【第98回】関心領域 The Zone of Interest
『これが、人間の関心の限界点』
戦争映画……WW2以前、それはプロパガンダとしての側面があった。自国の戦争を正当化するために、映画監督たちは政府機関に半ば強制されるかたちで国威発揚を目的とした映画製作を余儀なくされ、そのことが戦後の時代に遺恨を残すこと多々あり。しかしながら、WW2以降に製作された「戦争映画」は、戦前とは打って変わり、そのほとんどが「反戦」をテーマに掲げている。
現代における「戦争映画」……それがスクリーンに投じられた時、観客の目につくのは、テーマを効率的に伝える上で最適化された物語たちだ。戦時下に翻弄される男女の恋模様、国のために命を懸けざるを得なかった若者たちのドラマ……世界各国のどこを見渡してみても、一部の野心的な作品を除けば、戦争映画というジャンルで語られる物語のほとんどは、そうした「わかりやすく悲劇的で感動"げ"な物語」という立ち位置に甘んじている。
けれども、このレビューで紹介する『関心領域』は、そんな「わかりやすい悲劇」からは程遠く、「戦争はいけない」「戦争は惨劇しか生まない」というように、十把一絡げにまとめられることを、根底の部分で激しく拒絶している映画でもある。
関心領域……スマホなどの科学の発展によって、情報の海をほとんど自由に行き渡ることのできる権利を無条件に獲得してしまった私たちの心が持つ「関心の限界領域」は、果たして広がったのか。それとも狭まったのか。
その問いに対する答えが、この映画には詰まってます
【導入】
舞台は1945年当時の、ナチス・ドイツ政権下時代におけるポーランド。悪名高いアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の「お隣」で暮らしていた、強制収容所の所長、ドイツ軍人のルドルフ・ヘスと、その家族の「日常」を描いた映画。
監督は、なんだか『スピーシーズ』を彷彿とさせるエロエロSFかと思いきや(スカヨハがおもいっきりヌードをかますところは確かにそうと見えなくもないが)これが真っ当にも真っ当過ぎるSFだったのでびっくりした方も多いであろう傑作『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』を撮ったジョナサン・グレイザー。よく知らない方のために説明すると、ジャミロクワイの「Virtual Insanity」でPVを撮った方。PVとかCM出身の監督って結構いますけど、この方も例に漏れずそのタイプというわけですね。
主人公のルドルフ・ヘスを演じるのは『ヒトラー暗殺、13分の誤算』で、ヒトラーの爆殺を画策していた家具職人、ゲオルグ・エルザー役を演じていたクリスティアン・フリーデル。そして妻のヘートヴィヒ・ヘスを演じるのが、フランス産の法廷サスペンス映画『落下の解剖学』で見事な演技を繰り出してくれた、ザンドラ・ヒュラー。『落下の解剖学』と『関心領域』をセットで観ると、もうザンドラ・ヒュラーってこういう役しか回ってこないんじゃないの?(笑)と思ってしまうほど、今回も「ヤな女だなぁ」を通り越して「悪魔みてぇな女だな」って印象があります。実際コワイ。洒落にならんぞこの奥さん。
【あらすじ】
空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。
そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から煙があがっている。
時は1945年、アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた。
【レビュー】
あらすじ短いぞ!手抜きか!?と思われたそこのアナタ。手抜きではありません。というか、この映画の感想を話すうえで「あらすじ」は何の手がかりにもなりえません。物語を楽しむ映画ではないですからね。
それはそうと、本作『関心領域』の世間一般的なジャンルは「戦争映画」ということになります。そして私こと浦切三語は、この「戦争映画」というものに対して、どういう姿勢で鑑賞に臨めばいいのか、いまだにはっきりしていないところがあります。
アクション映画やサスペンス映画、SF映画なら純粋に「面白さ」を求めてしまう私でも、この「戦争映画」というジャンルに対して、どう「映画を楽しめば良いのか」が、よくわからない。「戦争」という、極めて残虐性の高い非日常下で犠牲になっていく兵士や民間人らの姿を描きながら、それを「現代」という「安全地帯の視座」から描いたような戦争映画が蔓延っていくにつれ「なんか間違ってるだろ」という反骨心を抱く一方で、ミリオタでもなんでもない私にとっては、劇中に登場する銃器類から当時の文化的・政治的背景を読み解くなんていう高度な鑑賞方法も取れないわけで、そうなってくると、これはもう「死」に着目するしかないわけです。どれだけ悲劇的で感動的な物語が描かれようと、それを凌駕するほどの「死」が描かれているかどうか。そこに着目した時、私にとって衝撃的ともいえる一作があります。
それが、2015年にネメシュ・ラースロー(この映画レビュー集で紹介した『サタンタンゴ』の監督、タル・ベーラのアシスタントを務めていた方)が監督した『サウルの息子』です。この映画は冒頭、スタンダードサイズまで画面が狭まり、主人公の背中数センチのところにピタリと貼り付くカメラの視点が、観客の視線を誘導します。「なんだなんだ?」と思って観ていると、焦点距離もなんのそのとばかりにピンボケの映像が連続する。カメラはどこかの施設に入り、男の背中越しに、ぼやけた人々の一団を捉える。彼らは軍服を着た兵士たちの命令に従うがまま、服を脱がされ、訳も分からないまま、シャワー室へと送り込まれる。
そのシャワー室の重い扉が、この世の終わりを告げるような音と共に閉じられた瞬間、すさまじい勢いで轟く「絶叫」……その場面に至り、鈍感な私はようやく思い知りました。ああ、これはユダヤ人の虐殺だ。いま、まさに目の前で、ユダヤ人たちがガス室に運ばれて殺されていったのだ……この時に覚えた無情感と、そして強い「恐怖感」……これと同じものが、本作『関心領域』には込められています。
凡庸な表現になってしまいますが、本作『関心領域』は「とんでもなく恐ろしい映画」です。ひとなみ程度にしか戦争映画を観たことのない私ですが、それでも、こんなに恐ろしい戦争映画は『サウルの息子』以来観たことがない。『サウルの息子』が、ゾンダーコマンドを主役にして、強制収容所の内側から戦争の地獄を表現したのに対し、本作は強制収容所の外から、戦争の地獄を描いています。
とは言っても、『サウルの息子』や凡百の戦争映画とは異なり、直接的な戦争描写や暴力表現は一切画面に映し出さないのがこの映画です。それでも怖い。なぜか? それは、この強制収容所の「正真正銘のお隣さん」であるルドルフ・ヘスとその一家の生活が、ユダヤ人の犠牲の上に成り立っており、彼らの犠牲の「臭い」があちこちに充満しているにも関わらず、ヘス一家が誰も、その犠牲の臭いを感じ取っていない部分にあります。
映画の序盤、ヘス一家の「お隣」で暮らしているゾンダーコマンドと思しきユダヤ人が、ヘス一家の下へ物資を渡してくるのですが、その物資というのは、劇中では直接的な説明はないにせよ、誰がどうみても「ガス室で殺される前に脱がされたユダヤ人の女性物の下着」なのです。
そして、その下着をあろうことか、家政婦たちに恵んであげるヘートヴィヒ・ヘス。「どれでもひとつ、好きなものを持って行っていいわよ」と促されれば、家政婦たちも、まるでフリマでゲットしたかのような「自然さ」で、死臭漂う下着を漁る。はっきり言って、目を疑う光景です。
その一方で、ヘートヴィヒは自室に戻り、ユダヤ人が着用していたと思しき、高級そうなコートを身にまとい、姿見の前でポーズなんか取り出す始末。挙句の果てには、コートのポケットに入っていた口紅を手にとり、「あたしに似合うかしら?」とでもいうような「自然さ」で口紅を塗る……
そんな「ごく普通のホームドラマ・テイストな日常風景」が次々に画面に映し出されていく中で、よくよく耳をそば立ててみると、なにか奇妙な「環境音」が鳴っているのに、観客は気づくはずです。その環境音というのは、ヘス一家の「お隣さん」から聞こえてくる、ユダヤ人たちの壮絶にも過ぎる今際の際の絶叫、悲鳴……そしてドイツ兵たちの怒号、銃声……そうした非日常な環境音が、私たちの日常生活にある「環境音」のような「自然さ」で配置されているのが、この映画です。昼間鳴り響く工事現場の音だったり、近所を走り回る子供たちの喧騒と同程度のレベルで、殺されていくユダヤ人たちの悲鳴が聞こえているのに、それを「日常のいち風景」として回収していくヘス一家……いやはや、とんでもないですな。
私、この映画をすでに四回鑑賞していますが、観れば観るほど、このヘス一家に対して、ものすごい「嫌悪感」を抱いてしまいます。主人のヘスも、奥さんのヘートヴィヒも、そして子供たちも、みんなが等しく「卑しい」のです。彼らのやっていることは、はっきり言って「追い剥ぎ」もいいところです。自分のたちの、この穏やかで漂白された生活を支えているのは誰なのか?自分たちが普段身につけている衣服や食料はどこから供給されているのか? おそらく、一度はそのことについて、考えを巡らせたことはあるのでしょう。しかし、ヘス一家には「物事を最後まで考え抜く力」がないのか、道義的な部分には思考がまったく及んでいないのがわかります。
こうした「卑しい卑しいヘス一家」の生活ぶりが、しかし段々と観ているうちに「漂白された不気味さ」とでも言うべき感覚を与えてくる最大の要因は「臭い」の演出にあります。
劇中、ヘートヴィヒが自分の母を家に住まわせようとする展開があるのですが、ヘートヴィヒの母親は夜中に窓の隙間から漂ってくる「お隣さんが”なにか”を燃やしている”臭い”」に耐えきれなくなり、書き置きを残して家を出ていってしまいます(なにを燃やしているのかは、ここでは説明しません。普通に映画を観ていればわかることだからです)。ヘス一家の下に物資を運ぶゾンダーコマンドや、ヘス一家の下で働く「地元のユダヤ人」たちからも、嫌になるほどの生活臭が滲み出てきます。しかしながら、家の壁の色調が白で統一されているせいなのか、ヘス一家の暮らしぶりからは、どうにも生活臭というのが漂ってきません。
お隣さんの煙突から立ち昇る”なにか”を燃やした時に出る煙の臭いに無頓着なヘス一家。つまり、それだけ対象に対する興味を失くしている、言い換えれば「精神的な距離が遠い」ということでしょう。私はこの映画を観る前、「お隣さんっていう設定だけど、本当はちょっと離れていたんじゃないの?」と疑念を抱いていましたが、まさかまさかの、正真正銘のお隣さんなのです。ドア・トゥ・ドアで20秒くらいの場所に、ルドルフ・ヘスの「おぞましい仕事場」がある。そんな地理的にめちゃくちゃ近い距離にありながら、こうまでも無関心でいられることに、私はゾッとしたものを感じたというより、どこか身につまされる想いになりました。なぜなら、すぐお隣で残酷な事実が客観的に見て起こっているにも関わらず、それを意識的に感知しようとはしないヘス一家の姿勢は、どことなく現代の私たちにも言える話だからです。
私たちの「いま、ここ」の世界において主流となる情報収集ツールは、これは言うまでもなくスマホです。ニュースサイトなどのアプリを立ち上げれば、いつでも私たちは「いま、ここ」ではない、どこか遠くの世界で起っている出来事についての情報を、リアルタイム且つ高い精度で獲得する術を手にしている。その気になればスマホの小さな画面の中に、現代で起こっている戦争・紛争の状況を再現することだってできるというわけです。
つまり、私たちはいつも肌身離さず手にしているスマホの中に、戦争のニュースや映像を映し出すことで、疑似的に戦争状況にある地域や国を隣人化することができるのです。
しかしながら、隣人化できるとは言っても、あくまでもそれは「疑似」に過ぎません。戦争の生々しさを肌で感覚できるのは、戦地で命を張っている兵士や、命懸けてカメラを回す戦場カメラマンだったり、爆撃や銃火の咆哮を毎日のように耳朶に浴びせられている民間人に限られます。スマホやパソコンやテレビの画面を通じて、私たちが生の戦争状況に直接触れられるかというと、もちろんそんなことは不可能なわけです。
結局のところ、戦争という魔物が放つ吐息の熱を肌で感じ取ることが出来るのは、じかに魔物と対峙している人々にのみ限られるのです。時代がどれだけ進もうが、科学技術がどれだけ発達しようが、安全地帯にいる人々の戦争に対する意識、すなわち「戦争に対する精神的な距離」が変わらないのであれば、それこそが人間の「関心の限界点」なのではないか。「人間という生き物は、もともとそんなものなのだ」という感覚の証明として機能してしまう恐れがあります。
私を含めて多くの現代人が、平穏な日常生活を送っている時、世界のどこかでは戦争や虐殺が起こって、数多くの人命が失われていることを、そう、知ってはいるのです。しかしながら、じゃあそれを毎日意識して生活している人がどれだけいるのかというと、おそらく0.0000001%にも満たないでしょう。スマホやSNSの発展によって、私たちは戦争状況を前世紀よりも高い確度で「知る機会」に恵まれこそすれ、人間が一度に関心を持てる領域など、それこそ『HUNTER×HUNTER』におけるノブナガの円と同じくらいのスペースしかない。
私もそうですけど、ウクライナやガザの問題を「大変だな」と深刻に考えはするものの、じゃあ四六時中そのことばかり考えて生活しているかというと、そうも言ってはいられない。私にも仕事や生活があり、常になにかしらの優先順位を立てて生活していっている。だから、過酷な世界情勢に関心を持てないのは、仕方のないことなんだ――そんな、人間なら誰しもが抱える「関心の限界点」のキワキワを、この映画は、強制収容所のお隣で暮らすヘス一家の生活を通じて、私たち観客に突きつけてくる構図になっているのです。
だからこそ、この映画はとてつもなく居心地が悪いし、身につまされてしまうのです。
そしてこの映画の白眉なところは、そうした居心地の悪さを観客に徹底して体験してもらうために、わかりやすい物語や、わかりやすい感動を、なにひとつ用意していないというところにあります。
現代の戦争映画の(特に邦画の)そのほとんどが、「反戦」という「毒にも薬にもならないお題目」を見栄えよくパッケージングするうえで、感動的なドラマや泣けるドラマなど、感情優先のわかりやすい物語を用意するのとは、真逆の信念で本作『関心領域』は製作されています。その信念とは、「たとえ一般のお客さん向けに公開される商業映画ではあっても、商業的な面白さを決して優先してなるものか」という、一見すると矛盾しているようにも聞こえる信念です。おそらく制作陣は、この映画を撮るうえで、物語的な面白さ(ストーリーにどれだけの起伏を盛り込めるか)という部分に囚われ過ぎてしまうと、映画がそもそも目指していた「居心地の悪さ」を観客に与える効果が薄まり、ひいては、この映画が伝えようとしている「人間の関心領域の限界点」の描写が薄れてしまうと考えたのでしょう。
だから、この映画を観て「面白くなかった。こんな作品を褒めてるのはただ映画通を気取りたい奴だけだ」という批判的な意見が出てくるのは、ごくごく当たり前のことなのです。ホームドラマ・テイストとはいえ、ヘスとヘートヴィヒの夫婦間のドラマは、この映画が観客に伝えようとしている内容を考えれば、決して感動的なドラマになってはいけない。ではギスギスした地獄のような夫婦関係だけを描けば良いのかというと、それだと逆に作為的に感じられてしまって、どこかわざとらしく映ってしまうおそれがある。だからこそ、この映画は最終的に「物語的なわかりやすさ」を捨てざるを得なかった。ハリウッドの三幕構成に代表されるような「商業映画として使える脚本術」を一切導入していない。するわけにはいかなかったのではないでしょうか。
脚本だけではなく、映像面においても、同じことが言えます。セット内に配置されたマルチカメラの映像を繋げてはいるものの、カットのタイミングは明らかに映像の快楽原則から外れたところにあるし、ライティングなんてまったくつけていません。役者の顔は平気で逆光になるし、ヘスやヘートヴィヒが、いまどういう感情でいるのかを観客に「説明」するために、役者の顔へクローズアップする、なんてこともしません。カメラは常に一定の距離を保ちながら、リアリティー・ショーさながらに、ヘス一家の暮らしを映していきます。その、あまりにも現代の映画技法や商業映画から外れた、どこか禁欲的とも呼べる佇まいを見るにつけ、私はこの映画が、ある一つの意志を宿しているようにも思えてきました。
その意志というのは「決して観客に消費されてなるものか」という、この資本主義社会全盛の時代に、真っ向からぶつかっていくような、ある種の宣言ともとれる意志です。
思えば、私たちの生活は「消費」と「供給」のバランスで成り立っているわけですが、こと「消費」という点に目を向けるなら、そこでは「見過ごされてはいけないものが、常に”消費社会”を理由に見過ごされてきた」という歴然とした事実があります。たとえば、ファッションブランドのSHEINなんかがそれでしょう。ユニクロなんぞ比にならないレベルの激安ファッションアイテムをバンバン売りさばくことで、ファッション・インフルエンサーたちにこぞって取り上げられることの多いブランドですが、もちろんその激安の背景には、奴隷にも近い過酷な環境で働かされている労働者たちの姿があるわけです。人件費をバカみたいに削りまくっているから、あれだけの超低価格が実現できている。つまり人権を無視したような過酷な労働環境が、SHEINの商品価値を市場において成立させてしまっているわけです。しかし、そうした事実を知らないで「お得なお買い物ができた」とばかりに、喜んでSHEINの服を買っている人がたくさんいるわけです。
ところで今年は2024年ですが、2024年といえば物流業界における2024問題というのも忘れちゃいけません。長時間労働!低賃金!再配達に次ぐ再配達!ドライバーの高齢化問題!そうした諸問題は、いまになって立ち現れてきたものではありません。もうずいぶん昔から「物流ドライバーの待遇や労働環境を改善しないと、ヤバイことになる」とさんざんメディアは報道してきたのに、ここまでろくな対策も講じずに放置してしまったことのしわ寄せがきている。みんな、ドライバーさんたちが大変な環境で働いていることを「知識としては」知っている。にもかかわらず、私を始めとした多くの消費者は、そのことを「意識しないまま」Amazonや楽天を使って商品をポチり、受け取るタイミングを逃して再配達を申し込んでしまう。
私たちの生活というのは、私たちの見えないところで苦しんでいる人たちの「声なき声」によって支えられているわけです。しかし「利便性」という「麻薬」に毒されてしまった私たちの耳には、彼らの「声なき声」というものが聴こえてこない。私たちの「半径五メートル以内の生活」には、この映画の中で描かれているような、ユダヤ人の絶叫だったり、ドイツ兵の怒号だったり、そうしたものはもちろんありません。しかしながら「苦しい立場に置かれている人たちの声」というのは確かにあって、その声を私たちは意識しないで生活しているんじゃないのか? 長時間労働や低賃金で働く人たちの生活があってはじめて、一般消費者の生活は成り立っているにも関わらず、そうした状況を「当たり前のもの」として享受しまっている私たち現代人の「声なき声」に向ける態度は、強制収容所で特別処理されていくユダヤ人の絶叫を無視するルドルフ・ヘス一家の暮らしと、どこか似たものを感じます。
つまり、この映画は戦争映画ではあるのですが、その根底に描かれているのは、私たちの現代の生活。半径数メートル以内で起っている「消費活動」そのものについてのお話だったりもするのです。
そういうわけで、非情な傑作映画です。わかりやすい面白さや、わかりやすいストーリーの盛り上がりは皆無ですが、とことん心に傷をつけてくる映画でもあります。そういう作品が好きだ!という方は、ぜひに鑑賞されてみてください。(すでに公開から二ヶ月も経過していて、この台詞はおかしいだろと思わなくもないですが)。
それはそうと、ジョナサン・グレイザー監督の前作『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』ですが、どうも調べてみたところ、どこの配信サイトでもやってないみたいです。なので、どうしても『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』が観たいと思われた奇特な方は。
Amazonか楽天で、DVDまたはBlu-rayをポチってください。