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【第13回】マチルド、翼を広げ

『子役の名演技が光る、多くを語らない映画』


新宿シネマカリテで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。





【導入】

『カミーユ、恋はふたたび』がカンヌ国際映画祭で高い評価を得た女性監督ノエミ・ルボフスキーによる長編映画。監督の幼少期を自伝的に描いた映画です。


主演は、これが初主演映画となるリュス・ロドリゲス。子役です。


実にかわいらしい女の子です。年齢は調べても分からなかったのですが、彼女が演じるマチルドが9歳なので、おそらくこの子もそれぐらいの年なのではないかと思います。


マチルドの母で心身症を患っているお母さん役は、監督のルボフスキーさんが務めます。


この方の女優としての経歴は、私は良く分からないんですが、身内に同じような症状の方を抱えていた身としては、ものすごく心身症の演技にリアリティがあるなと感じました。





【あらすじ】

マチルドは、フランス・パリの小学校に通う九歳の女の子。


友達はいない。いじめられているわけではないが、周囲から距離を置かれているのは明らかだ。


それはマチルドの性格がどうこうというより、彼女の母親に原因があった。


マチルドの母は心身症を患っており、突拍子もない言動で周囲を振り回す生活を送り続けていた。


その日も、マチルドの母の精神は彼方まで吹き飛んでいた。


三者面談の場に呼ばれたにも関わらず、担任からの質問にはろくに答えることができない。些細な言い間違いをしてしまったことに神経質なほどに悩み、全然話が先に進まない。


挙句の果てには、面談中に「鳥がいるわよ、マチルダ」と囁き、マチルダを机の上に立たせて窓越しに鳥を見させてあげようとする始末……


病気のせいとはいえ、予想外の行動を目撃して呆気に取られてしまう担任の先生。しかし、母の隣に座るマチルドの表情には「こんな母の姿を見られて情けない」という恥の感情は、ほとんどなかった。


マチルドの胸の内にあるのは、心が壊れてしまった母をなんとかして支えてあげようという健気な優しさと、母の振る舞いのせいで抑圧した生活を送らねばならないことに対する不安の二つだった。


マチルドは、母と二人でアパートで暮らしている。


父親とはとうに離婚して家を出ていたが、マチルドとの絆は変わらない。彼女の唯一の楽しみは、離れ離れになった父親とテレビ電話で会話することだった。


それしか、マチルドには楽しみがなかった。


そんなある日、学校帰りのマチルドが家に帰ると、母がリビングで待っていた。見ると、テーブルの上に、紙袋に包まれた大きな荷物が置かれている。


中を開けてみると、そこには籠に入れられた、ちょうどマチルドの手の平に乗るサイズのフクロウがいた。


普段、母親らしいことを何一つやれていないことの負い目からくる、母なりのプレゼントだった。


マチルドの喜びようは言うまでもない。部屋でフクロウを放ち、餌を与え、学校でも一生懸命に行事に取り組むようになる。


ある日の晩、マチルドはフクロウの籠に毛布をかけてやると「おやすみ」と言い残し、ベッドに眠りについた。


その時だった。


「お休み」


どこからか声がした。部屋のどこからか。


「パパ?」


寝ぼけまなこを擦りながら、とりあえず思い付いたことを声に出してみるが、


「温かくしないとだめだよ」


また声がした。今度ははっきりした。父の声ではない。


「だれ? どこにいるの?」


「ここ、ここだよ。君の目の前」


マチルドの目の前。そこには、さきほど布をかけてやったフクロウの籠しか見当たらない。


おそるおそる布を取り払ってみると……


「ジャジャーン!」


フクロウが得意げに言葉を喋った。


その事実に興奮したマチルドは急いで母親を呼ぶが、部屋に母親が来た途端、なぜかフクロウはうんともすんとも言わない。


「もういちどしゃべってみてよ」とお願いしても、フクロウ特有の鳴き声を出すだけ。


しかしそのフクロウは、母親が部屋から出ていった途端、またしゃべりはじめた。


「この声は君にしか聞こえないんだ」


ありえない事実を前に、興味津々のマチルド。


こうして、言葉を喋るフクロウを交えた、奇妙な生活が始まるのだった。





【レビュー】

本作は登場人物が極めて少ないです。


主要登場人物はマチルドと、マチルドのお母さんとお父さん、そして喋るフクロウの三人に一羽だけの話です。


そして主人公は(おそらく)九歳の子役の女の子……観るのに大変な度胸がいるなと、鑑賞前はそんな風に思っていました。


なぜ子役が主役だと観るのに勇気がいるのか?


これは私の持論でけれども……子役というのはどうしても、大人の俳優さん女優さんと比べると、演技の引き出しが少ないじゃないですか。それまで経験してきた場数が違うから。


なので、そこは演出家や監督が、しっかりと子役の魅力を出す為に補佐をしてやらなきゃいけないんです。


つまり、子役が鼻につくような演技(あざとかったり、媚びたりするような演技臭い演技)をしてしまうと、それをレンズにして、おのずと監督をはじめとする製作陣の力量が分かってしまう。


これほど、映画を楽しみにきた観客にとって堪えるものはありません。


しかし、私は(幸い?)なことに、ルボフスキー監督の作品をそれほど見た事がなかったし、評価の高い「カミーユ、恋はふたたび」も、昔に鑑賞したとき、いまいちピンと来なかったので、鑑賞前のハードルを下げることができました。


つまり、ほとんど期待していない状態で映画館に足を運んだのですが、


やられました。このリュス・ロドリゲスという子役、とても初主演とは思えない演技力です。


それが一番に感じられたのが、表情の演技です。


物語の冒頭、学校の休み時間に校庭で楽しそうに談笑しているクラスメイトたちを、通りすがりに見るマチルドのカットで場面が止まるんですが、この時のマチルドの表情が、ズシンと心に刺さります。


「曇った表情」というのがぴったりの顔なんです。


あのカットを見ただけで「あ、この子は心に何かを抱え込んでいるんだな」と、観客に否応なく理解させてくれるんです。


あの表情、今でもしっかり思い出せますが……ドキッとするんですよね。睨んでいると言ってもいい「曇った表情」。ほとんど完璧な「曇った表情」でしょう。


この時点で「もしかしたらこれは掘り出し物かも?」と期待しましたが、その期待が裏切られることは、最後までありませんでした。


とにかく何を差し置いても、このマチルドという少女の造形。これに尽きます。とても複雑化されたキャラクターなんですが、彼女の存在感が、スクリーンを飛び越えてこちらの胸にズンズンと突き刺さるんです。


心身症を患っている母親と二人暮らしという、少なく見積もってもハードな暮らしを強いられているわけですが、彼女は母親を邪険に扱ったり、母の振る舞いを恥ずかしいと感じて臆病になったりはしないんです。困惑はするんですけど「もうやめてよ」とは言えないんです。


あらすじにもあるように、三者面談で、母が「鳥がいるわよ、マチルダ」と言うんですが、そこでマチルダは母親の言葉を適当に流したりせず「どこ?」と尋ねるシーンがあります。


その直後、母親がマチルドの靴を脱がせて机に立たせるんですが、そこでもマチルドは拒む事なく、母親の言う通りに机の上に立っちゃうわけです。先生がめっちゃ困惑しているにも関わらず。


最初、このシーンを観た時に「もしかして拒絶したら暴力を振るわれたり、ヒステリックになるからいやいや従っているのかな?」と感じたのですが、物語が進むにつれて、どうもマチルドは本心から母親のことをいたわっているんですね。


だって、クリスマスの日に、母親と二人で楽しく過ごしたいからって、たった一人で部屋の飾りつけをしたり、ローストチキンを焼いたりするんですよ。


その頃、母親は心身症がひどくなって、一人でフランスのどこかをフラフラ彷徨って警察に保護されているのに、そんなことを露とも知らずに、母と過ごすクリスマスを良いものにしようと、一生懸命になっているんです。


泣けるじゃないですか。


九歳の女の子が、病気の母親をいたわるために、あるいは母親からの愛情を欲するために、自分にできるだけのことをやろうとするんです。


こんなに健気な話がありますか?


普通だったら、どこかわざとらしさを感じてしまうシチュエーションです。しかし、そうならないのはやはり、マチルドを演じるリュス・ロドリゲスの演技を引き出した監督のおかげなのでしょう。


あるいは、リュス・ロドリゲスが本来宿している資質が、開花したせいであるかもしれません。


もう一つ、リュス・ロドリゲスの特筆すべき点は「呼吸の演技」です。


不安になった時、あるいは少しばかりの恐怖を感じた時、彼女の呼吸が微妙に荒々しくなるんですが、その起伏の感じがとても絶妙です。ここは思わずうなりました。まったくわざとらしさが感じられない。


もう一つの特徴、というか、この映画のキャッチーなポイントは、なんといっても「しゃべるフクロウ」ですね。


フクロウと言ったら、アーサー王に魔術を教えたマーリンの使い魔としても知られていますが、古くはギリシア神話の女神・アテナの象徴、知恵を授けるものとして知られています。


けれども、この劇中に出てくるフクロウは、あんまり「知恵を授ける」といった役割をしません。


どちらかというと、非常に毒舌で、マチルドの母親のことを「イカレている」とか言ってしまうんです。


これはどういうことかと言えば、つまり「しゃべるフクロウ」というのは、マチルドの抑圧された内面の代弁者なんです。


マチルドはフクロウの口を借りて、自分を見てくれない母親への不信感を爆発させます。そんなシーンがいくつかあります。


しかしその一方で、マチルドはフクロウが母親をけなす言葉を口にした途端、烈しく怒ります。そんなこと言わないで!と、思い切り反抗します。


彼女の中では、母親を労わる心と、母親を憎らしく感じる心の二つが拮抗している状態で、それを分かり易く鑑賞者に説明するために、フクロウがいるわけです。


このフクロウがいることで、鑑賞者は、ある種の「安心」を得ることもできます。


というのは、マチルドが母親に寄り添ってばかりのシーンだけ流されると「もしかしたら、この子も母親の気質を受け継いで、精神を壊しちゃうんじゃなかろうか」と心配になります。


実際に私は、フクロウが出てくるまでの間に、そんなことを考えました。


ですが、そこに「しゃべるフクロウ」を登場させ、「もう一人の、抑圧された現状に不満を覚えるマチルド」としての役割を持たせることで、「あ、マチルドにも母親をうっとおしく思う心はあるのか」と、観客に納得させるわけです。


籠に囚われたフクロウ。それは紛れもなく、母の奇妙な振る舞いのせいで「本来の自分の気持ち」を吐き出せない、抑圧されたマチルドそのものなのです。


そのフクロウが、物語の終盤で、ある行動を起こした時、それに合わせるかのように、マチルドも一つの決断を下します。


観客はここまで「マチルドの抑圧された心」=「籠の中のフクロウ」という暗喩を植え込まれていますから、この終盤のシーンは、とても心地よいカタルシスが生まれるのです。


そういった物語の、ちょっとした細やかな造りにもしっかりと映画的な血と肉を通わせてくるあたり、監督の力量が確かなものであると思い知らされます。舐めてました。すいません。


もちろん、心身症という難しい病気を背負い込んだ監督の演技も、非常にリアリティがあるし、妻と娘をどうにかして正常な関係に戻さないといけないと苦悩する父親役のマチュー・アマルリックの演技も、とても味わい深いです。


他にもいろいろとあるんですよ。たとえば、ミレーの「オフィーリア」を彷彿とさせる、マチルドの悪夢。あそこなんかは、フランス映画の文脈に上手い具合にファンタジー要素が混じって、マチルドの精神がどれだけの切迫した状況にあるのかを、とても印象深く表現しています。


この映画は、爆発も無ければ暴力シーンもない、とても静かな映画です。


でも確かに、ここには登場人物たちの血と呼吸が通っています。


なにより子役のリュス・ロドリゲスの演技!これがやっぱりイイ!


フクロウ好きの方にもおすすめの映画です。

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