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【第96回】ボーはおそれている

『映画の中の自分、自分の中の映画の欠片』


共感――それは、映画を観るときに多くの観客が優先する要素である。共感できるから良い映画、共感できないからダメな映画、そんなレッテル貼りは一見有効に思えるが、私個人としては大した意味を持たないと考えている。この世界にはキャラクターへの共感や感情移入なんぞを抜きにして、圧倒的な映像体験や物語構造の持つ面白さ等で観客を楽しませる作品(ex.『最後にして最初の人類』とか『ボーダー 二つの世界』とか)が数多くあることを、ゆめゆめ忘れてはならない。


しかし、そんな私でも「これは」という衝撃を受けることがある。それは「映画の中に自分の姿を観た時」である。共感なんて生易しいもんじゃない。主人公の一挙手一投足に胸を詰まらせるのと同時、とてつもない共感性羞恥に襲われる。それは、なにを隠そう、映画の中に「私自身」がいるからである。私が普段考えていること、それが意識的であるのはもちろん、無意識下で思っていることをフィクションの世界で掘り出されたような日には、身につまされる感覚を幾日かは引きずらなければいけなくなる、そんな鋭さとパワーを持つ作品に、しかしなかなか巡り合える機会はない。


ところが、この令和の時代に「それ」はスクリーンの世界に立ち現れた。それもこともあろうに、いま最も世界に「トラウマ」を与えることに長けているであろう映画監督の手によって。


アリ・アスター。現代映画界最強の呪詛師。


男が創り出した呪いの世界で、私は、私自身を垣間見た。



【導入】

精神障害を持つ孤独な中年男性の主人公が、実家で亡くなった母の葬儀に出席するために旅に出る姿を描いた、ロードムービー風のオデッセイ・スリラー映画。


監督は『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』に続いてこれが三作目になる、A24の寵児、アリ・アスター。今回の彼はインタビューなんかを読んでいる限り、かなり自分のやりたいようにやっているみたい。それが画面を通じて爆破しているのは間違いないですな。


主役は『ナポレオン』で「モラハラメンヘラ陰キャミリオタおじさん」としてのナポレオン・ボナパルトを見事に演じきったホアキン・フェニックス。今回のホアキンはヤベーです。もう不幸感バリバリの「無敵の人」って感じが強く出てる、色々な意味で人生詰んでるおじさん。体型もだらしないし、頭はハゲかかっているし、そんなナリで異様なほどのマザーコンプレックスを抱いているというトンデモな設定のキャラを見事に演じているのですごいです。



【レビュー】

当時、不思議に感じたことがある。なぜアリ・アスターの『ミッドサマー』は、こんなにも日本のSNSで話題になり、洋画ホラーにしては爆発的ヒットと言っても過言ではない興行的成功を収めたのか。当時、私はディレクターズカット版も含めて三回劇場に足を運んで鑑賞しているが、まず普通の洋画ホラーなんぞ鑑賞しなさそうな(偏見)人たちが、わんさか劇場に押しかけていたのを覚えている。Youtubeには『ミッドサマー』の考察動画が溢れんばかりに投稿され、SNSでは「ダニー(主人公)に共感する」といった意見が、特に女性を中心に多く語られていたのをはっきりと覚えている。


今にして思うと、それだけ『ミッドサマー』のルックがSNSの住人にとって取っつきやすかったのだろう。ホラーの皮を被った男女の失恋話という(一般的なホラー映画と比較したときの)間口の広さ。ホラーなのに明るい画面が多いというキャッチーなウリ。北欧の閉鎖社会という、日本のそれとは異なる「オシャレっぽさ」が滲み出てくる画面構成に、善悪両極端な意見が持て囃されるSNSの特性にガッチリハマリそうな「過激なエンディング」……と、どれもこれもバスりそうな要素ばかりで出来上がっているのが『ミッドサマー』である。私個人としては前述した要素とは異なる点において『ミッドサマー』を評価しているが、けれど、この映画一作でアリ・アスターの映画的標準偏差を無神経にも推し量ろうとした連中にとって、本作『ボーはおそれている』は「劇薬」を通り越して「退屈」の極みと呼ぶべき代物になっているかもしれない。


ひとくちに言って『ボーはおそれている』は、映画が持つ射程距離は、『ヘレディタリー/継承』や『ミッドサマー』と比較しても、格段にその距離は短い。要は観客の目に触れた時に「取っつきやすそうな部分」が『ミッドサマー』と比較してみると、めちゃくちゃ少ない。なにせ、主人公は頭を徹底的にハゲちらかした冴えないモテない独身中年男性で、仕事は何をやっているのか不明、おまけに双極性障害や心気症などの精神障害持ちときた。そんな弱者男性を極めたような男を主人公にした時点で、まず『ミッドサマー』を「オシャレなホラー」として消費する人たちの食指から、この映画自体が意識的に距離を保とうとしていることが分かる。そんな冴えない男を主人公に据えた三時間の長丁場に渡るロードムービーに、ハマれる人がどれだけいるというのか。加えて、そのロードムービーの実態は「精神的な障害を持つ男の一人称視点”だけ”」で構成されており、『ヘレディタリー』や『ミッドサマー』が、人間の力ではどうしようもない「第三者」の目線、すなわち「三人称視点」を主軸にしていたのに対して、『ボーはおそれている』に、そうした要素はほとんどまったくと言っていいほど存在しないというのも特徴的である。


この映画は、基本的にパラノイアであるボーの一人称視点で世界を捉えている。それが意味するのは、この映画を合理的に読み解くのはほとんど不可能に近いということだ。従来のハリウッド型脚本に見られるような、分かりやすい、合理的な考察が説得力を持つ構造を取ってはいない。だがそれは、この映画が感覚だけで制作されていることを必ずしも意味しない。むしろ、この映画が「物語」の「入れ物」としての「構造」を強く意識していることは、ラース・フォン・トリアーの映画よろしく、古くから物語を語る伝統的手段のひとつとして使われている「章立て」の手法を取っていることからも明らかだ。


ゆえに、見かけ上は好き勝手に作られているように見えるけれど、決して独りよがりの作品ではない。観客の視点から見て筋道の立ってない劇中の出来事も、この精神的問題を抱える主人公・ボーの視点からは、そこで起こる出来事がどれだけ悪夢的なイメージで満たされていようとも、彼の中では筋道は立っているのである。


劇中で起こる出来事の大半は、ボーが抱えている心的な問題――幼少期のトラウマや、実母への愛憎や、実母への罪悪感――が呼び起こすイメージとイメージの連鎖反応である。その連鎖反応が、間断なく作用し続け、そこから逃げたいという気分になってもなお、ボー自身が抱える「不安」や「恐れ」がぶり返し、再び悪夢的なイメージとイメージの連鎖反応が止むことなく続ていく。その様子は、たしかに一見すると滑稽である。


水で服用しなければならない錠剤を口にして、蛇口を捻っても水が出てこず「水がない」とパニックになるシーンも、本当なら水が出ているはずのなのに、ボーが見ている「世界」では「蛇口をひねっても水が出ない」という世界になっている。売店に入ってミネラルウォーターを後払いで購入しようとするも「店のルールを破ってしまった」という無意識下の罪悪感から、クレジットカード決済が拒否され、店員から悪態をつかれてしまう。だが、それはあくまでボーの「世界」での話であり、実際には店員なんて怒っちゃいない。さらに言えば、アパート住まいの彼は隣室の騒音にだって悩まされてはいないし、旅行鞄だってなくしてはいないし、鍵だってなくしてはいないし、毒クモだって本当は出ていない。それはあくまで「ボーの見ている神経質的な一人称視点の世界」での話であり、彼の肉体が確かに存在する「”いま、ここ”の現実の世界」とは、微妙に掠りこそすれ、完全に同一の世界ではない。ここに、かつてライムスター・宇多丸のインタビューを「アフター6ジャンクション」で受けた時の監督の言葉がリフレインする――「肉体は無条件でいつか僕らを裏切る」。


まさに本作は、そうした己の肉体が依って立つ世界(実現実)に裏切られ続け、自らの視点で眺めている世界(仮想的現実)に囚われ続けてしまう男の悲喜こもごもを描いたホラー映画であり、ブラックコメディ映画であり、そしてなにより、セラピー映画である。そう、『ミッドサマー』が監督自身にとってのセラピー映画的な側面を有していたのと同様、この映画もまた、きっと監督自身にとってのセラピー映画であるに違いはない。そして、それは同時に、思いがけず、私個人にとってのセラピー映画としても、類を見ないレベルで作用している。


劇中、ボーが前日のうちに航空券を買ってスーツケースの準備までしておいて、いざ当日になって寝過ごし、現実には航空券も家の鍵も(本当のところは)失くしてないのに「失くしちゃったから実家に帰れないや。ママごめんね」と電話で連絡するシーンこそは、ボーが最初から実家に帰る気がないことを意味しており、彼の中でそれは、母親に対するひとつの「復讐」であることを伺い知ることが出来るのだが、このシーンを観た時に私は「マジか」と、開いた口が塞がらなかった。


というのは、こんなのまったく誇れる話ではないけれど、実は私もかつて似たような仕打ちを、何度も実の母親に対してしたことがあるからだ。この映画の「航空券」を「新幹線のチケット」に変えたら、このボーという男の置かれたシチュエーションや、彼が母親に電話している時の心境は、まんま私である。これのどこがブラックコメディだというのか。笑いたくても笑えない。まったくこれは「退屈」どころか「劇薬」そのものである。


映画の中に私がいた。


だからこそ、彼が「お母さんが亡くなりました」という連絡を受けた時のシチュエーションに、私は強い説得力を感じたし、この時のボーの心境が痛いほどわかる。ボーは母親に対する並々ならぬ愛憎を抱いている。憎しみと同時に、母親を愛してもいる。その愛している母親を、自分が過去受けてきた仕打ちを盾に、間接的に傷つけてしまった――もし、このまま、傷ついた心のまま、母が死ぬようなことがあったら、どうしよう――そんな強い恐怖感が、彼に「母の死」というショッキングな、それこそ嘘であってほしい出来事を「現実のもの」として突きつける。ちなみにこの時、母親の顔がシャンデリアの落下で潰れてしまって「顔がなくなってしまった」という下りは、ボーの中での「母親に死んでほしい」という気持ちと「でも母の死を想像するなんて恐ろしい」という両極端な感情の具象化として、非常によくできている。ようは「顔がなくなってしまった」が意味するのは「母の死に顔をイメージできない」ということの現れなのである。


そうして繰り出されていく地獄のようなロードムービーを観ているうちに、私はなんだか、どんどん自分という人間がくだらない存在のように思えてきた。映画の後半、ボーが母親に対してとった「ある行動」を目撃した時に、そんな私の自己否定の感情はピークを迎える。「ああ、自分はこんな恐ろしいことを、かつて想像して生きていたのか」という、なんとも言えない複雑な気持ちと、同時に、ボーの行動を通じて振り返ってしまう我が身の行動の至らなさに、ほとほと打ちのめされてしまったのだ。


そして、こういう作品に一切のカッコよさを装飾することなく、自分の考えるイメージをあけっぴろげに公開しながらも、作品として昇華してしまうアリ・アスターの手腕に、心底脱帽せざるを得ない。まいった。本当にまいった。こんな作品をお出しされてしまっては、もう傑作という他ないじゃないか。


繰り返しになるが、この映画の持つ射程距離は極めて短い。だが、その射程距離内にいる観客にとって、この映画はソード・オフ・ショットガンのような威力を持つこと間違いない。ご鑑賞の際には、その身がバラバラに打ち砕かれ、「海の藻屑」とならないよう注意されたし。

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[良い点] アトロク好きです。 『肉体は無条件でいつか僕らを裏切る』 日本語訳したヒト天才!コピーライトニング(^^)b 裏切らない為にも腸活がんばらんといけん。
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