04
私は一旦病室に戻って借りてきた本を置くと、担当の看護婦に裏庭へ出る許可をもらうことにした。彼女はちょうどナースステーションに居合わせていて、裏庭へ出るのに許可は必要ないと教えてくれた。案外簡単なものだなと思った。
私はすぐに60番に教わった通りの道順で裏庭に向かった。館内の地図は頭に入っていたが、頭の中で思い描くのと実際に身体を動かして移動するのとではまるで違う。それに裏庭の存在を知らなかったのだから、頭の中の地図の精度も疑わしくなる。それにしても60番がどうしてそこまで裏庭を忌避するのか、それがどうにも分からなかった。空の彼方に巨大な宇宙船が浮かんでいるとか、海の彼方が断崖絶壁になっているとか、そうした突飛な想像をしてみたりもしたが、あまりにも現実味がなかった。尤も、今こうして歩いているこの意識が現実的なものなのか、それは分からないが。とにかく、行ってみなければ何も分からないのだ。
思考がそこに至った瞬間、裏庭に通じるガラス戸の向こうからやってきた日光が、私の身体を包んだ。奇妙に眩しく感じられたが、それは久しぶりに太陽を拝んだためだったのだろう。ガラス戸を通って外に出る。音や臭いを確かめてみたが、現在地の分かるような手がかりは何も得られなかった。何の臭いもなく、何の音もない。空の青さとそれを貫く太陽の光だけがそこにあった。
私は正面の階段を上ることにした。階段の両脇には背の高い生け垣が配されていて、そこへ視線を滑らせながら階段を上っていった。階段は短く、芝の生い茂った広場に通じていた。広場といっても何かスポーツをできるような広い空間ではなく、いくつかのベンチが設置されていた。広場の周囲には相変わらず背の高い生け垣が配置されていて、外の様子を窺うことはできない。ただ、北側の生け垣だけは背が低く、その向こう側を見渡せそうに思えた。広場に人影はなく、北から流れてくる冷たい風が芝の表面を払っていった。私は広場を横切って、広場の北側へ歩いて行った。
「あっ……」
そこに見えたのは鉄条網だった。
続いてその先に断崖があるのが分かった。そして、視界の及ぶ範囲いっぱいに広がる海が鉄条網越しに見えた。
私は幾分かの心理的な衝撃を無視することができなかった。極めて好意的に解釈すれば、鉄条網は海への転落を防ぐために設置されたと見ることができる。だが、それはどう見ても私たちを隔離するため、そして外への流出を防ぐためのものだった。幾重にも張り巡らされた鉄条網を蝕むサビと、その先の波立つ荒れた海面とが手伝って、その感触は強まっていくばかりだった。
私は、私たちは、異常者なのだ。
「おじさん、そんなところで何してるの」
混沌に渦巻こうとした思考を押し留めたのは、背後から投げかけられた声だった。その声の幼さに気付くよりも前に、振り返った私は少年の姿を捉えた。
「顔が真っ青だよ、大丈夫?」
私が余程酷い顔をしていたのか、少年は無垢な問いかけをしてきた。
少しばかり息を整えてからよく少年のことを観察してみると、思ったよりも幼いことに気が付いた。おそらく十歳くらいの、そんな顔立ちや体付きをしていた。
「いや、ちょっとびっくりしてね」
狼狽した様子を見せることの不毛さを理性が告げたので、私は余裕のある素振りをしてみせた。みすぼらしい虚栄心でもあった。
「その先に行くのは危ないって看護婦さんが言ってたよ。こっちにおいでよ」
彼は私をベンチの方へ誘うと、まず自分からそこに座った。私もそれに倣って彼の隣に座った。
腰を下ろして背もたれに身体を預けて空を見上げる。晴れてはいたが、太陽の輝きはどこか寂しげだった。さっきは眩しく感じられた日光が意想外に弱々しいのを知ると、私は自分の衰弱を知った。
また少し冷静な気持ちを取り戻すと、今度は新しい疑念が浮かんできた。彼はこの病院の患者なのだろうか? その答えは彼の着ている入院着が教えてくれた。彼もまた、一見すると健康体としか思えなかった。
「おじさんはここに来たばかりなんだね」
「どうして分かるんだい」
「直感。……それと、来たばかりの人と同じようにここに来るから」
彼が最初に言った「ここ」というのはこの病院のことで、二度目に言った「ここ」というのは裏庭のことらしかった。
「他の人はこの裏庭には来ないのかな」
「あまり来ないね。みんな、悲しそうな顔をして中に戻ってしまう。そして、二度と来なくなる」
「その気持ちは分かる気がする。でも君はどうしてここにいるのかな」
「それはみんなと違うから」
「違う?」
「僕はずっとここで生活してるんだ」
ずっと、というのは生まれてからずっと、という意味らしかった。外の世界を知らないから、外への憧れというか、郷愁のようなものもないのだろう。
私は、彼に対して少しずつ湧き上がってきた興味をどう処理すべきか迷った。大人と違って妙な嘘は吐かないだろうし、仮に嘘を吐いたとしてもすぐに分かりそうだった。だから、彼に質問すればある程度のことは分かりそうだったが、それが却って恐ろしかった。彼と私とは同じ環境に暮らす者であって、きっと多くのものを共有している。彼が自分の異常を告白したなら、それは私の異常を裏打ちすることにもなりそうだった。それが恐ろしいのだ。
それで私は本質から離れた質問をいくつかした。彼の年齢はちょうど十歳で、他の患者の厚意で読み書きを教えてもらっている。両親の記憶はなく、物心がついた頃からここで暮らしている。好きな食べ物はハンバーグ、嫌いな食べ物は野菜全般。テレビは見たことがないが、よくラジオを聞く。
「ここでラジオを聞くことが許されてるなんて、知らなかった」
「最初の頃はみんなそうなんだ。自分で自分のことをしばりつけて、病室に引きこもってしまいがちで。でも、少しずつ慣れていくんだ、ここの生活に」
私もいずれはそうなるのだろうか、と自信なげに考えてみたが、同時に慣れてしまいたくないという気持ちもあった。こうして曲がりなりにも太陽の下にいると、外へ出て行きたいという欲求が高まっていく。しかし、ここから出ていくことは当分叶いそうにもなかった。そうやって、次第に60番の言っていたことの意味が分かりつつあった。
それにしても、この少年は言葉がしっかりとしていてなかなか賢いように思える。彼のような子供がこんなところに閉じ込められているのは、少し可哀想な気もした。
私は少し踏み込んだ質問をすることにした。
「あの鉄条網は何のためにあるんだろう」
それまでは淀みなく紡がれていた少年の言葉が途絶えた。彼はいささか逡巡しているようだった。
「おじさんはどう思ってる?」
「ここの患者が外に出て行かないように、ってことじゃないかと思うけど」
「看護婦さんもそう言ってた。理由は分からないけど、とにかくそう言ってた。でもね」
少年は言葉を呑み込んだ。今度は苦悩が見てとれた。
「外から入ってこないようにするためなのかな、なんて考えることもあるよ」
「外から入って来ないように?」
それは意外な考え方だったので私は思わず復唱した。それで少年は少し尻込みしかけたが、勇気を奮い起こして再び口を開いた。
「外に出られないのなら、外からも入ってこられないかなって、そう考えたりするんだ」
「君は外に何があるか、知ってるのかな」
「それは――」
その瞬間、彼の入院着の胸ポケットからG線上のアリアのメロディーが流れてきた。PHSの着信音だった。
「もう戻らなきゃ」
彼はさっと立ち上がって、私が引き止める間もなく、階段に向かって一目散に駆けていった。が、階段の手前で立ち止まると、
「僕は外のことは何も知らないんだ、ごめんね。ばいばい」
彼は手を振って、またしても私が手を振り返す間もなく、階段を下りていった。何だか呆気無い別れ方で、ついさっきまで彼が隣に座っていたのが夢だったかのように思えた。
夢。
私はこの病院で目覚めてから、夢というものを見ていない。今日は何やら夢を見るかもしれないと、根拠のない予感がした。
色々なことが起こった。60番と出会い、ボイラー整備士の老人と出会い、生まれてから一度もここを出たことのないという少年と出会った。知らず知らずのうちに広がっていく輪を前にして、私は少しばかり尻込みした。それはこの病院の環境に馴染んでしまいそうだったからだ。この病院自体に対する不信感は依然としてあり、あの鉄条網を見てからその思いはいよいよ強まった。自分の状態さえも知らされずに軟禁されているようなものなのだ。ここは、いつまでも居続けるような場所ではないのだ。
だが、今日はもう眠る時間だ。明日の朝、この意識が途切れていなければ、すぐにでも脱出の準備を始めなければならない。そうしなければ、私は永遠にこの場所から出ることはできないだろう。
私はベッドに身体を預け、この意識の続いていることを願いながら眠りに就いた。
核戦争。
それは一つの可能性だ。私は核戦争後の世界を、そうと知らずに生きているのかもしれない。あるいはどこかの箱庭の中で暮らすちっぽけな存在。もしくは夢の世界を現実と錯誤しながら生きている哀れな存在。
色々な可能性が私の脳の中で運動していて、そのいずれもが強い自己主張をしている。私はそんなことを真面目に考える愚かさに気付かず、ただそれらを呆然と眺めている。やがてそれらの運動が臨界点に達して、いよいよ爆発しようかというときに、私は顔に水をかけられた。
……目が覚めてからどのくらい経っただろう、しばらくしてから私は現実の世界に戻ってきたことに気付いた。身を起こしたとき、首筋から入院着の中に水が流れ落ちていくのを感じた。実際に水をかけられたのだ、私は。
収納棚の上に置いていたコップの水が、半分ほどにまで減っていた。誰がそんなことをしたのだろうと呑気に考えた。人の入ってきた気配はない。あるいは自分で水を浴びたのかもしれない。私はぐっしょりと濡れた顔を拭いてから、尿を漏らしていたことに初めて気付いた。
ナースコールを押すと、すぐに担当の看護婦がやって来た。私は何をどう説明すべきか迷ったが、状況を察した彼女はすぐにタオルと着替えを用意してくれた。ベッドのシーツも濡れてしまったので、彼女は私を部屋から追い出し、どこかで時間を潰してきてくれ、その間に処理をしておくから、というような意味のことを言った。
私の行く場所というのは限られていて、食堂か図書室しか思い浮かばなかった。何となく、60番と顔を合わせるのは気まずい感じがしたから、私は図書室の奥のあまり人目につかないところに行こうと思った。そうして図書室の防火扉を開けたとき、ちょうど中から出てきたのが60番だった。
「良い収穫はなかったようだな」
彼は私の顔を見るなりそう言った。私は素直に頷いた。
「ここから出て行けないことは分かっただろう」
「簡単に脱出できないことはよく分かったよ」
私はそのことを認めたうえで、ある疑問を彼にぶつけてみた。
「君はどうやってあの鉄条網を超えたんだ?」
「あの頃は――と言っても随分と前のことだが――、ここは鉄条網に囲まれてはいなかった。以前は崖のところだとか、要所に鉄条網が配置されていたが、それは完全ではなかった。それに老朽化していたから、鉄条網を抜けるのも難しいことではなかったんだ」
「君の脱出をきっかけにして、鉄条網の整備が進んだわけだ」
「いや、どうだろうな。それももちろんあるだろうが……」
60番は何やら口ごもったが、その先を聞くことは叶いそうになかった。
私たちはしばらく沈黙を貫いたが、やがて彼が口を開いた。
「これからどうするつもりだ」
私の中で明白になりつつある気持ちが、自然と言葉になった。
「ここから出て行く」
「そう、か」
以前の脱出時の困難を思い出しているのか、彼は浮かない顔をした。
「君はどうする」
「僕はここに残るよ」
それが彼の答えだった。私はそれを尊重しなければならなかった。ここから出て行くことが一つの決断であるとするなら、ここに残ることもまた一つの決断だったから。
ただ、私には自分一人の力で脱出を成し遂げる自信がなかった。せめて前回の脱出の経験を彼に話してもらいたかった。
「思い出すことは辛いかもしれないが、手助けをしてくれないか」
彼はやはり悩んでいるようだった。しばらく考え込んだ後、
「それくらいのことはできるかもしれない。ただ、あまり楽しい話じゃないから覚悟しておいてくれ」
と言ってくれた。
私の気持ちは確固たるものになっていた。