06
この病院で目覚めてからどのくらいの時間が経ったのだろう。時間の感覚が鈍っているから、もう半年もここにいるような気がしたし、つい一週間前に目覚めたようにも思えた。看護婦に訊いてみると、今の意識を取り戻してから一ヶ月経ったと言う。そんなものか、と私は納得した。
会話をする人間がいなくなったせいか、私は看護婦との会話に一種の楽しみを見出すようになった。彼女は相変わらず魅力的な存在に思えたが、やはり何かしらの感情を抱くことはなかった。彼女はただの話し相手なのだ。
「そろそろ新しいことを初めてみる時期かもしれませんね」
ある日、彼女はそんなことを言った。新しいこととは何かと尋ねると、
「明日のことですけど、外から演奏家の方々がやって来て、本館のホールで演奏会を開くんです。もしよろしければ、行ってみてはいかがですか」
それは提案というよりも指示なのではないかとも思えたが、たしかに興味をそそられる話ではあった。部屋にこもって読書をするのももちろん楽しかったが、それは悲しみを呼び起こす行為でもあったから、どこかで気持ちを切り替える儀式のようなものが必要だった。
「分かった。行ってみるよ」
私がそう言うと、彼女は軽く微笑んだ。その笑顔は魅力的だったが、私の心を貫くことはなかった。
翌日、私は演奏会が始まるまでの時間を食堂で過ごした。食事を終え、本を読むことも誰かと話すこともなく、頭を空っぽにして漫然と椅子に腰かけていた。色々な出来事が私の頭の中を漂っている。ときにはそれがぐるぐると回転し始めることもあって、その度に私は考えまいとするのだが、やはり60番のことを思い出さずにはいられなかった。
彼は本当に死んでしまったのだろうか? そして彼は本当に自分の意志で死を選んだのだろうか?
残念なことに彼は間違いなく自分の意志で死を選んだ。そのことは間違いない。だが、もう何を信じれば良いのかも分からない。彼は自分には家族がいると言っていたが、院長はそれを否定した。心情としては間違いなく60番の言うことを信じたかったが、彼がここに来てからずっと家族のことを忘れていたというのも妙な話だった。
しかし、どうだろう。私もまた彼と同じような状況下に置かれているのだ。これまでの人生のこと、生まれた環境と育ってきた世界の状況、それらがすっぽりと頭の中から欠落してしまっている。60番を否定することは、同時に自分を否定することにもなり得るのだ。
私は自分の身が可愛い。だから、今は60番の言葉を健気に信じながら、院長の言ったように慎ましく生活していかなければならないのだ。
そんなことを考えていると、食堂の時計がいつの間にかずっと先まで進んでいて、演奏会の時間になっていた。私は迷いを振り払うためにも勢いをつけて立ち上がり、演奏会の行われるホールへ向かうことにした。
この病院の妙なところは、病棟として分かれているだけのはずの東西の区別を、あらゆるところに適用しようとしていることだった。例えば、60番が言っていたように食堂の座る場所が暗黙のうちに分かれていたり、トイレも東西の男子と女子、計四つが設置されていたりする。そして今日演奏会が行われるホールも、全く同じ機能を持ったものが二つあるのだ。
その区別はいつの間にか私の心の中にも入り込んでいて、以前脱出計画を立てるために病院のあちこちを歩き回ったときも、私は東病棟に近づこうとはしなかった。心理的な何かがそれを阻んだのだ。けれども、東側にどんな人間がいるのかという興味は少なからず存在した。
私が西側のホールに入る前に、東側のホールの扉のところで中の様子をちらりと窺ったのは、そうした興味があるからだった。こちらの演奏会はもう始まっているようだった。歪んだギターの跳ねる音が微かに聞こえてきたのだ。ちょうど曲の終わりに差しかかっていたようで、間断なく次の曲が始まった。
それは、昔どこかで耳にしたことのある曲だった。どこで聞いたのかは覚えていなかったが、どんな曲なのかはすぐに思い出せた。それは古い時代に世界中を巻き込んだ戦争が起こったとき、ある国の女性歌手が歌った有名な曲だった。出征していく兵士たちに向けて、「また会いましょう」と歌いかけるもので、私は不意に耳にしたこの曲を聴きながら、自然と60番のことを思い出していた。
60番と過ごした時間は決して長いものではなかったけれども、その鮮やかな日々の思い出がしっかりと記憶に焼き付いていて、私はいつの間にか涙を流していた。それは記憶している時間の分だけ濃密な水滴となって、私の頬を伝っていった。そして思い出されるあの言葉。
「希望を持つんだよ」
私はしばらくの間、その場にうずくまって泣き続けた。
私が西側のホールに入ると、演奏会はもう終わりに近付いていた。静かに扉を開けて最後列の席に座ると、その姿を認めた看護婦の一人が演奏する曲目をプリントした紙を渡してくれた。こちらはあちらと違って、クラシック音楽の演奏家たちがやって来ていた。東側の明るさとは違って厳かな雰囲気だったが、どうも私の性分には合うように思われた。
「123号室の彼女に捧げます」
指揮者の男がそう言った。一曲を演奏する毎にそうして誰かに捧げると言っているようだった。彼が楽団の方に向き直ると、すぐさま演奏が始まった。それは交響楽団でも連れて来ないと演奏できないような曲を、少人数での演奏に合わせて編曲し直したもののようだった。だから少しばかり物足りなさを感じたが、慎ましげな良さもあり、古き良き秩序を連想するのにはそれで充分だった。
演奏を聴きながら前の方に座っている他の患者たちを観察した。どこかで目にしたような顔もあったが、大部分は見たこともないような人ばかりが座っていた。全部で三十人くらいはいるようだった。もしも60番が生きていて、演奏会があると知ったならここに来ただろうか。おそらく来る、と私は思った。彼は東側のホールで演奏されているロックやポップスよりも、ずっとこちらの方が好きに違いない。
そんなことを考えていると、演奏が終わりを迎えた。静かな拍手が送られ、指揮者と楽団が静かに一礼した。
演奏会が終わると、今日の曲目はどうだったとか演奏がどうだったとか、そうしたことを人々は語り合いながらホールから去って行った。私も彼らに続いて外へ出ようとしたのだが、背後から呼び止める声があった。振り返ると院長の姿がそこにあった。
「どうでした、良い気分転換にはなりましたかな」
「ええ、おかげさまで」
私は偽りのない心でそう答えた。涙を流したこともあって、悲しい気持ちの一部が漂白されたのだ。
「あれからどういう生活をしているのか、それとなく聞いていますよ。担当している看護婦にも伝えましたが、新しいことを始めるべきです」
「彼女にも同じことを言われました」
「それは結構。実行に移していることも素晴らしい。ところで、ある人を紹介したいのですが、どうでしょう」
それが院長の話したい本題らしかった。
「今はそういう気分ではないのですが……」
「少しだけで良いのです。それに顔を合わせたらきっと気が変わるでしょう」
提案なのか指示なのかが相変わらず曖昧だったが、それを拒否する確固たる理由もなかったから、私は院長の気持ちに流される形で了承してしまった。
私たちはホールから出ると、西病棟に戻った。もしかしたら東病棟の人間と引き合わされるのではないかという不安や期待もあったのだが、院長が私に会わせたい人というのは西病棟にいるようだった。のみならず、院長はナースステーションから私の部屋に通じる通路に入って行ったから、私は少なからず驚かされた。そんなに近くに会わせたい人がいるのだろうか。
院長は123号室の前で立ち止まった。そこは私が125号室で目を覚ました日、少しだけ中の様子を窺った部屋だった。あの日と同じように中からは規則的な電子音が聞こえてきた。院長は簡単にノックすると、扉を開けた。
私がその部屋に入ったとき、まず気付いたのは臭いだった。それだけで、この部屋に生活している人が随分と前からここにいることが分かった。この病院の無味乾燥とした病室は、一月暮らした程度で人の臭いが染み付くようなところではなかったから。ただ、変わっていたのはそれが芳しく感じられた点で、どこかの花園にでも迷い込んでしまったかのようだった。
次に気付いたのは、その薄暗さだった。照明は間違いなく点灯しているのだが、その明るさが意図的に抑えられていて、例えば読書をするとしたなら暗すぎる環境だった。
「どうです、見てごらんなさい」
私の関心が部屋の様子に向けられていたのを、院長の言葉でベッドの方へ誘導された。ベッドの周囲を薄手のカーテンが覆っていて、まるで高貴な身分の人を守っているかのようだった。目を凝らして中を覗いてみたところ、私は聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声を漏らしてしまった。
非常に美しい顔立ちの女性がそこに仰臥していたのだ。
私は、まず彼女を人間として認識し、すぐにそれが人形なのではないかという疑念を抱いた。やがて彼女をよく観察してみると、生きている人間に特有の微かな揺れがあり、彼女が人間であるということを認めざるを得なくなった。
「眠っているのですか」
「厳密には眠っていると言うよりも、意識を失っていると言うべきですな、どちらも同じようなものですが。彼女はずっとこうして長い時間を過ごしているのです」
私たちは厳かな存在を前にして、自然と声を抑えた。
「数年前からずっとこの状態なのですが、どうも奇妙なのです」
「奇妙?」
「眠っている間、まるで時が止まったかのように彼女は同じ時間に留まっている。というと分かりづらいかもしれませんが、この数年間、彼女の外見に全く変化が見られないのです」
たしかにそれは奇妙な話だった。時間の試練を経て老いるということを知らない存在だと言うのだ。私たちの意識が刻みこむ皺やくたびれというものは、想像以上に大きなものなのかもしれない。だが、院長の彼女に対する態度を見ていると、それはもっと神秘的な領域に属する話のように感じられた。
「興味が湧いてきましたね?」
「それは否定しませんが……、どうして私をここへ連れてきたのですか」
「思い出しませんか、彼女のことを」
院長が奇妙なことを言った。私と彼女との間には何かしらの縁があるのだろうか?
「今は思い出せないとしても仕方のないことです。ただ、貴方が彼女に対して一方ならぬ興味を抱いているのだとしたら、こちらにはそれなりの用意があります」
「用意というと?」
「いや、この部屋を開放しておくだけのことですがね。いつでもここへやって来て、彼女と同じ時間を共有することができます」
「しかし、彼女は時間というものを拒んでいるようにも見えますが」
「興味深い意見ですな。ただ、一歩踏み込んだことを言うと、貴方の行動次第で彼女は回復するかもしれない。私にはそんな予感がしているのですよ」
予感。そんな曖昧な言葉で私を縛り付けておこうとする院長の底意は分からなかった。
しかし、院長の提案が私の心に一つの石を投げ込み、それが大きな波紋となって私を揺さぶっているのも事実だった。私が彼女に何かできるのだとするなら、私はその何かをすべきなのではないか?
「今すぐに決断できることではないかもしれませんが、先程言ったようにこの部屋の鍵は開けておきます。貴方はいつでもここへやって来て、彼女と同じ時間を共有することができる。貴方自身にとっても、一種の気分転換になるかもしれませんな」
院長はそう言うと静かに部屋を去って行った。
残された私はしばらくの間、美しく眠る彼女の姿を見つめていた。彼女もまた、私の担当の看護婦と同じように、何かしらの感情を芽生えさせるようなことはなかった。それでも放っておけない何かを彼女は持っているように思えた。