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05

 それから私の新しい生活が始まった。食事や入浴、睡眠や読書を除けば、全ての時間は病院脱出のために消化されていった。それでも計画を立てるのには苦労した。病院の周囲を探ろうにも、表玄関は封鎖されていたし、裏庭へ出ても海のある方向にしか視界が利かなかった。それ以外の全ては、60番の経験を頼りにしなければならなかった。彼は以前のことを話すのには最初から乗り気ではなく、時間を置いて少しずつ聞いていかなければならなかった。それでもまだ、完全ではなかった。


「逃げるとすれば、やはり裏庭から外へ出て行くのが良いだろうか」


 私がそのようなことを尋ねても、彼は明確な助言を与えてはくれなかった。何かを恐れているように見えたが、私はその恐怖の対象がこの病院の中にいるのか、それとも外にいるのか、それすらも分からなかった。


「一度、諦めた方が良いんじゃないか」


 ある日、彼はそんなことを言った。正直に言ってしまえば、私も少しずつ脱出の不可能を悟りつつあった。あまりにも情報が足りないのだ。一度脱出すると言ってしまった手前、簡単に引き下がることはできないと考え、


「そうとも言えないさ」


 と、半ば見当外れな答え方をしてしまったのだが、脱出に対する私の意欲は明らかに減退していった。

 私が脱出を計画し始めてから、これといった変化は何も起こらなかった。水で薄めたような日々が続き、真綿で首を絞められるような閉塞感を味わった。

 あえて小さな変化を挙げるとするなら、担当の看護婦が以前よりもまめに私の体調を確認しに来るようになった。脱出を計画していることの負い目があったから、あるいは過敏になっていたことによる勘違いかもしれないが、それでも私は彼女の顔を一日に何度も見るようになった気がした。

 そういえば、彼女はこんなことを言っていた。


「まずは一週間、我々に時間を下さい」


 その一週間はとっくに過ぎていて、私のこの病院に対する不信感はいよいよ強まっていった。






 大きな変化があったのは、それからさらに数日後のことだ。


「たまには裏庭に行かないか」


 60番が、何の脈絡もなくそんなことを言ってきたのだ。私としても脱出計画の精度を高めるために、是非ともそうしてもらいたかった。もしもそれで計画の不可能を突きつけられることになったとしても、もう後悔はしないだろうなと感じた。

 昼食を終えて、私たちは揃って裏庭へ続く廊下を歩いた。私は少し後ろを歩いていたのだが、背後から見る彼の様子はいつもと変わらなかった。

 ガラス戸を開けて外に出る。私がこの意識を取り戻してから二度目の太陽だった。


「久しぶりだな」


 彼は誰に対してというわけでもなく、そう言った。あえて彼が呼びかけた相手を特定するとするなら、それは紛れもなく頭上に輝いている太陽に対してであった。


「どうだ、外の世界が恋しくなったか」


 私は半ばふざけてそう言ったが、すぐに不適当な言葉だったと反省した。けれども彼は、


「そうだな」


 と、気にする様子もなく階段を上って行った。

 以前ここに来たときにいた十歳の少年、彼の姿はなかった。彼だってずっとここにいるはずはないのだから、当然と言えた。それにしても寂しい広場だった。二人掛けのベンチがいくつか設置されているが、それを利用する者はここにはほとんどいないのだ。私たちは、その主のないベンチの上に腰かけた。


「まだ気持ちは変わってないのか?」


 彼は私の気持ちの変化を見透かすようにそう言った。気持ちが揺らいではいるものの、私はまだ脱出の計画を捨てていなかったから、


「ああ」


 とだけ答えた。


「僕には、家族がいる」


 しばらくして、彼がそう言った。最初は聞き間違いだろうかと思ったのだが、すぐにそうではないことに気付いた。


「妻と息子、三人家族だった」

「それは君自身の話なのか」

「もちろん。この海の向こうのどこかで暮らしていた頃の話さ」


 この海の向こうのどこか。

 私はその言葉に、どこか悲しい感情を呼び起こされた。


「僕はここに来てから初めて夢というものを見たかもしれない。もしも見たことがあったとしても、それはもうとっくの昔のことだろう。とにかく、夢を見た。そして家族のことを思い出したんだ」

「どうして今までそんな大事なことを忘れていたんだ?」

「さあな。忘れてしまうのがここで生きていくために必要なことなのかもしれない。けれど、君がここへ来てから何かが変わった気がする。だから、僕も夢を見た。それは勘違いかもしれないが、とにかくそんな気がするんだ」

「今は……家族はどうしているんだ」


 その答えを聞くのは怖かったが、それを尋ねずにはいられなかった。

 幸いとでも言うべきか、彼はその言葉には沈黙を貫いた。


「僕もここを出るよ」


 しばらくして彼がそう言った。


「それは、本当かい」

「ああ。そのときはきっと、僕の知り得たことを全部話すつもりだ」


 彼の瞳の奥に何かが宿っているように見えた。

 それから、私たちは脱出についての計画を練り始めた。彼がここを出ると言い始めた以上、何かしらの勝算があるのだろうが、結果としてそれは彼の頭の中に秘匿されることになった。つまり、私は彼の立てた計画に乗る形になるのだ。


「任せていいんだね」

「ああ、信頼してくれ。君のことを信頼せずに計画を一人で立てる僕が、そんなことを言うのもおかしいのかもしれないが」

「仕方ないさ。向こうにはどんなカードがあるか分からないからね」


 向こう、とはもちろんこの病院のことだった。私たちを何らかの理由で隔離する彼らは、正体が見えない分だけ巨大な敵のように思われた。もし私が脱出の計画を知悉し、それを彼らが嗅ぎつけてしまったならば、私たちは二度と外の世界に出て行けないかもしれない。計画を知る人間は、少なければ少ないだけ良かった。

 それにしても、脱出するのが二人だけというのも心細いものがあった。私は構想の一つとして、大規模な暴動でも起こしてみればどうかと提案した。逃げるのではなく、壊せば良いのではないか、と。


「それは難しいな。ここにいる人間全てが外に出たがっているとは限らないし、きっと準備段階で計画が漏れてしまう。それにここの秩序が破壊されてしまうことは、必ずしも良いこととは言えない」


 そんなものか、と私は納得した。元々が簡単な提案だったから、それを否定されることも仕方ないと思えた。

 それからいくつかの点を確認し合って、私は終わりに最も重要なことを確認した。


「決行はいつだ?」

「早ければ早いほど良い。そうだな……、明日にしよう」

「随分と急ぐんだな。早いのが良いというのは納得できるけど、しっかりとした計画がなければどうにもならないんじゃないか」

「大丈夫、計画は徹夜で考えるさ」


 私はその性急さに60番の恐怖を知った。知識がないことの恐ろしさというものがあるとすれば、知識があることの恐ろしさというものもある。この場合、私は敵の正体を知らないからこその恐怖を感じていたが、彼は現実的jな意味での恐怖を抱いていたのだ。

 俄かに恐怖が強まってきた。私はその不安を隠すことなく彼に伝えた。


「失敗したときのことは考えなくて良い。とにかく、未来の成功だけを見続けるんだ」

「それはそうだが……」

「もし失敗したとしても、希望があれば状況は打開できる。だから、大丈夫だ」


 全ての確認を終え、私たちは久しぶりに何でもないような話をした。明日の今頃にはもう外の世界にいるかもしれないと思うと、どこか妙な気分がした。不安の混じった希望が、そこにはあった。

 私たちはこの病院できっと最後になる夕食をとった。私はこの病院の中では図書室とこの食堂の雰囲気が好きだったから、もうこれで最後なのだと思うと少しだけ寂しい気持ちになった。

 別れ際に60番が握手を求めてきた。妙なことを言い出したなと思ったが、きっと心細いのだろうと思い、私はそれに応じた。それから最後に、彼はこんなことを言った。


「希望を持つんだよ」






 翌日の朝、私は興奮のせいもあってあまり深く眠れないままに目を覚ました。私の要望で看護婦が用意してくれた時計を見ると、予定より一時間も早く起きてしまった。私は身支度を済ませると、わざと乱雑さを残したまま部屋を後にした。それは60番の指示によるもので、整理整頓をして部屋を出てしまうと病院側に気付かれてしまうかもしれないから、ということだった。

 私は借りておいた文庫本の一冊を持って、待ち合わせ場所である図書室の辺りで待機した。なかなか落ち着かなかった気持ちが、時間が近付いてくるにつれて奇妙に冷徹になっていって、読書に向かう気持ちも不必要なほどに真剣になった。

 文庫本をちょうど半分まで読み終えたとき、私は妙な予感を得た。60番が姿を見せないのだ。徹夜で計画を立てたので疲れてしまったのではないかと冗談混じりに考えたりしたが、冗談でそんなことを言っていられるような状況ではなかった。私は心配になって図書室に入り、そこにあった時計を見て、予定時間をとっくに過ぎていることを確認した。

 私はいよいよ心配になった。ここで60番の病室に赴くことは危険だったが、やはりそうも言っていられない状況だった。私は西病棟に引き返すと、60番の部屋に通じる通路を目指した。すると、その部屋の前の壁に、何かが立てかけられていた。

 60番が大切にしていたはずの、あの「希望」という絵画だった。

 私は戦慄した。そして現状を半ば理解した。その先に進むことの危険を理性が囁いたのだが、同時に、現状を完全に理解したいという思考がその先に進むことを求めた。私は、一歩前に踏み出した。

 60番の部屋の扉は開放されていて、そこでは二人の看護婦が何やら立ち働いていた。60番の姿はそこになく、彼女たちはベッドのシーツを交換したり収納棚の中身を取り出したり、まるで後始末のようなことをしていた。彼女たちは私の存在に気付くと一瞬だけ手を止めたが、すぐに自分の作業に戻った。

 私は呆然とその作業を眺めていたが、いつの間にか背後に私の担当の看護婦が立っていた。


「先生よりお話があります」






 この病院に来て、私は初めて診察室という場所に入った。本来ならその部屋の様子などを観察するものかもしれないが、私はひたすら恐怖にかられて、それどころではなかった。


「すぐに先生が参ります。お待ち下さい」


 看護婦が扉の向こうに消え、静かな部屋に残された。四方の壁に鼓動が反射してしまうのではないかと思われるほど、激しい動悸に襲われた。長い時間、私は恐怖と緊張の中でそこに座らされていた。恐怖と緊張の頂点を迎えたのは、診察室の扉をノックする音が聞こえたときだった。


「お待たせしました」


 それは久しぶりに見る院長先生の姿だった。老いているとも若いとも言えず、また優しいとも厳しいとも言い難い、あらゆる物事の中間地点にいるかのような存在だった。高いとも低いとも言えない声で、彼はこう言った。


「60号室の彼は昨日亡くなりました」


 私は言葉通り息を呑んだ。それは疑いようのない事実だと私は思った。


「彼は安楽死を希望していました。私としてはそれを認めたくはなかったのですが、彼と対話を重ねた末にそれを認めることにしました。そして、実行されたのが昨日というわけです」

「実行の日は事前に決まっていたのですか」

「それは答えかねます。彼と血縁関係にない貴方に私が開示できるのは、彼が安楽死したという事実だけです」


 そう言いながらも、院長は安楽死に必要な書類の一枚を見せてくれた。そこには私の初めて知る60番の名前が記されていた。


「どうです、彼の筆跡であることは分かるでしょう」

「……彼の書いた文字を見たことはありませんから」

「そうですか。まあいずれにしても、彼が安楽死を選んだという事実は変わりませんな」

「このことは彼の家族もご存知なのですか」


 私がそう言うと、院長は絵に描いたような深刻な表情を浮かべた。


「実はそのことなのです。これはお話ししても問題ないでしょうから言いますが、彼に家族はいないのです。妻も子もなく、両親も既に他界していて、完全なる孤独の身でした。私がこうして貴方にお話しているのも、そのためなのです」


 私は動揺した。こうなってしまうと、もう何を信じれば良いのか分からなくなってしまう。私は信頼できる情報源を持たない、全くの弱者だった。


「他に何か知りたいことはありますか?」


 それでも私はいくつかのことを尋ねた。混乱していることもあって、重複した内容を訊いてしまったりもしたが、院長は「可能な範囲」でそれに答えてくれた。そして最後に、


「彼の遺品はどうなるのですか」


 と訊いた。


「処分させるつもりです。何か受け取りたいものでもありますか?」

「彼が大事にしていたあの絵画、あれを頂けませんか」


 それを受け取ることが必要だと私は直感した。院長はそれに対する答えは持ち合わせていなかったのか、少しの間考え込んでいたが、それに対する異議はないとして「希望」の受け取りを許可してくれた。

 そのようにして私が思いつく限りの質問を終えると、院長は別れ際にこんなことを言った。


「今回のことは残念でした。でも、私は貴方に期待しているんです。だからその期待を裏切らないように、どうか慎んで生活して下さい」


 私はそれを一種の恫喝と受け取った。

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