表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
101/110

【第92回】クライムズ・オブ・ザ・フューチャー

デビット・クローネンバーグ。


20世紀に「ボディ・ホラー」と後世に呼ばれることになる新ジャンルを開拓し、今なお多くのフォロワーを生み出し続ける稀代の映画作家。実子のブランドン・クローネンバーグをはじめ、この映画レビューのどこかでも紹介した『チタン』の監督、ジュリア・デュクルノーも、はっきりとクローネンバーグ作品の影響があることを公言している。


しかしながら、彼の作品は「ボディ・ホラー」という枠組みの中で論じられることはあっても、実際にいくつかの作品を鑑賞してみると、そこには「ホラー」特有の「怖さ」といったものは皆無である。『ザ・フライ』や『ヴィデオドローム』の、いったいどこが怖いというのか。『戦慄の絆』や『スキャナーズ』のどこがホラーなんだろうか。彼の作品には確かにグロテスクでおぞましいクリーチャーやプロップが多数登場するけれども、それらは観客に「恐怖心」を植え付けるために機能しているのではなく、むしろある種の「痛烈なまでの切実さ」を訴えかけてくる。


その「切実さ」とは言うまでもなく、私たちが生まれながらにして宿している「肉体」そのものへの切実さである。インターネットが発展し、私たちの思考から発せられる様々な感情を含んだ言説がSNS空間を漂っている現在、他ならぬ「私の」そして「あなたの」肉体がそれらの言葉や感情を生み出し、他者との間にコミュニケーションを築き上げていることを意識することは極めて難しい。しかし、忘れてはならない。「私/あなた」がスマホのアイコンをタップする時、キーボードを叩いて文章を生成する時、そこで動いているのは脳と、脳によって形作られた情報を出力するための指や手といったデバイス……そう、つまり「肉体」なのである。


スティーブ・ジョブズがiPhoneの操作説明をプレゼンした際に口にした言葉――「人間には“指”という最高のデバイスが生まれつき備わっている」という台詞が、この映画を端的に表現している。インターネットとSNSの発展、そしてAIの実用化に伴い、肉体の実存性がないがしろにされつつある現代で、クローネンバーグはそれでも「肉体」について語り続けている。私たちがスマホを操作する時に己の「指」の存在をほとんど意識しないままに数インチの画面に映し出される世界に夢中になっている一方で、なおもクローネンバーグは“指”そのものに注視する。なぜならば、彼は知っているからだ。私たちが“指”で――つまり、生まれ持ったこの「肉体」ひとつで、自分を取り巻く「世界」にアクセスしているという当然の事実を。


通勤の時に足を動かし、近場に出来た喫茶店で軽食を口に運び舌で味を確かめ、街を彩るイルミネーションを目で追い、路地裏に撒かれた吐しゃ物の匂いを鼻で嗅ぎ取り、道路を行き交う車の排気音を耳で聴き取る……そのようにして、私たちは「世界」を認識している。言い換えれば、私たちは私たちの肉体を持つ限り、世界との接続を半ば強制的に且つ無意識に行う必要がある。つまりそれは、私たちが「世界」にアクセスする「道具立て」として肉体を行使しているってことだ。そして、肉体が世界に対する重要なアクセスポイントなのだとすれば、仮に何らかの外的な要因で肉体が変容しようものなら、それはすなわち「世界」の捉え方も大きく変わらざるを得ないことを意味している。


結論から言ってしまおう。本作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』は世界にアクセスするための「万民の道具」たる「肉体」を「近未来」という仮想の舞台で語る「サイバーパンク映画」なのである。


サイバーパンク……そう耳にして、アンドロイドやサイボーグ、はたまたフルダイブ型のVR空間や妙ちくりんなサイバー・ジャパン的景観を脳裏に思い浮かべた人たちへ。じつはそれらは、サイバーパンクの骨子でもなんでもない。それらは諸々のサイバーパンク作品に流れる「共通項」に過ぎず、結局のところは様式美のひとつでしかない。もちろん、こうした様式美にキャッキャウフフするのもサイバーパンク作品の楽しみ方のひとつであり、それを否定する気はさらさらない(実際、俺も好きだし)。しかしながら、それら様式美を援用してくるだけでサイバーパンク作品が成立すると考えるのは、ちょっと浅はかなんじゃないだろうか。だってサイバーパンクで語られる話というのは、どれもこれも「技術と世界と人間の肉体」についての話なんだから。


極度に発展した科学技術が身体を疑似的に延長させるようになり、それらが当たり前に存在する世界で、人々の価値観やモラルや文化はどのように変化するのか。そうした変化の末にどのような社会問題が生まれるのか……それらを「語る」ことがサイバーパンクの要諦である。


サイバーパンクの代表的な設定のひとつである「電脳化」というのも、そうした思考実験の末に生み出されたアイテムだ。脳を機械化することで肉体そのものをインターネットにアクセスするための「端末」として扱うようになったとき、そこにどのような社会問題が生まれるのか。そうした社会問題を生み出した世界を前に、人間の肉体はどのようにしてあるべきなのか。それらを語るサイバーパンクというジャンルと、この『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』が語っている内容は、見事なほどに合致している。


『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』には、往年のクローネンバーグ・ファンなら「まーたオカシナことやってるよこのオッサン」と愛嬌たっぷりの苦笑いを浮かべてしまいたくなるほどの、目を引くグログロデザインのプロップが盛りだくさんだ。骨のような材質を繋ぎ合わせて作った食事補助機能を有する“ブレックファスター・チェア”なる怪奇的な椅子にはじまり、“臓物のゆりかご”とでも例えられるべき、天井から垂れさがる大腸じみたロープに支えられた“オーキッド・ベッド”。それに、さながら冷凍睡眠カプセルのような未来的デザインを彷彿とさせながら、その実態は人体を切り裂いて内臓摘出パフォーマンスを円滑に進めるための器材である“サーク解剖モジュール”というように、ここに登場するプロップはどれもこれも、主人公やその他登場人物の「生活を支えるためのツール」として登場している。


つまりは、外部に延長された肉体なのだ。“加速度進化症候群”という特性を宿した人類だからこそ生み出せた技術。その技術に支えられて、主人公のソール・テンサーは『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』の世界を生きている。改造した己の身体内にて代謝機能を持たない“完璧な臓器”を創出する、さながら工場じみた人体をどうにかこうにか制御しながら暮らす毎日。その姿は、どこか息苦しそうに見えてしまう。実際、この映画の見どころのひとつは、呼吸するのも喋るのも飯を食うのも、どの場面においても息切れして苦しそうにしているヴィゴ・モーテンセンの演技にあり、そのことが、彼の演じるソール・テンサーの置かれた立場を観客に強く印象付ける。オーガン・アート・パフォーマンスのために休みなく体内で余剰臓器を育成することは、それだけで身体に多大な負荷をかけるのであろうことは想像に難くない。それでもソールは、臓器摘出のパフォーマンスを辞めようとはしない。なぜなら、それこそがソール・テンサーの選んだ「世界」との向き合い方だからだ。彼は、己の肉体を己の意志で「制御」しているというよりも、むしろ「制圧」することで、世界と向き合おうとしている。


人間という生き物は、常に身の回りの環境を「制圧」することで生活圏を確保してきた。山々を切り開き、木々を切り倒し、海を埋め立てて、生き物を殺す。殺す対象は動物や植物に限らない。そこには名もなき先住民族たちの姿もあった。あるいは、SNSを通じて他者を迫害する行為も「制圧」として見ることができる。


そして1960年代から始まった開発競争に端を発して、人類はいま「宇宙」という未知の開拓領域すらも「制圧」に乗り出しつつある。そして人間が生まれながらに持つ肉体もまた、未知の開拓領域を持つ「宇宙」そのものであると、この映画は伝えてくる。


この映画における人体の描き方は、はっきり言うと「宇宙」の比喩そのものである。実際、臓器登録所の人間がソール・テンサーの腹腔内を内視鏡で観察する際に「ふつくしい……ふつくしい……」と連呼している様なんて、どっからどうみても天体観測をしている学者にしか見えなかった。


人体を宇宙に見立てるなんて、人によっては「なにアホなことを言ってんだ」と思うかもしれない。だが、俺にはこれが極めて説得力のあるものに映った。実際、人体とは宇宙だ。かつて体重が115kgあった俺の体は、二年間のダイエット生活を通じて、いまは83kgまで減少した。単純計算で32kgのぜい肉および少々の筋肉が消失したことになる。数字だけで言えば「そういうこともあるだろう」と思うかもしれない。だが、小学校低学年クラスの体重がごっそり俺の体から消えたという事実に、他ならぬ俺自身が驚いている。それに、俺のダイエット生活は決して順調なものではなかった。有酸素運動をメインにしていると筋肉の低下が自覚できるし、タンパク質中心の生活にシフトしたら尿酸値がやや高くなり、EAAやBCAAなどのアミノ酸を筋トレ前に摂取しても、それが自分の体に本当にプラスに作用しているのか疑わしいものがある。


32kgのダイエットに成功した今だからこそ分かる。肉体とは「ままならない」ものであると。それをコントロールしようといくら努力しようとも、決して肉体は、その肉体所有者の意志を鋭敏に反映したりなどはしない。私たちは生まれたときから「肉体」という名の「宇宙」をその身に宿し、その気まぐれさと一生付き合っていかなければならない。


この映画を「難解」と受け取る人が多いのは、苛烈なビジュアルに鑑賞意識が持っていかれているのもそうだが、なによりそれだけ自身の……つまり個人的な存在価値に基づく「非共同体身体」とも言うべき感覚が、古典的な共同体意識に縛られがちな日本人に、ほとんど根付いていないからじゃないか。ボディメイクに取り組んでいる人なら「私/あなた」の身体を区別することは出来ようが、そうでない人の割合が圧倒的に多いこの国では、この作品は「難解」の一言で済まされる傾向にあるのだろう。だがそれは同時に「私は自分の身体にまるで無頓着です」と恥じ入りもせず宣言してるようなものじゃないだろうか。


SNSが発展し、己の肉体を意識する必要なく、簡単に誰かを傷つけたり、簡単に誰かに傷つけられるような世界に生きる今だからこそ、私たちは身体という「身近な宇宙」に向き合い、彼らの反乱(パンク)を意識的に観察する必要があるんじゃないかと迫るクローネンバーグ。人間が自然や宇宙を支配できないように、人間は「自身の身体」すらも支配することはできない。身体の傍若無人な進化のベクトルを、私たちの意識はただ観測し続けるしかない。そのことを絶望と取るか、それとも希望と取るのか。


自分は、まだ答えが出せない。出せないからこそ、鑑賞し続けなければならない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ