【第99回】フェラーリ
『プロフェッショナル~エンツォの流儀~』
プロフェッショナル――誰もがその言葉の持つ力に憧れる。その道を究めた達人。右に並ぶ者のいない職人技術。しかしそうした技術を扱うことだけがプロフェッショナルを定義するのではない。
それは、あらゆる職業や業務にだって言えることができる。自分の置かれた立場を自覚し、そのうえでどう仕事を遂行するか。そこにこそプロフェッショナルの精神は宿る。
仕事を通じて、いかにして自らを「実現」させていくか? その宿命に挑んでいくのは現場で働く人たちだけではない。すべての従業員を統率する「社長業」に当たる人もまた、仕事を通じて自らを実現していく必要性に駆られていく。
エンツォ・フェラーリ――モータースポーツ世界の生ける伝説、「オールドマン」と讃えられしこの男は、いかにして自己実現を為していったか。
そして……その果てに、彼はどんな光景を見ることになったのか。
そのすべてが詰まった映画を、今回はご紹介いたします。
【導入】
1957年のイタリアを舞台に、経営難に陥ったフェラーリ社を救うために奔走する創業者、エンツォ・フェラーリの人間模様に焦点を当てたヒューマン・サスペンス映画。
監督は、あの超傑作クライムアクションサスペンス映画『ヒート』でおなじみのマイケル・マン。リドリー・スコットと同期のおじいちゃんシネアストですが、リドリーが未だに脂っこくギラギラ輝いているのとは対照的に、今回はいつになく、酸いも甘いも知り尽くした「渋い大人のドラマ」を仕上げてきています。
主演は、アダム・ドライバー。まだ40歳のアダム・ドライバーが老境に差し掛かったエンツォをどう演じるのか?というのも見どころのひとつですが、これが驚くほどハマっていて見事です。ぜんぜん違和感なかったなぁ。
エンツォ・フェラーリの奥さんでフェラーリ社の共同経営者でもあるラウラ・フェラーリ役は、私の好きな女優のひとりであるペネロペ・クルス。若かりし頃はそのエキゾチックな色気をふんだんに見せつけていましたが、『ペイン・アンド・グローリー』では慈愛溢れる母親役を演じるなど、ここ最近はカドが取れた丸みを帯びた演技が増えたなーと思っていたら、コレですよ。今回彼女が演じるこのラウラという女性が、まぁ怖いのなんの(笑)。こんな奥さん貰ったら世の男性たちはキンタマ震え上がって仕方ないでしょうね。
【あらすじ】
朝日が男の顔にふりかかり、栄光という名の過去の夢から目覚めさせる。男はベッドに眠る女を起こさないように着替えると、いまだ起き上がる気配のない息子の様子へ一瞥をやりながら、クーペに乗ってどこかへと出掛けた。
男の、その歴戦の苦闘を滲ませる皺の深さにも負けじとも劣らないほどに使い込まれ、悲鳴をあげるように公道をひた走るクーペ。向かった先には、もうひとつの自宅があり、ひとりの女が待ち受けていた。かつて愛した女にして、モータースポーツの世界に骨を埋めることを共に誓ったはずの女。だが、その瞳の奥に宿るのは慈しむような愛情ではなく、突き刺すような侮蔑の色だった。
そして、女は護身用に男の手で買い与えられた拳銃を、あろうことか男自身へと向ける――いまやモータースポーツ業界の第一人者であり、オールドマンと讃えられし男、エンツォ・フェラーリその人へと。
時代は1957年のイタリア。エンツォ・フェラーリは難病を抱えた息子ディーノを前年に亡くし、会社の共同経営社でもある妻、ラウラ・フェラーリとの関係は冷え切っていた。
また、アメリカではフォードが、イタリアではマセラティやフィアットといった競合他社が着々と力をつけてきており、老舗のフェラーリは、ここにきて窮地に立たされていた。
息子を亡くした哀しみを胸に抱えながらも再起を誓ったエンツォは、会社の実質的な経営権を妻のラウラから取り戻したうえで、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷なロードレース「ミッレミリア」に挑もうとするのだが……事態は、彼の想定を越えた領域へと加速する。
【レビュー】
マイケル・マン。
すでに「名匠」としての地位を確実なものにしているこの稀代の映画監督は、これまでどんな作品を撮ってきたのか? ひとことで言ってしまえば、それは「男の映画」というところに集約されるでしょう。
もっと言ってしまえば「プロフェッショナルな男の映画」と言えるかもしれません。仕事を生き甲斐とし、仕事を通じて自らの存在価値を見出そうとする男たち。刑事、銀行強盗、タクシードライバー、犯罪者、テレビディレクター、プロボクサーなどなど……仕事に対する情熱を傾け続ける男たちの色気。その色気にクラクラと酔いしれつつも、マイケル・マンはそうした男たちを、ただ「カッコイイ」という文脈だけに収めることはありません。
マイケル・マンの描くプロフェッショナルな男たちの背中には、いつだって「哀愁」の二文字が漂っています。組織や家庭に居場所がなく、爪弾きにされ、社会から孤立してしまっているような男たちは、仕事を通じてしか自らの価値を見出すことが出来ない。そんなプロフェッショナルの裏側に物悲しさを配置させておきながら、決して彼らを「可哀そうな人々」として撮るのではなく「社会の瀬戸際で、どうにか踏ん張る男たち」として描いているところにも、マイケル・マンの「流儀」が感じ取れます。
本作『フェラーリ』の主人公であるエンツォ・フェラーリも、そんな「プロフェッショナル」な男たちのひとりでありながら、しかし家庭や社会に居場所を見出せない、哀愁漂う人物です。伴侶のラウラとの夫婦間の愛情はとっくに冷めてしまい、愛人の自宅とラウラのいる自宅、この二つの家を使い分けるという破綻した生活描写もさることながら、物語舞台の前年である1956年に最愛のひとり息子であるディーノ・フェラーリを亡くしてからのエンツォは、精神的に極めて追い詰められている状況にあると言って良いでしょう。
そんな彼の心情を代弁するかのように、本作の冒頭にある早朝のシーンでは、場面が持つ爽やかな空気感には全くそぐわない「物悲しい劇伴」が流れます。このシーンはハッキリ言って「違和感しか」ない場面です。しかし後に続く展開を観ていればわかることですが、この朝のシーンで流れる「物悲しい劇伴」は、息子を亡くした悲しみから立ち上がれていないエンツォの「心情」につけられた劇伴であることがわかります。そういう意味では、この映画は画面の中に登場しない「不在の中心」に位置する人物の「葬式」から始まっている映画であると言えることができるし、後半に配置されているミッレミリアのシーンにも代表されるように、場面のあちこちに抑えがたい「死臭」が漂いまくっている映画で、これは今までのマイケル・マン作品と比較しても、突出している部分かもしれません。
その、映画全編に漂う「死臭」を一層濃くしている最大の要因が、エンツォの「仕事ぶり」にあるのです。
言うまでもなくエンツォ・フェラーリはフェラーリ社の創業者、つまり正真正銘の「社長」ではありますが、社長の「プロフェッショナルな仕事」というのはいったい何でしょうか。
それは、他人を使い倒すことで成果を得ること。
社長業とは管理業務、要するにマネジメント業務なわけです。ここがいままでのマイケル・マンの映画と異なる点なのですが、いままで彼が描いてきた主人公というのは、プロフェッショナルはプロフェッショナルでも、どちらかといえばそのスタンスは「現場寄り」……すなわち、自らの肉体を酷使することで成果を得ようとする独力追求タイプでした。
ところが、本作『フェラーリ』におけるエンツォは、はっきりとそうした過去の監督作に登場してきた男たちとは、仕事の方向性が異なります。エンツォの仕事は、エンジニアに速い車を作らせ、ドライバーたちをそのマシンに乗せてレースに勝たせること。そのこと自体がエンツォ自身の「仕事の成果」に直結してくるのです。
そして、エンツォはこの「他人を使い倒して成果を出す」ことに全く躊躇がありません。新型マシンのテストドライバーがテスト走行中に事故で亡くなっても、彼は顔色ひとつ変えずに次のドライバーを用意します。メディアから「死神」と揶揄されても、彼は過酷なレースにドライバーを次々に送り出していきます。ミッレミリアの前哨戦で、ライバルのマセラティ社が送り出してきたマシンに手痛い敗北を食らった時には「死ぬ気でラインを奪え!レーサーは死を恐れない!それは恐ろしい喜びなんだ!」と、ドライバーたちを叱咤します。
この「恐ろしい喜び」という台詞そのものが、エンツォの「他人を使い倒す」プロフェッショナルさが持つパワーを的確に表現しているように思えてなりません。かつて、病に蝕まれた最愛の息子を救うためにありとあらゆる手段を講じたはずが、無情にも救えなかったという悲劇。「俺は一流のエンジニアだから、息子も修理できると思っていたんだ」という台詞からにじみ出る「独力の限界点」……それを嫌というほど味わったエンツォだからこそ、自らの力に見切りをつけ、他人を使い倒すことで成果を追い求めるようになってしまったのではないか?そう考えると、エンツォがなんとも救われないオジサンに見えてきてしまって、これはマイケル・マン史上最大の哀しみを背負ったキャラクターと言えるかもしれません。
そして、この「他人を使い倒して成果を出す」というのは、なにも社長業に代表される企業の管理職だけに限られた業務ではありません。それは、「管理職」という言葉の持つタバコ臭い大衆観念からは遠くはなれたところにあると思われがちな「映画監督業」も当てはまるのではないでしょうか? クリエイターと思われがちな映画監督ですが、役者やスタッフたちを「使い倒して」映画という成果物を手に入れようとするわけですからね。マネジメント業務そのものなんですよ。
そもそも、マイケル・マンはいちど「製作」というかたちでフェラーリが絡む映画に関わっています。にもかかわらず、今回彼は「監督」として本作のメガホンを取った……なにがそこまで彼を駆り立てるのかが、ちょっと不思議だったんですよね。この執着具合は、マイケル・マンが単に昔からフェラーリのファンだったからというのだけでは片付けられない、大きな理由がそこにはあるのだと思います。やはりマイケル・マンは、エンツォ・フェラーリの生きざまにどこか自分と似通ったものを感じていたんじゃないでしょうか。
今はそうでもないですけど、昔は映画業界も「死」と隣り合わせの世界だったんですよね。撮影中の事故で役者やエキストラが重傷を負ったり、最悪亡くなってしまうなんて事態もあった。日本でも、死にはしなかったけど、石原プロが映画(ドラマだったか?)の撮影中に、車を爆速でエキストラに突っ込ませてケガを負わせるなんてのもあったわけです。昔は今ほど撮影時の安全対策だって取られていなかっただろうし、そういう、他人を使い倒すことの果てに「死」が待ち受けているかもしれない時代を生き抜いてきたマイケル・マンにとって、常に「死」と隣り合わせのモータースポーツ業界は、決して無関係の世界ではなかったはず。
だからこれ、みようによってはマイケル・マンにとっての自己言及映画ともとれるわけで、そう考えると俄然面白さが増してくる。50万ドルの小切手で自社を人質にとられたエンツォが、どう再起を図るのかという部分も、奥さんのラウラに浮気相手との関係性がばれちゃたらどうするんだろうとか、そういうサスペンスなところの作り込みも非常に良いんだけど、マイケル・マンの自己言及映画として見ても、面白いと思います。
ただ、話の起伏はどうしたっていぶし銀なところがあるし、単純なカタルシスを求めるような話でもないので、やはりこれは「大人の男が休日にひとりで観る映画」なんじゃないだろうかと思うわけです。あ、あと奥さんとの関係がうまくいってない既婚男性諸君にも、オススメですよ!笑