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【第93回】★ゴジラ-1.0

※一部誤字脱字がありましたので修正しました(2023/11/29)

『このゴジラ、なんだか軽すぎる』


以下は、私が先日Youtubeにアップした動画『【超絶ネタバレあり】「ゴジラ-1.0」を観てきたけど山崎貴はいつも通りだったし、怪獣映画はもうダメかもしれないと思ったのでレビューします。【新作映画感想】』をベースにして、内容を再構成したり加筆修正をしながら文章にまとめたものです。


なお、本文中に動画URLを貼ると、ここの運営に怒られてしまうため、動画をご覧になりたい方はYoutubeで「ウラギリ・サンゴ」と検索してみてください。


一発録音の動画編集スタイルだとどうしてもこぼれ落ちてしまう言葉が多く、また動画投稿期間が短いと言うのも関係していますが自分は気合の入った感想を言語化するにあたって、音声だと感情ばかりが先行してしまうケースがあると反省しました。その反省の上で、改めて『ゴジラマイナスワン』の感想を文章化していきたいと思います。


文章化に際し、大半が動画内で言及している内容と重複していますが、Youtubeのコメント欄にいただいたさまざまなコメントを拝見しているうちに、自分の中で気づき(という名の、さらにひねくれた感想)も湧いてきました。


よって、本作の否定派意見であることに変わりはありませんが、言説に多少の変動があることをご了承ください。




【レビュー】

①はじめに

太平洋戦争終戦直後の日本をゴジラが襲ってくるという設定が意味しているもの。「俺の戦争はまだ終わっちゃいないんだ!」と『ランボー』みてぇな台詞をことあるごとに吐く特攻崩れの主人公の物語の帰結が「ゴジラ討伐」であること。今回のゴジラの熱線描写(なんかジェノザウラーの荷電粒子砲みたいだ)や肉体の崩壊描写にどことなく「兵器感」があるような描写がなされていること。これらが暗示するのは、本作が「太平洋戦争のやり直し」を描いているということです。


ある映画評論家に言わせれば、この特攻崩れの主人公はEDつまり男性的不能に陥っているらしい。劇中で彼がそんなことに苦しんでいる描写なんてひとっつもありませんが、その映画評論家曰く、怪獣とは「男根」の象徴であるのだとか。また主人公は、浜辺美波のような美人とひとつ屋根の下で暮らしているのに全く性生活の匂いがしない。そして男性不能な彼は映画の終盤で「特攻」つまり擬似的な挿入儀式を男根の象徴たる怪獣に向けて敢行し、見事に自らの男性的機能を回復させるのに成功する。ラストのラストで、どーみたって死んでるだろう浜辺美波が奇跡的に助かって病院で生きているという「なんじゃそら」なオチは、男性的不能から立ち直った主人公が蜜月の日々をこれから過ごしていくことの暗示なのだという。


私が映画をどういう風に観ようが、それは私の勝手であり、人がどのように映画を見ようが、そんなのはその人の勝手です。フロイト精神医学な見方をしようが、そんなのは私の知ったところではありません。しかし、あえて口出しするとなれば、上記の感想はあまりにもゴジラ映画、ひいては怪獣映画というものを狭く解釈し過ぎと言わざるを得ません。画家がキャンバスに描いた絵だけで勝負するように、映画は画に写るものがすべて。画に写るもの全てで勝負しなければなりません。あの状況下なら当然の如くあるはずの若い男女のまぐわいに関する描写を(事務所NGなどの理由があったにせよ)省いている映画に対して、斜め上方向におもねるのも大概にしろといいたい気分です。





②全体に対する印象

「じゃあお前はこの映画をどう見たんだ」と詰め寄られたら、私はハッキリこう答えます。これは、山崎貴の「集大成的な作品」であると同時に、監督自身の「過去や想い出」をそのまま画面に押し出したものであると。


これまで山崎貴がやってきた、お得意のお涙頂戴ストーリー、タメのない演出、「感動」ではなく「感心」しか湧かないVFXの多用。そしてなにより、彼の頭の中にある「こうだったはず」という、リアリズムから離れた昭和的な情景描写。この渾然一体とした山崎貴的な要素には、私たちの怪獣王ゴジラもあっさりと容易く飲み込まれてしまいました。それはそれで恐ろしいことですが。





③VFXとリアリティ

この映画には過去のゴジラ作品と比較しても相当なリアリティがある……そう口にする人々の大半は(2023年10月6日の正午頃における私のYoutubeのコメント欄を引用する限り)決まって、山崎貴ひいては彼が率いる白組の「国内最高峰のVFX(by Youtubeのコメント欄)」を神輿に担いで騒ぎ立てているように見えます。VFXで立派に1945~47年当時の町並みを再現しているこの映画には、かなりのリアリティがあるのだと。


しかしながら「VFXの技術力や大量投入云々がリアリティの完成度の高さに比例する」と言うんであれば『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』における巨人描写も「リアリティがある」し、大半の人間がバカにするであろう『CASSHERN』『GOEMON』のデザインや、実写に対してのVFXの効果的な使い方が特に素晴らしい『わたしの幸せな結婚』も「リアリティの完成度が高い」と評される資格を有しているはずです。ですが、いま挙げたVFX満載の作品群に対して「リアリティのある映画だ」という批評や感想はあんまり聞いたことがありません。そのほとんどは、VFXのクオリティの高さ、デザインの異質さよりも、ストーリーや役者の演技や興業収入についてばかり語られがちで、メディア露出の方向性でなんとなく定められた「印象」を大勢で共有している前提の下で繰り出される、犬も食わないような感想ばかりです。


本作『ゴジラマイナスワン』におけるVFXで構築された戦後の町並みや軍艦の造形は確かに凄いです。凄いですが、その"凄い"は「CGにしては良くできている」レベルの領域を出ないという、実写を比較対象にした前提の感想にどうしても留まってしまいます。職人の手で精巧に造られた人形を目の前にして「すごいなあ」という「感心」はあっても、それは激しく心を動かされる「感動」とは全く別のものなんです。それは大袈裟に言えば、リアリティの獲得にはなんら寄与しないとさえ言えます。『アバター』シリーズぐらい現実世界の情報量をVFXで持ち込んできた映画なら、また違った感想になりますが、そんなものを日本のVFXに求めたところでどうしようもありません。


それに、やたらと持て囃される今作のVFXですが、果たして手放しで誉めるほど本当に凄いものでしょうか。たしかに、映画後半の港での荷積みシーンなど、本当に実際の戦艦に荷積みをしているように見えて感心しますし、戦艦にしっかりとヨゴシもつけていて、基本的なところは一見して押さえているように見えます。が、これはアップの画面に限定される話で、ロングショットになると途端に作り物感が出てしまう。あえて言えば安っぽい。こればかりは職人の世界の話なので迂闊なことは言えませんが、影の付け方、ライティングの問題な気がします。


で、こうした私の「リアリティがない」という意見に対して、私が上げたYoutubeの動画では「映画に求めすぎだな。ドキュメンタリー映画でも見てれば?(Youtubeのコメント欄から引用)」といった意見が結構あったんです。これ結構個人的に驚きでした。映画を語るうえで、フィクションの対義語にドキュメンタリーを置くという考え。バカにしているのではなく「ああ、そういう風に捉えられるんだな」という意味で、これは新しい発見でしたね。


つまるところ「リアリティ」って結局なんなんだって話に繋がるんですが、「リアリティ」って、要するに「物語中の世界観にどの程度の説得力を与えることができるか」ということなんですよ。今回のケースで言えば、戦後間もない時代にあって、そこで生きている日本国民の感情の揺れ動きだったり、あとは舞台設計や衣装や軍部の動きなど、そうした細かい部分に「お客さんを納得させる力があるかどうか」という部分が「リアリティ」であるって話で。なにも全部を全部、戦後混乱期の当時をそっくりそのまま完璧に寸分違わず再現しろって言ってるわけじゃないし、最初からそんな話はしていないわけです。


それに、フィクションにドキュメンタリーというジャンルを対置するという考えも、誤解を恐れずに言えば正確ではないと思います。私たちの暮らしているこの「現実」が、たったひとつの「現実」ではなく、見ている人ひとりひとりで違う印象を持つ「現実」である以上、「絶対不変の変わりない世界としての現実」なんてものはありません。事実をありのままに写しているとされるドキュメンタリー映画も、人間の手でカットや編集という作業を経てお客さんの目に届けられている以上、やはりそれは「創られた現実」であり、本質的には「フィクション」となんら変わりません。よって、フィクションにドキュメンタリーを対置するのは正確でないのです。結局はドキュメンタリー映画も「人間」の――思想・癖・性格に大なり小なりの偏りがある作り手側の――意識を通じて世に発表されているのであり、そのことを鑑みれば「人間というフィルターを介さない“事実を事実として”映し出したドキュメンタリーらしいドキュメンタリー映画」なんてのものは、厳密に言えば存在しないということになります。


つまり、映画のいちジャンルとしてのドキュメンタリーであるかそうでないかに関係なく、ざっくばらんに言ってしまえば、この世に存在するすべての「映画」に始まる「創作事」は「嘘」であり「フィクション」なのです。そうした「嘘」を「嘘」と分かっていながら、そこに幾ばくかの説得力を要求するのが人間の常であり、だからこそリアリティが重要視されるのです。これは作品を創作したり鑑賞したりする上での重要なポイントだと思います。


こうした私なりのリアリティの考えに則って本作を振り返ってみると、本作は「ゴジラ」という虚構の「ビジュアル」をカメラに映すときはかなり力が入っているのに対し、その周辺部分の人間ドラマや時代設計はかなり雑さが目立ちます。リアリティがあるのは「まるで射的ゲーみたいだ」と言われている機雷掃海艇まわりの描写ぐらいで(あの描写は好き)、それ以外は(目を瞑っても良い点だと重々承知したうえで)小首を傾げたくなるシーンが目白押しです。当時はすでに電気冷蔵室が軍用に普及していたとはいえ、ゴジラを千メートル以上も沈めるためのフロンガスが旧海軍にあったんだろうか? とか。ロマンがあるとは言っても局地戦闘機という敵機迎撃を主目的とした戦闘機(震電)に、燃料減らして爆弾積んだうえで、あれだけの長距離飛行が可能だったのか? とか(これはロマンがあって良いとは思うし、私も実際ワクワクしだけどね)。主人公がパラシュートから降りてきた時に、なんで「生還してきた人間」に対して「敬礼」してるの? それも「制帽」のない人間まで? とか。まぁ敬礼の下りは『ゴジラ(1954年)』のラストシーンのオマージュなんでしょうが、オマージュ元の「ガワ」だけ引っ張ってきているので、見ていて非常にチグハグな作りになっている。


そうはいっても、先に挙げたツッコミポイントは、まだ許容できます。しかしながら、そこにさらに輪をかけて、山崎作品に特有のタメのない演出が重なると、もうこっちは怒り心頭です。やっぱり山崎監督はどんだけ年数が経過しても、この演出周りのバランスの取り方が非常に歪だというのがわかります。特にひどいのはゴジラ上陸後の銀座破壊のシーン。ここは『ゴジラ(1954年)』の再上陸後のシーンをそのままなぞった段取り臭い流れにも辟易としますが、ニュースキャスターの使い方がとくになっていません。オマージュ元の「初代ゴジラ」では、ゴジラが散々暴れまわった後にニュースキャスターが「信じられません!まったく信じられません!」と緊迫した実況の様子をカメラがアップで映すからこそ、緊張感があった。本作の場合は、ゴジラが上陸して活動を始めてからわりかし早い段階でニュースキャスターがビルの屋上にしゃしゃり出てきて実況する。「いや、もうちょっとタメてからやれよっ!」て感じです。あれじゃあ進んでゴジラに殺されに行っているようなものです。この銀座破壊シーンにおける演出のタメのなさは監督の直近のフィルモグラフィで言えば『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』に近い、起伏に欠けたダイジェストなストーリー展開に通じるものがあると思います。


※ちなみにですが、リアリティの話を出すと、必ず「オキシジェン・デストロイヤー」を槍玉に挙げてくる方々がいます。「あのトンデモ兵器を物語のキーアイテムに出してきた初代ゴジラにリアリティがあったとでも言うのか!」というわけです。これに関しては「ある」と個人的に感じています。なぜならあの映画では「オキシジェン・デストロイヤー」なる架空も架空な兵器の立場が、ゴジラと人間の双方のドラマを繋ぐ共通項たる「科学」というキーワードの上に成立しているからです。「科学の力で産み落とされてしまったゴジラ」と対を為す形で人間のドラマを際立たせるのであれば、ゴジラに匹敵しうる科学兵器を人類が創り出してしまったという作劇は必定です。そうした作劇を取っているからこそ、ゴジラのドラマと人間(芹沢博士)のドラマを、過不足なく繋ぎ合わせて展開させることに成功している。だから、あのトンデモ兵器設定は「あり」なのです。「突貫工事で作られた初代ゴジラ映画には続編の構想が無くて、だから一回こっきりの出番だったはずのオキシジェン・デストロイヤー」なんていう外野の事情を抜きにして、あのトンデモ兵器は「映画のリアリティ」ひいては「芹沢博士の葛藤から生まれるドラマのリアリティ」を生み出すために必要なのです。




④役者の過剰な演技と、ドラマの構築手段

あとは、やはり役者の演技が過剰に過ぎるというのもあります。つい最近も歌舞伎町での投身自殺現場の様子がネットに流れてましたけど、ああいう凄惨な事故現場または災害現場に遭遇した時の現実の人間がどういうリアクションを取るか、というのが私たちの目に容易に触れるようになった現在、この映画の役者陣の演技にリアリティを見つけることは非常に難しいと言えます。「ゴジラ」というトリビアルな存在を目撃している人間の反応が「大仰で演技臭い」……まさに「嘘くさい」演技である場合、「嘘」の存在に「嘘」のリアクションを持ってきていることになるため、没入感が削がれてしまいます。


その大仰な演技に支えらえた「人間ドラマ」についてですが、ゴジラの迫力とVFXの力技と伊福部スコアの素晴らしさで覆い隠そうにも、どうにもチグハグ感が否めません。今作における人間ドラマの構築について、パンフレットの中で山崎監督は「怪獣など大きな存在が出てくる映画では、人間の物語と怪獣の物語が乖離してしまうケースがあります」と言っています。ここは仰る通りだと思います。ゴジラという大きな状況がもたらすドラマと、人間という小さな状況がもたらすドラマが有機的に結びついているゴジラ映画は非常に稀です。


ここまでわかったうえで、山崎監督がとった作劇上の作戦は「ゴジラを“憎む”主人公を配置して、ゴジラと人間の双方をドラマ的に繋ごうとした」というものですが、これによりどうなったかと言えば、ゴジラが完全に人間側の小さなドラマに矮小化されてしまっている。具体的に言うのであれば、今作のゴジラは主人公の個人的なトラウマ(大戸島飛行場で仲間を見殺しにしてしまった過去)を克服するための「舞台装置」でしかなく、それにより映画全体が非常にミニマムなものになってしまっているし、結果的に「ゴジラである必然性」というのが失われてしまっています。正直なところ、怪獣がキングギドラやメガロでもこのお話は成立します。海上を最終決戦の場に選んでいるのなら、エビラでもいい。ガイガンだってFWで超パワーアップ遂げたわけだし「改造エビラ」を出したって話は成立しちゃうんじゃないでしょうか。「せっかくゴジラを配置したのに、ただ単にゴジラをダシに使った主人公の復讐解消成長物語で終わってるじゃん」というガッカリ感が、どーしても来てしまいます。


そもそも、これは個人的な意見ですけども、ゴジラなんていう巨大で圧倒的な存在を前にしたら「憎しみ」などという狩猟採集時代以降の人類が獲得した文明に由来する感情は持ちようがなく、生物としての本能的感情としてジャングル由来の野生の心に根付いている「恐怖」の感情が先行してしまうんじゃないでしょうか。恐怖から憎しみへの感情遷移だったり、克服するための段階だったりを、ストーリーや台詞や役者の演技等で丁寧に踏んでいるのならまだしも、そうはなってないのがこの作品。大戸島飛行場で被爆前のゴジラを前に恐怖に慄き、機銃を打てなかった主人公が、新生丸の上では大戸島以上に巨大化して凶暴化しているゴジラを前にして「ちょっとした逡巡を経ただけで」機銃を放つなど、葛藤とそれに付随するドラマもろくすっぽ描いていない。その描写の果てに「ゴジラを倒してトラウマ解消! やったね!」な主人公の成長の仕方を持ってこられると「ふざけてんのか?」と言いたくなるんです。


しかしながら、ゴジラに対する恐怖心を、気づけば1ミリも持たなくなったような素振りを見せる主人公と異なり、他のキャラは「やっぱりゴジラ怖いよ……ヤバいよ……」な反応をチラチラ見せてきます。モブキャラクターたちの、そうした恐怖を乗り越えるための具体的なアクションを「みんなでゴジラ討伐の会議してたら個人としての理性ある思考よりも、共同体としての熱狂的な意識が芽生えてきて、イケると思ったから作戦を決議しました」という、大戦末期の希望的憶測に乗っかっていた大本営ばりの「昂揚した気分に任せるしかない」という風に描いてしまったことで、この当時、GHQやCIEの対日心理作戦で生じていた「軍部と国民との間の軋轢や不信感」を完全に排したような、物分かりの良い「理解ある国民くん」「理解ある元・軍人くん」という枠内にキャラクターたちが押し込められてしまっています。彼らは「畏怖」や「恐怖」を「団結心」や「使命感」で押し込めてゴジラ討伐作戦に乗り出していくのです。そこに至るまでの過程を、繰り返しになりますが「みんなでゴジラ討伐の会議してたら個人としての理性ある思考よりも、共同体としての熱狂的な意識が芽生えてきて、イケると思ったから」と描いている面においても、やはりこの映画は「太平洋戦争のやり直し」を描いた映画と言えるのです。





⑤記号性としてのゴジラマイナスワン

ここまで私が言い切るのは、この映画がゴジラという存在そのものに対して「不誠実」だからです。もっと言えば、ゴジラの「ガワ」だけしか見ていない。放射熱線まわりの描写がその証左です。


銀座破壊シーンでゴジラの放射熱線描写の後にデカデカと露骨に「キノコ雲」を出して黒い雨まで降らせておきながら、瓦礫の山の中でガイガーカウンターを使い調査する科学者の様子をワンカット程度挿入したぐらいで、ゴジラによる放射線被害が日本社会にどの程度の被害を今後もたらしていくのだろうとかという具体描写を放棄し、前述したミニマムなドラマを展開していくことだけに集中しています。そのうえで最後にまたとってつけたように浜辺美波の首筋の痣?のようなものを掲示したぐらいで「ゴジラによる放射線被害」を描写した「つもり」になっている。これはちょっとどうなんだよと言いたいんです。


東宝チャンピオン祭りのようなお祭り映画ならいざ知らず、現代映画においてゴジラを出すのであれば「核」に関する問題をこんな簡単に描写して良いんだろうか。その事実に山崎監督は(おそらく)気づいていながら、VFXと音響とゴジラの威圧感のみで観客を沸かすことだけに終始している。


結局のところは、ゴジラが放射熱線を吐くというビジュアルや記号性のみに着目し、その「意義」についての思考を途中で放棄し、ろくすっぽ作劇を投げ出してしまっているところに「こんな描写するんだったらゴジラである必要なくないか?」という猛烈な不満がつきまとうんです。東宝が未だに『オッペンハイマー』の日本劇場公開についてゴーサインを出していないことの理由が、ここから見えてきそうなもんです。





⑥総評

ここまで色々と語ってきましたが、総評すればこの映画は「山崎監督自身の記憶や想い出」を画面に露出した作品になります。


監督がこれまで手掛けてきた作品の演出・ストーリー構築手法はもとより、時代背景や、さらにはゴジラのデザイン(これは監督が“過去”に手掛けたゴジラ・ザ・ライドのデザインを踏襲しています)、過去のゴジラ作品(初ゴジ、金子ゴジ、ギャレゴジ、エメゴジなど)のオマージュを無造作に散りばめたりなど、全てが過去の産物です。


別に「オマージュが悪い」というのではありません。映画や小説や漫画など、あらゆる創作事はすべて引用の集積体に過ぎないのだとしたら、どれだけ過去作の演出を引用してきても全く問題はありません。私が不満なのは、そのオマージュや引用を、引用元になった作品の文脈を無視したに近いかたちで援用しているのにプラスして、タメのない演出にのせて使っているからです。「これ入れときゃゴジラファンは喜ぶだろ」程度の、完全に客を舐め腐った安易な態度を感じさせるからです。先に挙げた銀座の破壊シーンや、終盤における敬礼シーンが、その最たるものです。


この『ゴジラマイナスワン』は、山崎監督の頭の中にある昭和世界を現出したものであり、そこでは複雑な国民感情や軍人とのわだかまりや、生き馬の目を抜くような戦後の時代とはかけ離れた人々の姿が、大した葛藤もなく描かれています。1945~47年という重要な時代を設定していながら放射線周りの描写をクリフハンガー的に使う程度のことしかしていない。そんな杜撰なリアリティの数々を覆い隠すようにして比重が置かれているのは、圧倒的恐怖存在を前に「出来合いの、予定調和の葛藤」を経て「団結心」や「使命感」などの「耳障りの良い言葉」で結ばれる国民や軍人たちの姿なのです。





⑦補足-怪獣映画の機能-

怪獣映画、特にゴジラ映画は今年で70年近い歴史を誇ります。その歴史の節目節目で小休止を挟みながらも継続されてきたわけですが、ゴジラには当時の日本社会の様相を背負ってきた一面というものが確実に存在していました。


それは、第一作目の『ゴジラ(1954年)』が、これから高度経済成長を迎える「あかるい未来の日本」(その象徴として、前向きな性格の主人公が配置されているわけですが)で暮らす日本人を前に「忘れてはならない歴史があるのではないか」という警鐘と祈りを込めて、太平洋戦争や水爆実験の恐ろしさをゴジラに仮託して語っています。芹沢博士が今際の際に口にする「幸福に暮らせよ」というのは、尾形や恵美子に向けられているだけでなく、あの当時の日本人たちにも向けられた言葉なのです。


また、昭和の時代においては、第二次ベビーブームを反映させるかたちで「ゴジラの息子」を登場させ、公害が深刻な社会問題になった時代にはファンの間でもかなりの人気を誇る「ヘドラ」を登場させるなどし、バイオテクノロジーが飛躍的な発展を遂げようという時勢にあっては、個人的に「レギオンと並んで超絶好み怪獣」なビオランテを登場させました。


そして2016年には『シン・ゴジラ』が公開されました。言わずもがな、2011年の東日本大震災とそれに端を発する原発事故および政府の杜撰な対応をメタファーとして描いたこの映画は、興行収入80億円越えのヒットを飛ばしたわけです。ですが、この『シン・ゴジラ』のヒットを受けて「日本の特撮はこれで完全復活した!」と騒ぐオタクたちに一部同調しつつも、私は今後作られるゴジラ映画の「社会的な意義」というものに、一抹の不安を覚えていました。


ゴジラのような「巨大で圧倒的な破壊力を持つ神に等しい存在が世界を終わらせるためにやってくる」というそもそものコンセプトに、今後、どんな社会の様相を仮託すればいいのだろうと、単純に疑問に思ったせいです。核戦争の危機がまだあった1954年や、大地震や原発事故の傷跡がまだ癒えていない2016年には、「巨大で圧倒的な破壊力を持つ神に等しい存在が世界を終わらせるためにやってくる」という設定は、それなりの説得力があったのでしょう。


でも、いま、この時代にあってはどうでしょうか。私は先ほど「ゴジラを描くのであれば核の描写は必須だ」と述べましたが、しかしそれをいま描くことで、どれだけのリアリティをお客さんが感じるか、ちょっと疑問に思うところもあるのです。


確かにウクライナとロシアがドンパチを続けて核戦争になるかもしれないという危機感は、ある人にはあるでしょうが、そうした情報をハナから意識の外に追いやっている人には「関係ねーよ」で済む話になります(もしかすると、私もそのうちの一人かもしれません)。それ以上に、アメリカはアノクラシー状態に陥りかけて内戦の危険性があるし、理想とする多様性を過度に追い求めるがあまりSNSは阿鼻叫喚の地獄絵図になり、気候変動の問題や、分断が促進されていく世界など、まるで仮想の低烈度紛争のような状況に見舞われています。


「ゆるやかな絶望」に支配されたこの現代で、いま、ゴジラを描くことにどんな意味があるのか。その答えを山崎監督は掲示することなく、安牌を置きにきました。過去のゴジラ作品から引っ張ってきた小ネタを適当にパッチワークのように繋ぎ止め、使い古されたストーリーと圧倒的VFXとダイジェスト感のある演出を多用して「それなりのもの」に仕立て上げたところに、現代における「怪獣映画」の限界があるのかもしれないと、鑑賞直後に私は考えていました。ですが『ゴジラマイナスワン』にこれだけの大勢の人々がSNSを中心に狂喜乱舞して諸手を上げて喜んでいるという現象そのものに注目してみると、私がなぜこの作品を嫌うのか、その本当の理由なるものが見えてきた感じがします。


以下は、ひねくれ者の私が更にひねくれた見方をした、犬も食わない世迷言であることを先に述べておきます。


先ほども言及したように、この映画は「耳障りの良い言葉」で人々の団結心や使命感を煽っている展開が、特に終盤のゴジラ討伐作戦において顕著に強調されます。それ以外にも美辞麗句だけで語られる人と人との絆や愛情のストーリーが事あるごとに展開され、そこでは常に「正しい意見だけ」がストーリー全体を突き動かしていきます。「ゴジラが現れたから、国民みんなで力を合わせて倒しましょう」「自国の危機は民間の手で乗り越えましょう」といったものから、台詞では語られずとも「隣近所に赤ちゃんがいたら自分の食べ物を分けて面倒を見てあげましょう」「女性も男性の稼ぎに頼らず社会進出しましょう」「トラウマに傷ついている人には気持ちを推し量ってあげて理解するようにしましょう」といった要素が、大した葛藤や価値観の衝突や屈折を経て昇華されるという過程を経ずに、「はじめから正しい価値観」としてそこに在り続ける。


誤解を恐れずに言えば、この映画が内包しているのは、特にこれといった葛藤や衝突や屈折を経ることなく在り続ける「社会的な正しさのオンパレード」であり、そこに多くの人々が高揚しているという事実に、私はなんだか息苦しさを覚えました。いまにして思えば、私が本作を好意的に受け止められないのは、そうした「息苦しさ」を画面から感じ取ってしまったせいなのだと思います。


とにもかくにも、私が見たかったゴジラ映画とは大きくかけ離れていたことによる失望が、この映画にはあります。


もっと新しいゴジラを見たかった。もっと怪獣のドラマを見たかった。もっと人間のドラマを見たかった。


稚拙なゴジラオタクのしみったれた願いを最後に、本文を締めたいと思います。

※以下の文章は、私の奇特な映画レビュー集『MAD CINEMAX -ムービー・ロード-』を日頃からご覧いただいている方々へ向けた文章です。


ここでは特になんのお知らせも流してなかったから、知らない人もいると思いますが、私こと浦切三語、実は2ヶ月ほど前からyoutubeチャンネルで映画感想の投稿を始めてます。で、このレビュー集を昔からご覧の方々はすでにご存じかと思いますが、ゴジラ好きな私ですから、さっそく感想を動画にして投稿したわけですよ。


で、動画投稿を始めてますといっても、小説の執筆と同じく亀更新なんですよね。加えて、なにも自己承認欲求を満たすためだとか収益化だとかを目指して動画投稿をやってるんではなく、小説執筆の動機とまあまあ同じで、大袈裟なことを言えば「自己表現」のための活動手段のひとつに動画投稿を選択するのもありだなと感じて始めた次第なんですが、いやーまいったね。動画にするとこぼれるこぼれる。言いたいこと、言わなくちゃならなかったこと、そうしたことが全部こぼれる。


基本的に私の動画編集スタイルは自宅録音した音声データを半自動的にテロップ生成してその上にエフェクトやBGMや効果音をかけていくってやり方なわけですが、台本無しの一発収録なので言い忘れとかあるわけですよ。その度に別撮りしなくちゃいけないわけで手間がかかる。文章だったら頭の中で整理してパパッと書けるし、後で思い付いたことを簡単に追記できるけど、Youtubeの動画だとそうもいかない。せいぜいが概要欄にちょびっと文章を追記しておくだけです。


編集にしたってソフトを動かしてやるとなると丸一日以上はかかるわけで、文章執筆と比較すると圧倒的に労力がかかる。そもそも私がここに挙げている映画感想レビュー集は日記の代わりみたいなもので(その割には最近全然書けてませんが……)今もその感覚は変わらない。映画をレビューすることが日記同然なのだとしたら、いまの私は「動画編集ソフトで日記をつけている」なんて(ショート動画ならいざ知らず)バカみたいな労力かけて非効率的なことをやってるわけだ。あはは、なんだか笑えてきたぞ。向いてないんだろうなぁ動画投稿。まぁこれからも月一くらいのゆっくりペースで更新する予定です。


なんで、まだこっちでの更新は(亀更新だとしても)続けるつもりなので、よろしんこ。

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― 新着の感想 ―
[一言] ゴジラ-1.0 アカデミー賞視覚効果賞を受賞しましたよ。
2024/03/11 18:28 なまろつる
[一言] まず、動画での作者様の一部反論を拝見し、良い反応は無いだろうと思った上で書き込みます。 作者様はリアリティと申していますが、自分からするとリアリティではなくリアルを求めたのではないかと感じま…
[一言] 個人的に、『怖いだけ』、『人類の罪の象徴としてだけ』、『破壊の神でしかない』昨今のゴジラ描写は鼻につきます ゴジラは怖く人類の罪の象徴であり破壊の神『以外』になってはいけないと言う定義づけが…
2023/11/29 22:30 タジカラオ
感想一覧
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