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【第94回】正欲

Youtubeの動画台本用に書いた文章ですが、動画にするよりここに投稿した方が良いと思ったんで、そのまま投下します。

『お前の中では“多様性”なんだろう。お前の中ではな』


去年、デリヘル嬢からこんな話を聞いた。


ある日の蒸し暑い夏の夜、そのデリヘル嬢がホテルの指定の部屋に入ると、そこで客として待っていたのは二十代前半ぐらいの男性だった。見た目はごくごく普通の好青年だったらしい。


デリヘル嬢がいざプレイに入ろうとした矢先に、男はおもむろにベッドの脇に置いていた「食パンの入った袋」と「履き古したスニーカー」を手に、こう口にした。


「いまからこの食パンをちぎってスニーカーに詰めていくので、ぼくが詰め終わったら、そのスニーカーを素足で履いてその場で足踏みしてくれませんか?」


デリヘル嬢は言われた通りストッキングを脱ぐと、その「食パン敷き詰めスニーカー」に蒸れた生足を通し、何度もその場で足踏みをした。


嬢の足裏から漂う酸っぱい汗の匂いと、手入れされてないスニーカーが放つ埃っぽい匂いが混じり合った食パン。全裸になった男性は、それを迷うことなく口に含み、嚥下した瞬間に一発で絶頂したという。


それからプレイ中、男はずーっと同じ要求をデリヘル嬢に突きつけ、大量の「嬢の足裏から漂う汗の匂いとスニーカーが放つ埃っぽい匂いが混じり合った食パン」を無我夢中で食べ続け、合計で4回絶頂したという。


この映画を観た後、そんな話があったのを思い出した。





【導入】

他人には理解できない特殊な性癖を持つ人々の孤独と疎外を通じて、現在SNSを中心に騒がれている「多様性」の在り方に疑問を投げかける文芸映画。


原作小説は『桐島~』の朝井リョウ。私、この人の講演を一度聞いたことがあるんですが、実は一作も著作を読んでないという。「俺はもう、SFと海外小説と評論しか読まないんだ」という謎決意をした辺りでデビューしたからなぁ。タイミングが悪かったとしか。


監督は『前科者』の岸善幸。『前科者』ねー。たしか去年公開だったんだが、観に行こうと思ってまだ観れてない。親戚に保護司がいるから、ちょっと興味があったんだよなこの作品。よし観よう。


主演はイナガッキーこと稲垣吾郎。そしてアラガッキーこと新垣結衣。さらにプラスして磯村勇斗。いやもうマジで全員演技がウマシ。ヤバイ。この映画主役から脇役まで全員演技上手いとかいう化け物っぷりです。


イナガッキー、物事を理解したつもりで実は上っ面な部分しか理解していない中年男性の得意げな表情演技、上手すぎ。ラストシーンで打ちのめされる時の目の動きもヤバし。


アラガッキー、いつのまにこんな巧みな表情と目の演技が出来るようになったの? どこにも居場所がない孤独な独身女性がサマになってるってどういうこと? 


磯村勇斗、傑作邦画SF『PLAN75』の時も思ったけど、イイ演技するわ~。「追い詰められていないようで、その実、追い詰められている人」の演技をやらせたらうまい。




【あらすじ(公式サイトから引用)】

横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と度々衝突している。


広島のショッピングモールで販売員として働く桐生夏月は、実家暮らしで代わり映えのしない日々を繰り返している。


ある日、中学のときに転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。


ダンスサークルに所属し、準ミスターに選ばれるほどの容姿を持つ諸橋大也。学園祭でダイバーシティをテーマにしたイベントで、大也が所属するダンスサークルの出演を計画した神戸八重子はそんな大也を気にしていた。


同じ地平で描き出される、家庭環境、性的指向、容姿 様々に異なる背景を持つこの5人。だが、少しずつ、彼らの関係は交差していく。


まったく共感できないかもしれない。驚愕を持って受け止めるかもしれない。


もしくは、自身の姿を重ね合わせるかもしれない。


それでも、誰ともつながれない、だからこそ誰かとつながりたい、とつながり合うことを希求する彼らのストーリーは、どうしたって降りられないこの世界で、生き延びるために大切なものを、強い衝撃や深い感動とともに提示する。


いま、この時代にこそ必要とされる、心を激しく揺り動かす、痛烈な衝撃作が生まれた。


もう、観る前の自分には戻れない。





【レビュー】

◆異常性癖とフェティシズム

この映画、出演者クレジットで一番上に来ているのはイナガッキーこと稲垣吾郎さんなのですが、映画全体を通してみると稲垣吾郎のパートと同じくらい比重を割かれているのは、ガッキーこと新垣結衣さん演じる桐生夏月の物語です。


夏月には他人には理解しがたい、ある趣味というか性癖とも言うべきものがあり、それが「水フェチ」というものです。一見聞き慣れないこの「水フェチ」とやらですが、劇中では「水に興奮して快感を覚える、または水に異様な執着を見せる特殊性癖、フェティシズム」として描かれています。つまり夏月は、水を性的対象として捉えているということですね。


ここで勘違いしちゃいけないのは、彼女の「水フェチ」はあくまでも「フェティシズム」であり「異常人格に基づく異常性癖」ではないということです。何が異常性癖で何がフェティシズムであるかは時代背景・文化的背景によって線引きが難しいところですが、それぞれの言葉の定義はハッキリしています。劇中では「フェティシズム」と「異常性癖」を完全に混同していますけど、それは正確じゃありません。社会生活に重大な障害が発生するレベルの性癖が精神医学上では「異常性癖」に該当しますが、どうも映画を観ていると、この「水フェチ」設定はただの「フェティシズム」なんですよね。つまり、日常生活に支障をきたさないレベルの特殊性癖というわけ。なので、異常性癖者に特有の障害が描けていない! という指摘はそもそもお門違いで……監督たちはそんなこと、初めから描こうなんてしてないんですよね。


「水に興奮する」って具体的にどう興奮するのってことなんですが、その具体的なシーンが早速オープニングシークエンスで描かれています。夜、ひとりで自宅の寝室にあるベッドに寝そべり、Youtubeにアップされている渓流の動画を見ながら、ゆっくりと両手を股間に這わして「G☆行為」を始める夏月。スマホから流れる水の音を耳にしながら、気持ちを高ぶらせて行為に没頭していく。そんな彼女の興奮していく様子に連動するかのように、部屋中が水浸しになるイメージカットが挿入されて、「正欲」のタイトルロゴが出る。意味深ですなぁ。このオープニングシークエンスにおける「水」は、夏月にとっての性的な対象として描いているのと同時に、彼女自身の体から湧き出てくる性欲というかたちとしても描いているんじゃあないでしょうか。もっとあけすけな言葉を使えば、「水」は彼女の体から放出される「ラブラブ液」であり、言ってしまえば「Sio吹き」である。そういうメタファーが込められているはずです。




■ふてくされ顔と回転寿司

およそ常人には理解しがたい「水フェチ」という趣味を持つ夏月を、極めて孤独な人間であり、周囲になじもうとしても上手くなじめないコミュニケーション不全に陥っている人物として描いているのがこの映画です。職場の同僚から、他愛ない話のひとつとして結婚や妊娠の話題を振られても、夏月は生返事ばかり寄こすというありさまで、ろくにコミュニケーションがとれていません。ま、他人の家庭生活や結婚生活になんぞ興味を持てと言う方が難しいわけですから、気持ちは分かりますけど、もーちょっと周りの空気を読んだ方が良いよ? と助言を送りたくなりますが、夏月にはその「周りの空気を読もうとする行為」すらも苦痛であるわけですね。というか、そもそも世間と一切の関りを持ちたいけれど持ちたくないような、そんな微妙な感覚の持ち主として描かれています。


物語の序盤には、彼女が夕飯に回転寿司チェーン店に入り、ひとりでカウンターに座ってお寿司を食べているシーンがあります。これなんかは、夏月の微妙な性格を特徴的に描いていると言えます。通常、回転寿司のカウンター席というのは両サイドが間仕切りされています。最近はタッチパネル式の注文もすっかり浸透しているので、自分がどのネタを選んだか、他人からは分からないシステムになっています。そういった店で毎晩のように食事を摂るというというのは、これは彼女が「外部からの干渉を拒んでいる」ことをメタファーとして表現しています。


また、外部からの干渉や視線がシャットアウトされた回転寿司店のカウンターという空間と、「好きなネタを好きなだけ食べることが出来る」回転寿司チェーン店の仕組みというのは、周囲の目を気にせず、自分の生きたいように生きたいと願う、彼女の本心が行動に現れていると捉えることもできます。しかもここで彼女が選んでいるネタが「ハンバーグ」とか「豚カルビ」とか、俺の好きな「サーモンモッツァレラバジル」ではなく、正真正銘の「海鮮系」のネタ、おそらくイカかエンガワだと思うんですが、海鮮系、すなわち「水」に関連するネタを食べるというところも、徹底した演出だと思います。


しかしながら、好きなネタを好きなだけ食べているはずなのに、この時の夏月の表情、特に目つきなんですが、これがどこか寂しそうというか、どこか虚無的なものを感じさせます。ここは本当に新垣結衣さんの目の演技が素晴らしいですね(てか、この映画は全体を通して役者の目の演技がマジに素晴らしい)。外部からの干渉を拒んだ空間で、好きなものを食べているはずなのに、つまらなそうな表情でネタを選び口に運ぶ夏月。誰からも邪魔されない環境にいるのに、そんな環境に身を置いている自分に「どこか絶望しているような表情」を彼女はのっけからかましてきます。こうした描写から見えてくるのが「夏月の葛藤」ですね。


『自分は他人からは決して理解されない性癖を持っている。そのことを隠して生き続けるのが酷く辛くて苦しい。だけれども、社会の構成員のひとりとして、みんなと同じように普通に生きていかなければいけない。それは頭では理解している。でもどうしても行動に出せない。どうして自分はこういう生き方しかできないんだろう。なんで普通の生き方ができないんだろう。自分が安心して暮らせる場所が、本当にこの世界にあるんだろうか』……そうした鬱屈した思いが、あの回転寿司のシーンに込められているのだと感じます。


さらには、夕飯を食べ終わった夏月が車を運転して家路に着くシーンでも、彼女が抱える鬱屈間、孤独感というのがいやというほど強調されます。家々の灯りが落ち、街灯もない、まっくらな田舎の畦道を、ヘッドライトだけを頼りにただひた走る彼女の車。その様子をカメラが丹念に写すことで彼女の不透明な未来を演出しているというわけです。


こうした孤独感を募らせながらも、異常性癖を隠し、普通の人間に「擬態」することでその場しのぎの生活を続けている夏月ですが、そんな彼女にも、かつては唯一の理解者がいました。それが、磯村さん演じる中学時代の友人、佐々木佳道ですね。実は彼も、夏月と同じ「水フェチ」の人間であり、学生時代には夏月の目の前で取り壊し予定の水道の蛇口を力任せに破壊して、そこから吹きあがる大量の水飛沫を浴びながら恍惚とした表情を見せるというシーンが回想として挿入されてきます。


そしてまた、いま現在、サラリーマンとして働く彼も夏月と同じように、誰にも理解されない「水フェチ」という特殊性癖を隠しながら、普通の人間に「擬態」した生活を送っている。そんな二人が大人になった今、偶然にも再会し、お互いの特殊性癖という名の下に一種の「共犯生活」を送るところから、物語は大きな展開を迎えていくわけですね。




■いやいや、コイツら幼稚なだけじゃない?

ただ、こうした夏月や佐々木が置かれた複雑な立場や、他人には理解できない性癖に苦しむ様子を「幼稚である」とか「自己憐憫に浸っているだけだ」という否定的な意見で断じる人たちもいると思います。私も、映画を観ている最中「この二人の気持ち、なんとなくだけどわかるなぁ」と共感する一方で「でも、こういう気持ちをいつまでも持ち続けているのは、やっぱり幼稚だし甘えなんじゃないかな」という、否定的な感情もたしかに持ち合わせていました。


そもそも「誰にも理解してもらえない特殊性癖に苦しむ」という描写自体に、どの程度の説得力があるのだろうかということです。性的マイノリティとか性的マジョリティに関係なく、私たちは大なり小なり、他人には言えない自分だけの隠し事を胸に秘めて生きています。私も、このページでうかつにも口を滑らせたら、一発で退会させられてしまうような特殊性癖の持ち主ですが、それでもなんだかんだとその場の雰囲気に合わせて自分を演じていきていますし、多くの人たちは私よりももっと上手く、それこそ、芥川賞作家・平野敬一郎さんが唱えるところの分人主義のように、対人関係や環境ごとに分化した、様々な仮面ペルソナを使い分けて、社会生活を営んでいる人が多いと思います。


人間という生き物は本能的に「集団社会への帰属意識」を持つ生き物であり、そのための努力を惜しみません。そういうことを「普通」であると自覚している人たちにとって、この映画の登場人物たちは「努力を怠っている人物」に見えてしまうため、どこか幼稚に映ると思いますし、「水フェチ」という設定の上に成立しているだけの奇抜なキャラクターのようにも思えて、彼らの紡ぐ物語を理解したくとも理解できず最終的には自分とは関係のない話であると、切って捨てる人もいると思います。


しかしそれ以上に私が感じたのは、夏月と佐々木の二人からどことなく漂ってくる「自己憐憫・ナルシシズム」に陥っているかのような雰囲気でした。そう考えた理由は、この二人のもう一つの共通点、すなわち「二人とも自殺願望を持っている」という点にあります。


フランスの社会学者、エミール・デュルケームは著書「自殺論」のなかで「人間の自殺の傾向は四つのパターンに分類できる」と述べています。その四つのパターンのうちのひとつに「自己本位的自殺」というものがあります。これは、強い孤独感や焦燥感に苛まれた結果、個人と社会の結びつきが弱まることによって引き起こされる自殺の形態のことを指します。社会的な結びつきの強い農村よりも、ひとりひとりが孤立した生活を送りがちな都市部であったり、あるいは信頼できるパートナーを持つ既婚者よりも、誰にも相手にされない未婚者に、こうした「自己本位的自殺」の傾向があるようです。


まさに本作の夏月と佐々木も、再会する以前はお互いに独身の身にあり、社会から取り残されている孤独感に苛まれたり、社会に合わせて普通の自分を演じなければいけないという焦燥感に駆られていました。これらの特徴から、両者の自殺願望の傾向はデュルケームが言うところの「自己本位的自殺」に近いものがあるんじゃないでしょうか。


そして、心理学の歴史において「自殺願望」は常に「ナルシシズム」とセットで語られてきた傾向があります。ナルシシズム、まぁようするに「俺は、他の奴らとは違う!」という考えですね。このナルシシズムという言葉は、そもそもどこから来たのか、その語源の由来となっているのは、ギリシア神話に登場する超絶美少年「ナルキッソス」です。自他共に認める若くて美しいナルキッソスが泉に立ち寄って水を飲もうとしたところ、水面に映った自分の顔があまりにも美しすぎて、水面に映った自分に口づけをしようとしたところ、そのまま泉に落ちて溺死してしまった、ようするに自殺してしまった、そういうエピソードがあります。ここでも「水」が関係してきましたね。


一般的にナルシシズムの傾向がある人物は、協調性が低く、他人と大きなトラブルを招き、他人や世間に対して排他的であり、健全な人間関係を構築するのが難しいとされています。劇中における夏月の行動、たとえば会社の同僚とのやり取りなどを見ていると、その傾向がたしかにあるとみなすことも可能です。ナルシストたちは自分中心の物の見方しかできず、結果として自己陶酔に陥るわけですが、これは本人の自己肯定感の低さに原因があると心理学では考えられています。自己肯定感の低さは、社会や親や親しい人に、自分のありのままの姿を認めてもらえない・愛してもらえないことが要因として挙げられますが、そうした自己肯定感の低さをカバーするために、ナルシストたちの中には、自己顕示欲を剥き出しにした行動に出てしまう。その行動が行き過ぎて、暴力的で破壊的なものになるだけではなく、中には攻撃の対象を自分自身に向け、結果として自殺に繋がる、なんていうケースもあるみたいです。よって、劇中における夏月や佐々木の言動に、「誰にも理解してもらえない自分」に酔っている、という感覚を抱いた人はいると思います。




■蛇口と水と、ときどきセックス

さて、本作を鑑賞している間じゅう、ずっと引っ掛かっているものがありました。それは「なぜ“水フェチ”という設定を持ってきたのかな」というそもそもの部分です。この特殊性癖をわざわざ物語に導入してきたことの意味について考えながら観ていたのですが、映画の後半の部分に、その疑問が氷解するシーンがありました。それは、再会した夏月と佐々木の二人が、普通の人間に「擬態」するための協力関係を結んだあと、横浜に引っ越してから、人気のない日中の公園でデートと称した水遊びに興じるシーンですね。公園の水道の蛇口から勢いよく吹き出る水は、二人の抑圧された心の解放を象徴的に描いている一方で、また違った見方もできるんじゃないかと感じました。


この動画の最初の方で、私は夏月にとっての「水」は、彼女にとっての欲情の対象であるのと同時に、彼女の肉体から溢れてくる性欲だったり「ラブラブラブラブ液」や「スプラッシュ(潮吹き)」のメタファーなんじゃないかと述べました。それと同じように考えるなら、公園の水道における蛇口は、その特徴的な形状から言っても、「おTinTin」すなわち「男根」のメタファーとして見ることができるんじゃないでしょうか。


よく、映画の世界では「男根」のメタファーやモチーフに「拳銃」を使うというのが一般的です。昨年日本で公開されたブランドン・クローネンバーグのSFサスペンス映画『ポゼッサー』でも、それが描かれていました。近未来を舞台にしたこの映画では、他人の肉体に自らの意識を憑依させて暗殺を行う女性が主人公として登場しますが、彼女は潜在的に抱えている男性への嫌悪感や憎悪のせいで、暗殺の際に男根の象徴、すなわち拳銃の使用を無意識のうちに避けているという描写がそれとなく出てきます。暗殺組織の上司から「なぜ拳銃を使わないの?」と尋ねられた際に、どう返せば良いのか戸惑うシーンがあるんですが、非常に象徴的です。そうした「男根」のモチーフとして描写されてきた「拳銃」を、本作「正欲」では「蛇口」に置き換えているという見方も、あながち的外れな見方でもないんじゃないかなと感じています。


ちなみにこの『ポゼッサー』の監督、ブランドン・クローネンバーグですが、彼の父親はカナダの偉大な変態監督として知られるデビット・クローネンバーグ。そのデビッド・クローネンバーグの作品には「交通事故に欲情する人々」を描いた『クラッシュ』という超・ド変態エクスタシー作品があります。本作『性欲』の夏月や佐々木と同じ「生命ではない対象物に欲情する人物」が出てくるという部分において、『正欲』と『クラッシュ』。何かしらの類似性や共通項を見て取ることもできると思います。


話がややわき道にそれてしまいましたが、仮に蛇口を「男根」、そこから湧き出る水飛沫を潮吹きと形容するのであれば、映画後半における夏月と佐々木の公園デートのシーンは「セックスのメタファー」として捉えることが可能です。よーするに、この二人は横浜に引っ越した後、真昼間の公園で陰部をお互いに曝け出し合ってパンパンやっているという、とんでもないド変態カップル。そういうイメージを「水遊び」という清らかなイメージに仮託して語ろうとしているあたり、朝井リョウはなかなかのヤリ手だと思います。


肉体的な、それこそ「普通」の人々が「普通」にこなしている性交渉・性行為を「水遊び」という、子供がやるような遊びに耽ることで解消している夏月と佐々木。ここから考えを飛躍させると、この二人の性欲というのは「肉体」に付随するものではないのかもしれません。

事実、映画の後半では、ベッドの上でふたりが「性交渉の真似事」に及ぶシーンがあります。寝室のベッドの上で、パジャマ姿のまま向かい合い、成城石井の格好で性行為に及ぶ二人。しかしそれは、あくまでも真似事に過ぎず、お互いの肉体に欲情して頬が赤く上気したり、息を荒げたりする様子は一切ありません。挿入の真似事に及んだ佐々木に至っては「なんだかトレーニングしているみたいだ」とまで言う始末(ちなみにここ、私も同意見です)。


「ああ、この二人は、本当に私たちが知る“普通”からはかけ離れている人たちなのだな」という、なんとも言えない寂しさと、マイノリティの中のマイノリティ同士だからこそ結ばれる強い信頼関係を感じさせる象徴的なシーンですが、ただその一方で、この乾ききった濡れ場から感じるのは、二人の性欲の対象はあくまでも「水」であるという厳然とした事実。そしてこの二人には、そもそも人間に標準付属されているはずの「性欲」が備わってないのではないか、という疑問です。


繰り返しになりますが、夏月や佐々木が自慰行為のオカズに選んだり、恍惚した気分にさせてくれる対象は必ず「水」すなわち「性別を持たない物体」です。普通の人間が備えている「性欲」は「女や男に代表される性別を前提とした欲情」なのですから「性別を持たない物体」に興奮する心の動きに「性欲」という言葉を当てはめるのは、なんだか正しくない感じがします。そして、そのように考えると、夏月と佐々木の二人が、現在多様性の主流派と目されているLGBTQ運動を、なぜ他人事のように捉えているかを、物語の設定のレベルで理論づけることができます。


LGBTQに始まる性自認や同性愛を巡る自由と権利の問題。その延長線上に「性交渉」があると私は考えています。もし仮に、LGBTQ問題と性交渉が切っても切り離せない関係にあるのだとしたら、肉体を使った性交渉に全く興味がなく、「性別を持たない物体」を欲情の対象として捉える夏月と佐々木の居場所が、LGBTQ運動には欠片も存在しないことの説明になります。


「水フェチ」は、単なる奇抜な設定なんかじゃありません。この設定は生きています。それは、夏月と佐々木の二人を、マイノリティの主流派、「正しさという名の欲望」を社会に波及させようとしてくる「マジョリティとしてのマイノリティ」たちから決定的に疎外させ、孤独を煮詰めていくためのトリックとして考案された、実に考え尽くされた設定であると言えるのです。




■「多様性」代表のイナガッキー

この映画はSNSに現存する多様性に対する「アンチ多様性」映画なのですが、そもそも本来の意味での多様性というのは、政治の場において国民総意の意見、すなわち民意として反映されにくい、個人個人の、少数派の意見を出来る限り汲み取り、彼らに対して最低限の尊重または思いやりを寄せながら円滑なコミュニケーションを計り、お互いに妥協点を探りあい社会を運営していくという、ひとつの理念であったはずです。


しかし現在SNSを中心に叫ばれている多様性とは「社会的な正しさ」という名の下に、他人に無理矢理にでも自分の価値観を一方的に押し付けるための方便のように見えてしまいます。本来なら一括りにできない複雑に過ぎる個人個人の考えや意見や社会的な立場を多様性という表現で単純化させ、反発する立場の人物や意見を攻撃的に遠ざけたり排斥したりといった、ある種の専制政治にも似た風潮となっているように思えます。


この映画に登場する、稲垣吾郎さんが演じている寺井という人物。彼は常に、自分の正しさを息子に押し付けています。「検事」という「社会的な正しさの担い手」であることを家庭でも貫いている彼は、自分と意見の異なる息子や、息子に理解を示そうとする奥さんの考えを遠ざけます。NPO法人の職員が自宅に上がり込んで、息子のyoutube活動を後押ししている事実を知った際には、妻の前で不愉快な態度を隠そうともせず、排斥するような立場を取り続けます。こうした寺井の態度は、マイノリティに反発するマジョリティのメタファーとして描かれている一方で、相手に自分の社会的な正しさを無理に押し付ける人々を、カリカチュアに描いたものと言えるでしょう。つまり、本作における寺井は、SNSにおいて自分に理解できる範囲の意見や価値観を、多様性の一言で簡単に括り、社会的な正しさに妄信する人々のメタファーとして描かれているのではないでしょうか。


寺井は、彼は、息子に対する愛情がないわけではありません。実際、息子から風船を膨らませるようにお願いされたシーンでは、自分の食事を中断してまで息子の要求に答えようとしています。しかしその一方では「お父さんに僕のyoutube活動を見てほしい」とお願いされた際には「逃げ癖のついた人間はどうしようもない」と、まるで諭すような口調で息子のお願いを突っぱねています。


寺井は、既存の社会規範を絶対の価値観として行動している人物として観客の目に映ります。しかしながら、既存の常識や道徳観、倫理観が、なぜ社会を支えているのか。なぜ道徳や常識が社会において必要とされているのか。彼は「法律」という「社会規範、社会的な正しさ」を扱う仕事に就いていながら、その根本的な部分に関して、ほとんど考えたことのない人物としても描写されています。教科書に書いてある文章をそのまま読み上げるかのように「世間が決めたことだから正しいんだ」という、思考放棄に近い態度を取り続けているように私の目には映りました。


こうした印象に立って考えると、寺井は息子の将来を考えているようで、実際には真剣に考えてなどいないし、息子がやっていることにもまるで興味がないのです。


そのことを裏付けるシーンが劇中に存在します。映画の前半から中盤にかけて。仕事先から帰宅した寺井がリビングに目をやると、そこには息子がyoutube撮影のために使った道具たちが後片付けされることなく散らばっていました。寺井はそのことに関しては何も言及することなく、妻に夕飯を出すように要求します。


このシーンを観たときに、私は違和感を覚えました。普通の父親なら、後片付けをするように息子をちゃんと叱るはずです。それこそ、親が子供に対して行う躾です。しかし、この時の寺井は息子を叱るどころか、まるで奇妙な虫でも眺めるかのように、リビングに散らばるyoutube撮影の道具たちに視点を向け、素通りしているのです。


息子を躾ることもせず、息子が使った道具にも興味を示さない。彼が根本的に、息子の現在に関心がないことの裏付けになります。


また、このシーンは、乱雑に散らばったyoutube撮影の道具たちそのものに、ひとりひとりの考えや意見は当たり前に異なっているという、本来の意味での多様性をイメージとして投影させたシーンであると考えることもできます。そのように考察すると、寺井という「社会的な正しさ」を押し付けるキャラクターが、本質的な意味での多様性には、まったく興味を示さないという構図になります。このことは本作の作り手側が、いかに現在進行形でSNS上で唱えられている多様性という考えを、懐疑的・批判的に捉えているかの証左になりうるのではないでしょうか。




■まとめ

冒頭にお話したデリヘル譲から聞いた特殊性癖の男性の話には続きがあって、その男性はひととおりのプレイが終わった後、泣きながら感謝の言葉をデリヘル嬢に述べたそうです。「自分はこんな性癖の持ち主だから、プレイのたびに女性から嫌な顔をされたけど、あなたは嫌な顔一つせず、自分の望みに応えてくれた。本当にありがとう」と。


壮絶な体験を語った後、渋谷の安ホテルのベッドの上で、デリヘル嬢は私に言いました。


「あなたはまだノーマルな方です。この世界には、色々な性癖を抱えている人がいます。そういうお客さんを、これまで何人も相手にしてきた。この仕事は、人には言えない性癖で悩んでる人たちの想いを汲み取ってあげる仕事で、とてもやりがいがある。だから私はこの仕事を続けている。それに、私も変態だから、そういうプレイに付き合ってあげるのが楽しいんだよね」


デリヘル嬢の言葉がどこまで真実なのか、私にはそれを証明する手立てがありません。しかし、彼女が口にしていた「相手の想いを汲み取る」というのは、この多様性の在り方に揺れる現代社会において、非常に重要な考えではないでしょうか。


理想はしょせん理想でしかなく、現実はしょせん現実でしかない。多様性は「多様性」という言葉で一括りにできるほど、単純な価値観ではない。だからこそ「妥協」を知るべきなんです。


「妥協」とは、円滑なコミュニケーションの産物です。お互いに譲れるポイントと譲れないポイントを徹底的に討論し合い、その中でお互いの想いを汲み取り合って、線引きを行う。それが本当の妥協です。


人間は根本的に文化や価値観の異なる相手を理解することはできません。それは国や民族のレベルの話ではなく、もっと小さなコミュニティレベルの話です。なぜ浮気をする男女がいなくならないのか。なぜ離婚に至る家庭がなくならないのか。それは、たとえ永遠の幸せを誓った夫婦であっても「お互いの価値観を尊重するのが、それだけ難しいから」なのです。だからこそ「自分の置かれた立場や考えを、最後まで完璧に理解して欲しい」と、図々しくも口にするのはお門違いです。人間を高く見積もり過ぎです。


しかし、立場や環境の異なる者が相手でも、境遇を理解しようと「努力すること」はできます。その努力を放棄し、まともな議論もせずに「多様性」という言葉ひとつで世の中を括ってしまえ、という雑で巨大な世の中の動きには、まるで真綿で首を絞められるのに近い感覚を抱くんですわ。私みたいなイイカゲンな性格をした人間には。


そうした世の中に対するカウンターとして、この映画『正欲』は十分に機能しているんじゃないかと思います。「テーマが高尚だから」というのではありません。私は映画の良し悪しを決めるうえで、作品の根底に配置されたテーマが高尚だったら良い映画、テーマが低俗なら悪い映画、といった、くだらない条件項目は設けていません。カメラワークの良さ、演出のタイミング、ライティングの上手さ。そしてなんと言っても、ゴジラマイナスワンとは正反対の、感情剥き出しの説明台詞に頼らない役者の目や表情を使った壮絶な演技。それらの複合的な要素によって映像として雄弁に語られる映画『正欲』を、私は「面白い映画」というよりかは「良い映画」として鑑賞しました。


面白い映画としてあまり好意的に観れなかったのには、理由があります。それは、群像劇という物語の形式上、ある程度は仕方のないことではありますが、ストーリーラインに明らかな乱れが生じているためです。


この映画は主に寺井と夏月、そして佐々木の関係性を軸に話が進行していき、三者のドラマや葛藤が交錯したところでクライマックスを迎えます。その一方で、諸橋と神戸のドラマがただの「サイドストーリー」でしかなく、物語の本筋にほとんど有機的に絡んでこない。オープニングで、ウォーターサーバーからコップに注がれる水をアップで映していることから「このお話は“水フェチ”に苦しむ人たちのドラマですよ」と暗示しているので、おそらく制作者側はある程度の覚悟を以て、思い切って諸橋と神戸のドラマはサイドストーリーとして置いておこうと決断したのでしょう。原作小説ではどのように描かれているのか知れませんが、恐らく諸橋と神戸のドラマの役割というのは、物語的な役割というよりも「現状における多様性の在り方に対する作者の疑義」の代弁効果でしかなかったのかもしれません。


それに、ミッドポイントからクライマックスにかけての流れで、特にこれといった起伏が無いのも気になります。ですが、こうしたハリウッド型の類型構造にストーリーの流れが収まっていないことが、当人が理解できる範囲の「類型」の枠に多様性を収めてしまっている現代社会にそっぽを向いているようで、それはそれでイイと思います。


なんにせよ、良い映画であることは間違いないと思います。

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