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【第15回】十二人の死にたい子供たち

『内省的な小説を映像化することの難しさを教えてくれる映画』


上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。


つい先日、傑作の『ジュリアン』を観た反動からか、今の私……


これから紹介する映画の出来に、たいへん怒ってます。


最初に断っておきますが、今回のレビューは実に棘のある内容になっております。


しかしながら、これは映画紹介のエッセイを書くと決めた私の本来の意図からは、大きく外れるところです。


【序文】にも書きましたように、私がこの『MAD CINEMAX-ムービー・ロード-』を執筆しようと決心した理由は、多くの皆さんにリアルタイムで公開されている映画の良さを知っていただき、実際に映画館に足を運んでいただき、素晴らしい映像体験をしていただきたいという、お節介ともとれる想いがあるからです。


そうして映画文化を良く知らない方々が、映画に興味を持っていただけたら、いち映画ファンとしては嬉しいことこの上ない訳です。


この当初の目的を実行するにあたり、私は一つのルールを己に課していました。自分が感銘を受けたり、強い衝撃を受けたり、考察したいと思った作品。または文句があっても「これは!」と感じたり、「世間では不評だけど、私はこういう風に楽しんだよ!」と感じた作品のみ、レビューしよう。それが、一連の映画レビューを執筆する際に強く心掛けたことでした。


自分の心の中に何かしらの爪痕を残した作品を紹介することで、映画を前向きにとらえたい。いや、前向きにとらえるべきだ。そう思いました。


変に作品をけなしたり罵倒したり、そういうのはすでに他の媒体が担っていることであるから、自分はなるたけ、鑑賞した映画の“いいなと感じた面”だけを伝えるようにしよう。


それこそ、多くの人に映画に関して興味を持っていただくための、最大の努力行為であると思ったのです。


しかしながら、まことに遺憾ではありますが、今回、私は己に課したそのルールを破らせていただきます。


なぜかと言いますのは、今回紹介する映画の原作は、私が最も尊敬している作家の作品で、且つ新境地を開いた作品とも言えるからであり、それなのに映画の出来に関して不満な点が多いからです。


ただし、監督や出演俳優の人格を否定したり、作品に携わった方々の精神を傷つけるような発言は控えさせていただきます。


なぜこんなことになってしまったのか? この作品を映画化することに一体どんな意義があったのか?


それを整理する形で、レビューをさせていただきたいと思います。





【導入】

珠玉のサイバーパンク小説『マルドゥック・スクランブル』で、2003年の日本SF大賞を獲得後、2010年には『天地明察』で本屋大賞を受賞したことで歴史作家としての一面を開花させただけでなく、ゼロ年代のロボットアニメの代表格である『蒼穹のファフナー』で脚本を務めるなど、変幻自在な創作活動を精力的に続ける、作家・冲方丁(うぶかた とう)


その冲方丁が、デビュー20年目にして初めて書き上げた『現代長編ミステリー小説』を原作とする、映画『十二人の死にたい子供たち』


監督は、『金田一少年の事件簿』『ケイゾク』『TRICK』『SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜』などのヒットテレビドラマを手掛け、『20世紀少年』『イニシエーション・ラブ』などの映画作品を手掛けた、堤幸彦。


主演は、杉咲花、新田真剣佑、橋本環奈、北村匠海、吉川愛、黒島結菜など、人気若手俳優のみで固められています。


出演者の中で私が知っているのは、『BLEACH』で朽木ルキア役を演じた杉咲花、『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』で億泰を演じた新田真剣佑、それに『アオイホノオ』で津田さん役を演じた黒島結菜。あと演技は見た事ありませんが橋本環奈はもちろん知っています。


しかし最初、新田真剣佑が出演しているとは分からなかった。あのバカな億泰を見事に演じきった人とは思えないくらい、今回は理知的なキャラを演じています。


また、『アオイホノオ』で実にオタクが好みそうな朴訥とした可愛らしいキャラを演じた黒島結菜が、今回は実に嫌な面倒くさい性格の女を熱演しています。


そう、演技については……うん、文句ないと言いたいけど、文句あったわ。


あぁ、あと杉咲花はもうちょっと何とかして欲しいけど、まぁ大目に見て役者たちは頑張っていたと思います。そういうことにしときます。


問題は監督と、この映画を企画したプロデューサー陣にあると思います。あと配給会社もね。なんで密室劇をあんな大型スクリーンでやろうと思ったんでしょ。アホじゃない?





【あらすじ】

廃業した病院にやってくる、十二人の子どもたち。


建物に入り、金庫を開けると、中には1から12までの数字が並べられている。


この場へ集う十二人は、一人ずつこの数字を手にする決まりだった。


初対面同士の子どもたちの目的は、みんなで安楽死をすること。


病院の一室で、すぐにそれは実行されるはずだった。


しかし、十二人が集まった部屋のベッドにはすでに一人の少年が横たわっていた。


彼は一体何者なのか、誰かが彼を殺したのではないか。このまま計画を実行してもいいのか。


この集いの原則「全員一致」にのっとり、十二人の子どもたちは多数決を取ろうとする。


彼らが出す結論は―。


※文庫本のあらすじより抜粋





【レビュー】

いつもだったら公式とかウィキペディアのあらすじを使わず、私なりに物語を解釈した独自のあらすじを載せているわけですが、今回それをやるとそこだけに熱量がいってしまいそうなので、すいませんが、文庫本のあらすじから拝借させていただきました。


まず、この映画をレビューする前に、冲方丁の作家性というものを私なりに論じさせていただきます。


世間で冲方丁について聞くと、大半の方が『ああ、天地明察書いた人ね』という返事を寄こしてきます。本屋大賞を受賞したから、その印象が強いんでしょう。


しかし私的なことを言わせてもらえば、冲方先生の代表作は『天地明察』ではなく、前述した『マルドゥック・スクランブル』です。


学生当時、この小説を読んだ時に、私は心の底からすさまじい衝撃を受けました。


主人公は少女娼婦、その相棒は知性を宿す金色の鼠、その金色の鼠と袂を分かち合った重力使いの虚無男、人間を部品としか見ない恐ろしい殺し屋たち、イルカと人間のホモカップル。極めつけは作品の半分以上を占める圧巻のカジノ・シーン。


SFでカジノっていったいどういうことだ!?と困惑しつつも、まるで世界の真理を覗いているかのような興奮に、私は熱病のように浮かされました。


もちろん天地明察も拝読済です。素晴らしい小説でしたが、でもやっぱり『マルドゥック・スクランブル』ほどの衝撃はなかった。


冲方先生がホテルに缶詰めになってゲロを吐きながら書いたというだけあって、あのカジノ・シーンに神懸かり的な力が宿っているのは間違いありません。


さて、その『マルドゥック・スクランブル』に『プロフェッサー・フェイスマン』というキャラがいるのですが、このキャラが作中で『生命の価値』に関して次のような発言を残しています。






『命に価値があるか?』フェイスマンは力を込めて繰り返した。『なんという真理を逆転させた愚かな問いだ。価値はあるのではない。創り出すものだ。(中略)人間は生命と死に対して、価値という観念を長い時間をかけて創り出してきた。命に価値があるのではない。人間は価値という観念を創り出し、それを様々なかたちで命に当てはめたのだ』






これこそが、冲方先生の作家性です。サルトルの実存主義にも通じる考えと言えるかもしれません。


はじめに物質や現象があったのであり、価値は付随していない。物や概念に価値を付け足すのは人間自身であり、どのような価値をつけるかは、その人の世界の見方次第である。


『マルドゥック・スクランブル』において、少女娼婦のバロットは恋人に全身を丸焼けにされて生死の境目を彷徨います。その後、禁じられた科学力で蘇生した彼女は、自らに備わった力を復讐のために使おうとしますが、その過程で様々な敵や協力者と遭遇し、『自らの生きる価値』がどこにあるのかを見出していきます。


ティーンエイジャーの少年少女を描く際に、冲方先生はいつもこの『生きる価値』をキャラクターに問いかけます。


『シュピーゲル・シリーズ』に登場する少年少女たちも、『ばいばい、アース』のラブラック・ベルも、もちろん『蒼穹のファフナー』に登場するキャラクターたちにも、それを問いかけます。


果たして君達は、自分の命に正しい価値をつけられているのか?

自分の人生を正しく価値づけすることができているのか?


冲方先生は、ほとんどの作品で『命の価値の問い直し』を根幹のテーマに設定して執筆しています。


それだけ冲方先生にとっては重要なテーマであり、そしてこのテーマは作品を都合よく動かすだけの造られたテーマではなく、きちんと我々の現実世界にも根差したテーマなのです。


もう一つ、これは『テスタメント・シュピーゲル』の刊行時にAmazonのインタビュー動画で仰っていた事ですが、冲方先生は十代の少年少女を描く際に「いかにして青春の葬式を挙げさせるか」を念頭に入れて書いていると発言しています。


社会の厳しさや矛盾とぶつかり、挫折を味わった十代の少年少女が、どうやって己の中にある未熟さを捨て去り、大人へと成長していくか。これが重要なのだと仰っています。


『十二人の死にたい子供たち』にも、それは確かに描かれています。それも今までの作品には無いくらい、際立って描かれています。


原作の小説では、キャラクター一人一人の心理状態や振る舞いがこと細かに描かれており、今までにないほど、キャラクターの心情描写が深堀りされています。


どうしてそんなことが可能だったのかと言えば、一つに冲方先生の『言葉への嗅覚』が一段と研ぎ澄まされているからであり、またもう一つは『現代』を舞台とした物語であるからです。


SFや時代小説では、世界の仕組みや文化や価値観を描くのにどうしてもページを割かなくてはいけません。


しかし現代を舞台にすれば、そういった作業はすべて省略できるため、キャラクターの内面世界を描くのに多くのページを割くことができる。


結果として、原作ではこれでもかというくらい、深く深くキャラクターの内面が描かれ、いま誰がどんな理由からどんな想いを抱いているかが、スムーズに描かれています。


これが、原作小説の最も白眉なところなんです。


この小説はミステリージャンルの作品ですが、大掛かりなトリックもなければ、大どんでん返しの展開もありません。


メインとなるのは、十二人の死にたい子供たちが、集団自殺を決行するか否かで激しく討論し合うという点なのです。


まるで『真剣十代しゃべり場』みたいな討論が中盤から後半にかけて延々と続くわけですが、ここが面白いんです。


なにが面白いかと言えば、討論を通じて、あるキャラクターが他のキャラクターにどんな印象を抱いているかが露わになっていく過程が面白いんです。


Aというキャラから見てBというキャラは愚鈍そうに見えても、CというキャラはBというキャラを観察力のある人物であると見ている。


Dというキャラから見てEというキャラは、何も分かっていないアホに見えるけど、Fというキャラからは、議論を思わぬ方向へ導きかねない危ない人物だとみなされている。


Gというキャラから見てHというキャラは、リーダーシップがあって頼もしく見えるけど、でも他のキャラ達からは、協調性のない冷淡な人物であると印象づけられている。


また、議論の最中に論点をすり替えて相手を誘導しようとするキャラが出てきたり、それをある想いから阻止しようとするキャラが出てくる。


物語を読んでいくにつれて、「このキャラクターには実はこういう狙いがある」とか「こういった切羽詰まった事情から参加している」とか「このキャラにはこんなに醜い一面がある」というのが、議論を通じて次々と明らかになっていき、最終的には剥き出しの人間像が読者の脳内に突き刺さる。


そこで読者は、「あ、こいつは私だ」とか「こいつは俺だ」とか「その気持ちわかるなあ」とか、各キャラクターの生き方や考え方に自分を重ね合わせて共通理解が得られるような仕掛けになっており、ここがたまらなく面白いのです。


つまり、トリックや仕掛けがメインのミステリー小説ではないのです。


議論を通じて剥き出しの人間像が露わになっていく過程が興味深いのであり、『命の価値をどうつけるか』というテーマに対して、各キャラクターがどんな納得のいく結論を下すのかを見届けるのを楽しむ作品なんです。


それで、ですよ。


ここからが本題ですが。


はっきりいって本作は完全に失敗しています。


製作者のみなさん、すいませんね。しかし私のようなボンクラ映画好きの目線からは、本当にそう見えるんです。


だいたい、この作品が映画化決定された時点で「えー!? 無理だろ―!」という第一印象を抱き、しかも監督が堤幸彦という時点で、私の背には悪寒がはしりました。


いやマジで無理だろと。キャラクターの内面を剥がしていくのが面白い小説なのに、それを映像化って、しかも堤幸彦て。


バカ正直に原作を忠実になぞった結果、ダレ場だらけの愚作に仕上がった『20世紀少年』の監督に、とてもこの傑作小説を手掛けることなんて不可能だと思いました。


公開された予告編を観て、その不信感は私の中でますます強まっていきました。


『未体験リアルタイム型・密室ゲーム』というキャッチコピーがこの映画には打たれているんですが、広告代理店は何やってんでしょうか。ふざけてんでしょうか。原作知らないんでしょうか。


気持ちは分かるんですよ。そういう「いかにも」なキャッチコピーを打たなければお客さんはやってこない。それが今の日本映画の現状なんです。


でも、あまりにも的を外し過ぎじゃないでしょうか。あんなおどろおどろしい予告編を作ったら、原作を知らないお客さんは「お、面白そうなミステリーだな。もしかしてホラーチックなのかな?」と勘違いしてしまう。


それじゃ駄目ですよ。だって小説の一番面白いところって、ミステリー的な仕掛けじゃないんですから。


本格ミステリーやサスペンスを期待した人が「なんだつまらない」という感想を持ち、原作小説もきっとつまらないんだろうなという先入観を持ってしまう可能性だってある。私はそれを一番に危惧しているんです。


原作小説を映画化するんなら、原作の一番面白いところを映像化するべきじゃないですか。


それを放棄して映像化してもなお面白さが確約できるというのでしょうか。だとしたらそれは、創り手たちの傲慢と言わざるを得ません。


ここまで期待値を下げていたわけですが、でも私は観に行きました。なぜかと言えば、予告編のナレーションを担当しているのが林原めぐみさんだったからです。


林原めぐみさんと言ったら、前述した『マルドゥック・スクランブル』のアニメ映画版で主人公のバロット役を演じた方です。


原作知っている人なら分かってくれると思います。めぐみさんの声で『死にたい』とか『殺さないで!』とか言われたら、ああこれ、マルドゥック・ファンまで取り込むつもりだと。バロットがいかにも言いそうなセリフを、それっぽく言わせてるなと。


畜生悔しい! でも観たい! というわけで観たんですが……うーん、やっぱりこうなったかという感じです。


最初からひどいんです。物語のキーとなるアイテムが、舞台となる病院の敷地や院内に散らばっているんですが、すごいアップになってそのアイテムをしつこく映すんです。


わざとらしーなぁ……なんであんな風に映すんだろ。


しかも、そのアイテムのそばで、ただ突っ立っているだけの役者を平気で映すし。それだけで弛緩した画面になるってのが分からないんでしょうか。何十年も映像業界に携わっていて、それぐらいのカメラワークしか思いつかないのか。


もっと、キャラクターがアイテムを拾うなり、しげしげと観察したり、そういった役者の身体性も混ぜて表現するとか、いくらでもやり方はあるでしょうに。なんか手を抜いてるんですよね明らかに。


だいたい、最初から無理があったんですよ。十二人の子供たち一人一人の内面を、たかが二時間ぽっちの長さで完璧に描けるとは思えない。事実そうなってたし。


小説や漫画というのは、基本的にページ数に制限がありません。人気が出れば続刊が続くから、多くのページを創作に割くことができる。


でも映画はそうじゃない。平均的にみても2時間、どれだけ長くても3時間という決められた尺があります。


そりゃあ、ラヴ・ディアスみたいに9時間も10時間もなっがい映画を撮る人はいますよ。


でもあの人はそれで結果残してるからね。あれは特例として、基本的に映画は尺が決まっていますから、世界観が広すぎたり、登場人物が多すぎる作品は不向きで、大抵失敗するんです。


やるのであれば、スター・ウォーズみたいに三部作形式にするべきなんでしょうけど。でもこの映画を三部作にするのはちょっと違う。やるならテレビドラマでしょう。


議論のシーンも中途半端です。原作ではリョウコVSミツエ、セイゴVSアンリ、メイコVSアンリなど、各キャラクター同士が時に感情的に、時に皮肉を言い放ち合いながら議論を交わし、そこにマイの唐突な発言が加わり、推理役のシンジロウが真相に近づいていくなど、各キャラクターの役割がはっきりしているのが特徴的で面白いのに……なんですかこの映画は!(激おこぷんぷん丸)


もうみんな、しっちゃかめっちゃか! 各キャラクターの特徴が何一つ見えやしない! いくら会話を交わしても、そこに呼吸も感じなければ血が通っている風でもない。ただ「議論」というかたちを借りて、いたずらに感情を爆発させているだけです。


しかも、その議論の最中に、誰かが過去にこんな辛いことがあって、だから自殺しようと思ったんだって告白した際に、後ろで「ポロロ~ン」と、あざとい、いかにも「さぁ泣き所ですよ!」と言わんばかりのBGMをかけてきて、本当にやり方が下品で腹が立ちます。そこは無音で、各キャラクターの顔を映すだけでいいでしょ……


シンジロウ役の新田真剣佑も、もうどうしたってくらい本作では輝いていない。シンジロウは柔和な笑顔を浮かべて相手を諭したり、会話の機先を制したりなど、大人しい顔の裏に頭脳明晰な雰囲気を出さなくてはいけないのに、あんなボソボソした喋り方で、どこに知性を感じろというのでしょう。


一番腹が立ったのは、吃音持ちのタカヒロ役の萩原利久ですよ。


「タ、タ、タ、タカヒロです。あ、あ、あ、あの」って、これそのまんま台詞に出すんですが、言わせてください。吃音の人はそんな喋り方をしません。


私、中学高校時代に吃音持ちの友人がいたんですが、こんなわざとらしい語句を区切った喋り方なんてしませんよ。


「タータタッ、ター、タ、ターカヒロです。あ、あああ、あーああ、あーあーあの」とか、こういった具合の喋り方でしたよ。単語を伸ばしちゃったり、そういうのが出るんですよ吃音持ちの方は。


演出はどうなってんですかね? あんなわざとらしい演技させて、吃音持ちの方に失礼だと思わないんですかね? 駄目な日本映画ってそういうところの気遣いがまったく出来てないですよね。


え? 原作でもそういう風に表現されてる?


そりゃあ、小説だからですよ! 文章で読みやすいようにある程度の工夫がされてるんですよ!


それを、これまた『20世紀少年』のときと同じようにバカ正直にト書きにしてさぁ。何なんだよ本当に。


唯一、橋本環奈の存在感は凄かったし、黒島結菜も実に胸糞悪いイヤな女の役を演じていて、そこは好感が持てました。


ただ、言わせてもらえばリョウコの役は橋本環奈ではく、芦田五段にやらせるべきでは? あの子もう15歳だし、子役の頃から活躍している点も原作キャラに合ってるし。


なにより、原作を知らない人からしてみたら「え!?こんな物騒なタイトルに芦田愛菜ちゃんが出るの!?」と、そっちのほうがインパクト強くないですかね。


とまぁ、本当に挙げればキリがない。ダメダメなんです。密室劇として見ると、まったく緊張感が生まれない。原作を読んでいるからだろって? あのですね。原作知ってても、映画の出来が良ければ緊張感は生まれるんですよ。


日本の密室劇映画なら、代表的なのは『キサラギ』が挙げられるんでしょう。まぁ、あの映画もラストの展開が個人的に胸糞悪くなったりしたし、決して好きな映画ではないんですが、でもこっちのほうがずっと密室劇をやってますよ。


というわけで、みなさん、キサラギを観ましょう。


そして、原作を知らないみなさん!原作はマジで面白いので、おススメですよ。機会がありましたら、ぜひお読みください。



P.S 本作を鑑賞後にもう一度原作を読み直してみたんですけど、冲方先生って「誰かの偶発的な行動で不幸をおっ被ることになったor偶発的な行動で誰かを傷つけてしまった」ってキャラを描くのがほんと好きだなぁ。ハザウェイしかり、陽炎しかり、そして本作のアンリしかり。


そしてまた、不眠に悩まされるキャラも好きなんだなぁ。ボイルドは当然として、タカヒロもね。またその描き方がたまらないねぇ。

出典:マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉(早川書房)

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