【第10回】来る
『ホラーではなく、ホラーエンタメという映画』
いやー、またまたお久しぶりの投稿になります。
クワイエット・プレイスとか、ヴェノムとか、銃とか、スマホを落としただけなのに、とか色々見ているんですけど中々レビューの時間が取れずじまいで……ホント申し訳ございません。
今回は、もういい加減にして感覚の赴くままに書こうと決めました。ので、早速いきたいと思います。
上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書かせていただきます。
なお、当方は原作を二年ほどまえに読了しております。
【導入】
『告白』『渇き』と、常に賛否両論な作品を創るタイプへシフトした、中島哲也監督のホラー映画。
原作は、第二十二回日本ホラー大賞を受賞した、澤村伊智先生の『ぼぎわんが、来る』。
主演は岡田准一、そしてヒロイン?役に黒木華と、『散り椿』コンビが今度は現代劇で登場します。
脇を固めるのは、妻夫木聡さん、松たか子さん、小松菜奈さん、そして、恐らくこの映画で最も抜群の演技力を発揮した柴田理恵さんと、まぁすげぇ豪華です。
というか、原作を知っている身からすると『え?その役に妻夫木さんなんてスター俳優を充てちゃうの?』と、非常にサプライズな配置ですね。詳しく説明するとネタバレになるので言えませんが、いやーこの布陣は凄い。
脚本は中島哲也さんと岩井秀人さんと門間宣裕さんのお三方。
岩井さんと言えば、このエッセイでも論じた『フリクリ プログレ』と『フリクリ オルタナ』で脚本を担当し、まぁ色々と物議をかもした人ですね……うん、個人的には少し微妙です。
門間宣裕さんは『渇き』でも参加されていた方ですね。
【あらすじ】
“あれ”が来る。
娘と妻を逃がし、一人自宅のマンションに籠城した田原秀樹の心は、そのことを考える度に烈しい恐慌に襲われた。
“あれ”が来る。
“あれ”が。この真夜中に。
自分の命を狙いに。
冷や汗が止まらない。強烈な孤独感が身を蝕む。心構えを整えようにも、内に迫る恐怖の方が勝っている。
スマホを持つ手の震えは収まらず、ただ言われるがままに”あれ”を迎える準備を整える。
玄関に通じる廊下には大量の椀が所狭しと並べられ、そこにはなみなみと水が張られている。家中の鏡は全て割られていた。田原自身の手で。跡形もなく徹底的に。包丁は全て布に包んで、棚の奥に隠した。
一見して異様な光景にして行動の数々。だがこれも、全てはスマホ越しに指示を出す『日本最強の霊能力者』の声に従ったまで。
“あれ”が来る。
“あれ”が来る。
“ぼぎわん”が、来る。
――――
―――
―
大手菓子メーカーに勤める田原秀樹の結婚式は、表向きには、少し引いてしまうくらいの賑わいを見せていた。
馬鹿のような余興をする友人たち。そんな彼らを茶化す秀樹の表情には笑顔の仮面が張り付き、それとは対照的に、新婦である香奈の表情はどこか控えめだ。
来賓の中には、会場の空気に馴染めず、冷ややかな目線を向ける者達もいた。秀樹の喜びようを『空回り』だと揶揄する者も。
だが秀樹は、そんな周囲の雑音をまるで無視するかのように、愛しい新妻である香奈に「いつか二人の子供を作ろう」と約束する。
確かにその夢は実現した。
数年後、二人は待望の赤ちゃんを授かる。女の子だった。名前は『知紗』。秀樹が命名したのだが、なぜ『知紗』という名前にしたのか、本人ですらその理由が良く分かってはいなかった。
妻と娘を守れる立派な“イクメンパパ”になろうと決めた秀樹は、大量の子育て本を買い、大量のお守りを壁に張り、イクメンパパ同士の交流会に顔を出し、ブログで子育て日記をつけはじめた。
全ては妻と娘のためだと、自分に言い聞かせて。
だが裏を返せば、それらは全て『不安』の現れ。そのことに薄々気づきつつある秀樹だったが、彼は現実から目を背け続け、イクメンパパを演じ続ける。
ある日、会社に『知紗さんのことで話をしにきた』という、謎の人物からの連絡が入る。電話を受け取った後輩の高梨と共にロビーに出向いてみれば、そこには誰もいなかった。
相手の名前を憶えていないと言う高梨。しょうがないので戻ろうとした時、高梨の左肩から大量の血が、何の前触れもなく吹き出した。
急いで病院に連れて行くが、原因は不明。高梨の左肩には乱杭歯で噛まれたような痕があったが、なぜそんな傷がついたのか分からず、医者も匙を投げる始末だった。
その日から入院生活を送ることになった高梨は、日に日に痩せ衰えていった。狂ったように水をがぶ飲みし、骨と皮だけになった身を痛みによじらせ、見舞いに訪れた秀樹に恨み節の数々をぶつけた。
「あんたは空っぽだ。空っぽのくせに、結婚して幸せになりやがって!」
それから二年後、高梨は病院のベッドの上で、狂い死にした。
その日から、田原家を得体の知れない怪現象が襲い始める。ポルターガイストめいて乱舞する食器。と同時に、幼少期の悪夢にうなされる秀樹。妻の香奈は部屋に引きこもり、育児は投げっぱなし。
このままでは、折角手に入れた理想の家族が台無しになる――危機感を覚えた秀樹は、友人である民族学者・津田に相談を持ち掛ける。
田原家の怪現象を知った津田は、知り合いのオカルトライター・野崎を秀樹に引き合わせる。
「とりあえず、そのバケモノを何とかすればいいんでしょう?」
秀樹の“人間としての本質”を見抜き、唾棄しつつも、仕事であると割り切って、野崎は一人の霊媒師を紹介する。
比嘉真琴。キャバ嬢でありながら霊能力者という異色の経歴を持つ彼女は、秀樹が襲われている怪現象の原因が秀樹自身にあることを告げ、もっと奥さんと娘に優しくしろと諭す。
秀樹は激怒した。何も知らない小娘に、言われる筋合いなどどこにもない。
自分はよくやっているんだ! 俺はイクメンパパとして、家族を守る父親として頑張っている!
俺はベストを尽くしている!
それを分かりもしないで――
興奮と怒りを宥めつつ家に帰ると、なぜかそこには、もう二度と会わないと決めていた野崎と真琴の二人が、リビングでくつろいでいた。知紗はすっかり真琴に懐き、育児ノイローゼにかかっていた香奈も、野崎とのお喋りに花を咲かせている。
疎外感を感じた秀樹だったが、二人を守るには、もうなりふり構ってはいられなかった。怪現象を引き起こしている悪霊の除霊を真琴と野崎に改めて依頼した時、全てのタイミングを見計らっていたように、
“あれ”が、その片鱗を見せつけた。
真琴の健闘も虚しく、食器という食器はポルターガイストの名の下に乱舞し、家じゅうの壁に激突。せっかく買ったお守りも次々に見えざる力によって破り捨てられていく。恐慌と叫喚の最中、だが秀樹は、ただ茫然とその場に立ち尽くす以外のことができなかった。
そして、ようやく怪現象が落ち着きを見せ始めた時、新たなる人物が、真琴のスマホを通じて秀樹に接触してくる。
比嘉琴子。真琴の姉にして、沖縄の巫女「ユタ」の一人であり、国家中枢にも顔が効く『日本最強の霊能力者』。
彼女は、バカで未熟な妹の真琴の力では“あれ”を除霊することなど不可能であることを告げ、自分の知り合いである腕利きの霊能力者『逢坂セツ子』を紹介する。
中華料理屋でセツ子と会う秀樹と野崎。アマチュアの霊媒師であり、昔はバラエティ番組にも出演していた彼女の実力を訝しむ秀樹だったが、セツ子はその眼に冷徹な力を蓄え、ただ一言、告げた。
「来ます」
え?今この場に?――思わず腰を浮かしかけた秀樹。
その時、秀樹のスマホがけたたましい着信音を鳴らす。
着信は、非通知設定になっていた。
「出てください。ただし、決して答えないように。相手に喋らせ続けていれば、封じ込める隙が出来ます」
言われるがまま、出た。
『あてが……外れたやろ……今更迎えに来ても……』
『あぁ、ヒデキさん……』
『営業部の田原ですね? はぁ、チサさんの件で……』
祖父母、そして高梨の声が次々に鼓膜に刺さる。
なんなんだ。これは一体なんなんだ。
『嫌がらせだよ。誰かに逆恨みされているらしい』
聞き覚えのある声。いや、聞き覚えのある、どころの話ではない。
『たかが子供一人生んだくらいで、偉そうに……』
「違う! 私はそんなこと言っていない!」
衝動のままに答えた瞬間、秀樹の視界で、赤黒い液体が激しい飛沫と共に、辺りに散った。
見れば、向かいに座るセツ子の右腕が、肩の先からざっくりと切断されていた。
狂乱に陥る店内。急いで救急車を手配する野崎と対照的に、呆然と立ち尽くす秀樹。
そんな彼に向って、顔面蒼白、息絶え絶えとなりながら、セツ子は絞るように声を上げた。
「タハラさん……ごかぞく……」
その一言で我に返った秀樹は、セツ子の介抱を野崎に任せ、自身はタクシーに乗って家に電話を入れた。
電話に出た香奈に、すぐにマンションから離れるように伝えた後、またもや比嘉琴子からの連絡が入る。
『田原さん、“あれ”はあなたを追ってきています。二十数年間ずっと。絶対に逃げられません。わたしの力を使えば、“あれ”を追い払えます。そのためには、田原さんの力を借りるしかありません』
愛する妻と娘を守る――その一念だけを胸に、秀樹は琴子への協力を約束する。
果たして、彼は無事に“あれ”を除霊し、『しあわせなかぞく』を取り戻すことが出来るのか。
人の“罪”が生み出した怪物――“あれ”の正体とは何なのか。
いま、平和な団地を舞台に、前代未聞の怨霊呪術大戦が幕を明ける!
【レビュー】
えー、すいません。【あらすじ】の最後のほう、だいぶおかしなことになってます。
でもね、この映画を観た時の私の感想って、だいたいそういうことなんですよね。
つまりこの映画って、昔懐かしい『Jホラー』とは全く違う、言うなれば『洒落怖』にあるような(具体的には『リアル』や『八尺様』や『アクサラ』や『お憑かれさまでした』の系譜)、いい意味でポップなエンタメに富んだ、ホラーエンタメ作品なんです。
ポップ。まさに『告白』以前の中島監督の代表作とでもいうべき『下妻物語』のようなポップさが、ホラーという皮を被っているのが本作です。
しかしこれは、原作の時点でそうなんです。ま、怨霊大戦としてのシーンはありませんが、それでも『チートや!チーターや!』と、キバオウが如く叫んでしまうほどの強力な霊能力者である比嘉琴子の、怨霊とのタイマンシーンがありますから、実にまぁポップな仕上がりになっているんですね。
本映画の原作となった『ぼぎわんが、来る』というのは、非常に王道なホラー小説なんですよ。
同じマンションを舞台にしたホラーですと、小野不由美先生の『残穢』がありますが、あちらが変化球も変化球なのに対して、こちらはドがつくほどの直球のホラーエンタメ。
ですが、ただのホラーエンタメじゃないってところがミソです。
原作では、怪現象を引き起こす“あれ”=“ぼぎわん”の正体について、一応の説が唱えられますが、しかしこれ、良く読んでみると『仮説』の域を出ていない。
つまり、それがメインじゃないんですよね。怪異の正体や、その原理原則を明らかにするのが、物語の核ではないと私は思います。
メインとして原作小説が描くのは『結局、人は何に恐怖するのか?』『恐怖とは一体なんなのか?』『何が引き金となって恐怖は伝搬するのか?』といった、実に根源的な部分なんだと思います。
ですから小説の方は、実は“ぼぎわん”の描写よりも、その“ぼぎわん”にまつわる怪異に遭遇した人々の恐怖反応に、かなりの比重が割かれているんです。
シチュエーションとしての恐怖。それを魅せることこそが、原作小説の最大のウリな訳です。
で、その“ぼぎわん”が引き起こす『シチュエーションとしての恐怖』を縦糸にしつつ、一見して平和そうに見える田原夫妻のぎくしゃくした家庭事情を横糸として、物語が展開していく。だからこそ面白い訳です。
この原作小説を、あの中島哲也が映画化すると聞いた時、私はぶっちゃけ『アリ』だなと思いました。
原作が持つ王道ホラーとしての雰囲気と中島監督独特のポップな色使いや画面演出って、かなりマッチしているなと感じたんですよね。
ですがねぇ、いやここまでのモノが仕上がるとは予想以上でした。
私が感心したのは主に三つありまして。
一つは登場人物の造形ですね。
小説版だと結構、秀樹にも香奈にも、それなりに共感できたところがあったんです。
秀樹は育児を『趣味』として捉えているような、勘違いイクメンパパをこじらせすぎたどうしようもない人ですが、それでも彼は、とにかく家族を守ろうと頑張るわけですね。
香奈は香奈で、どこにでもいる普通の女性といった感じが強くて、彼女が娘をどれだけ大切に思っているかってのが良く伝わってくる。
ところがです。映画版だと、まぁびっくりするくらい、この二人にまるで共感できない(笑)
秀樹はもうほんとにただのロクでなし。いいかっこしいの見栄っ張りな虚言癖野郎です。香奈は香奈で、母親としての本分を忘れた、ただのバカ女です。
とくに香奈の「こいつマジで駄目だな」感が、特に料理の場面で出ている。
もうこの人ね、とにかく「やきそば」しか作らないし、作れないんですよね。
いや、それ以外の料理も作ってるんでしょうが、やたらと「やきそば」の比率が高い。実家でもやきそばしか作ってないし、作らない。原作ではそんな描写全くなかったのに、この映画ではやたらとやきそばが登場します。
めちゃくちゃ簡単な料理ですよね、やきそばなんて。少なくともまだ二歳を迎えたばかりの娘に、そんな栄養が偏った料理ばかりつくっている時点で、この人は育児をしたくないんだな=知紗のことなんてどうでもいいんだなといった感じが強く出ている。
こういう風に原作を改変するとは思わなかったので、なんだか非常に得した気分だし、恐怖ポイントを感じることが出来て個人的には大満足なんです。
父親からも母親からも、まともに扱われなくなった知紗ちゃん。いつだって家庭内の問題は、弱い者へ――家庭内でのヒエラルキーが最も低い子供へと向かいます。
そんな時、じゃあ子供たちはどこへ『逃げる』のか――そうですね。“ぼぎわん”と一緒に、山へ行くしかないですよね。
さて、二つ目の感心したシーンは、柴田理恵さん演じる霊能力者・セツ子と秀樹、野崎が、中華料理屋で“ぼぎわん”の襲撃に遭うシーンです。
ここ、原作だとただの喫茶店になっているんですが、それでは絵的なインパクトが足りないと判断したのでしょう。舞台は中華屋になっています。
それも、日高屋のような小綺麗な中華屋さんではなく、油と煙が充満する、まるで昭和時代の産物かと突っ込みたくなるくらいの大衆中華料理屋。
ここでセツ子の腕が千切れ飛ぶってところで、私は『屠殺』を想起しました。実に生臭いシーンです。原作よりもずっとグロイ。視覚的なグロさがあります。
そして三つ目! これが原作から大きく変わっている点です。
物語の終盤、“ぼぎわん”を祓うために比嘉琴子はついにその本領を発揮するわけですが、ここでやることが、まるで帝都大戦めいた大掛かりな儀式呪術なんですよ。
周辺住民を退去させて、交通を封鎖して、要所に結界を貼る訳ですが、この時、小綺麗なマンションの玄関先で、恭しい衣装に身を包んだ呪術師たちが、慇懃無礼に頭を下げて祝詞を唱えるんです。
この時の画面の違和感! 物凄いです!
だって現代のマンションの玄関前で、呪術師がお辞儀してるのよ? とてつもない画ですよ。馬鹿にしてるんじゃなくてね、これが一周まわってカッコイイんです。すっごい怨霊大戦の匂いがする。ゾクゾクします。
セット造りも徹底しています。社殿を作るだけじゃなくて計測機器なんかも用意して、霊を科学的な視点で分析しようとする。それ意味あるの? というツッコミを予想して、あえてあんなナンセンスな代物を用意しているとしか思えない。
それに、社殿造りの為だけにあれだけの大人数を動かせる比嘉琴子のチートっぷり。これはある意味で原作以上です。彼女が規格外の存在であることを、うまく画面を使って説得力出していると思います。
以上の三つを取り上げてみても、本作が稀有なホラーエンタメであることに疑いの余地はございません。
血の描写なんかも特に最高ですね。もう血、血、血、血――と、中盤から終盤にかけてはこれでもかというくらいの、それこそ『シャイニング』めいた血の大洪水が画面を覆う訳です。
それだけの血の描写をしているからこそ、最後の方のオムライスの『ケチャップ』ね。あそこで異化効果が働き、観客を最後までゾクリとさせる。
これまで数多くのCMを手掛けてきた中島監督だからこその、映像が醸し出す恐怖ですよねぇ。いいですねぇ。私、この映画好きですねぇ。
で、この映画のもう一ついいポイントは、あえて物語を分かりにくくしているところです。筋をぼかしている節がところどころある。やたらと場面転換しますし。
ですが、これもすべて狙ってやっていることだと思います。
この映画を観ただけでは、恐らく多くの人が『で、ぼぎわんって結局なんなの?』という疑問を抱くと思います。
そういう人は、きっと物語の筋を追うタイプの方なのでしょう。実は私もそんなタイプの人間だったりします。
ですが、筋を追う映画ではないんですよね、これは。
まさにホラーエンタメらしく、王道のホラー映画らしく、状況や画面を楽しむ映画な訳です。
そもそも原作の時点で、ぼぎわんの存在に重きを置いた作品ではありませんから、この映画も『ぼぎわんって何なの?』といった視点でしか観れないと、楽しみが半減してしまうと思います。
だいたい、私は怪異や怪奇現象といったものに、理屈を求めない人間です。
そもそも、理屈で語れないからこその『怪異』でありますでしょうに。理屈で語れるようだったら、怪異でもなんでもありません。
それを理解せずにこの映画を『駄作』扱いしている映画評論家に、私は唾を吐きかけてやりたいと思います。
ホラーに理屈とか原理とか定義とか、いります?
私はいらないと思います。
わけがわからないからこその恐怖。それを楽しめる方なら、きっとこの映画を気に入ることでしょう。