【第91回】岸辺露伴 ルーヴルへ行く
『血のつながりから逃れられる者は、この世にはいないッ!』
我々は、その男を知っている。いや、その奇妙なヘアバンダナと、男が持つ比類なき好奇心の鋭さを知っている。
宮城県S市杜王町に居を構え、十六歳という若さで週刊少年ジャンプ誌上で『ピンクダークの少年』を連載開始。超精密でありながら"時の加速"すらものともしない卓越したGペン捌きと、王道を行きながらも実験的な作風で、いまもなお多くの読者から尊敬の念を集めるその男。
誰よりも傲慢、誰よりも不遜、誰よりも気難しく、誰よりも自信家……そして、誰よりも漫画を心から愛するその男は、これまで数多くの"奇妙な"出来事に遭遇し、その度に己の身に振り掛かる危難を掻い潜ってきた。逆境をはね除ける持ち前の"覚悟"と、不思議な"弓と矢"に射ぬかれてその身に宿った"像"の力で。
道端でジャンケンを挑んでくる不敵な小僧。絶対に背中を見せない建築士の男。街を震撼させる連続殺人鬼。来訪者に災いをもたらす山の神。"禁句"に取り憑かれた同僚。電子機器に潜む新種の昆虫。密漁者を溺死させる神秘の鮑……数々の「謎」と「危機」を突破してきた男は、いま、世界に冠たる「美の殿堂」……ルーヴル美術館へと降り立った。
男は辿る。奇妙な冒険を。
男は巡る。遠い日の"記憶"が見せる"悪夢"を。
その男の名は、岸辺露伴。
職業:漫画家
血液型:B型
"像"の名は……ヘブンズ・ドアー
【導入】
不思議な力を持つ漫画家・岸辺露伴が、日常ではありえない様々な奇妙な出来事に遭遇するサスペンス・ホラー映画。NHKで放送されていたドラマの舞台設定・登場人物をそのまま踏襲した劇場作品です。
原作者は、世紀の天才・荒木飛呂彦。彼こそは、漫画の神がこの荒廃した地上に遣わせた「預言者」にして「救世主」……サスペンスの王道を往きながらも、その実験的な作風が常に読者の心をとらえて離さない「漫画界の究極生命体」だ。高校生の鬱屈した時期に『ジョジョの奇妙な冒険』の洗礼を受けて「人生救われた」経験を持つ私は、以来「荒木飛呂彦原理主義者」として覚醒し、現在に至る。私にとっては、荒木飛呂彦こそが「神」であり「至宝」。この偉大なる天才を前にしては、世間でもてはやされているあらゆる分野のあらゆる創作者たちは、すべて「過去」の存在とならざるを得ない。
『ジョジョの奇妙な冒険』を「絵がニガテ」「スタンド能力が分かりにくい」などといった「なんとなくの印象」だけで食わず嫌いしている人たちは、本当に損していると思う。『ジョジョ』は「少年漫画」などというチャチな枠組みに収まらない。既存の安定した文化的領域に留まり続けることを良しとするような作品ではない。『ジョジョの奇妙な冒険』とは、神話・オカルト・共同体・経済・哲学・社会学・人類学といった、およそ人類が有史以来経験し蓄積してきた「文化的遺産」に敬意を払い理解を示しながら、それらに対して「荒木流」とも言えるユニークで興味深い洞察を発揮し、「ホラー・サスペンス・バトル漫画」というかたちを借りて超一流の娯楽作品に昇華するというトンデモないことを、現在進行形で35年以上も実践し続けている怪物的作品なのだ。こんなに素晴らしい作品に触れずに、他に何に触れるっていうんだろう。荒木先生! 第9部めちゃくちゃ面白いです!(2023.5.27現在)
そして本作『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の原作は、ルーヴル美術館主催のBD(バンド・デシネ/漫画)プロジェクトの第5弾作品として、フルカラーの書きおろし読み切り作品として10年以上も昔に執筆されたもの。それなのに今読んでも面白いのは流石です。巻末の解説によると、この作品を描くにあたり、荒木先生はルーヴル側から「ルーヴル美術館を漫画の題材にしてくれるのであれば、取材費用などの金銭的援助は一切惜しみません」と言われたらしい。すんげェ~。
あ、ちなみに原作未読の人には分からないだろうけど、テレビドラマ版では「不思議な能力」だの「ギフト」だのといった表現で説明されていた岸辺露伴の「ヘブンズ・ドアー」ですけども、このレビューでははっきり「スタンド」と呼称させていただきますからね。制作者サイドの都合とか知りません。荒木先生が「スタンド」と言ったら、それはもう「スタンド」なのですから。神がお決めになられた言葉を俗人が変えて良いはずがないのです。あと、『岸辺露伴は動かない』という作品自体が『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ作品であるので、基本的には「ジョジョで描かれた物語的精神は、“岸辺露伴は動かない”シリーズにも反映されている」という前提で話を進めていきます。というか、事実そうなんでね。
というわけで、皆さんお馴染みの岸辺露伴役には高橋一生。「ジョジョスピンオフ作品の実写化」という話を最初耳にして、過去に経験した苦い思い出が脳裏を過ったジョジョファンは多いと思いますが(三池崇史のアレね)、蓋を開けてみるとちゃんとジョジョ立ち決めてくれるし、なんならサマになってるし、露伴ちゃんの偏屈な部分が見事に表現されているので、良いですね。私かなり好きですよ高橋一生の岸辺露伴は。
そんな岸辺露伴の担当編集者にしてクソムカツク性格をしているウザ女・泉京香役にはテレビドラマ版から引き続きの飯豊まりえ。泉京香の、あのメチャクソ腹立つ自分勝手な性格がテレビドラマ版だとマイルドになっているのは、はっきり言ってこの人のおかげ。ドラマ版を観て原作から入った人は、原作の泉京香の言動にびっくらこいたことでしょう。荒木先生も「泉京香はムカつきながら描いた(キャラクターとしては傑作だけど)」といったご発言を為されているので、作者が描いていてムカつくんだから読者がムカつくのも当然というわけ。
ルーヴル美術館の文化メディエーション部(国と国の美術文化を仲介する仕事)の女性職員の役にはエマ・野口。まぁ普通ですね。ルーヴル美術館で東洋美術の専門家として露伴に接触する辰巳隆之介役には安藤政信。まぁ普通ですね。なにが普通って、演技が。というかキャラクターの立て方が普通なのかなぁ。なんかしっくりこないんだよなぁ~。このお二人が演じるキャラクターは原作漫画には登場しないオリジナルキャラクターではあるんですが、なんというか「ただそこにいるだけ」というか。もちろん台詞もあるし「黒い絵」の持つパワーに振り回されたりはするんですが……なんだろう……生きた人間が演技しているのに、紙の上に描かれた原作のキャラクターより真に迫ってくるものがないというか、のっぺりした演技の印象しかなかったです。
で、本作は岸辺露伴の「十代の頃の初恋」が描かれます。当時の露伴は17歳。お相手の女性は21歳。年上!美女!「岸辺露伴テメェ!初恋は鈴美おねぇちゃんじゃないのかよ!?どういうことなの!?荒木先生ェ~~~!」と原作を読んだ当時は思ったものですが、いま読み返してみると「あの偏屈家で傲慢で人を人とも思わない岸辺露伴にも、こんな青春時代があったのね……」と、ちょっぴりおセンチになります。コーイチ君に愛想つかされるような性格してるコイツにも、夢に向かって一直線な純朴な少年だった時代があったんだなぁ。
というわけで、そんな十代露伴の胸をドギマギさせた謎多き女性・奈々瀬役には木村文乃。ちなみに映画では「奈々瀬」としか役名が振られておらず、原作にあった苗字「藤村」はバッサリカットされてます。その理由については小林靖子がパンフレットの中で説明しているんですが、はっきり言って生粋のジョジョファンからしてみれば「クソしょーもない理由」です。というか、この改変が原作ひいては荒木飛呂彦の「ホラー・サスペンスの哲学」を間接的にないがしろにしている可能性があると思うんですが、どうでしょうか。
なお、十代の頃の岸辺露伴の役には「なにわ男子」の長尾謙杜。演技下手なのでどうしようもないです。ちなみに原作通り、この頃の岸辺露伴は映画においても17歳という設定ですが「すでに漫画家としてデビューしている」という改変が為されています。これは本家本元の『ジョジョ』で初掲載された岸辺露伴の年表との整合性を取るためでしょう。あっちだと16歳で漫画家としてデビューってなってるのに、なぜか『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』では17歳なのに漫画家デビュー「してない」という矛盾が発生しています。だからと言って荒木先生に向かって「設定ミスしてますよ」なんて口にしてはいけません。はっきり言って、これは「パラレルワールド」なんです。なんならいま現在第9部にも岸辺露伴出てますけど、あっちも「パラレルワールドの岸辺露伴」だと俺は思ってるからね。それに、もし荒木先生が「パラレルワールド」のつもりで描いたのでなくガチで間違えてしまったとしても、だから何だと言うのでしょう。神様だって間違えることはあるのです。この中で今まで一度も間違いを犯したことのない人だけが、彼に石を投げなさい。投げた奴は私がぶっ〇します。
監督はテレビシリーズに引き続き渡辺一貴。脚本を担当しているのはテレビシリーズに引き続きの小林靖子です。
【あらすじ】
宮城県S市杜王町に居を構える売れっ子漫画家・岸辺露伴。長期連載漫画『ピンクダークの少年』で人気を博す彼には、誰も知らないある秘密があった。
スタンド「ヘブンズ・ドアー」――能力は「他人の体を本のようにして、生い立ちや経歴といった“その人の記憶”を読む」というもの。面白い漫画を描くうえで「リアリティ」を何よりも大事にしている彼にとって、この能力は無くてはならない力であり、そして、彼に降りかかる奇怪な災難を幾度も切り抜けるための「武器」でもあった。
ある日、彼は新作漫画の構想を練っていた際に、自らの過去をふと回想する。それは、まだ彼が漫画家としてデビューしたばかりの十七歳の頃。新作漫画の執筆に集中するために、自身の祖母が営んでいた旅館を改装した賃貸アパートに泊まり込んでいた、とある夏の日。彼は「奈々瀬」という名前の、物憂げな年上の美人と知り合う。自分が漫画家であることを話した露伴に、奈々瀬は奇妙な話を語ってみせる。
『ねぇ、この世で“最も黒い絵”って知ってる?」
奈々瀬が語るに、この世のどこかに、それはあるという。この世で“最も黒い絵”……それは、言い方を変えるなら「最も邪悪な絵」なんだとか。その絵を描いた人物の名は、山村仁左衛門。江戸時代に生きていた画家である。彼は、いまから300年も昔に、どんな黒よりも輝くような「極上の黒い顔料」を、彼しか知らない種類の大木から発見して、それで絵を描いたのだという。
奈々瀬の放つ不思議な魅力に、若かりし頃の露伴は惹かれていく。だが、少年露伴の淡い想いは、思いもよらないかたちで幕を閉じる。彼女に新作漫画の原稿を見せる露伴。そこに、自分をモデルにした女性キャラクターが描かれていることを知った奈々瀬は、激しく激昂する。
『あなた、あたしの事ストーリーに描いたの? 何やってるの? 重くてくだらな過ぎるわッ! すごくくだらなすぎて安っぽい行為ッ!!』
困惑する露伴を前に、彼の原稿をハサミでぐちゃぐちゃに裁断する奈々瀬。彼女はそのまま、アパートを出ていった。二度と、彼女が杜王町に戻ることはなかった。そうして、露伴の十七歳の夏は終わりを告げた。
そして、十年後の現在、露伴は新作の資料集めのために、担当編集者の泉京香を伴って、地元で開催されるオークション会場へと足を運ぶ。高値で落札されていく数々の美術品のなかに、偏屈家な露伴の目を釘付けにするものがあった。「モリス・ルグラン」という名の無名のフランス画家が描いたその絵は、かつて奈々瀬から耳にした「黒い絵」そのものだった。
大金をはたいてそれを落札した露伴。だが、よくよく観察してみると、それは奈々瀬から聞いた「黒い絵」とは似ても似つかぬ代物だった。落胆する露伴だが、絵を奪おうと自宅を襲撃してきた強盗たちとのやり取りの中で、モリス・ルグランがルーヴル美術館に所蔵されている“黒い絵”を見て、この作品を描いたことを知る。
好奇心か、それとも青春の慕情がそうさせるのか。取材調査という名目で泉編集者を伴い、岸辺露伴は世界中の美が集まる「美の殿堂」――フランス・パリのルーヴル美術館へと足を運ぶ。
果たして“黒い絵”に隠された秘密とは何か。モリスはなぜ“黒い絵”の贋作を作成したのか。
いま、岸辺露伴の「奇妙な冒険」が、始まろうとしていた……
【レビュー】
「なぁ…知ってたか?プッチ。パリのルーヴル美術館の平均入場者数は1日で4万人だそうだ。この間、マイケル・ジャクソンのライブをTVで観たが、あれは毎日じゃあない。ルーヴルは何十年にもわたって毎日だ…。開館は1793年。毎日4万人もの人間がモナリザとミロのビーナスに引きつけられ、この2つは必ず観て帰っていくというわけだ。スゴイと思わないか?」
「スゴイというのは数字の話か?」
「そうではない…すぐれた画家や彫刻家は自分の『魂』を目に見える形にできるという所だな。まるで時空を越えた『スタンド』だ…」
「興味深い話だな…レオナルド・ダ・ヴィンチがスタンド使いかい?」
――『ジョジョの奇妙な冒険 第六部 ストーンオーシャン』より抜粋
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さて、これまで数々の奇妙な事件に遭遇してきた稀代の偏屈天才漫画家・岸辺露伴ですが、今回彼が遭遇する「奇妙な」出来事というのは、山村仁左衛門という江戸時代の画家が描いたと言われている「この世で最も黒い、邪悪な絵」でございます。物語は、この「黒い絵」が所蔵されているフランス・パリが世界に誇る「美の殿堂」ルーヴル美術館と、若かりし頃の露伴に「黒い絵」の存在を教えた謎めいた女性・奈々瀬、山村仁左衛門と同様に「黒い絵」を描いたモリス・ルグランという無名の画家、この3つの要素を軸にストーリーは展開していきます。
各要素同士を繋ぎ止めるのは、この物語のキーファクターである「黒い絵」……もう早速口にしてしまいますが、この「黒い絵」が持つ「謎めいたパワー」というのは、分かりやすくいってしまえば「超能力」であり、ジョジョで言うところの「スタンド」なのです。人間の精神力が像を結ぶ形で具現化した存在を「幽波紋」と定義している『ジョジョ』ではありますが、たとえば第三部のアヌビス神や第八部のオータム・リーブスなど、「モノ」や「現象」にもスタンドは宿る例はあります。本作に登場する「黒い絵」も、まさにそういった「見た人間の心を狂わせる超能力」を持つ「敵」として設定されています。
ですが、いきなりこんな設定をお客さんに披露したところで「はぁ?」となる人が大半なのは目に見えています。既にジョジョという作品にどっぷり肩まで浸かっているファンたちですら、毎月毎月飛び出してくる荒木先生の「トンデモ」な設定の数々に興奮すると同時に「なんだそれ?」と首を傾げることは多く、ましてや『岸辺露伴は動かない』から荒木先生の世界に入ってきた人たちに向かって「この“黒い絵”ってのは“恨みのパワー”が込められていて~見た人の心をうんたらかんたらする力があって~」といきなり説明しても「なんじゃそれ。わけわかんないよ」となるのがオチです。
では、こういった突拍子もない設定を読者に「信じて」もらうためには何が必要なのか。荒木先生は一貫してこう答えています。「リアリティ」を大事にしなければならないと。「超パワーを秘めた黒い絵」というフィクショナルマシマシな存在を読者に納得してもらうためには、その周辺の様子……人物、街、習慣、伝統、文化、移動手段、服飾、仕草、景色……そういったものをリアリティたっぷりに細かく細かく描写することが大事であると。それが「強力なフィクションを効果的に発動させる」ための基礎・土台として何よりも重要なのだということを、荒木先生は自著「荒木飛呂彦の漫画術」の中でも、そして『ジョジョの奇妙な冒険 第四部 ダイヤモンドは砕けない』で岸辺露伴の口を借りて何度も何度もそう言わせています。
この作品で言うなら、ルーヴル美術館に「黒い絵」が所蔵されているというその事実をただ単に「事実」として語るのではなく、ルーヴル美術館の「構造」を理解した上で、「どこに、どんなかたちで、どういった理由で“黒い絵”が収められているか」を描写することが、リアリティの獲得に繋がります。ルーヴル美術館という「実在」する建物の中に「黒い絵」という「非実在」な絵があることを説得力を持って語るには、ルーヴル美術館の「歴史」や「構造」を読者に知ってもらわねばなりませんし、そこには一片の嘘も許されず、だからこそ綿密な取材調査が必要になるわけです。荒木先生が、本作を執筆するにあたり、どれだけ「ルーヴル美術館のリアリティ」を大事にしていたかは、原作漫画(愛蔵版)の写真付き巻末解説を読めば一目瞭然です。
そしてこの「リアリティ」を巡る言説は、漫画の話だけに通じるものではありません。小説にも当てはまる話だし、およそすべての劇映画にも通じる話でしょう。ただ漫然と役者に演技させたり、ただ何となく「ルーヴル美術館なんだから、どこをどう撮っても絵になるだろう」といった、取捨選択をおざなりにしたような撮影の仕方では、実写映像のリアリティは獲得できません。そして実写映像のリアリティを獲得できないということは、非実写的映像のリアリティだって獲得できないのです。
この映画を支配する画面の構図。私は正直言うと、ずーっと首を傾げてました。物語は主に、露伴の青年時代の回想シーンである日本と、露伴と黒い絵が対峙するルーヴル美術館の2か所を舞台にしていますが、特に日本のシーンですね……これがね……なんというか、荒木飛呂彦原理主義者の目線からすると「あぁ、なにもわかってないな」と溜息を乱発したくなるような出来栄えなんです。あまりにも構図を優先しすぎなんです。そこはテレビドラマ版と全く変わってない。空間の奥行や照明が効果的に映るシーンを選択し、めちゃくちゃ絵作りに拘っているのは分かるんです。長回し気味のロングショットに、カメラポジションをややローポジ寄りにすることで日本家屋の奥行を演出しようというのは、同じく日本家屋を舞台にしたサスペンス『成れの果て』で撮影監督を務めた山本周平らしくはありますが、その方向性は監督がはっきりと「影響を受けた」と公言しているベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』のパクリ……というより「パクろうとしてるけどパクリにすらなってない」、ライティングの甘い陰影の演出の数々。この演出、荒木先生の世界観を掲示する上では不適切というか、ベクトルが間違ってんじゃないのかと思うんです。スタイリッシュさに演出が傾きすぎていて、サスペンス感がほとんど感じない構図になっていて、せっかくの原作の良さが活かされていません。
また、原作における日本家屋のシーンは、じつは「ただのサスペンス」ではないのです。ここは言ってしまえば、つげ義春の『義男の青春』のワンシーンを彷彿とさせるものであり、誤解を恐れずに言えば、ハッキリ言って「フランス書院」なんですよね。ルーヴル舞台にしてるからフランス書院、なんて、そんな激寒おやじギャグをかますつもりは毛頭ありませんけどね、だってそうでしょ。原作を読んでみてください。女性の汗に濡れた首元に見とれる「女を知らない」少年、浴衣姿の色っぽい女性(しかも原作では人妻)、脱衣所で着替えているところを偶然に目撃するラッキースケベなシーン、個室に招かれて足を踏み入れてみると、壁には無造作にかけられた女物のワンピース……どっからどーみても「フランス書院」、それも「誘惑系」と呼ばれる文脈なんですよこれは!これまで200冊近くフランス書院読み込んできた俺が言うんだから間違いありません。
まぁ要するに「エロティック・サスペンス」のノリなんですね。世間はどうもエロティック・サスペンスなるジャンルを下に見る傾向があると個人的には思っていて、たとえば写真週刊誌なんかはたまーに「映画の“ヌケる”濡れ場特集」なるものをやっていて、だいたいそこには『キリングミー・ソフトリー』やら『ストレンジャー』やらの往年のエロティック・サスペンスが名を連ねるものです(余談ですが、以前どこかの週刊誌が、この手のカテゴリに『アンチクライスト』を加えていました。うん、絶対違うと思うw)
ですが、荒木先生は「エロティック・サスペンス」を軽く見ません。というかめっちゃ詳しいしめっちゃ研究してるしで、やはり荒木先生がエロティック・サスペンスの文法を使うと何気ないシーンも面白くなってしまうんです。これから何かムフフな展開が起こるんじゃないかと予想していると、いきなり女性(奈々瀬)が「ねぇ、この世で“最も黒い絵”って知ってる?」と、唐突に場の雰囲気を無視したぶっ飛び発言をかましてくるので、シーンに緩急がつき、一気にサスペンスのワクワク感が高まるという、非常に計算された作りに原作はなっているのです。
本作『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』において、そういったお客さんの「興味の持続」を得るための演出上の緩急がつけられているかというと、無い。というより弱い。そうなんです。エロティック要素、皆無で~す!ラッキースケベももちろんカット。十代の初々しい少年が経験を積んだ人妻に恋慕してしまうような描写も、あるにはあるけど、長尾謙杜の演技が下手で全然伝わってこねぇんだよな。最初から最後までのっぺりとしたシリアスな調子を崩さないまま「黒い絵」についての話が交わされるだけで、代わりに、監督の自己満足的ともいえる、空間の奥行やライティングに拘ったシーンだけは連続していく。これのどこに「サスペンス」を感じろというのでしょう。お客さんの興味を持続させるための手段のひとつとして「エロティック・サスペンス」を採用していた原作と比べて、あまりにもお粗末というか「原作に良い意味で引っ張られないようにしよう」と意識しすぎたあまり、物語の起伏が平坦としてしまっているんです。少年時代の露伴と奈々瀬が初めて出会ったシーンから別れのシーンに至るまで、ずっと同じシリアスなトーンが続くので、どれだけ空間を立体的に味わい深く見せようとも、その絵が効果的に生きてくるタイミングというものがないんですな。
そして平坦な印象は画面だけではなく、役者の演技にも当てはまります。木村文乃さん……なんでこんな演技をしたんだろうか。最初から最後まで「謎めいた女性」という役割に囚われ過ぎたせいなのか、台詞の抑揚が一本調子で表情も乏しい。「常に物憂げな表情をしている薄幸の美人」という設定?を忠実に守り過ぎているために演技に抑揚がなく、原作よりも魅力がだいぶ半減してしまっています。これは原作との解釈違いというより、本当にただ単に演技の方向性が間違っているようにしか思えません。あの原作を読んで、どうしてこういう「女性キャラ」になってしまうんだろうか。露伴の原稿をハサミでメッタ刺しにするシーンも、動きがのっそりしていて全然迫力がない。彼女が本当に「命懸け」で「黒い絵」の呪いを解こうとしても、それができない「もどかしさ」や、露伴を「黒い絵」にまつわる“因縁”へ必然的に巻き込んでしまうことを予感した「絶望」というのが、画面から全く伝わってこない。加えて、原作にはなかった「露伴に微笑みを投げかけて別れていった下り」についても、意味が分からない。キャラクターの心理線を追うための「仕草」を、なぜ不必要に変えてしまうんでしょう。別に変えてもいいですけど、それが許されるのはキャラクターの心理描写の解像度が上がるようなかたちでの変更に限定される話であり、単に間を持たせるため「だけ」に思わせぶりな態度を取らせるなんて、本当に荒木先生の作品を侮辱しているようにしか思えないわけです。まったくキャラクター造形にリアリティが無いので、どういうことなんだと声を大にして言いたい。
総じて演出の引き出しが少なすぎるのが、この映画を「見てくれは豪華だけど、中身は貧相」にしている最たる原因です。さっきも言ったように「あ~なんかこれ“暗殺の森”を頑張って意識してんのかな~」という画面はあるにはあるが、ヴィットリオ・ストラーロには遠く及ばず、中途半端な演出という印象しかないし、構図に拘る以外にどういう引き出しがあるかというと、なんもない。だからなのか画面全体が間延びして見える(この“演出の引き出しが少なくて画面が間延びして見える”という部分については、すでにテレビドラマ版の「ジャンケン小僧の回」で、その予兆はあったと明記しておきたい)。
ですが、これって本当におかしな話ですよ。わざわざ「モリス・ルグラン」とかいう原作にはないオリジナルキャラクターの話を絡めて肉付けしているんですよ? なのにテンポが遅くて間延びする。なんでかっつったら、繰り返しになるけど演出が下手くそだから! この映画には全体を象徴するモチーフとして「蜘蛛」が出てくるんですけど「あ~なんか間が持たなくなってきたな~」となったら、すーぐ蜘蛛が草木を這ったり花を這ったりする映像を挟んでくる。冗談抜きで、この繰り返しです。「反復の技法」だと言われればそのように見えなくもないかもしれませんが、にしたって多すぎだし演出の意図が不明だし、やっぱり「間が持たないからどうにかして繋ごう」としているようにしか見えない。ちなみに、どうして蜘蛛がモチーフとして挿入されるかというと、黒い絵の顔料には樹齢2000年を誇る老木の樹液が使われていて、その樹液には暗闇を寝床にする蜘蛛のような「どす黒い生物」が棲んでいるからなんですな(これも余談ですが「画家の使ってる顔料が謎」という設定は、フランスの日本人洋画家、レオナール・フジタの乳白色顔料の成分が分析不明という当時の逸話が、元ネタのひとつになってるんじゃあないかと個人的に考えてる)。
蜘蛛のような「どす黒い生物」が顔料に含まれている。だから蜘蛛をモチーフとして挿入しようという……一見、筋が通っているようにみえて、かなり安直な演出と言わざるを得ない。つーか、俺はもっとSFXとかVFXとか駆使して、ちゃんと蜘蛛のような「どす黒い生物」を描写してくれるものだと思っていたのに、なんでそれをやらないのか。俺が『岸辺露伴シリーズ』の個人的ベストエピソードだと思っている『月曜日 天気-雨』で、荒木先生が物語のトリックに何を利用したか。『バオー来訪者』で、バオーがメルテッディン・パルム・フェノメノンの溶解液を手の平から放出する原理を、なぜあんなにも細かく描写したか。『ジョジョの奇妙な冒険 第八部 ジョジョリオン』で、荒木先生は、なぜあんなに何ページもかけて岩人間の生態を細かく描写したのか。それらはすべて、ひとえに「リアリティ」獲得のためなんですよ! この地球上には存在しない「異世界の生物・文化」を読者に「信じて」もらうための、荒木先生渾身の血と汗と努力の結晶! その努力の結晶を映像化することなく、ただ「蜘蛛みたいな生物なら、モチーフに蜘蛛を出せばいいや~」なんて、「お前のスタンドが一番なまっちょろいぞ!」とジョセフに啖呵を切ったDIOでなくても「なんてなまっちょろい精神で映画を作っているんだろう」と辟易します。なに? 予算の問題? 知らねーよそんなの! だったらポケットマネーぶっこんでもいいからやれよ!『映画を作る』ってそういうことだろ? これはもうマジでムカドタマ!
こういった「リアリティの欠如」が中盤以降のルーヴル美術館を舞台にしたバトルにも影響を与えていると思います。原作漫画には露伴やルーヴルの職員たちが「黒い絵」のもたらす怪奇現象に振り回され、文字通り血反吐を吐きながら彼岸を渡っていってしまったり、群がる死者の行列を振りほどこうとパニック状態になりながらも、どうにか自力で危機的状況から脱しようとする露伴の苦闘がサスペンスフルに展開されていきますが、やはりこれも予算の問題なんでしょうかね……全然迫力が足らないんですよね。で、迫力が足らない代わりに何があるかというと、やっぱり拘りに拘った(であろう)構図の数々なわけです。職員たちが「黒い絵」のもたらす「厄災」に犯されているところを、ぐーっとカメラが引いて、露伴の立ち姿と同アングル内に収まるように撮影するという、どこか前衛舞台チックというか『暗殺の森』で見たようなシーンなんですが、確かに見ていてカッコよくはある。カッコよくはあるし静謐さもある。だけど、そこにはサスペンスがない。ホラーがない。「黒い絵」の持つ悍ましさや恨みの念の深さといったものが、何もない。ここは完全に原作に負けています。
しかし、そういう部分以上に、私がこのルーヴル美術館の地下シーンで一番腹が立ったのは「荒木飛呂彦の哲学」の最も代表的な部分である「主人公のピンチは、主人公自身の機転で切り抜けなければならない」というルールを完全に破っているところです。
主人公が苦闘の末に自力で危機を突破する鍵を見つけるのではなく、なにか「超常の存在」に「危機を突破するための答え」を丸々掲示されて、それを実践したらピンチを切り抜けられた、というね……いや、原作は漫画で映画とは違いますからって言うんでしょうが、これって「物語の筋」の部分に関係する話であって「表現技法」の話ではないので、媒体の違いは関係ないんですよね。たしかに、原作通りの危機の突破だと、映像化した際にどこか違和感が出るとは思いますが、でも、私はむしろその「違和感」こそがジョジョ最大の魅力だと思っているんですよね。
どういうことかというと、ジョジョって一言でいえば「とっつきにくい作品」じゃないですか。『ドラゴンボール』や『鬼滅の刃』みたいに、誰からも愛されるタイプの漫画ではない。どうも噛み砕くのに時間がかかりそうだぞという「取っつきにくさ」がある。漫画の映像化に代表されるメディアミックスには、そうした「取っつきにくさ」を脱臭してマイルドにすることで、より多くの顧客に向けて商品を届けようという機能がある。そう考えるなら『岸辺露伴は動かない』の映像化は大成功といっても良い。だけれども、その代償として、どうしても抜け落ちた部分があるんじゃないかと俺は思う。抜け落ちてしまったもの。原作にあった「取っつきにくさ」「突拍子のなさ」といったもの。それこそは、この『岸辺露伴は動かない』ひいては、荒木先生の作品一連に通じる「核」のようなモノではないのかと思う訳だ。テレビドラマシリーズの延長にある本作は全体的に、こうした「取っつきにくさ」を徹底して脱臭していて、原作漫画特有のライブ感やサスペンス性を優先するのではなく、物語が破綻しないよう、整合性が取れるような配慮があちこちに為されている。
整合性を取る。それって要するに「謎の根源を詳らかにする」ことを意味する。原作漫画は「ホラー・サスペンス」の傑作だが、本作が「サスペンス映画」ではなく「ミステリー映画」として製作されたのはそのためだ。
これは多分、多くの人が勘違いしていると思うけど『岸辺露伴は動かないシリーズ』は「ミステリー漫画」ではなく「サスペンス漫画」であり、そこでは「露伴は自らに降りかかる災難を“突破”するだけで、災難の“根源”“原因”を明らかにはしない」という一貫性がある。だいたいどの事件においても、以下のような流れで物語は展開される。
①露伴は自ら厄介事に首を突っ込む→②露伴が災難に巻き込まれる→③露伴は襲い掛かる危機を突破する→④「あれはなんだったんだろう。もしかして〇〇だったのかな。ま、ぼくには関係のない話だが……」で、おしまい。
だいたいほとんど、全部がこの流れで構成されている。
そう、事件は何も解決していない。露伴は探偵ではない。彼は事件を解決するのではなく、事件を「制圧」するのだ。事件を「解決」してしまったら、それはサスペンスではなくミステリーとなる。荒木先生は幼少期の頃にシャーロック・ホームズ・シリーズに影響を受けており『魔少年ビーティ―』なんかはその影響元を感じさせる最たる例だが、本作はそういった部分に敬意を表している、というのとは別の理由から「ミステリー映画の体裁」を取っている。
ひとえに「分かりやすさ」の為である。分かりやすさを優先するために「ミステリー映画の体裁」を取らざるを得なかった。なぜ原作にあった「藤倉奈々瀬」の名前から苗字を削って「奈々瀬」としたのか。なぜ彼女の離婚話をカットしたのか。なぜ原作にはないモリス・ルグランの話を挿入してきたのか。なぜ山村仁左衛門が「黒い絵」を描くに至った経緯を回想シーンでたっぷり流すのか。なぜ露伴の祖母が営んでいた宿屋に「黒い絵」があった設定にしたのか。なぜ露伴と山村仁左衛門を同じ役者に演じさせたのか……それらはひとえに、物語の整合性を取り、物語を「分かりやすく」観客に伝えるためだ。脚本家の仕事とはそういうものなんだよ、シリーズ構成というのは物語の整理整頓をすることなんだよと言われたら、こちらは「ああ、そうですか」としか言えないが、でもそうした「分かりやすさ」を優先しすぎた結果、原作から失われたものは確実にあると言っておこう。
それは、やはり繰り返しになるけど、この作品がそもそも持っていた「取っつきにくさ」であり、そして、荒木先生が「この世で最も恐ろしいもの」と考える「先祖からの因縁」という言葉が放つ「恐怖感」である。なぜ「先祖からの因縁」が最も恐ろしいのかといえば、それは一見、自分とはまるで関係のないところからやってくる「攻撃」のように思えるからだ。
どれだけ品行方正な、それこそ聖人のような人生を歩んでいようとも、過去に先祖がやらかした罪が時代を超えて自らの身に降りかかってくる……その恐怖、その理不尽というのは、当人の行動がもたらす因果関係の埒外にある恐怖であり理不尽なのだ。ただ「血統」という「目には見えない繋がり」があるだけで、もしそんな目に自分が遭ったとしたら? でも、それを恨んでも仕方がない。「血統」の末端に自分が在るからこそ、自分はいまこうして生きているのなら、「血統」のもたらす因縁や、そこから這い出てくる「過去の怨念」は、自分の手で振り払わなければならない。それはもう「理屈」で語れる恐怖ではない。理性で「分かりやすく」語られるような、そんな「取り扱いのしやすい」ものではないはずだ。
血統……目に見えない「血の繋がり」……目に見えない“力の流れ”……それがもたらす恐怖を語るうえで、こんなに分かりやすい映像と、こんなに分かりやすい筋書きと、こんなに分かりやすい悲劇性とを加味してしまって、本当に良かったのか。
いまにして思えば、大真面目にジョジョ立ちを決めて、大真面目にスペインでロケしておいて「杜王町」ですと思いっきり言い放った三池版の『ジョジョ』の方が、映画としては不出来であっても、その精神的位置はずっと荒木飛呂彦に寄り添っていたなぁ……と、思う訳! 以上!