【第9回】★GODZILLA 星を喰う者
すいません。前置き長いです。
※11/12に2,000字ほど加筆修正いたしました。
『怪獣を観念的に捉え直したSF映画』
西新井のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽く……いや、さすがに自称・ゴジラオタクとして、今回ばかりはがっつりとレビューを書きたいと思います。
なお、本作をレビューするにあたりまして、どうしてもやはり、あのラストについて語らざるを得ないため、今回はネタバレ有りのレビューになります。
ただ、ぶっちゃけ今回の映画はネタバレを見てから鑑賞された方が、登場人物の心の動きを追いやすいと思います。そして、きっとおそらく楽しみも損なわれないと思います。それ、映画としてどうなんだという疑問はあるんですけどね。
それと、今回のレビューでは過去のゴジラ映画のネタバレを盛大に含みますので、そこのところはご了承ください。
【導入】
ポリゴン・ピクチュアズ製作の『アニメ―ション・ゴジラ』の3部作映画の最終章。それが本作です。以下、通称として『アニメ版ゴジラ』と呼称します。
第1章『GODZILLA 怪獣惑星』が2017年11月17日に、第2章『GODZILLA 決戦機動増殖都市』が2018年5月18日に公開され、そして今年の11月9日に公開された本作『GODZILLA 星を喰う者』で、この果敢な挑戦心に満ちた作品は完結となります。
当然ですけれども、私は第1章も第2章も劇場で鑑賞しており、今作のためもう一度自宅で観直しました。
監督は静野孔文と瀬下寛之。
静野監督は2011年以降の『劇場版名探偵コナン』で監督を務めており、スマッシュヒットを飛ばし続けています。
一方の瀬下監督は『SFオタクのバイブル的漫画』と私が勝手に思っている『BLAME!』のアニメーション監督を務めた事でもおなじみですね。
まあ『BLAME!』の素晴らしさは、美術監督を務めていた滝口さんのデザイン力に依るところが大きいと、個人的に感じてるんだけど。
そして脚本は、エロゲーメーカー『ニトロプラス』の専属シナリオライターにして、おそらくいま日本で一番『おもしろい、オタク心あふれる物語』を作れる虚淵玄さん。
彼がライターを務めたシナリオゲームの代表作と言ったら、次の2作品でしょう。
グロテスクでありながらも美しい純愛物語である『沙耶の唄』
妹を殺されたお兄ちゃんが倭刀一本で壮絶な復讐劇に身を投じていく、武侠サイバーパンク『鬼哭街』
この2作品を私は挙げたい(異論は認める。ヴェドゴニアもジャンゴもいいよね!製作された経緯がアレだけどね!)。
これらを初めてプレイした時の衝撃ったら、今でも忘れられない。エロゲーというだけで変な目を向けられがちですが、やってない人は是非やってほしい。この2作品は特に素晴らしい。
しかし彼のフィルモグラフィが輝きを放ち始めたのは、やはり2010年代であることに疑いの余地はありません。
皆さんご存知、2011年に放映された『魔法少女まどか☆マギカ』を皮切りに、『PSYCHO-PASS サイコパス』や『仮面ライダー鎧武』のシナリオを務めた事で、虚淵さんはエロゲーというアンダーグランドもアンダーグラウンドな業界出身者でありながら、世間一般に広くその名を知らしめました。
おそらく2010年代で最も認知が広まった脚本家・シナリオライターでしょう。
声優は、味わい深い表情に確かな実力を併せ持つ宮野真守さんに、やりすぎ都市伝説のナレーションを務めていることでもおなじみの櫻井孝宏さん。
『ハーモニー』の御冷ミァハ役や、現在放送中のアニメ『SSSS.GRIDMAN』の新条アカネ役で有名な上田麗奈さんも参加しています。この方、憑依型の天才声優ですね。
【あらすじ】
生ける鋼の要塞は、怪獣王の前に敗れ去った。
地球の絶対的支配者として君臨する、体長300メートルを超えるゴジラ・アース。
これを打倒する最後の希望と目された、対ゴジラ超重質量ナノメタル製決戦兵器『メカゴジラシティ』は、ゴジラ・アースの起死回生の一撃を喰らって完全粉砕された。
しかしながら、シティ壊滅の直接的な引き金を引いたのが、ちっぽけな人間のエゴであることを『彼』は知らない。
人類の協力者たる異星人・ビルサルドのムルエル・ガルグは唱える。ナノメタルと同一化し、自らも怪獣とならなければゴジラには勝てないと。
だが、幼馴染のユウコ・タニがナノメタルに全身を侵食されてもだえ苦しむ様子を目撃した地球降下部隊のリーダー、ハルオ・サカキ大尉はナノメタルの危険性を指摘し、「人としてゴジラを打倒しなければ意味がない」と言い放つ。
そしてハルオは、あれだけ憎んでいたゴジラをナノメタルの力を借りて止めを刺すことを良しとせず、ユウコを死なせたガルグに牙を剥く。
結果、ハルオの駆る高機動人型有人兵器『ヴァルチャー』の猛攻撃を喰らったガルグは、ゴジラ・アースの熱線を喰らって焼け落ちるシティと、その運命を共にした。
人類は絶望に暮れた。メカゴジラシティもナノメタルも失い、もうゴジラを倒す手段は何一つとして残されてはいないのだ。ここから、どうやってゴジラに立ち向かえばいいのか。
それこそ、神にでもすがらない限りは――
圧倒的な無力感に苛まれる、地球降下部隊の生き残りたち。そんな彼らに救いの手を差し伸べたのは、ビルサルドと同じく人類に協力的な異星人・エクシフの神官を務めるメトフィエスだった。
科学の発展の末に真理を究明し、予言めいた力を持つエクシフの教義に救いを見出していくハルオの仲間たち。だが、メトフィエスの言葉は甘美に満ちていながら、その実、とても破滅的な予感を孕んでいた。
信者を増やしていくメトフィエス。その行動の真意を測りかねるハルオに対し、エクシフの神官たる彼は告げる。憎しみを糧にゴジラに立ち向かう君こそが英雄だ。英雄である君の協力があれば、ゴジラ打倒の『最終存在』を地球に呼び出すことができると。
それは、『神』という名の、黄金の終焉――
一方、はるか上空。地球圏内の宇宙空間で待機していた恒星間移民船『アラトラム号』の政情は、ハルオの行動を巡って二分化していた。
人体を侵食し、人間を機械のしもべとするナノメタルから仲間たちを未然に救ったことを評価すべきだとする人類側と、最優先事項であるゴジラ打倒を無視してガルグを殺した罪は極刑に値すると断じるビルサルド側。
ゴジラという脅威から目を背けるようにいがみ合う両者。生物学者のマーティン博士は船内の混乱ぶりを通信で知ると、人類とビルサルドのほとぼりが冷めるまで姿を隠すようにハルオに伝える。
ハルオの隠れ家を用意する手助けをしたのは、二万年の長きに渡って細々と生活圏を維持していた地球人の生き残りであるフツア族の巫女、マイナとミアナだった。
ユウコを失い、ゴジラの強大さの前に膝を折るしかないハルオに向けてミアナは口にする。
『勝つことは生きること。負けるとは死ぬこと。ハルオは、負けたがってる』
子孫繁栄こそが生物としての役割。それを掟のように信じて生きてきた彼女の言葉は、ハルオに今一度『ゴジラに立ち向かう事』の意義を問い直させた。
その頃、新興宗教の教祖めいて信者を増やし続けるメトフィエスは、ついにゴジラ打倒のために、『それ』を召喚する。彼のシンパとなった人類の肉を捧げることで、『それ』はついに顕現する。
はるか別次元から飛来する、神秘なる虚無の力の波動を感じ取り、メカゴジラシティを滅ぼして休眠期間に入っていたゴジラ・アースが目を覚ます。
地球の守護神にして破壊神であるゴジラを捕食せんと、ブラックホールの彼方から飛来する、黄金の三つ首。
それは、次元の狭間に生息する高エネルギー体である。
それは、ありとあらゆるレーダーやセンサーでは決して捉えることのできない、実在する幻である。
それは、地球上の物理法則を捻じ曲げる、超重力場の具現である。
それは、エクシフたちが永き探求の末に辿り着いた、破滅をもたらす宇宙の真理である。
怪獣。虚空の神。
ギドラ。
【レビュー】
私がまだ幼稚園に通っていた頃。家の近くにあるボロボロの映画館で生まれて初めて観た映画。
それが平成シリーズの『ゴジラVSモスラ』でした。
それ以来、私はすっかりゴジラのファンになってしまいました。
親にねだって歴代ゴジラの映画をまとめた図鑑を買ってもらって、一日中それを読んでいました。
金曜ロードショーで公開された『ゴジラVSキングギドラ』を録画したビデオを手に、友人の家へアポなしで突撃して「これ!これが引力光線!」とか「これ!これが放射熱線!」とか、さほどゴジラに興味ない友人の隣で、うるさいくらいに、図鑑で得た知識を元に解説を加えたりしていました。
小学校低学年の頃、BSでゴジラの海外進出が特集されると聞いて、BSが入っていなかった我が家のリビングで「観たい観たい!ゴジラが観たい!絶対観たい!」と駄々を捏ねて親を困らせ、BSの電波が入っている親戚の家に上がり込み、テレビにしがみついていました。
今思うと、そうとう頭おかしかったと思います。だってゴジラが怪獣とプロレスやるわけでもない、ただのNHKのドキュメンタリーなのに。でもそれすら、あの時はとても楽しく見れたんです。話の内容はほとんど頭に入ってないのに、ゴジラが映るだけで狂喜してました。
それから少しして、ゴジラがハリウッドで映画化される!と耳にした小学生の頃、家で放映されたそれを鑑賞し終えた私は、哀しみと悔しさのあまり、風呂場で声を押し殺して泣きました。
私の中で描いていたゴジラの存在そのものを否定されたような気がして、大変なショックを受けたせいです。放射熱線を吐かないゴジラなんてゴジラじゃない。大体、ゴジラがたかがミサイル数発喰らって死ぬなんて、信じられなかった。
それ以来、ハリウッド版ゴジラを撮影したエメリッヒ監督を私は親の仇のように憎んでいて、その憎しみは今でも消えていません。マジで許されると思うなよと、声を大にしていいたい。
挙句の果てには、別にゴジラ映画でもなんでもないのに、ゴジラとあだ名されているだけで松井秀喜選手のファンになったり。
そうこうしているうちに、一人暮らしをする時期に入り、思う存分映画を観ることができる環境が整った結果、昭和・平成の全てのゴジラシリーズを鑑賞しました。
で、結果として、こんな面倒くさいタイプのゴジラオタクが出来上がったのです。
ただ、そんな私も『FINAL WARS』の放映後、ゴジラに対する熱が少しづつ冷めていきました。東映が特撮用のプールを撤去したとニュースで知ったのが、そのきっかけだったと思います。
ああ、もう国産のゴジラは観れないんだ……あの時の胸の内に沸いた無力感の程は、今でもはっきりと思い出せます。
だからこそ、2016年にシン・ゴジラが公開され、そのあまりの出来栄えの良さに、私は大変感動し、また大変に恐怖したのです。2016年は日本の特撮が、新たなる次のステージを見出した時期です。
で、その直後、なにやらアニメ版のゴジラが制作されるらしいと耳にして、私は瞬間的にこう思いました。
『ゴジラをアニメでやるって、それは無理な話なんじゃないのか』と。
同じ印象を抱いたゴジラオタクの人たちは多いと思います。特撮という文脈で語られていたゴジラを、アニメという媒体で描くことの意味。それが私にはわからなかった。
でもね、この最終章を鑑賞して、ようやく意義が分かりましたよ。
アニメ版のゴジラ。特撮版のゴジラ。
両者の最大の相違点は、ゴジラという存在の描き方。その立ち位置にあります。
特撮という、現実に根差した世界観で描かれるゴジラには『恐怖』としての実存性があります。ですが、本作を始め、アニメ版ゴジラは『恐怖』が薄まっています。なんだったら、巨大感すらもうまく演出できているとは言い難い。
それはなぜなのか。なんでこのゴジラからは恐怖も巨大感も嗅ぎ取れないのか。
この最終章を鑑賞して、その理由がやっとわかりました。
つまり、本作のゴジラもギドラも、とても『観念的』な描かれ方をしており、フィクショナルな存在としての強度が高まった状態でスクリーンに映っているというのが、特撮版のゴジラと大きく異なる点なんですね。
特撮では決してできない、アニメだからこそのゴジラ。そこで描かれているのはゴジラの実存性でもなければ(だからこそ巨大感が欠如している)、そこから発生する恐怖でもない(だからこの映画ではゴジラの恐怖性が薄まっている)。
ゴジラという現象そのものに対する問い掛けが「キャラクター同士の会話」という手法で外堀を埋めるようにして語られているのが、この作品最大の特徴であり、結果として往年のゴジラファンが困惑するような作りになっているわけです。
ゴジラとは何か? 怪獣とは何なのか? 怪獣からみた人類とは何なのか? われわれが当然のように受容していた『特撮の怪獣・ゴジラ』を徹底してバラしていき、人間ドラマを通じて再度組み上げていくことで、新たなる『怪獣観』を示すのがアニメ版ゴジラの主題であり、その主題に沿った作劇を進行していく中で、怪獣たちの描かれ方はとても観念的にならざるを得ないのです。
こういった、既存の価値観を崩して新たな価値観を掲示するという手法は、虚淵さんの作家性と見事にマッチしている。まさに虚淵さんあってこそのアニメ版ゴジラだと思います。
この『観念的に怪獣を描いて新たな怪獣観を創出する』というのは、怪獣同士の肉体的なぶつかり合いでは決して切り開けない新たな試みです。
なぜなら、その怪獣同士の激突以前の段階から、怪獣の本質を描いていかなればならないからです。プロレスに尺を割いている時間がない。だからこそ本作においても、怪獣プロレスはほとんどないわけです。
それに、アニメ版ゴジラの企画を東映が監督たちに持ち掛けてきたときに『怪獣プロレスはやらないでくれ』と言った時点で、こうなることはほとんど予想されていました。巨大質量同士のぶつかり合いは、このアニメ版ゴジラには、最初から眼中になかった要素なんです。
だから、この映画を評する時に『怪獣プロレスがないから駄作』と論じるのは、少し早計な気がします。自分の求めていた要素が含まれていないからと言って、新しい試みに挑んでいる作品を全否定したり、作品の存在それ自体から目を背けるのはもったいないです。せっかくお金払って鑑賞しているんですから、何かしらの気づきは得たいわけです。
あ、でもエメリッヒのマグロ喰ってるようなゴジラは違いますよ? あれは否定されて当然。だって詐欺映画ですもの。ゴジラの看板を下げておきながら、その実ゴジラを新しい観点から描こうとする『努力』が全く感じられない。ゴジラに対する敬意がない。だから否定されて当然です。
それはともかくとして……本題に戻りましょう。
まずそもそも、本作の前に公開された第2章『GODZILLA 決戦機動増殖都市』のラストで、もう人類は科学的な力ではゴジラに打ち勝てないことが明示されています。
明らかにメカゴジラシティは、ビルサルドたちが生み出した『究極の科学力』として描かれており、その科学力の負の面(人体の肉体を蝕むという設定)を呑み込んでなお、それでもゴジラには勝てませんでした。と言うか、ハルオの選択からして『勝つのを放棄した』とも言えるでしょうね。
この劇中でのハルオの行動を批判している人がいますが、私はあまり批判する気にはなれません。
科学の力。それに頼ってきた人類がどんな結末を迎えたか。ゴジラ・シリーズでは沢山描かれています。
初代ゴジラを葬り去ったオキシジェン・デストロイヤー。当時の科学の力を結集させたその兵器を使った結果、兵器の影響を受けた海中微生物が進化し、ゴジラと同等かそれ以上の恐るべき存在となって人類に牙を剥く『ゴジラVSデストロイア』
また、『ゴジラVSモスラVSメカゴジラ 東京SOS』では、機龍を失くした人類がゴジラのDNAを元に新たなる怪獣兵器を開発しようとするところで幕を下ろします。その後どんな話になるのかは描かれていませんが、語るまでもないでしょう。
つまり科学に頼り切っている限り、人間はゴジラを倒すどころか、逆に自らの首を絞めることになりかねない。それを分かっている虚淵さんだからこそ、あそこでハルオに『ナノメタルなんかいらない』という判断をさせたんじゃないか。
科学力ではゴジラに抗う事が不可能であることを思い知らされた人類に残された、最後の手段。それが、ゴジラという有限の生命体よりもより高位の次元にあるギドラの召喚です。
虚空という名の『無限』の具象たる神だけが、ゴジラを打倒しうる唯一の選択肢なのだ、というこの一連の流れは実に自然で、そりゃそうなるなと言った感じです。
ではここで問題になるのが、そもそもこの映画における『神』ってなんなの?ってことだと思うんです。
話は少し逸れますが、石森章太郎原作の『サイボーグ009 天使編』に着想を得て神山監督が2012年に製作した『009 RE:CYBORG』では、人間の脳こそが神を生み出す一つの装置であると論じています。
ここでは、天使とされ崇め奉られていた存在が正義を為そうとして死んでいったのを見て、人類には神が必要であると結論を導き出した結果、人の脳は神を欲し、神そのものとなった。そんな描かれ方がされています。
ですが、『GODZILLA 星を喰う者』で描かれている『神』の発生過程は、『009 RE:CYBORG』におけるそれと比較しても、実に破滅的な、虚無的な論理です。つまりこの映画では、神は終焉や虚無の象徴として描かれているのです。
すいませんが、私はどうしてもこの『虚無』という言葉を耳にすると、冲方丁先生の小説『マルドゥック・スクランブル』に登場するディムズディル・ボイルドを思い出さずにはいられないんですが、冲方先生が何かのインタビューで『虚無であろうとすると、どうしても思考を止めざるを得ない』と仰っていたのを、ふと思い出しました。
思考、つまり自由意志を放棄した人々というのは、まさにメトフィエスの教義に心酔する、あの地球降下部隊の面々です。『神ならゴジラを倒せるゥ!』と呑気に叫ぶ、あのモブキャラ(名前忘れた、なんだっけ?)の目なんか特にイッちゃってて、思わず笑ってしまったんですが、なかなか馬鹿にできないシーンです。
人は思い込みと知識の両輪を駆動させて生きていますが、知識の基に生み出した諸々の技術で現実の複雑困難な問題を解決できないと悟った時、思い込み、つまりはオカルトな方面へ逃げてしまうような精神構造をしているんです。まさに地球降下部隊の面々は、そんな状況へ追いやられています。
だからこそ、『世界に永遠なんてない。人間もまたしかり。だから滅びて楽になろうよ(要約)』と人類に囁く異星人・メトフィエスの教義が地球人の思い込みをどんどん加速させていくわけですが、ここで面白いのは、メトフィエス自身も思考を放棄した種族の一員に他ならないという点です。
科学による探求を精神分野へ特化させて、宇宙の真理、すなわち『永遠に続く文明など無い。全ては有限の産物でしかない』ことに『気づいて』しまった結果、いかにして意味のある破滅を迎えるべきかに固執していくエクシフという種族の悲劇が、彼のバックボーンにしかと存在している。
そうして導き出した彼らなりの結論が、『すべてをギドラにゆだねることこそが、心の安心を生むのだ』というものであり、この考え方のどこにも、種族としての主体性は現れていません。
ニヒリズムの極致とても言うべきその結論を導き出し、有限の世界からの解放こそが安息に繋がるのだと、善意の下に説法を垂れるメトフィエスの姿には、空恐ろしさすら覚えます。
生命はいつか滅びる定めにあるんだから、ちゃっちゃともうみんな死んでしまおうよと。そうすればみんな悩む必要もなくなるし、幸せになれるよって。正常な理性の下で聞いていていると、本当にカルトそのもの。でも地球人はみんな、もう頼れるのがギドラしかないから、それに縋らざるを得なくなっている。
ただ、そんなメトフィエスの教えに一度は絡め取られながらも、真っ向から対立するキャラクターがいます。
そうです、ハルオです。
思えばこのアニメ版ゴジラ三部作というのは、『人間VSゴジラ』という当初の図式が、実は最終章で『ハルオVSメトフィエス』という図式に転換されているんです。
では『ハルオVSメトフィエス』という構図において、ゴジラとギドラの闘いは何を意味するのか。それこそが、まさにこの映画で監督と虚淵さんが主題として定めていた『観念的な存在としての怪獣』の在り方そのものです。
つまり、ハルオとメトフィエスの対峙の仕方が、ゴジラとギドラの闘いに反映されているんです。
ハルオがメトフィエスの唱える破滅主義に絡め取られている時には、ゴジラはギドラに噛み付かれて苦戦しています。
ですが、ハルオがフツアの神=モスラの手を借りてメトフィエスの甘言から覚醒して、ギドラを地球に繋ぎ止めている七芒星のエンブレムを破壊したシーンの直後、ゴジラの目のアップがあり、ゴジラは反撃に打ってでます。
ゴジラとギドラの闘いというのは、あの精神世界でのハルオとメトフィエスとの問答を、戦いという形に置き換えた、観念の具現化なんです。ハルオとメトフィエスの闘いを、両者に肩代わりさせているんです。
ゴジラがどうして知性ある人間の目をしているのか。そしてなぜギドラには目=意志としての象徴が描かれていないのか。すべては、このシーンを描くためだったのです。
対比構造です。地球の守護神・ゴジラと、宇宙の真理・ギドラの対立というのは、ハルオとメトフィエスの対立です。
そして対比構造は表裏一体という言葉に通じます。それに照らし合わせてみると、ハルオとメトフィエスは真反対な立場を貫きながらも、どこか『似ている』んです。ハルオはもう一人のメトフィエスであり、メトフィエスはもう一人のハルオです。
ハルオがゴジラという超存在を前に虚無に囚われ、他に救いを求めようとした成れの果てがメトフィエスなんじゃないのか。逆にメトフィエスが、ハルオが内包する『世界の不条理に抗い、人類の愚かさを受け入れる覚悟』を備えていれば、彼はギドラを崇めることを拒否したんじゃないか。
だからこそあの二人は、どこかで互いを求めていた。メトフィエスが死ぬシーンでハルオが涙したのは、自分であったかもしれない存在に自ら止めを刺し、決別することの重みを実感したからに他なりません。
もうここまで話していて、なんとなく気付いている方もいると思いますが、このアニメ版ゴジラ三部作は『怪獣映画』ではありません。
これは、怪獣を背景に据えたSF映画です。怪獣という存在を観念的に描き、人間と怪獣の在り方を問い質すことで描かれた、ハルオの物語なんです。
これは、種族たる己は地球環境の一部に過ぎないと学んだハルオの、魂の救済を描いた映画です。
だからこそ、だからこそ私は言いたい。
この映画のラスト。ユウコの亡骸を抱えてバルチャーに乗ったハルオが、ゴジラに特攻して死ぬシーン。
あれこそまさに、これ以上にない『ハルオにとっての』ハッピーエンドであると。
つまりどういうことか。フツア族の巫女が言ってましたよね。
『勝つことは生きること。負けるとは死ぬこと。ハルオは、負けたがってる』
この言葉の意味を自分なりに噛み締めながらも、それでもハルオは死ぬ道を選んだ。それはなぜか?
簡単です。彼は『死ぬことは負けることじゃない』と言う結論を導き出したからです。
だって、彼は残しましたから。自分が生きたという証を。マイナと添い遂げることで、自分の血を彼女の中に残せた。それだけで、彼は満足したんです。生物としての、人間としてのハルオはもう、ここで救われていたんです。
ですがそれだけじゃ終わらないのが、やはり虚淵さんです。
さて、ここで過去のゴジラ映画を振り返ってみますと、これらには、ほとんどお約束と言ってもいいあるシーンが少なからずあります。
それは平成版ゴジラになってから特に顕著になったシーンですが、ゴジラを撃退or消滅させた……と思いきや、ゲェー!ゴジラ生きてるじゃん!また人類に牙を剥くじゃん!といった、ホラーテイストな終わり方をする。あるいは、ゴジラに匹敵する驚異の到来を作中で予言して終わるという、とても『良い後味』とは言えない終わり方をする。
今回の映画でその役目を担っている存在が、ゴジラではなくギドラなんですね。
本作に登場するギドラはもう、反則だろってくらいに無茶苦茶強い訳です。歴代の怪獣を含めてもダントツに最強最悪の存在として描かれています。だってあのゴジラが、何の抵抗もできず殺されるところだったんですから。
つまり、ゴジラ以上に驚異的な存在としてのギドラをハルオは知ってしまった。そして人類がゴジラに対する憎しみを募らせ、科学を発展して立ち向かっていった時、きっと挫折するであろうことも予想できた。それはもう確定的なことです。その結果、エクシフたちのように無力感を覚え、自由意志を喪失して、自分達の文明の発展が限界を迎えたのだと強く自覚してしまった時、またギドラが地球を破壊しに降臨してくる可能性がある。今度こそ、地球を滅ぼす為に。
これを出来得る限り防ぐための唯一の手段が、ハルオの自決な訳です。
ゴジラを憎むのではなく、天災と同等の『自然発生した脅威』として見るフツア族の、生命体としての素朴な姿勢に希望を見出したハルオ。彼は、ゴジラに対する憎しみを抱えた自分が生きていると、フツア族にもその憎しみが伝播してしまうことを恐れます。
憎しみという感情を知ったフツア族が、ゴジラを打ち倒すために科学文明に手を出し、際限なく繁栄させていけば、いつかはエクシフと同じ過ちを犯すかもしれない。そのトリガーを引くのは、憎しみを捨てきれない自分かもしれないと思った。
だからこそ、ゴジラを憎むのは自分ひとりだけで良いと悟り、憎しみを抱えた自身を消すことで、劇中におけるゴジラを『打ち倒すべき怪獣』から『自然発生した脅威』へダウングレードさせたわけです。そうすることで、彼は、自分の子供たちが、ゴジラへの憎しみを抱える事のないよう願った。
ゴジラをゴジラたらしめているのは、理解不能な規格外の存在へ向ける、人類の憎悪だったというわけです。
これって、とても現代的だなと思うんです。もしもあの東日本大震災が、ゴジラのような存在の手によって引き起こされたものだとしたら、まずまちがいなく人類はその震災を起こした元凶へ、怒りと憎しみを向けることでしょう。
でも、それは無駄なことで、全く以てなんの価値も無い。この世界はとても不平等に出来ていて、理不尽を時に人は呑み込まなくちゃいけない。そこで『理不尽である』ことに囚われ続けていると、人は無力感を覚え、虚無へ引きずられ、生きる意味を失くして、オカルトへ縋るようになる。
それは少なくとも、命ある者の世界の向き合い方としては間違っているように私は思います。
大事なのは納得することだと思います。とても難しいことですが……私も被災者の一人として、あの震災をどう総括して良いべきか、ときおり考える事がありますが、それでも我々は前を向いて歩いていくしかない。
少なくとも、ハルオは納得した訳です。自分の血を遺せたことで、もう思い残すことはなにもないとばかりに、自分の手で自分の道を選択します。それが『死』というかたちで帰結したとしても、彼は満足して、だから特攻の刹那に少し笑みを浮かべたわけです。死ぬことは負ける事じゃないんだと、フツア族の教えを彼なりに再解釈した結果です。
しかし、人類という大枠で見た時に、ハルオの取った選択が正しいかどうかまではわかりません。
もしかしたら今後、フツア族がなんらかの弾みでゴジラを憎む日がくるかもしれない。そもそも、人類があのまま発展していけば、いつかは第二、第三のハルオのように、ゴジラに憎しみの目を向け、行き過ぎた科学力で再びゴジラを滅ぼそうと、愚かにも意気込んでしまう人達が出てくるかもしれない。
でも、そういった未来への危惧は、この物語では描かれていません。
当たり前です。描く必要がないからです。
なぜなら本作はハルオの物語で、最初から最後まで彼に焦点を当てなければ意味がない。だから、ハルオが自分にとって納得のいく道を決断したなら、それはハッピーエンドなんです。
周囲から見てバッドエンドな感じに見えても、本人たち目線で観た時にはハッピーエンドになるって、もうまさに虚淵テイスト。『沙耶の唄』か!ってなくらいの虚淵テイストです。
……ですが。
で・す・が!
ですが! ですが! ですが!
ここまでおよそ1万字使って、この物語の骨格を自分なりに論じてきましたけれども、あえて言わせてほしい。
いくらアニメ版ゴジラが、怪獣を観念的に描くことを念頭に置いて製作された『新しいゴジラ映画』であると言っても! そのテーマがちゃんと作中で消化されていると言っても!
それが、映画の面白さに、必ずしも直結するわけじゃありません!
端的に言って、この映画、面白いかと言われたら首を傾げます。
ここまで語っておいて言うべき台詞じゃないかもしれませんが、でも本当に、映画としては『おい……これなんだよ!?』と言いたくなる出来です(笑)
あのね、やっぱ退屈なんですよねぇ(笑)。映画としては、ホントに退屈なの。そもそも、ゴジラを良く知らない人たちにも楽しんでもらいたいと言っている割に、論じられているテーマ自体がとても捉えづらいし、これもホントしょうがないんだろうけど、怪獣プロレスをやらないから物足りなさは否めません。
まずですね、ハルオとメトフィエスの精神世界における対話シーンを何とかして欲しかった。内容が理解できないんじゃなくて、飽きてしまうんです。対話だから仕方ないんでしょうけれども、もうちょっと演出的にどうにかならなかったのかって言いたい。
なんかさぁ、ジャンプカットを連続挿入すればいいってもんじゃないでしょう。単純なショットの繰り返しだけやってれば会話劇が面白くなるなんて、そんなのはまやかしです。会話を聞く以外は全く意味のないシーンほどつまらないものはありませんて。
たとえば物の配置。エフェクトのかけかた。BGMの使い方。登場人物の表情。
そういったものを多彩に駆使して、見るべきものを配置するなりして、キャラクターの心情をより具象化する。これは、アニメーションの作品価値を高める上で必要になる重要な要素の一つなんですけど、それが決定的に足りていません。
ゴジラとギドラの闘いも、絵的な迫力に欠けます。ギドラがゴジラに噛み付く。そのままろくに動かず、ほとんど静止映像でゴジラが「あんぎゃああああ」と叫んでる。ギドラが「きゅいいいいん」とか哭いてる。それだけ。
引力光線、吐かないんですよ今回のギドラ。ただ噛み付くだけなんですね。それってどうなんでしょうね。いくらゴジラとギドラを観念的に描いたと言っても、もう少し動きとかつけられなかったんだろうか。
というかもう、物語構成が『どうした?』ってくらい映画向きじゃない。これは虚淵さんのせいではなく、むしろ監督たちの責任がデカいんじゃないのかと思う。
起承転結を三部作に分けて、さらに各部ごとに起承転結を設けているのはわかるけれども、もうちょっとメリハリがないとね。小説で読みたいですねこの映画は。
ただね……色々言ってきましたけれど、これらの欠点も、ゴジラにさほど思い入れがない人からしてみるとそんなに気になる要素ではなく、案外楽しめてしまうかもしれないことだけは言っておきます。
基本的にゴジラオタクってのは、『ゴジラはこうあるべき』という保守的価値観を拭い去って映画を鑑賞するということが中々できない。だから私みたいに、映画としての作りは微妙だけど、まぁテーマ自体は理解できるよなんて、ちょっと小賢しい物言いをする人が大半だと思います。
私だって、まっさらな、それこそ「ゴジラって何なの? 怪獣って何なの?」って気分でこの映画を観たいですよ。だって虚淵さんだよ? 虚淵さんが手がけるSF映画だよ? そんなの面白い作品である可能性が高い訳じゃない。できるだけ新鮮な気分で観たいですよ。
でも残念ながら、それは出来ない訳。もう幼少の頃からのゴジラオタクである私に、フェアな目線でこの映画を鑑賞しろというのは、どう頑張っても無理があるんです。
他の、多くのゴジラオタクたちがそうであるように、私もまた自分の中に確固たる『ゴジラ像』があるから、無意識のうちに劇中のゴジラと私の頭の中のゴジラが宿している『怪獣性』をすり合わせてしまう作業をしているんです。
そんなことをやっているような私には、きっとこの映画の『真なる所』を見定めることは永遠にできないのかもしれません。
このアニメ版ゴジラ三部作の価値を決定づけるのは、私のような病的なゴジラオタクではなく、むしろその逆の存在にかかっている。ゴジラのゴの字も聞いたことが無いような方々こそが、この映画の在り方を決定づける権利を持っているんじゃなかろうか。
さっき、一般客を狙っている割には論じられているテーマが捉えづらいなんて言ったけれど、でもそういう風な見方をしてしまったのも、ゴジラオタクとしての偏執的な思考論法が、悪い形で働いてしまったせいであるかもしれない。
だから、私はこの作品を駄作とは言いたくない。言う権利もない。
そんな評価を下したら、チャレンジングな作り手たちの覚悟を全否定した、まるで物分かりの悪い頑固親父みたいじゃないですか。そんなことは絶対にしたくない。
本作は怪獣映画ではないけれども、これもまた一つの『ゴジラ映画』として、その系譜に名を連ねることになるかもしれません。
そして、この映画に正当な価値づけが出来るのは、間違いなくゴジラを良く知らないお客さん一人一人の目にかかっていると、私は信じたい。
だから、劇場へ見に行く価値はあると思います。
ただ、怪獣プロレスを期待して観に行くと失敗します。