押し付けられた弱き人々。歪められた彼女たちの立場を救い、再び立ち上がらせるのは他でもない女であり、そしてそれは、やはり魔女なのです。


この映画の極めて優れている点というのは、ここ最近の流行である『女性の強さの再発見』でも『女性の社会進出の素晴らしさ』を描いた点ではないと思います。


女性に、女性としての『性』を捨てさせることなく、むしろ生まれついてのそれを女性のアイデンティティとして誇り、生きる源として描いている点が極めて白眉なのです。


だからこそ、本作では徹底した人体の破壊を描かなくてはなりません。社会に蔓延る秩序を過激に破壊してやらなくては、女性まじょとして立ち上がることはできないのだという、ルカ監督の熱いメッセージが感じ取れます。


そのメッセージを強く伝える上で、やっぱり『機能美』の本質を訴えるコンテンポラリー・ダンスは外せないガジェットであり、ダコタ・ジョンソンの持つ肉体の美しさがそこに加わることで、物語に相当な説得力を与えているのです。


魔女じょせいとして生まれたことを嘆くのではなく、魔女じょせいとして生きることに誇りを持つこと。


そう、全ての女性は魔女であるのです。それを受け入れる社会を新たに秩序立てていくことこそが重要なのです。


なぜかって? 母に代わる者はいないからですよ。命を生み出す母には誰でもなれる可能性を秘めていますが、一度母となってしまったら、そこに代わる者は誰もいないのです。


母というもの。女というもの。そして魔女であるという存在。


全く異なるように見えて、しかし全て同一のものとして描かれる三つの存在すべてに救いを与えるような構造は、オリジナル版にある「ただ魔女をやっつけてお終い」な展開からは大きく逸脱しており、そこにアルジェント監督は嫉妬したんじゃないでしょうか。だから怒っているのでは?


さて、真面目なレビューはこれぐらいにして、ここから先は私の性癖全開な内容でお送りします。


まず何といっても、ダコタ・ジョンソンの踊りですね。コンテンポラリー・ダンスをしている最中の彼女の手足の伸びや、腰や首を捻る動作がとても激しくて、みすみずしくて、たまらなくエロいわけです。


ダコタ・ジョンソンの官能的な舞踏が画面を支配する度に、そうですねぇ、吉良吉影風に言うならば「なんていうか……その…下品なんですが……フフ……勃起……しちゃいましてね…………」って感じですね!わはは!


運動している時だけじゃなくて、ストレッチしている最中のダコタ・ジョンソンの股関節の開きを観察すればするほど、たまらなく耽美な気分に浸れるんです。


フィフティ・シェイズはただのエロい映画だったけど、この映画はエロさだけじゃなく、ダコタ・ジョンソンの肉体が持つ美しさを堪能できるところもたまりません。


だから唯一、この映画に不満があるとするなら、もっとダコタ・ジョンソンの踊りを見せろ! といったところですね。ブルーレイで特典映像につけてくれないかなぁ。


あとは、あらすじにも書きましたが、オルガの肉体が破壊されていく一連のシーンは、視覚的なグロさは控えめでも、骨やお腹の内部がどうなっているか想像すればするほど恐怖が増していいんですよね。


それに、スージーのダンスに合わせてオルガの肉体が破壊されていくってのが、なんだかスタンド攻撃を受けている人みたいで、とても見ごたえがあるのもいいです。


オリジナル版だと、剥き出しの心臓にナイフをグサグサ刺したり、金網に絡め取られて全身から血が流れたりといった、視覚的ゴア描写が多いですが、今回の映画において、それは最後の方のシーンに固まっています。


しかも前述したように徹底したつくりになっているから、ゴアの描き方に関してはアルジェント監督よりも数段上のような気がします。


ですが、スプラッター・シーン自体はそんなに怖くない。むしろ怖いのは、ゴアシーンに至るまでのシークエンス。ここがとても不安を煽るような流れになっているし、なによりこの映画はオリジナル版から必要なガジェットだけを借りてきた『全く別物のサスペリア』なので、どんな展開になるのかは観客も分からないんです。だから怖いんですねー。


多分ね、オリジナル版に強い思い入れがある方は、この映画の大オチがまったく受け入れがたいと思うんですよね。アルジェント監督の怒りポイントはそこにもあるんじゃないかなと推察します。


でも、キリスト教的な価値観に縛られた家庭とか、魔女という言葉を元来の意味に立ち直って製作された作品であることを鑑みれば、やはりあれ以上のオチは存在しないでしょう。


というわけで、控えめに観ても本作は私としては傑作なわけで、間違いなくダコタ・ジョンソンの代表作の一つになったなぁと、映画館をホクホク顔で後にしました。


ちなみに、本作を鑑賞するにあたって、オリジナル版のサスペリアを観る必要はありません。そんなことをしなくても、観て下さったお客さんに強い刺激を沢山与えてくれることでしょう。


ただし、鑑賞する前に『コンテンポラリー・ダンス』と『ドイツ赤軍』と『キリスト教メノナイト派』については、ある程度調べておいたほうがいいかもしれません。


人間の機能美と、それが破壊されていく光景に快楽を覚える人には強くお勧めします。


逆に、どぎつい色彩効果や音響効果が好き! という方にはお勧めできません。






余談

映画が始まる前の予告編で『運び屋』の映像が流れたんですが、後ろの席に座っているおばちゃん二人組がこんなことを言ってました。


『イーストウッドって、ジジイになってもかっこいいよね』


マジに同感だぜおばちゃん! きっと彼は骨になってもカッコイイに違いない!

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