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03

 私は60号室の彼のことを60番と呼ぶことにした。彼が囚人のようだと言ったことで、私は却ってそう呼びたくなったのだ。囚人のようだな、と彼はまた言ってみせたが、特に不快に感じているような様子もなかった。彼の方では私を9番と呼んだ。私はその理由を尋ねたが、125番では長すぎるからと言っただけで、それを教えてはくれなかった。

 私が意識を、現在の意識を取り戻してから三日目の昼間、私が食堂で食事をしているところへ彼がやって来た。彼は私と同じものを注文して正面に座った。それからしばらくお互いに黙って食事を続けたのだが、彼は何かをきっかけにして急に口を開き、


「図書室へ行ってみないか」


 と誘ってきた。私はその言葉と食事を吟味し、一緒に飲み込んだ。昨日までは読書をするというような気分ではなかったのが、その言葉を聞いた瞬間から俄然興味が湧いてきた。何の臭いも音もない、空っぽな空間で横になっているのにも飽き飽きしていたから。


「案内してくれるのかい」


 昨日までに彼とはすっかり打ち解けていたので、私は気軽な調子でそう答えた。


「もちろんさ」

「じゃあ、行こう」


 本館の地図は頭に入っていたが、実際に利用したことのある施設は食堂だけだったから、私はまだ何も知らない空間へ足を踏み入れることになるのだった。私がその頭の中の地図を弄んでいると、彼が急に立ち止まった。何でもないというふうな調子で、実際に何でもないような話をし始めた。


「早めに言っておいた方が良いと思ってね。いや、簡単な話だよ」


 彼はそう言うと壁にもたれかかった。私も彼に倣って壁にもたれかかり、何人かの患者や事務員のような格好の女性などが通り過ぎるのを眺めた。食事を終えたばかりだというのにどこか物足りない気がして、嗜好品が欲しくなった。それで私の思考は巡って、昔見た外国の戦争映画の中で美味しそうに煙草を吸う俳優の表情を思い出した。たしか彼は酒も煙草も苦手な人で、私が見たシーンでは偽物の煙草を吸っていたのだろうと思うが、それでも煙草を吸わない私にその愉しみを追体験させたのだから凄いという他はない。彼の名前や出自や映画の名前はもうとっくの昔に忘れてしまっていて、あのモノクロの映像、彼方の砲撃音、ライターを擦る手触り、硝煙の匂い、煙草の味、そして彼の心情、ただそれだけを覚えている。

 ……私はしばらく記憶の中に潜っていたのだろう。気付けば60番の話は始まっていて、私は惰性で頷いていた。


「色々と面倒に感じるかもしれないが、ここはそういう場所なんだよ」

「そういう場所というと?」

「だから、西と東とで区別されているんだよ。食堂で座る場所も、明確に線引きされているわけじゃないけど、西の人間は西の人間が座る場所、東の人間は東の人間が座る場所に座るものなんだ。君が東の人間の場所に座っていたから、僕は声をかけたんだ」

「でも、どうして私が西の人間だと分かったんだ?」

「ずっとここで生活していると分かるようになるよ。もしも、もしもだけども、これから東の人間と関わるときが来るかもしれない。そうなったときには、そうなるまでの間には、君は西の人間という個性を獲得しているだろう。そして、僕の言っていることが分かるようになるだろう」


 たしかに今の私は自分らしさのようなものを感じることができていないし、この病院の中でそういう慣習があるのだとしたら、私もその慣習に慣れていくことだろう。しかし、今の私には西の人間という言葉がピンとこなかった。


「すぐには無理だろうが、いずれそうなるはずだ。そうなると見込まれて西病棟に振り分けられたんだろう」

「裏を返せば、そうなる人間しかここにはいられない?」

「さあ、そこまで断言はできないけど、そうなれない人間を僕は見たことがないんでね」


 彼が壁にもたれかかっていた身体を自立させ、後に付いて来いという仕草をしてみせたので、この話はそこで終わった。ただ、ある予感というか手がかりのようなものは得られた気がした。

 図書室の入り口は防火扉になっていて、図書室と記された案内がなければ見過ごしてしまいそうだった。重たい扉を開けると、これまでには感じたことのない独特の空気が漏れ出してきた。どこかじめじめとしていて、どんよりとしていて、少なくとも彼の言ったような開明的な雰囲気はまるで感じられなかった。ここに収められているものは時間の流れを過去に引っ張っていくような、そんなものばかりが置かれているような気がした。

 しかし、私にとってはどこか懐かしい場所だった。この図書室に来たことがないとするなら、どこか似たような場所の記憶が思い出されているのだろう。公立図書館か、書店か、そういった場所に関する思い出があるのだろう。私は読書が好きな人間だったのだろうか。それは思い出せなかったが、今の私はたくさんの本に魅せられている。今はそう感じるだけで充分に思えた。

 気付けば60番の姿は本棚の向こうに消えていた。想像していたよりも図書室はずっと広く、その分だけ蔵書の数も多かった。開明的という言葉がようやくピンときた。これだけの書籍を収集し、維持管理するだけの余裕がこの病院にはあるということだ。それはこの病院の性格を表しているのかもしれない、そう思い至ったのはずっと後のことだった。単なる病院としての機能だけでなく、矯正施設としての機能をも備えているのではないか、と。


「どうだ、凄いだろう」


 いつの間にか隣に立っていた60番が低い声で言ったので、このときはそのことにまでは気付けなかった。60番はいくつかの文庫本を小脇に抱えていた。ギリシャ悲劇に関する本かもしれないと私は思った。


「何冊か借りてみたらどうだ。僕は待ってるからさ」

「ああ、ありがとう」


60番が入り口の横のカウンターで貸出手続きを行うのを横目に見ながら、私は立ち並ぶ本棚の方へ足を踏み入れていった。私は本棚から興味のあるものを引き出して、よく吟味した。まず詩集を手に取って頁をめくってみたが、私には詩情を理解する素養がないらしく、すぐさま本棚に戻した。次は著名な古典文学に手を伸ばした。こちらも格式張った文章が気に入らずに本棚に戻した。結局、大衆文学を二冊と異国の街並みを写した写真集を借りることにした。60番に教わりながら貸出手続きを終え、二人で図書室を出た。

 外の空気はまずまずの新鮮さで、私はどうして図書室がこんなにも息苦しいのだろうかと考えた。やはりと言うべきか、ここにも窓がないことが多分に影響しているのだろうと思った。出入り口が防火扉になっているおかげで、余計に密閉されている気分になるのだ。実際にそうではあるのだが。


「すまん、トイレに行ってくる。ここで待っていてくれ」


 私は60番の借りた文庫本を受け取ると、その辺りにあった椅子に腰掛けた。この後もどこかへ案内してくれるのだろうか、それともまた60番の部屋に行くのだろうか。

 そんなことを考えていると、紺色の作業服を着た老人がこちらへ歩いてきた。彼はそのまま図書室に入ろうとしたのだが、私の顔を見ると、防火扉に伸ばした手を引っ込めて私の隣に座った。


「見ない顔だね」


 彼は60番と同じようなことを言った。この病院にいる人は患者の顔を全て記憶でもしているのだろうか? そんなことを思ったが、やはり立ち振舞で新しい人間かそうでないかは分かるのだろう。


「ふうん、西の人か」


 私の膝の上に置いていた本を見て、彼はそう言った。ただ、一番上にあったのが60番の借りた本だったから、


「いえ、これは友人が借りたもので」


 と返事をしたが、


「いや、どちらにしても西の人だろう。西の人が東の人と深い関わりを持つことは少ないし、東の人はそういう本を読まないからねえ」


 と言った。そんなものなのか、と私は素直に納得した。


「俺はここが長いから分かるんだよ。いつからここにいるのか、覚えてないくらい長いからねえ」

「それは以前の記憶がないということですか?」

「いや、この歳になると忘れっぽくなるんだ」


 それから60番が帰ってくるまでの間、少しだけ彼と話した。彼はボイラー整備士で、普段はこの病院の地下に常駐しているとのことだった。休憩時間中は地上に出てくることが多いらしいが、この病院の中はどうも息苦しくて仕方ないと愚痴をこぼしたりした。それは外の空気を吸えないせいで、よく裏庭に出て煙草を吸うのだと言った。


「裏庭? この病院には裏庭があるんですか?」

「ああ、あるよ。館内は禁煙だから、そこに行かなきゃ吸えんのだよ。まあ、あんたにはまだ許可が下りないかもしれんがね」

「許可ですか。ひょっとすると、外に逃げてしまう人がいるから?」

「まあその、逃げるという表現が正しいかどうかは置いとくとして、勝手に外へ行ってしまうと大変だからねえ。この辺りには何もないし、外はおっかないことばかりだからなあ」

「おっかない……?」

「世間様はおっかないのよ。病人だからと丁重に扱いはするが、内実は自分に害が及ぶのが怖いんだな。ほら、単なる風邪引きでも伝染するのを嫌がる者がいたりするだろう、それと同じことだよ。ところであんた、さっきから質問ばかりだが、もうちょっと自分のことを話したらどうだい」


 少しはぐらかされたような気がしたが、彼の言うことも尤もだと思って、私は自分のことを話すことにした。けれども、


「私は……、自分が誰なのか分かりません」


 そんな弱々しい言葉しか出てこなかった。私は語るべき自己というものを見失っていた。

 彼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「まあ、誰でもそんなもんだ。俺もこんな生活を始めてから、自分が何なのか分からなくなっちまった」


 それは慰めの言葉ではなかったが、どこか温かいものを感じさせた。それで私は彼に好感を持った。


「ところで、もう一つだけ訊こう。野球は好きかい?」

「いや、野球は特に好きでもないですが……」

「俺はね、積年のライバル対決に注目してるんだ。イーグルスとエクスペリメンツ……だったかな、とにかくそのどちらが競り勝つか気になるんだが、あんたはどう思う? 勘で良いから答えてくれよ」

「じゃあ……、イーグルス、ですかね」

「そうか、イーグルスか。いや、大した意味はないんだが、あれはイーグルス好きの誰々だったな、彼はエクスペリメンツ派の誰々だったよな、なんてふうに覚えるんだ。そうするとすぐに人の顔を覚えられる。まあ、特に意味はないんだ」


 彼はそう言うと立ち上がった。じゃ、と言って図書室に入ろうとするのを私は呼び止めて、


「あなたはどちらが好きなんですか?」


 と訊いた。すると彼は、


「特別な肩入れはしないようにしてるんだ」


 とだけ言って、防火扉の向こうに消えた。






 私と60番は食堂に戻って、それぞれの借りた本を見せ合った。この著者の作品はどうだとか、これは名前しか知らないけれどどんな本なんだろうとか、ごく当たり前のことを語り合った。そして私が三冊目に借りた写真集を見せると、60番は少し暗い表情になった。


「どうしたんだよ」


 私はその変化を見逃さずに尋ねた。あまり良い選択じゃないな、と彼は言った。


「その類の写真集を見ると、つい悲しくなるんだ。例えばアカプルコの砂浜の写真なんかを見ると特にね。何故かって、そりゃあ二度とこの目で見ることができないからだよ」

「君はそんなに重いのか?」

「僕みたいな体型だと体重は軽いさ」


 と、彼は自分の薄っぺらい胸板に手を置いて冗談を言ったが、すぐに真面目な顔に戻って話を続けた。


「実は僕にも分からん。とにかく外に出られないんだ。先生に尋ねてもはぐらかされるし、担当の看護婦に訊いても教えてくれない。一度、無断で外に飛び出したことがある。だが、すぐに見つかって連れ戻された。そして一週間は部屋から出られなかった。あれは酷かった」


 その酷かったという言葉が、外に逃げ出したときのことを指しているのか、それとも一週間も部屋から出られなかったことを指しているのか、よく分からなかった。それでもそのことを深く追求するのが怖くなって、私はある仮説を立てているのを告白することにした。


「ここはどこかの孤島なんじゃないか? だから一人で外に逃げることはできないし、もし監視の目を逃れたとしても酷い目に遭うとか」

「それは違う」


 だが、呆気無く否定された。だから私は引っ込みがつかなくなって、


「じゃあ、裏庭に案内してくれないか。ここがどんな場所なのか、そこに行けば分かる気がする」

「……そうか、もう裏庭のことを知ってしまったのか」


 と、またしても彼の暗い顔に対面することになった。


「裏庭に行っても同じことさ。束の間の開放感はたしかに味わえる。だが、それでも決められた領域の外に出ることは許されない。あんな場所が開放されているのは残酷なことだと前々から思っているくらいさ」

「案内してくれればそれで良い。頼む」

「僕は行きたくない。君には悪いが、一人で行ってくれ」


 そう言うと彼は私に裏庭への行き方を教えてくれた。病院の案内板には載っていなかった裏庭への行き方を。

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