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07

 新しい日々が始まった。

 人間が勝手に作り、あるいは区切った時間というものの中で生きていると、そのように感じられることがある。私にとっての新しい日々というのは、新しく出会った人々と過ごす日々だった。そのような新鮮な空気を吸っていると、過ぎ去った日々や人々が色褪せていくのではないかという不安がよぎったが、それらは私の中に深く刻み込まれていて風化することはなかったし、私が生きているのは今なのだから、そのようなことを考える必要はなかった。

 考える必要はなかった!

 ……私はそのように自分に言い聞かせなければ、どうも平衡感覚が保てないように感じられた。このどこにあるとも知れない病院の中の一室で、名前も出自も知らない女性が横たわっている隣の決して座り心地の良くない椅子に座って、遠い異国の政治家の名文を読んでいると、私にはそう感じられた。私は一体何をしているのだろう?

 この病院から脱出するという希望も今は閉ざされて、60番の死を過去に押しやって、よく飼い慣らされた家畜のように日々を過ごしている。いや、家畜と言うのもおこがましい。今の私には何の生産性もないのだから。

 しかし、絶望はしていなかった。希望は見えなくなってしまったが、私は決してそれを捨てることも放棄することもしない。いつかきっと、この病院から抜け出せる日が来るだろう。私はその日まで、希望という目には見えない観念を胸に抱き続けるのだ。

 私はそこまで考えたところで本を閉じた。昼食の時間だ。私は立ち上がり、彼女の様子に変化がないのを見届けてから外に出た。私がこの部屋で読書を始めてから三日になる。その間、彼女には何の変化もみられなかった。






 昼食を済ませた私は図書室に向かった。この三日間で読書のペースは随分と上がった。それは多分、彼女のおかげだろう。空漠とした時間の中で読書をしているよりも、何かを待ちながら読書をしている方がずっと楽しく感じられるのだ。待っているものとは、もちろん彼女の目覚めのことだ。待ち人は未だ現れそうになかったが。

 無数の本を前にして私がどれを借りようかと迷っていると、そっと肩を叩く感触があった。いつだったか、私に裏庭の存在を教えてくれたあのボイラー整備士だった。


「久しぶりだね。元気そうじゃないか」


 彼は声を抑えながらも明るい声音でそう言った。私の姿を見つけて本当に喜んでいる様子が伝わってきて、私にもその歓喜が伝染した。


「おかげさまで」

「いいや、俺は何もしてないさ。ところであんた、イーグルスが好きだったね。昨日の試合は残念だったな」

「負けましたか」

「今回も引き分けさ。イーグルスとエクスペリメンツ……じゃなくてエクスペリエンス、この二チームの試合はいつも決着がつかないんだよ。イーグルスも良いところまでいったんだがね」


 話が盛り上がりそうになったので他の迷惑にならないように外へ出ようと私が言うと、彼は頷いて裏庭へ行こうと言った。迷った末に私もまた頷いた。

 裏庭へ行くのは、60番が亡くなる前日以来だった。そのことや、あの鉄条網を見て絶望したこと、それらを思い出すと裏庭にはあまり良い思い出がなかった。それでも裏庭へ出てしまうと外の気持ち良い空気が吸えて心が穏やかになるのが分かった。階段を上った先の広場には今日も人影がなかった。この病院にいる何百人もの人々は、一体どうやって時間を潰しているのだろう?

 先にベンチへ座った私に、ボイラー整備士の彼は煙草を吸っても良いかと尋ねてきた。私が頷くと、彼は煙草を咥えた。ちょうど北からの海風が強く、なかなか煙草に火が付かなかったが、彼は自分の手で覆いを作った。火が付くまでの間がもどかしく、それでいて私は手を貸すことをしなかったし、少し時間が経ってから初めて手伝えば良かったのだと思い至った。そのおかげで、私は元々喫煙者ではなかったのだろうと推測することができた。

 私は喫煙者ではなかった。ただそれだけの些細なことが私の心に快いものをもたらした。彼は目が利くのか、私の表情の些細な変化にすぐ気付いた。


「どうした、何か良いことがあったかね」

「昔のことを、少し思い出したんです」


 それだけで私の言いたいことが全て伝わったわけではないのだろうが、彼はそうかい、とだけ呟いて煙草を美味しそうに吸った。

 静かな時間が流れる。波の音や吹き付ける風の音がするし、元々病院の中も静かな場所だったのだが、あそこでは心を落ち着かせてそんなことを感じることがなかった。私の身体はまだあの環境に馴染んでいないのかもしれない。

 ふと、私は60番のことを彼に話してみたくなった。彼なら、60番のことを話しても良いかもしれない。

 ちょうど彼が携帯用の灰皿に吸い殻を入れ、ベンチに座ったところだった。私は軽い世間話をするくらいの気持ちで少しずつ語り始めた。


「僕はこんなところで死にたくないんです」


 私がその言葉を吐いたのは、それから十分後のことだった。心の底から叫んだはずの声が、口にするときには小さな呟きになっていた。

 私は怖かった。60番のように死ぬことが。こんなところで死を選ぶくらいなら、鉄条網にずたずたにされて海に落ちていきたかった。見えない抑圧のようなものを受けながら、じわりじわりと死んでいくくらいなら。

 彼はたまに相槌を打ちながら私の言葉を聞いていたようだが、最後の言葉に対する反応はなかった。私はたちまち後悔した。いや、正確には後悔しかけた。そのどん底に落ちていこうとする私を、彼の言葉が掬ってくれた。


「人間、誰もが死ぬのは怖いさ。だから、必死でもがくように生きていくのさ。だが、自分がどこでどうやって死ぬかを選べるのは幸せなことかもしれない。その60番という男が本当に自分で自分の死に場所を選んだのなら、それを否定することは誰にもできないな」


 彼の言葉に、私は頷いた。その言葉を丸々理解したつもりもなければ、完全に納得したわけでもなかったが、私は頷いた。そうすることで前に進める気がしたからだ。

 次いで、私は勢い込んで123号室の彼女のことも話そうかと思った。だが、何故か躊躇してしまった。それを口にすることが恐ろしいように思えてならなかったのだ。私と院長を含めた限られた人間しか彼女の存在を知らなかったため、その秘事を簡単に漏らして良いのか分からなかったせいだ。ところがそれは半分は後付の理由で、彼と別れて123号室に戻ったとき、本当の理由に気が付いた。


「どうした?」


 だが、このときの私はそれには気付かず、少し話をぼやかしたり込み入らせたりして、それとなく新しく出会った人物の存在を打ち明けた。友人であった60番と違って、彼女のことを何と言えば良いのか分からなかったので、私はある人物とだけ言った。彼が二本目の煙草を吸い始め、先端が北風に飛ばされていくのを見ながら話した。彼は私の様子から何かしらの事情があることを悟ったらしいが、嫌な顔をせずにその話を聞いてくれた。


「どうも、まるで恋でもしてるみたいだね」

「どうしてですか」

「勘だよ」


 私の口から出てくる情報が一方的過ぎたから、それをからかったらしい。私も特殊な状況であることは認めたが、しかし、恋をしているのとは違うと断言した。彼はそれ以上は何も言わなかった。

 静かな時間だ。

 再びそう思った次の瞬間、彼が吸いかけの煙草を灰皿の中に押し込んだ。何事かと思ったら、前にここで出会った少年、この病院から出たことがないというあの少年が階段を上ってきたのだ。


「さて、休憩はおしまいだ。じゃ、次はイーグルスが勝てることを祈ってるよ」


 彼はそう言って立ち上がり、少年とのすれ違いざまにハイタッチして去って行った。


「あのおじさん、機嫌が良いみたい」


 少年はそう言ってさっきまでボイラー整備士が座っていたのと同じところに腰かけた。私は少年から見れば誰もがおじさんであるということにどこか安堵した。


「しばらく見なかったね」

「私も同じことを言おうと思ってたんだ」


 私たちは同じような仕草で笑った。彼のような若い少年と一緒にいると、どこか自分も若やいだ気持ちになるようだった。

 少年は何かを思い出したといったような顔をして、上着のポケットからある物を取り出した。それは、携帯が出来るくらいの小さなラジオだった。


「もう使わないからって、他の人から貰ったんだ。おじさんがラジオを聞きたいかもしれないと思って、使わずに持っておいたんだ」

「でも、君は使わないのかい」

「僕のは部屋にあるから。それにここにいるときは、不思議とラジオを聞く気分にはならないんだ」

「それはどうして」

「波の音が聞こえるからね」


 彼はもう随分とこの病院の生活に馴染んでしまっているらしかった。それはそうだろう、彼はここから一度も出たことがないのだから。でもそれは、この病院から脱出しようとしている、あるいはしていた私にしてみれば、何となく複雑な気分にさせられる事実だった。

 私はその思考を表情に出すまいとして、ラジオを掌の中で弄んだ。裏面の蓋を開けて乾電池が入っていることを確かめ、電源を入れる。周波数を合わせようとダイヤルを回すが、なかなか電波が入らなかった。


「場所が悪いのかな」

「どうだろう、このラジオ自体の問題かもしれない」


 二人でそんなことを言いながらあれこれと触っていると、ラジオから急に大きな音が出た。慌てて音量を調節し、流れてくる音楽に耳を澄ませる。何やら景気の良い行進曲が流れているようだったが、ノイズや音源に問題があるらしく、必ずしも明瞭には聞き取れなかった。


「何の音楽だろう、これ」

「海の向こうから電波が来てるのかもしれないね」

「海の向こう……?」


 私は立ち上がって海の彼方に視線を向けた。この荒れた海の向こうに陸地があるのだろうか。目に見えない異なる土地から流れてくる放送というのは、何となく気味の悪いような思いがした。そこには私たちとは違う色の肌や瞳を持つ人々がいて、それでいながら同じように食べて飲んで寝て、そんな生活をしているのだろう。

 行進曲のような音が止み、ささやかなチャイムが鳴る。それに続けて、何かの文章を読み上げる声がした。


「何かのニュースだろうか」

「そうみたい」


 その声もまたノイズ混じりでよく聞き取れなかったが、異国の言葉であることは間違いなかった。言葉が分からないなりに同じ文言を繰り返して読み上げているのが分かったので、余程大事なことを伝えたいのだろう。その音声が途切れると、再び先程の行進曲が流れ始めた。そしてまたしばらくするとチャイムが鳴り、文章を読み上げる声が流れた。


「どこかの誰かのいたずらかもしれない、ずっと同じことの繰り返しだ」


 あるいは、核戦争の始まりを告げているのかもしれない。私が何故、ここまで核戦争というものを想起するのかは分からなかったが、どうしてもそのような考えが浮かんでくるのだった。

 その後、私たちはしばらくラジオと格闘したが、拾える電波は一つしかなかった。また環境が変われば、例えば私の部屋や、あるいは123号室に行けば他の電波が拾えるかもしれない。そう思うと、私は不意に胸の奥に悲しみを感じた。どうしてそんな感情を抱いたのか、それもまた分からなかった。


「そろそろ行くよ。ラジオ、ありがとう」

「うん、またね」

「風邪を引かないようにね」


 私はそう言うと一目散に、とでも言うべき速さで病院の中に戻った。少年から貰った小さなラジオを手にして、口をつぐんで、ひたすら西病棟に向かって歩き続ける。ナースステーションであの看護婦と目が合うが、会釈すらしない。そして、123号室に戻った。

 私は眠っている彼女の枕元にラジオを置き、電源を入れる。環境が変わったことで別の電波が入り、バロック音楽が流れ始めた。それは必ずしも私の好みではなかったが、彼女の好みではあるかもしれなかった。

 何がそうさせたのか分からないし、どうしてそれに気付いたのかは分からなかったが、私は彼女のことがたまらなく愛おしく思えた。他人にこんな感情を抱くことは、もう二度とないのではないかというくらいに。

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