【第97回】マンティコア 怪物
『現実を記号化する――クリエイティブの罪と罰』
マンティコア
「そんなタイトルの映画が公開されるみたいだよ」と耳にして、まずそれが恋愛映画だと思う人はほとんどいないでしょう。西洋のキメラ的怪物の名前をタイトルに冠しているのなら、大体そのジャンルはB級かC級のモンスター・パニック・ムービーと相場は決まってるもんですよ。ほら、『マンティコアvs USA』なんて、モロな作品もあるしね。
だけどもだけど、今回ご紹介する映画『マンティコア』は、正真正銘の恋愛映画でございます。さぁ、これだけ聞いて、でっかいクエスチョンマークが頭の真上に浮かんだそこのアナタ! 分かりますよーめちゃくちゃ分かりますよー。
私はすでに2022年の東京国際映画祭で本作鑑賞済みの身ですけど「ジャンルが“恋愛”でタイトルが“マンティコア”って、なんだそれ? 印象がまるで掴めないぞ……」と困惑しつつ「まぁ、”あの”カルロス・ベルムトだから、普通の恋愛映画じゃないんだろう」と覚悟して観に行ったわけです。
うん、やっぱり「普通の」恋愛映画じゃなかった。だからこそ、やられましたね。クリティカルヒットって奴ですねこれは……まさに「身につまされる」とはこのこと。
結論から言えば、余裕で私のオールタイムベスト10に入る傑作。
個人的には観なきゃ損な映画。
2024年、私の中では問答無用で【ベスト1】の大傑作映画です。
【導入】
陰キャオタクなゲームデザイナーの独身男が美術史専攻の女子大生と知り合って関係性を育んでいく中で、自身の“怪物性”に翻弄されていく恋愛サスペンス映画。
監督は、スペインが生んだ「現代最強の異能」にして、超・日本ラブなオタク、カルロス・ベルムト。今年の1月にとんでもない疑惑が持ち上がって渦中の人物になってしまっていますが、それはそれとして、「先の展開が読めない映画No.1(個人的感想)」な傑作サスペンス映画『マジカル・ガール』を世に放った天才であるという事実を、まずは先に述べておきましょう。小島監督がラブコールを送り、巨匠ペドロ・アルモドバルが激賞する彼の才覚が、今作においても比類なきレベルで爆発しています。
ちなみに『マジカル・ガール』に引き続き、今回も日本のオタクたちを刺激する小ネタ満載だよ~主人公のスマホの着信音がなんと「魔界村」だし(これにはビビったなぁ)、伊藤潤二の漫画を買いに行く下りがあるし。あと、なんか『ヴィデオドローム』の話がちょろっとあったりしたんだよね。監督、クローネンバーグも履修しているんだろうね。
主人公のフリアン役には、ナチョ・サントス。ヒロインのディアナ役には、ゾーイ・ステイン。主人公に助けられる少年の役には、アルバロ・サンス・ロドリゲス。ゴメンだけど誰ひとり知らねぇ……ちなみに公式ホームページに各役者の顔写真が掲載されていますが、ゾーイ・ステインとアルバロ・サンス・ロドリゲスの顔がそっくりなんですよね。実はこの映画、よーく見ているとラスト付近で「あともう一組」の「ソックリさん同士」が登場してくるんですが、ガワが近似するような記号化メイクを役者に付与しているところに、ガワを記号化するアニメ・ゲーム文化に対する痛烈な言及として機能しているのも、ポイントですね。
あと、この映画は音楽が素晴らしいのよ。エンディング曲に採用されているのは、1970~80年代に電子音楽のパイオニアとして活躍していたエメラルド・ウェブの「valley of the birds」……日本語に訳すと「鳥の渓谷」つまり「鳥谷」というわけで、なんJ民歓喜なエンディング曲ってわけです。
【あらすじ】
なにもない空間。あらゆる欲望を飲み込んでしまいそうな暗闇に向けて、彼はラインを引いていく。緩やかに、優美に、迷いなく、頭の中に浮かんだ造形を、かたちに起こしていく。クリーム色の線で、下顎を、前肢を、後肢を、背骨を、尾骨をデザイン。骨組みのラフスケッチが出来上がったところで、肉付けを行っていく。筋肉を張り巡らせ、上顎と頭骨をデザイン。立体感を出す作業へ。すべては、想像上の生き物を「世界」で「生かす」ための作業……
そこは現実にはない、架空の世界。バイト数で計量されるデータの世界――VR空間。その空間が、ゲームデザイナーたるフリアンの仕事場だ。彼は、自らが所属するゲーム企業からの要請に従って、ゲームに登場するクリーチャーをモデリングする仕事に取り組んでいた。
VR空間とVRグローブを装着し、基本的には自宅アパートで在宅ワーカーとして働き、打ち合わせがある日だけ出社するという個人主義スタイルを貫くフリアン。企業に所属する一員でありながら、どこか周囲と壁を作っている彼の孤独を癒してくれるのは、頭の中にある想像の世界と、隣の家から聞こえてくる美しい音色の「ピアノの音」だけだった。
ある日、フリアンが部屋で音楽をかけながら仕事をしていると、どこからか助けを呼ぶ微かな声が。違和感を覚えて窓の外を見ると、隣の部屋のカーテンが激しく燃えているのが目に入る。
火事だ。誰かが取り残されている。年端もいかない子供が――フリアンは弾かれたように自宅を飛び出すと、力づくで隣の部屋のドアを蹴破り、取り残されていた男の子を救助した。
助け出した男の子の名前はクリスチャン。いつもフリアンの家に流れてくるピアノの演奏者。フリアンはクリスチャンのピアノの腕前を褒めるが、クリスチャン自身は、将来は演奏家ではなく「庭師」になりたいと考えていた。庭師になって、植物に音楽を聞かせるのだと。植物には音楽だってわかるし、”人の心”もわかるんだと、クリスチャンは力説する。そんな彼に対してフリアンは「自分が子供の頃は、虎になりたいと考えていた」と口にするが、それを聞いたクリスチャンは、あるドキュメンタリー番組で得た知識を彼に披露する。
「虎は"人の顔"を怖がるんだよ。だから狩人たちは頭の後ろに人の面をつけるんだ……虎に襲われないようにね」
仕事先から急遽かけつけてきたクリスチャンの母親から感謝され、挨拶もそここに、仕事に戻るフリアン。ちょっとしたハプニングはあったが、またいつもの日常に戻るだけだ――少なくとも、この時の彼は、そう思っていた。
だが、少年を火事から救出した日の夜、フリアンの身に異変が起こる。ベッドで横になっているとき、胸を圧迫されるような息苦しさに襲われたのだ。命の危機を感じ、タクシーを拾って病院に向かうフリアン。だが検査の結果、体のどこにも異常は見受けられなかった。胸が圧迫されるような息苦しさは、身体面ではなく精神面……不安からくる強いストレス性による障害ではないかと医者は結論付けると、フリアンにアドバイスを送る。日頃のストレスや不安を和らげるためにも、もっと他人と会話をした方が良いと。
医者からのアドバイスを受けて、その足で夜のバーに向かうフリアン。女性をナンパして一夜を共にするも、しかしフリアンの男性機能はまったくの役立たずで、失意の底に陥ってしまう。その一方で、仕事の方は順調そのものだった。打ち合わせを経るごとに、フリアンがデザインしたネームド・クリーチャーの姿はどんどんリアリティあるものへと変貌していく。だがフリアンの心は落ち着かず、医者から貰った不安抑制剤を口にしても、状態は一向に好転しない。
そうした毎日を送っていたある日、フリアンは入った先のレストランで、偶然にもクリスチャンとその母親がテーブルについているところを見かける。フリアンはしばらく考えて、何を思ったか、クリスチャンの横顔をその場でスケッチしはじめる。周囲の客たちを隠れ蓑にして、まるで群衆の肩越しに、クリスチャンの存在を捉えるかのように。
そして、その日の夜。フリアンは自らの「欲望」に抗うことができず、ある決定的な行動を取ってしまう――その決断はやがて、彼自身を「欲望の怪物」の前に差し出す結果になるのだが、この時のフリアンは、そのことを知る由もなかった……
【レビュー】
一般論で言えば――そう、これはあくまでも一般論ですが――観客というものは、大なり小なり程度の差はあれども、映画を観るときに何かしらの期待を胸に抱いて、映画館に足を運ぶ生き物です。ド派手な映像や、ヒリつくようなサスペンス展開や、推しの役者の演技だったり、あるいは監督の「癖」を見るためだったり……そうしたいろいろな「期待」すなわち「観たい映像が観れるかどうか」という部分を念頭に置いて映画を鑑賞する傾向にあります。
中には、そんな期待を一切胸に抱かず、呼吸するかのように映画館に足を運ぶ強者もいますが、そういった人たちはごくわずかでしょう。私を含めた多くの観客は、繰り返しになりますが、大なり小なり程度の差はあれども、「観たい映像を観る」ために映画を観ます。そして、これもまた一般論になりますが、大衆が支持する映画というものは「観たい映像を、期待値を越えたクオリティで観せてくれた映画」であり、そうした傾向が根強くあることを、映画の作り手たちは熟知しています。映画の歴史が見世物興行の歴史であることを鑑みれば、商業映画の役割とはお客さんの「観たい映像を観たいんだ」という「期待」……これは「欲望」と言い換えて良いかもしれませんが、そうした「欲望」に上手く応えることにあります。意地悪な言い方をすれば、われわれ観客の欲望が「映画」という媒体の生理を「欲望」の力で変質させているとも言えるのです。
そうした前提の下に立って考えて観ると、カルロス・ベルムトの作品は、あきらかに商業映画の潮流からは外れています。彼がこれまで制作してきた映画は、そのどれもが、お客さんが観たいと思っている映像を「あえて見せない」という「見せない演出」で構成されています。
衝撃的な出来事そのものを映すのではなく、その出来事に直面した人物の表情を映す。ある決定的な場面にキャラクターが出くわした時、カメラはクローズアップせず、ロングショットで人物の姿をおぼろげに捉えて離さない。まるで「覗き見」のような狭いアングルで被写体を捉える、その冷徹無比なカメラワーク……こうした演出/カメラワークは、観客が観たがっているものがなんであるかを事前に正確に把握していないとできない演出であり、誰も彼もが簡単に出来るわけではありません。
しかしながら、カルロス・ベルムトは、この「見せない演出」が抜群に巧い訳です。だから私はこの監督の作品が大好きなのです。
観客が観たいと思っている映像を「直接的に」映すことを良しとせず、間接的に映したり、あるいは雰囲気だけを匂わせたりするに留まる。そうすることによって、カルロス・ベルムトの映画は十分な「余白」を獲得します。実写映画にありがちな「画面の情報量の過剰な豊かさ」を、ベルムトはほとんど嫌っていると言ってもいいかもしれません。彼は画面のコントロールを精緻に積み重ねることによって、情報量の過疎化に伴う「余白」を生み出します。その「余白」に内包されし力が、彼の映画と観客との間に、相互作用――インタラクティブな関係性――を構築することを可能とするのです。
ゆえに、ぼーっと観ているだけでは、彼の映画はわかりません。彼が生み出す「余白」を前にした時、観客は「あれはどういう意味なんだ」「この展開はなにを示唆しているんだろう」「この台詞は何を暗示しているんだろう?」と、能動的に脳を活性化させる必要があります。そうして、思考のエネルギーを映画の「余白」に注ぎ込んでいくにつれ、観客は彼の映画に強制的に参加することになり、先行き不透明なサスペンス展開に巻き込まれ、やがては恐ろしい結末に誘われてしまうことになるのです。
本作『マンティコア 怪物』にも、そうした「見せない演出」がわんさかと登場してきます。フリアンがクリスチャンの家の火事を消火するシーンでは、カメラは固定でロングショットのまま、遠くからフリアンが火を消すところを撮影します。そこには炎のダイナミズムなど欠片も存在しません。フリアンが恋人のディアナとSEXするシーンでも、カメラはあいかわらず固定でロングショットのまま。それもかなり明度を落としているので、なにか、暗闇の中で得体のしれない生き物二体がモゾモゾしているだけで、多くの映画のベッドシーンにみられる「官能性」など微塵もありません。
極めつけは、フリアンがVR空間でクリーチャーをデザインするシーンも、オープニングでワンショットだけ映されるのみ。意図的に全部は見せません。後の展開で彼がVRゴーグルを使用するシーンでは、VRゴーグルを使用しているフリアンの姿そのものを捉えている映像がほとんどで、フリアン視点でのVR空間描写は皆無に近いです。(※ちなみに余談ですが、このオープニングおけるVR作画のシーンを初めて観た時、映画製作会社のロゴ・ムービーかと勘違いしかけました。それくらい、奇をてらっているオープニングです)
これ以外にも、フリアンがクリスチャンの姿を「覗き見」して横顔をデッサンするシーンだったり、フリアンが映画館から出てきたディアナに直接声をかけるのではなく「尾行」するシーンだったり、ディアナが脳卒中になった父親の介護をしているところを、部屋のドアの隙間越しにフリアンが「覗き見」しているシーンなど、とにかく「すべてを見せよう」とはしないのが、この『マンティコア 怪物』という映画の最たる特徴のひとつです。「え? そこ見せないの?」と、誰しもが疑問に感じる場面で、カルロス・ベルムトは堂々と「見せない」という選択を取る。現代の娯楽映画の摂理から言えば、これは異端であり蛮勇と言っても過言ではありません。
だから、この映画はまずヒットなんかしません。
それは公開館数が全国でわずか10館 (マジか)という規模の小ささもさることながら、この映画がお客さんの「観たい映像を観たい」という「欲望」に無条件で応えるような作りになっておらず、逆にそうした「欲望」を「逆撫で」するような作りになっているためです。ゆえに、公開館数を増やしたところでヒットなんか見込めるはずもありません。そのことは、おそらく配給側も承知していると思います。
というか、仮に公開館数を増やして多くのお客さんの目に触れる機会が増えたら、まずこの映画は盛大にぶっ叩かれること請け合いでしょう。Youtubeでこの映画を褒めちぎろうものなら、共感のコメントよりも、罵詈雑言のコメントが大勢を占めるのは目に見えています。つまり、それくらい「不快な」印象を与えてくる映画というわけです(私は感動したけど)。
まぁ、カルロス・ベルムト自身も、カタルーニャ州バルセロナの朝刊インタビューで「これは私の映画の中で最も不快なレベルだと思う」と発言している通り、あの『マジカル・ガール』や『シークレット・ヴォイス』を越えて、これまでのベルムト作品の中でも、強く鑑賞者の心を砕いてくる映画であることは間違いありません。そういう映画が大好な私みたいな人間にとっては、『マンティコア 怪物』はカルロス・ベルムト史上最高傑作の映画であると断言できます。
この作品は単位時間当たりのカット数で言えば『マジカル・ガール』よりも少ないカット数だと思われますが、だからといってダラダラと画面を引き延ばしているわけではないんです。場面を思い切りよく転換させたり、不必要なシーンはバッサリ切って、要所要所のシーンだけを“じっくり”見せながら淡々と物語を前進させていくので「一体どうなるんだ?」と、観客の「興味の持続」を維持するのに成功しています。「1から10まで状況を説明されなきゃ分からないよ」「派手な映像がないからずーっと退屈でした」などの、サスペンスの醍醐味がなんであるか、皆目分からない方を除けば、この映画は多くの人が楽しめるサスペンス要素を含んだ恋愛映画として(そう、恋愛映画です)、非常に見応えがあります。
それでも、賛否両論の激しい映画であることは間違いないでしょう。この作品を「身に沁みて"体験"できるか」どうかは、他ならぬ鑑賞者自身の人生に大きく左右されるのだと思います。だから、人によってはこの作品に対して「胸糞映画」という印象「だけ」しか持たないでしょうし、あまりにも「過激」なエンディングだけに目を奪われ過ぎて「なんのことだか良く分からん」で終わる人もいることでしょう。他方で、主人公のフリアンに――正確には彼の性的嗜好ではなく、彼の人間関係の構築過程に――どこか自分と重なる部分を見つけた方は、非常に身につまされる重要な作品として刻まれる可能性大です。
さて、この映画はポスターのキャッチコピーにもあるように「欲望」についての映画です。そのことを象徴するのが、タイトルにもなっている「マンティコア」なわけですが、この「マンティコア」というのは空想の怪物のことを意味しています。冒頭でもお話しましたが、なぜ恋愛映画のタイトルに、こんなけったいな怪物の名前をつけたのか? 東京国際映画祭で鑑賞した時には、その理由がまるで思いつかなかったのですが、いまなら私なりの答えが出せそうです。
というのも、このマンティコアなる怪物は空想の怪物でありながら、そのパーツをよくよく観察してみると、使われているモティーフはすべて「現実に存在する動物たち」であることがわかります。「人間」の顔に「ライオン」の胴体に「ヤマアラシの羽」に似た棘、または「サソリの尾」のような形状の尻尾を持つ怪物……どれもこれも、現実に存在している動物にインスピレーションを得て「マンティコア」なる怪物は創り上げられています。これが劇中で何を意味しているかというと、単に主人公の心の奥底に眠る「欲望」の具現化ということだけではないと思います。
結論から先に言ってしまえば、このマンティコアとは、現実の世界にある事物を引用して、漫画やアニメや小説などのフィクションを創造する「クリエイティブ活動」に従事するクリエイターたちのことを指しています。言うなれば、フィクションの申し子たる彼らを批評的な目線で捉えているのが、この『マンティコア 怪物』という映画なのです。
フィクションはリアルがあってこそフィクションとしての機能を発揮し、そしてフィクションとは「0から1を生み出す」作業ではない……と個人的に考えています。クリエイターが現実の世界に存在している人間である以上、彼らの創作活動もまた現実の社会と切り離して考えることはナンセンスの極みであると考えます。そもそも、今の時代にまったくの何もない0の状態から生まれる「完全なオリジナル作品」など存在しません。映画もゲームも小説も漫画も、全ては過去の作品の集積物であり、引用の産物に過ぎないのです。もしそこにオリジナリティなるものの影を感じ取るのだとすれば、それは創作者のメッセージ性やテーマ性、あるいは構造上の工夫にのみ伺い知れることが出来ると私は考えます。
そして、ここで引用の対象となるのは、過去に数多くのクリエイターたちの手で制作された作品群に限定されません。私たちの現実に存在するor存在していた、さまざまな事物/モノもまた、フィクションの土台として使われます。現実に存在していた武将、現実に存在していた皇帝、現実に起きた政変、現実に起きた事件、現実に生まれた科学技術、現実に生まれた社会制度、現実に生きる動物たち、現実に生まれた学問や思想……そうした「現実の産物」を「引用」し「変節」させることで、国籍や人種を問わず、数多のフィクションは創作されているのです。
フィクションとは、なにもないところからクリエイターが自力で生み出す「0から1を生み出す」作業ではありません。むしろ、クリエイター自身が、自身を取り巻く現実社会から引用してきた「1」を、自らの想像力や技法で「10」にも「100」にも「1000」にもしていく作業のことを指しています。現実の世界なくして想像の世界=フィクションは生まれない、というわけです。
こと日本において生まれるフィクションの分野で、いま一番アツいのが「アニメ」と「ゲーム」であることに疑いの余地はないでしょう。世界を巻き込み、国の経済の重要な一角を占める主要産業となったこれらのジャンルでは、フィクションの世界へ現実の事物が落とし込まれる際に、その多くが記号化される傾向にあります。最近あんまり聞かなくなりましたが、いわゆる「萌え」なんかはこれに当てはまると思われます。特に日本のアニメやゲームは「萌え文化」という言葉に代表されるように、現実に存在する人間をデフォルメ(記号化)させる技術に長け、そうした技術を使用することに対してほとんど全くといっていいほど躊躇がなく、消費者側もそのことを自然に受け入れる土壌が育っています。
余談になりますが、その記号化の最たるものが「擬人化」であると私は考えています。古くは『鳥獣戯画』に代表される動物の擬人化にはじまり、ついこの前までは戦艦や城郭、近年では馬を擬人化した『ウマ娘』なるコンテンツだったり、東京山手線の各駅を擬人化するプロジェクトなんかも発足しました。日本人という生き物は、身近に存在する現実の産物をキャラクター・コンテンツとして運用していくのが、世界でいちばん上手い人種ではないでしょうか。
日本のアニメやゲーム、漫画に造詣の深いカルロス・ベルムト監督は、そこに目を付けて本作を制作したのかもしれません。だからこそ、この映画は、日本人こそ観るべき映画なのです。それは単に、劇中で『魔界村』や『伊藤潤二の作品』などのオタクが喜びそうな小ネタが仕込まれているからというのではなく、そうした「記号化されたキャラを欲望のままに貪ることになんら抵抗のないオタクたち」に対する痛烈な批評として、この映画が機能しているからに他ならないからです。
念のため言っておきますが、私はなにも「アニメやゲーム文化なんてくだらない」なんて、そんな耄碌ジジイみたいなことを口にしているわけではありません。私だってアニメ好きだし、ゲームだってやります。ウマ娘だって定期的に楽しんでます(推しはキングヘイローです。根性ある女の子っていいよね……)。しかしここでは、そうした自分が好きなコンテンツを、それはそれとしていったん脇に置いておいて、それらコンテンツを自分個人の趣味的感情からは切り離したところに立って、この映画について語っていく必要があると感じます。
この映画は従来のカルロス・ベルムト作品同様に三幕構成の立場を取っていますが、第一幕の終盤で、非常にショッキングな出来事が起こります。おそらくですが、本作が多数の日本要素を盛り込んだ、日本人にとって「売りやすい」要素を散りばめた作品であるにも関わらず、本邦公開館数がたったの10館と少ないのは、この第一幕終盤のシーンがあまりにも物議を醸す「道徳的ジレンマ」として上手く機能しすぎているためであり、観客から安直な批判が多数寄せられてくることを配給側が懸念しての判断に起因しているのではないかと邪推します。
この第一幕終盤のシーンはあまりにもショッキングすぎるのでネタバレは控えますが、あのシーンひとつでこの映画を「●●●●●の罪と罰」として観るのは、いささかもったいない鑑賞態度であると私は思います。
個人的にあのショッキング・シーンそのものは『マジカル・ガール』との構造上の類似性に着目して考えて観ると、あくまでも観客の「興味の持続」を誘発しようという、サスペンス演出上のトリックに過ぎないのではないかと私は考えています。その本質が意味しているのは、まさに前述した日本のオタクたち、あるいはオタクたちに萌えの栄養を無制限に供給しているクリエイターたちが日夜無自覚に行っている「現実(の産物)を引用して記号化し、フィクション(非リアルの世界)に落とし込む」ことで自らの欲望を満たそうとする、「供給/消費活動」そのものを暗喩しているのだと思います。そう考えてみると、フリアンがあの第一幕終盤でとった行動は、間接的な意味における「私」であるのと同時に、この国に大量に存在するであろう、ライト/ディープを問わない「有象無象のオタクたち」そのものを暗喩しているのです。
本作の主人公・フリアンは、ゲームクリエイターとしては、ほとんど完璧です。完璧なまでに、生きた人間を記号化し、自らの欲望の対象とすることに躊躇がありません。彼が付き合うことになるディアナが、自分が火事から助けた少年と、その髪型の類似性に注目した上で似たような存在として描かれているのは、偶然の一致ではないのです。
現実を記号化して自らの欲望を満たすフリアンは、まさに「記号」すなわち「外見上のパーツ」に注目するということでしか、人を愛する術を持たず、そのことに無自覚であるというのが、さらに泣けてきます。人の内面を見る前に、人の外見だけですべてを判断してしまうよう「フィクションの力」で習慣づけられているフリアンは、ここぞという時に、愛する人の内面を捉えることができません。
第二幕の中盤過ぎで、ディアナに降りかかる「ある悲劇」を前にして、ありきたりなことしか言えないフリアンに、その傾向が最も現れています。「お気の毒に」「君が悪いわけじゃない」と、そんな安直な慰めの言葉しか出せない。そもそも、お前が彼女を家に泊まるように誘ったのに、そのことに対する言及はなにもないのか……なんだか自分を見ているようで、本当に身につまされれます。先日の『ボーはおそれている』といい、今年は私を映画の中でイジメ抜く一年なんでしょうか? あれ? 今年って厄年だっけ?
自分の心の中にある問題を放り出したまま、他者との健全なコミュニケーションを構築しようとしても、いつだって肝心な時に”なにか”が邪魔をする。その”なにか”は、フリアン自身のコミュニケーション能力の低さに起因するものではありません。現実の事物を記号化するという、本来なら多くの消費者たちから尊ばれるはずの「クリエィティブ」という沼に、フリアンが肩まで浸かっていることに、彼が抱える内面の問題は起因しています。
フリアンがフィクションの世界(クリーチャーの世界)を愛しすぎてしまったがために、その”なにか”は生まれ、育ち切ってしまった。想像の世界=フィクション/非リアルの世界に浸り過ぎてしまっているからこそ、現実の世界で生身の人間と本当の意味で深い関係になろうとした際に生じる「息苦しさ」や「発作」に悩まされてしまうのです。彼を苦しめる"なにか"は、非リアル/フィクションの世界を愛しすぎた反動であり、「いま、ここ」の現実を生きることに対して無意識にフリアンが抱いている「不安」そのものであり、その「不安」をエサにすくすくと彼の中で成長している「怪物」の「心音」に他ならないのです。
「クリエイティブとは、フィクションを生み出す行為とは、果たして無条件に賞賛される行為なのか」――その問いかけを、ほかならぬ「映画」という「フィクション」を通じて観客に伝えてきている時点で、この映画はカルロス・ベルムト本人にとっての自己言及的な側面を持つ映画であるのと同時、私のようなオタクな観客たちに対する言及であり批評でもあるわけです。
その帰結として待ち受ける、穏やかで、素っ気なくて、しかし凄絶としか言えない衝撃の第三幕終盤。2022年当時、私の隣で鑑賞していた外国人のカップルは、この第三幕終盤のシーンを観た時に、「ヒッ!」と小さな悲鳴を上げていました。日本公開日の初日に鑑賞した時には、私の右隣に座っていたおばちゃんが「やめてぇ~~」と言わんばかりに両手を握り締めて祈りを捧げながらスクリーンの中の出来事を見守り、左隣にいたおっちゃんは「マジか……」と唖然とした様子で呟いてました。私も、それくらいの衝撃を受けました。いままで「観客が見たい映像をあえて観せない」というトーンで撮ってきていた反動であるかのように「お客さんが嫌がる映像を平気な顔して見せてしまう」という、あのラスト。大変にシビれた。こんな演出があるのかと舌を巻きました。
そして同時に、あの第三幕終盤のシーンが意味しているのは、主人公の「挑戦」の結果なのだともいえます。普通に見ている限りでは、主人公は開き直ったからこそ、あのアパートの門の前に立ったように思えます。その門越しの主人公を逆光気味に捉えるカメラは、まるで主人公そのものを「怪物」として捉えているようにも見えてきます。
ですが、私はこう考えたいのです。
『まどマギ』にインスパイアされて傑作『マジカル・ガール』を撮ったベルムト監督のことですから、このシーンは、現実の出来事をフィクション……ここでは主人公の略歴と映画のテーマを鑑みてRPGのような演出をしたと考えてみます。すると不思議なことに、見方が変わるのです。主人公は、あのアパートの門の前に立った時に、RPGで言うところの「冒険者」となったのです。目指すのはアパートという名の「ダンジョン」。その最奥に潜む自らの欲望すなわち「マンティコア(怪物)」を退治するために、彼はあの門の前に立った。そのような見立てにたって紐解いていくと、この映画は俄然面白さを増していきます。
しかしながら、この映画の舞台は現実のスペインです。現実はフィクションとは違います。主人公は剣も魔法も手にすることなく、自らの「欲望という名の怪物」と向き合いました。その結果がどんな帰結を迎えようとも、私は主人公の行動の結果を笑うことなどできません。
私を含め多くのオタクたちが、自らの「あさましい欲望」から目を背け、なんだかんだと言い訳をしながら、今日もお気に入りの二次元キャラで自分を慰めている。そんな私と比較したら、この映画の主人公は、非常に立派で勇気ある人物なのです。そうとしか、言いようがありません。
とにかく、すべての日本のオタクが観るべき、大傑作映画です。
【TIPS】
本作『マンティコア 怪物』は公式パンフレットの中で監督自身が言及しているように、非常に余白の多い映画となっています。ゆえに能動的に鑑賞していかなければ本作の根底にあるものを解き明かすのはほとんど不可能といってよいかもしれません。
私も全ての内容を理解できているわけではありませんが、ここでは、私の独断と偏見で本作鑑賞の手助けになるであろうと思しきキーワードや演出について、簡単にまとめていきたいと思います。
ただ、あくまでも「私はこう思った」という前提つきのまとめになるので、そこはご留意ください。
1.魔界村
フリアンのスマホの着信音には、日本のファミコンゲーム『魔界村』のフィールドBGMが設定されています。操作が難しい、いわゆる「死にゲー」として知られているこのゲーム。キャラクターをジャンプさせた時に方向キーが効かずに「垂直に落下していく」という特徴があり、そしてまた、この特徴は劇中のあるシーンを予兆しています。
2.伊藤潤二の作品
フリアンがディアナの家に行く前に「伊藤順二の作品を買ってから行くよ」と留守電を残しています。具体的な作品名は明かされていないので、ただの監督の趣味かと思います。
ですが、穿った見方をするのであれば、ここでいう「伊藤順二の作品」とは、短編漫画の『この世のほかの恋』であると考えています。この漫画はその内容が本作『マンティコア 怪物』と通じるところがある一方、江戸川乱歩の原作を漫画化しているというのも理由のひとつです。『マジカル・ガール』では江戸川乱歩の作品「黒蜥蜴」が重要なモチーフとして登場していましたから、なにか奇妙な繋がりを感じます。
3.アパートでのすれ違い
劇中でフリアンとクリスチャンがすれ違うシーンが、少なくとも二回出てきます。一回目は映画の序盤。打ち合わせのためにフリアンがアパートの玄関を出ようとしたとき、一瞬だけクリスチャンがピアノを弾いているシーンが映ります。二回目はフリアンが引っ越し作業をしている時。柱が遮蔽物となって、フリアンとクリスチャンはお互いの存在に気付かず通り過ぎています。この二回のニアミスが、後半の場面で効いてきています。
4.獣のキャラ
第一幕の中盤、フリアンのデザインを元に「獣」というクリーチャーを肉付けする作業に入る時、打ち合わせの場でプロジェクトリーダーらしき人物が次のようなことを言っています。
「これ(フリアンのデザイン案)をベースに作り込もう。ライオンのような堂々さと、尾には棘をつけて。獣のキャラも掘り下げたいな。ラスボスだから、もっと印象深く」
この台詞は、主人公のキャラを掘り下げていくよ!というメタ的な意味合いが込められているのと同時、また別の意味合いが込められています。
5.クスリの売人
フリアンが上司であるサンドラの誕生日パーティーに出席したとき、同僚たちがゲームについて以下のような会話を交わしているシーンがあります。
「ゲームデザイナーの仕事はクスリの売人と同じだ。商品は作るだけで、自分じゃやらない」。
フリアンのゲーム=フィクションに対する姿勢とは真逆の考えである台詞なことが、あとでわかります。
6.人間をつくるのが一番難しい。
フリアンは誕生日パーティーの席で、ディアナにこんな話をします。
「人間をつくるのが一番難しい。モンスターやクリーチャーは想像の生き物だけど、人間は見慣れているから誤魔化しがきかない。それを作り出す才能は、僕にはないよ」
7.ファンタスティック・プラネット
フランスのカルトなSFアニメ映画『ファンタスティック・プラネット』のリバイバル上映をフリアンが鑑賞するシーンが出てきます。画面に映し出されているのは、アリクイと大鷲を合体させたような「キモかわいい」クリーチャー。あとでディアナもこの映画を観ていたことが分かります。
8.ゲームの加害性
フリアン、ディアナ、ディアナの男友達と会話になった時に、ゲームの加害性についての話題になります。ゲームは映画と違い、作品とプレイヤーの間に相互作用な関係性を構築することで加害性をプレイヤーに与える、と男友達は口にします。しかしながら、本作『マンティコア 怪物』は監督のインタビューなどを読んでいると、まさにこうした「相互作用な関係性の構築」を目的に作られていると感じます。私たちは、この映画を観ているあいだ「加害者」になっているわけです。誰にとっての?
9.プラド美術館 ゴヤの「黒い絵」
フリアンとディアナがプラド美術館を訪れた際に、フランシスコ・デ・ゴヤの「黒い絵シリーズ」を所蔵した部屋を鑑賞するシーンがあります。『マジカル・ガール』でも「部屋」は重要なモチーフとして登場していました。ちなみに、ディアナは過去に父親とこの部屋を訪れていますが、そのとき、部屋に入ったのは「父親だけ」で、自分は5分間外で待たされていたと発言しています。
10.君と踊るのはこれが二回目だ
プラド美術館を訪れた日の夜、フリアンとディアナはクラブで夜通し踊りまくります。観客の目では、フリアンはこのときはじめてディアナと踊ったはずですが、彼は「君と踊るのはこれが二回目だ」と発言し、その後ディアナに「初めてでしょ?」と訂正されています。非常に意味深な台詞です。
11.お気に入りのスペース・ライド
フリアンは子供の頃、遊園地にあったお気に入りのスペース・ライドが、異世界そのものではなく、電線や鉄柱で作られたハリボテであることに強いショックを受け、そのことがゲームデザイナーの道を進むきっかけになったと、ディアナに話して聞かせます。ちなみに父親と二人で遊園地を訪れていたフリアンでしたが、スペース・ライドに乗っていたのは「フリアンだけ」で、父親は外で待っていたといいます。
12.ヴィデオドローム
ディアナは子供の頃、デビット・クローネンバーグの『ヴィデオドローム』をレンタルしてきて鑑賞した際、中身がAVにすり替えられていた体験をフリアンに語ってきかせます。ガワはどうみても「あのヴィデオドローム」なのに、中身はまるきり別物だったことに、彼女はショックを受けたようです。
13.マドリードとバルセロナ
カタルーニャ州バルセロナ地方は、現在でも分離独立の動きが活発であることで知られています。FCバルセロナとレアル・マドリードはサポーター同士が非常に険悪な仲でも有名ですが、それは両者の政治的な背景も絡んでいます。フランコ政権の時代、国内のファシズム化を進める政策の中で、バルセロナに住む人々はカタルーニャ語の使用を禁止されるなど、徹底した弾圧を受けていました。対して、マドリードはいつでも政治の中心地にあり、フランコ政権下でもそれは変わりませんでした。
この映画は、じつはかなり政治色の強い映画でもあり、「マドリード=右派、伝統的保守層」「バルセロナ=左派、個人の権利/自由を求める層」とレッテルを貼ったうえで、ディアナの境遇や、フリアンの引っ越し先、ディアナのお父さんの実家がどこにあるか、などに目を向けていると、たいへんに興味深く観れる映画であると言えます。
14.アルフォンソ・ポンセ・デ・レオン
ディアナが現在勉強している美術史に登場する人物の名前です。ポンデリングみたいな名前ですが、ドーナツではなく画家です。
アルフォンソは20世紀に活躍したシュルレアリスム派の画家であり、左派の映画監督、ルイス・ブニュエルの友人でした(ということはサルバトーレ・ダリとも知り合いだったんでしょうか)。しかしアルフォンソ本人の政治思想は右派寄りで、フランコ政権時代、彼は左派の者たち(カタルーニャを支持する人たち)に捕らえられて、処刑されてしまっています。彼が1936年に描いた「自画像」は、彼自身の生涯を予見していたのだと、劇中では語られています。
15.無能ボイス
この映画いちばんの謎要素。フリアンが自宅で「日本語の」「無能ボイスのYoutube動画」を鑑賞しているシーンがありますが、はっきり言って意味が分かりません。よくよく聞いていると日本語であるのに間違いないのですが「カワウソ、カワウソ、カワなんちゃらかんちゃら」みたいな、文法をまるきり無視した台詞がパソコンから延々流れているという、ガチの「無能ボイス」になっています。
16.カタルーニャ語
映画のラストで、ある人物がカタルーニャ語を話します。誰がどんな内容をカタルーニャ語で話しているか、なぜこの場面でカタルーニャ語を使っているのか。そこに注目してみると、この映画がおぞましくも愛おしい「愛の映画」であることがわかります。