【第100回】ぼくのお日さま
『“美しさ”とは”偏見”なのか』
いままでの経験上、だいたい「軽い気持ちで鑑賞した映画」ほど、痛い目を見る傾向がある。
「軽い気持ち」というのもさまざまで、特に多いのが「お目当ての映画が満席や時間調整ミスのため観ることが叶わず、代打として適当な作品をその場でなんとなく選ぶ」という即興的なやり口。まぁだいたいの確率でハズれます(笑)。私、この手の鑑賞方法で良い経験をした試しがありません。どれもだいたい「面白くない」という結果に終わっているんですな。こんな偉そうなレビューを書いている身でありながら、映画の良し悪しを即座に現場で見極める力というのがほとんど養われてない事実に、我ながら嫌になります。
それとは別にもう一つあるのが「使える映画をテキトーに選ぶ」です。「あの監督のあの作品が公開される! 観るぞ!」とか「あの話題作がいよいよ公開だ! 観るぞ!」と肩に力を入れての鑑賞ではなく、もっとゆる~~いスタンスで映画を選ぶということ。「なんかホラー観たい気分だからホラー映画を観よう!」だったり「綺麗な女優をデカいスクリーンで観たいから、美人な女優が出ている映画を観よう」とか、そんな具合の感覚。そうした即物的で下世話な欲求を抱えて映画を観る、というのも大事だと思うのです。
特に最近の私は『ソウルの春』『同意』『エイリアン:ロムルス』などなど、物語的に(そして映像的にも)ハードな映画ばかり観ていたのもあって、ちょっと心がカサついてきていたのです。そういう時、どうしても「うるおい」を欲してしまうんですな。ハードな映画は好きだしバイオレンスなんて大好物だけど、そればかりだけでは味気ないというか。どれだけカレーライスが好きでも毎日カレーを食べていたら自然と飽きてきてしまうのと同じ原理といった方が良いでしょう。
そういうわけで、「なんかこう、あったかいコーンスープみたいな映画ないかな~。胃に優しく届く、ほっこり癒し映画、ないかな~」と探していたら、ありました! ありましたよ! いかにも「癒しますよ~♪」といったルックの映画が!! お! こいつは「使えそうな映画」だなぁ~~! とウキウキした気分を抱えて、私はその作品のチケットをネットで予約し、劇場へと足を運びました。
映画が終わり、劇場内が明るさを取り戻した時、数時間前のウキウキした気分はどこへやら。私は「とんでもない映画を観てしまったぞ……」という衝撃を胸に抱き、パンフレットを買うのも忘れ、砂漠のど真ん中へ放り出されたかのような居心地のまま、日比谷の劇場を後にしました。
「MAD CINEMAX -ムービー・ロード- 」最終回。この独断と偏見に塗れた奇特なレビュー集をここまでお読みいただいた根性ある皆様へご紹介しますのは、今年度No.1と言っても過言ではない「美しさ」についての映画です。
【導入】
雪に閉ざされた地方の田舎町を舞台に、フィギュアスケートを通じて出会った小学校六年生の男女と、そんな二人を暖かく見守るスケートコーチの苦悩と葛藤を描いたヒューマンドラマ。
監督は、これが商業長編デビュー作となる、若干28歳の俊英・奥山大史。今作におかれましては監督だけでなく、撮影・脚本・編集も手掛けるという、八面六臂の大活躍っぷりです。まず間違いなく、今後の邦画界における重要な立ち位置を占めることになる人物になることでしょう。大学卒業を機に制作したインディーズ作品『僕はイエス様が嫌い』が数年前に新宿シネマカリテでかかっていましたが、その時から気になっていた人ではありました。『僕はイエス様が嫌い』は時間の都合で劇場では観れませんでしたが、これ、吉本芸人のチャド・マレーンさんがイエス・キリスト役で出ているんですよね。ちなみに奥山監督はアルベール・ラモリスの『赤い風船』が大好きとのこと。観たことないんですが、どういう作品なんでしょうか。気になります。
主演の小六男子・タクヤ役を演じるのは、テレビドラマ『天狗の台所』に出演中の越山敬達。ヒロインの小六女子・さくら役を演じるのは、これが演技デビューとなる中西希亜良。どうも調べたところ、当初は演技経験のある子にスケートを教え込もうとしていたらしいですが「最初からスケートの出来る素人を呼んできて演技つけたほうがイイんじゃね?」ということになったようです。なんか妙にフィギュアスケート姿がサマになってるよな~と感じていたんですが、理由が判りました。
タクヤとさくらの二人にフィギュアスケートを教えるコーチ・荒川役を演じるのは、『シン・仮面ライダー』で主役の本郷猛を演じ「辛いなぁ……」顔を終始披露していた池松壮亮。私はハッキリと『シン・仮面ライダー』のアンチなので、庵野秀明の子供じみたワガママ(つーか、杜撰な演技指導)に振り回されてしまった彼には同情します。まぁクリエイターなんて「子供じみたワガママ」を振り回してナンボかもしれませんが、限度というものがあるでしょう限度ってものが。『シン・エヴァ』で見事に騙されましたよ私は。『斬、』で見事なアクション(つーか、殺陣)を披露していた池松さんの身体性を、ああも木っ端みじんに無意味化してしまうとはね。いやいや、本当に恐ろしいものです。
【あらすじ】
少年は、白球を追いかけるのではなく、空から降り注ぐ雪を見た。今年初めて少年が目にするその雪は、ちいさく、ちいさく、手に触れてしまえばすぐに溶けてしまうが、それでも、すこしづつ、すこしづつ、グラウンドに白い絨毯を敷いていく。
生まれつき吃音を持つ小学校六年生の少年、タクヤ。彼の暮らす田舎町が豪雪に覆われた頃には、学校の体育の授業も野球からアイスホッケーへと、その種類を変えていた。だが、生まれつき穏やかな性格で争いごとを好まない彼は、ホッケーの試合でもさんざんな扱いだった。半ば押し付けられるかたちでやることになったゴールキーパーもまったくサマにならず、チームメイトからは陰口を叩かれる始末。
そんな彼がある日出会ったのは、同じ学校に通う小学六年生の少女・さくら。ホッケーの帰りに、たまたま彼女のフィギュアスケート姿を目撃したタクヤは、窓の外から降り注ぐ陽光の中、美しく氷上を舞う彼女の姿に心を奪われてしまう。
その日以来、見よう見まねでフィギュアスケートの練習をするタクヤ。だが、専用のスケート靴ではなく、ホッケー靴で独自に練習しているというのも相まって、上達の芽はない。そんな彼の姿を見るに見かねて、助けを差し伸べる人物がいた。かつて日本代表として世界選手権に出場した過去を持ち、いまはフィギュアスケート教室を運営しているコーチの荒川だった。彼は自分の使っていたスケート靴をタクヤに貸し与えると、タクヤの真摯な姿勢に心を打たれたか、マンツーマンでレッスンをつけはじめる。そんな荒川の姿を、どこか複雑な想いで見つめるさくら。荒川はさくらの直接指導に当たっており、そしてさくらはといえば、自分より年上で、どこかミステリアスな雰囲気を持つ荒川に「憧れ」にも似た淡い感情を抱いていた。
荒川の厳しくも親切な指導のおかげで、徐々にフィギュアスケートの才能を開花させていくタクヤ。彼がさくらに対して恋心を抱いていると看過した荒川は、ある提案をふたりに向ける。それは、アイスダンスのペアとして大会に出場してみてはどうか? という、少なくともさくらにとっては晴天に霹靂の提案だった。
シングルとして活躍することを第一としていたさくらをどうにか説得した荒川は、タクヤとさくらに指導をつけ、お互いが思いやりを持つことで、アイスダンスのペアは成立するということを説いていく。最初は初心者であるタクヤの動きにもどかしさと苛立ちをを感じていたさくらも、少しづつタクヤに対して心を開いていき、またタクヤにしても、同級生たちにさくらとの特別な関係をからかわれながら、野球やホッケーの時には味わうことのなかった、フィギュアスケートの楽しさに熱中していく。
そうして、いよいよペア登録のために必要な審査大会を一週間後に控えたある日、「事件」は起こった――
【レビュー】
そのホンワカしたルックと、ポスターに映る主要登場人物がみんな笑顔であるという点、なによりハンバート・ハンバートの楽曲から着想を得た「ぼくのお日さま」というタイトルが持つ平和な印象から「”癒し映画”として使えるな」と、ある意味「舐めてかかっていた」だけに、この作品のあまりの完成度の高さにびっくらこいたというのが正直なところです。
予告編だけは事前に視聴していたので、この映画が「ライティング(照明)」に力を入れている作品なのであろうということは、なんとなく察しがついていました。しかし、まさかここまでとは……まず最初に言いたいのは、この映画の「顔」になっているのは、ストーリーでも役者でもなく、この「ライティング」すなわち「圧倒的な光の演出」であり、それによってもたらされる「美しさ」にあるということです。自然光と人工照明をどの程度の割合で使ったのかかなり気になるのですが、この映画は、全編ほとんどが「光」に覆われている映画と言っても過言ではない。とは言っても、いたずらに光だらけの映画というわけではなく、そこは登場人物の心情やシーンの状況に合わせて、微妙にコントラストを調整しているという職人技を使っています。商業長編デビュー作でこれなのかと。ちょっとちょっと!奥山監督経歴詐称してるだろ!と突っ込みたくなります(失礼)。
この光の演出が、なぜ上手くいっているのか。映画素人的考察をするならば、理由のひとつに、アイススケートリンク場の「構造」が関係しているのだと思います。アイススケートリンクは、会場内外の温度の影響を強く受けるため、シビアな温度管理の要求される施設です。そのために、空間的な広さが必要になるのですが、高窓が取り付けられているというのもあって、窓から降り注ぐ陽光が、効果的に氷上の舞台を照らす機能を果たしているのです。それゆえに、氷上で踊る少年少女たちの存在を、どこか幻想的で美しいものに仕立て上げる。特にそれが現れているのが、物語の序盤。タクヤがさくらちゃんの演技に見とれているシーンです。ここのシーンにおける光の演出に、私は19世紀に活躍したイギリスの画家、ウィリアム・ターナーの〈レグルス〉と同じ「光の瀑布」を見ました。「美しい」という表現で語るのも野暮に聞こえるほどの「美しさ」に溢れているこのシーンで「あ、なにかこの映画は違うな」という直感が働いたのですが、まさにその通りの映画でした。
よくある出来の悪い邦画の特徴に「登場人物の感情をすべて台詞で説明してしまう」という悪癖がありますが、この映画にはそういうシーンは一切ございません。というか、台詞そのものがあまり多くない映画です。ではどうやってキャラクターの心情や、その関係性を語るかというと、これはもうカメラワークですよ。タクヤとさくらを荒川が指導しているシーンでは、三人の関係性を「聖域」として描くかの如く、「円」の中に捉えるようにカメラがフォローしていくわけですが、これが「距離の近い二人(あえて誰と誰、とは言いません)」同士の関係性を描くときは、同一のフレーム内に収まるように会話を応酬させ、「距離のある二人(これも、あえて誰と誰、とは言いません)」同士の関係性を描くときは、単純なカットバックの連続で、両者の間に心理的な距離があることを示す、というやり口。はっきり言って上手すぎるし、観ていてとても「映画的に」心地よい作りになっている。
さらに凄いのは、本作は「スタンダードサイズ」の画面内で展開されているにも関わらず、窮屈な雰囲気というのをほとんど感じさせないところもイイ。今年公開された邦画で「スタンダードサイズ」を採用している作品だと『悪は存在しない』『熱のあとに』が挙げられますが、とくに閉塞感を演出していた『熱のあとに』とは、真逆の雰囲気を醸し出しています。その雰囲気というのは、一言で言えば「想い出アルバム」です。物語の舞台は明記されませんが、これが私たちが暮らしている2024年の現在から20年ほど昔の時代なのだろうことはわかります。もしかするとこの映画は、劇中に登場する三人が「現代」という視座に立って当時のことを想い出している、その記憶の断片を繋ぎ合わせているのではないか? そんなことを感じさせるくらいには「想い出アルバム感」の強い映画であり、それを効果的に活かすのが、この「スタンダードサイズ」なのだと思うのです。
そんな風にこの映画を語ると、やっぱりタイトルの「ほんわか」した感じの通りの、穏やかで癒しの空間だけが目につく映画に思えるかもしれません。
しかしながら「残酷な話“ではない”」かというと、そうとも言い切れないのです。
そうなのです。実はこの映画は、そのルックはどこからどうみても「癒し映画」という印象を与えてくるし、実際のところ映画の序盤~中盤にかけては、前述した光の演出や、タクヤ・さくら・荒川の三人の関係性の「居心地の良い」描き方からしても、たしかに「癒し映画」としての匂いがプンプンします。しかしながら誤解しないでいただきたいのは、鑑賞者の心を丁寧に心地よくマッサージしてくれる「親切なだけの映画」ではありません。そういう意味では、映画の序盤~中盤までの「美しくて」「癒される」展開は、後半に待ち受ける「厳しい現実のドラマ」を盛り立てるための「豪奢なフリ」として機能しているとも言えます。
この映画、なかなかネタバレなしで話すのが難しい作品なのですが……まぁ頑張ってネタバレなしでお話しするとですね……昨今の映画界で非常によく取り上げられている「極めて現代的なテーマ」が中心にある映画なのです。しかしながら、この映画の本当の凄さというのは、その現代的なテーマを語ること「だけに」終始していない、という部分にあります。鑑賞済みの方は「は? どこがだよ」と思うかもしれませんが、少なくとも私はそう思ったんですよ。
だって、現代的なテーマを語るため「だけ」のドラマだったら、こんなに「美しい」映像は必要ないでしょ。
本作における「現代的なテーマ」だけを語りたいのであれば、もっと多角的な視点/登場人物たちのドラマという面から、テーマに対する切り込みをするだろうし、少なくとも奥山監督には、それをやろうと思えばやれてしまうだけの「映画的な体力」があると、私は思っています。しかしこの映画における「現代的なテーマ」、およびそれがきっかけになって引き起こされる「事件」は、タクヤ・さくら・荒川の関係性に(それがどれだけ痛烈なものであっても)「変化」を起こすためだけのサスペンス的なエッセンスに過ぎません。おそらくピュアな心の持ち主ほど、この「現代的なテーマ」によって引き起こされる「関係性の変化」に気を取られて「なんて配慮のない映画なんだ!」と憤るかと思うのですが、しかし憤る前に考えるべきは、だったらなぜ、この映画には過剰なほどの「美しさ」が存在するのかということです。
結論から先に申し上げますと、私はこの映画、「現代的なテーマ」を使っている映画であるには間違いありませんが、本当に語られていることは、そのテーマがきっかけになって起こりうる「映画内における美術のコペルニクス的転回」すなわち――「美しさ」とは「偏見」に過ぎないのではないか――ということを語っている映画だと感じたのです。
劇中の後半、この「現代的なテーマ」が強烈に観客の意識に刺さってくるシーンが出てきます。「ある人物」が「ある人物」に向けて、非常に「差別的な発言」をするシーンがそれなのですが、ラストの方で、この差別的な発言を口にした人物が、とある「美しい行動」を取ります。その「美しい行動」を取った時、この映画の前半~中盤において、ライティングをメインに描かれる「美しさ」の意味が、まるきり変わってくるのです。
私たちは「美しさ」というものを、どこか絶対的なものとして捉えがちです。美しい風景。美しい顔。美しい演技。美しい立ち姿……まぁ「風景」は置いとくとしても、人間が醸し出す「美しさ」を私たちが観た時、ほとんどの人が無条件に「この人は、きっと内面も美しいのだろう」と「合格」を出すのはなぜでしょうか。それは単純に、私たちが「人間の心を眼で見ることが出来ないから」に他なりません。本音と建前を駆使してこの世を渡り歩いている人間社会の中で、その人の身体/所作の美醜から、心の美醜を導き出すなど、超能力者でもない限り不可能です。だからこそ、私たちは「美しい人("美人"という意味ではない。為念)」を目撃した時、その人の心もきっと美しいのだろうと「無条件に推測」してしまう傾向があると思うのです。
そういう風に捉えるなら、この映画の序盤~中盤にかけてのシーンは、その差別的な発言をした「ある美しい人物」の心象は、画面内に映し出されていないということになります。これは一見すると奇妙なことに思えるかもしれませんが、ごくごく普通のことというか、映画が「画を映す芸術」に過ぎない以上、そして人間の心が「目に見えないモノ」である以上、極端な物言いをすれば、本作における序盤~中盤のシーンは、本当の意味で「映画的」であると言えるのです。
その「真に映画的なシーン」に宿る「美しさ」が、中盤過ぎにおける「ある人物」の差別的な物言い、並びに、その人物が映画のラスト付近で取る「美しい行動」によって、多くの観客の目に、まったく異質なものとして映ってくると思います。少なくとも、私はそのように感じました。「自分はてっきり、この人物を”美しい人物”だと思っていたけど、でもあんな差別的な物言いをしてしまったら、この映画の”美しさ”を、自分はどう捉えれば良いのだろうか」と、激しく狼狽しました。思い返せば、その狼狽が意味するのは、私が宿している「美の基準」のブレであるのです。
その「ブレ」から見えてくるのは、私たちが「絶対的なモノ」として無意識のうちに神聖視している「美しさ」なるものは、結局のところは、その人の経験や知識の偏りからくる「誤解の総体」でしかないということ。言ってしまえば、その人が持つ「偏見」の集積によって「美しさ」「美の基準」は成立しているのではないか? そんな、自分の持つ審美眼を無意識のうちに絶対視している人々に対し、「アンタのそれ、ただの偏見ではないのかい?」と、それとなく語っているのが本作『ぼくのお日さま』だと思うのです。そういう意識を観客に芽生えさせるには、中途半端な美術では成立しません。というか、もしこの映画がこれほど過剰に美しい光の演出、カメラワークが駆使されていない作品だとしたら、じつに「後味の悪い」映画になってしまいます。でも、そうはなっていない。ラストはどこか不思議な爽快感の残る、実に味わいのある作品になっているのは、やはりこの映画が現代的なテーマを語ること「だけ」に終始せず、そのテーマを足掛かりに人間心理の普遍的なところを描いているためであり、そのために「過剰な美しさ」の演出があると思うのです。
えー……どうでしょうか。頑張ってネタバレなしで話してきましたが……最後にどうしてもこれだけは言いたい。実はこの映画のラストの展開の一部は、私がこの映画レビューで紹介してきた「とある映画作品」とまったく同じ構造を取っています。なので、正直なところビックリしました。「おい! これ●●●●●と同じだ! 同じ展開だ! た、たのむ! あんな映画みたいな、後味の悪いオチにだけはならないで~~!」と謎の焦りを抱きながら観ていましたが(笑)、そうはならなくて安心しました。
しかしあくまでも似ているのは「ラストの展開の一部」だけであり、全体的なテイスト、というか物語のフォーマット自体は、極めてオーソドックス。そのオーソドックスな枠組みに、現代的なテーマをぶち込むことで、逆説的にそのテーマの重要性が浮かび上がってくるという物語構造上のテクニックの上手さもさることながら、そのテーマを通じて普遍的なことを描いているために、この映画は、ある意味では「社会派映画」としての側面を得ています。多くの邦画が「社会派映画」を謳っていながら、よくよく見てみると「極めて限定的な関係性のお話」として、物語が「閉じて」しまっているのに比べれば、本作『ぼくのお日さま』は、狭い人間同士の関係性を描いていながら、この物語は「開いて」います。それだけ、多くの観客に届くだけの射程距離を有する長距離砲台映画であり、もっと多くのお客さんに届いてほしい、そう強く願う一作です。
すべての人に、おすすめの映画です。