02
私はしばらく窓口の前に座っていた。窓口の人間が来ないにしても誰かがここを通るだろうと考えたのだが、十分程度経っても人は通らなかった。その十分の間、私はほとんど何も考えずにただ座っていた。頭の中に濃い霧が発生したような感じがして、その霧を取り払って何かを考えるという気になれなかったのだ。私は疲れていた。いや、正確には腹が減っていた。それで頭が働かないのだろうと気付いたときには、十分が経過していた。私は立ち上がって食堂の方へ向かうことにした。
通路を通っていくつもの部屋の前を通り、迷うことなく食堂に到着した。私を導いたのは記憶でも直感でもなく、匂いだった。私は犬のように鼻が利くというわけではないが、今は空腹ということもあってか、食べ物の匂いに敏感になっているらしかった。食堂はガラス戸で仕切られていて、その僅かな隙間から匂いが漏れてきているのだった。私はそのドアを開け、五十人は収容できるであろう食堂に入った。真ん中には二人の看護婦が向い合って座っていて、また何人かの患者も食事をとっていた。ようやく人の気配を感じることができて、私の不安は少しばかり取り除かれた。私が食堂に入っても誰もこちらに関心を払おうとはしなかったが、それは居心地の悪いものではなく、私の異常性を否定する側面もあり、それでまたほっとした。
カウンターには感じの良いおばさんが座っていて、今日この時間に用意できるいくつかのメニューを教えてくれた。私は迷わずカレーライスを頼み、飲料水をコップに汲んで、窓際の席に座った。さすがに食事をする場所には外の様子を窺える窓の存在が許されていたのだが、背の高い植物が生い茂っていて、その向こうに何があるのかは分からなかった。何故かは分からないが、檻の中の動物を見ているような気分になった。目が覚めてから初めて口にする水は程良く冷えていて、三割増しの美味しさに感じられた。水のお代わりを汲んでから席に戻ると、ちょうど食事が運ばれてきた。ありきたりで平凡なカレーライスだったが、これもやはり私の空腹のせいもあって、とても美味しそうに見えた。実際、それは今までに食べた中でもかなりの美味しさだった。しかし、今までにどんなカレーライスを食べてきたのかは思い出せなかった。
半分ほど食べ終えたところで、私は休憩がてら周囲の様子を見渡した。二人組の看護婦は食事を終えた後も何か世間話をしていた。何度か出入りがあって、今は私の他に四人の患者が座っている。食事が運ばれてくるのを待っている者、ゆっくりと味わいながら食事をしている者、手紙のようなものを書いている者、文庫本を読んでいる者。各々が各々の時間を過ごしていて、この食堂の雰囲気によく馴染んでいた。私は自分がここの雰囲気に溶け込んでいるとは思えなかったが、他の者からどう見えているのかは分からなかった。
それにしても、彼らは入院着を着ているから患者だと分かるのだが、どこからどう見ても健康そのもののように見えた。もちろんそう見えているだけのことで、内臓に疾患があったりして重い病気を抱えているのかもしれないが、彼らの表情に病気と同居している苦しみのようなものは感じられなかった。彼らはどうしてここにいるのだろう?
不意に文庫本を読んでいた男と目が合った。私はすぐに目を逸らして食事を再開したが、彼は何かを感じ取ったかのように私のテーブルに近付いてきて、そして向かい合う形で席に座った。
「失礼、見ない顔だね」
私は驚いた。それは彼が突然声をかけてきたせいでもあったが、私はその声の美しさに目を瞠った。どこかの劇場で舞台に出ていてもおかしくないような、声の美しさと滑舌の良さだった。
彼は私と同じか、少し年上くらい、つまり三十歳前後に見えた。
「貴方は?」
「名前は……、まあ、そんなものを知っても仕方ないか。こういうものに興味がある」
彼がそう言って示した文庫本には、あるギリシャ悲劇のタイトルが記されていた。私はそういったものに興味がなかったので、すぐにそのタイトルは忘却の彼方に押しやられた。
「なかなかこういうものに関心を示す人はいないがね。君はどうだい?」
「私も多数派の一人ですね」
「そうか。まあ、仕方ない。それは仕方のないことだ」
彼はぶつぶつと何かを呟いてから、私の顔を見据えてこんなことを言った。
「僕の部屋に来ないか?」
「貴方の病室に、ですか?」
「そう、僕の部屋。見せたいものがあるんだ」
「貴方はそうやって、誰に対してもそんな誘いをしているんですか?」
「誰に対しても、ということはないがね。ただ、もう誘う人間がいなくなってしまっただけのことさ」
それは見境なく人を誘っていることの証明ではないかと思ったが、私はそう言いたくなるのをぐっとこらえた。
「見せたいものとは?」
「希望だよ。他には何もないが、希望だけはある」
私はカレーを口に運びながら少しばかり考えた。他に頼れる人間もいないし、彼にこの病院のことを教えてもらっても良いように思えた。見ず知らずの男の病室に付いて行くことに抵抗はあったが、ここは仮にも病院なのだから、危険があるというふうにも思えなかった。それに今の私には失うものは何もない。
「分かりました。今の私には希望がありませんからね」
男の病室は私と同じく西病棟にあった。ナースステーションには私の担当の看護婦がいたが、私がギリシャ悲劇の男と連れ立って歩いているのを見ても何も言わなかった。彼女が言った通り、彼と交流するのは私に与えられた自由の範囲内なのだ。彼の病室は60号室だった。方角が違うだけで私の病室とは同じ作りだったが、ベッドの脇の収納棚にはたくさんの本が積まれていた。そしてベッドの対面には、額縁に収まった絵画が飾られていた。
「これが希望だ」
彼が指差したのは、まさにその絵画だった。ある球体の上に女性が座っている。女性は目隠しをされていて、弦楽器のような物を握りしめている。私はその意味を即座に理解した。
「音楽が、彼女にとっての希望」
「そう、その通り。察しが良いね。というよりも分かりやすいんだよ、この絵は。そこを気に入っているのかもしれない」
「しかし、貴方の好きなギリシャ悲劇は分かりやすいものなんですか?」
「何千年も前の物語だが、今に通底しているものがある、現代を生きている僕にも理解ができる。だから分かりやすいと言えるのかもしれない。最後に神が降りてきて複雑に絡み合った問題を解決するものが特に好きだ」
彼は誇らしげにそう言った。私は彼に対する警戒心を少しずつ解いていった。彼は他人に危害を加える種類の人間ではないのだ。
「時計じかけの何とやら、ですね?」
「いや、機械仕掛けの神だ。こういうふうに表記する」
そう言って彼は枕元のメモ用紙を取って"Deux ex machina"と記した。
「デウス・エクス・マキナ」
「そう。君には素質があるね」
「でも、やはり関心が持てません」
「それは仕方のないことだ。でも、物語以外にも、例えば絵画があるし、音楽もある。人の心はそういったものを受容することで奥行きが生まれてくるものだと僕は思うよ」
積み上げられた本の重みがそのまま彼の言葉の重みとなって、私の心に響いてくるようだった。私は彼に好感を持った。
「この病院は開明的なところがあって、古い映画や音楽の鑑賞会がたまにある。外から演奏家がやって来ることもある」
「外から?」
「そう、外から。僕らが考えているよりもずっと遠くから来ているらしい」
私は口をつぐんであることを考えた。彼が私よりもこの病院のことにずっと詳しいのは間違いないが、彼から情報を得ることが正しいことなのかが分からなかった。彼が本当のことを知っているかは分からないし、知っていても偏見を持っているかもしれないし、それに嘘をつくかもしれない。私は彼に好感を持ったが、それでも自分の足場を形作る情報を安易に得ることは危ないように思えた。
どうして、そこまで疑心暗鬼にならなければならないのか。それは私の中に、ある考えが、ある予感が兆していたからだ。
「まあ、少しずつ環境に慣れていくといい。今は分からないことだらけかもしれないが、ここはきっと悪いところではないはずだから」
私は彼の顔をじっと見つめた。思考が漏れているなんて考えるのは、いよいよ危ない兆候だった。私はすぐに頷いて、
「また来ますよ」
とだけ言った。彼も頷いてからベッドに寝転がり、
「悪かったね、食事を邪魔して。本当のことを言うと話し相手が欲しかったんだ。僕のことは好きに呼んでくれて構わない。ギリシャでもワッツでも60番でも、好きなようにね。しかし、最後のは囚人のようで奇妙だな」
と言った。私はまたもや彼の顔をじっと見つめてしまったが、彼は天井を見上げていた。
彼の病室を出た私は、無機質な廊下を遡って行った。ナースステーションに通じる重たいドアを引いたとき、彼の言葉に感じた引っかかりが解消されていった。
彼はこう言った、囚人と――。
60号室から帰って来た私は、自分の病室の殺風景なことに改めて気付かされた。壁に絵画は掛かっていないし、本が積み上がっているわけでもない。それにここでは臭いすらも感じられなかった。彼は入院生活が長いのだろう、60号室の天井や壁や床には体臭や食べ物の臭いなどが染み付き、さらに古くなった本の臭いが漂っていた。ベッドに入った私は、自分がこの場所に来たばかりなのだということに思い至った。しかし、ある観念が私の心の奥底に根ざしていた。それはいつの間にかそこに根ざしていた。
つまり、私は何度も生を繰り返しているのではないか、ということだ。
どうしてそんなふうに感じるのかは分からない。いつからそんなふうに感じているのかも分からない。ただ、私はそれを否定することができなかった。
何かがドアを叩いた。それは程良い大きなノック音だった。私が返事をするよりも早く、看護婦がするりと病室に入ってきた。
「お食事をされましたね?」
「ええ。いけませんでしたか?」
「いえ、先程も申し上げたようにそれは自由です。ただ、こちらも経過を見なければなりませんので」
彼女はそう言って、また私の情報を書類に書き込み始めた。彼女は私と向き合うというよりも書類と向き合っているようだった。
「毎度毎度、申告が必要なんですか?」
「こちらでも記録はしていますし、その必要はありません。ただ、始めは念入りにしなければならないんです」
「そう、それは大変ですね」
「これも仕事ですから」
彼女からは相変わらず事務的な印象を受けたが、それでも少しは気持ちが解れてきているように思えた。それはもしかしたら、私を取り巻く状況が改善されたことを意味しているのかもしれない。それでうっかり心の奥底の観念を漏らそうかと考えたが、すぐに思い直した。そんなことを言ったところで何かしらの利益があるようにも思えなかったし、束の間の自由を奪われてしまうかもしれない。私は方向を変えて、質問をしてみることにした。
「私の主治医の先生はもう来ないのですか?」
「院長ですか? あの方はお忙しいので今日はもうお会いになれません」
院長という言葉に驚いて、私は彼がろくに診察もしなかったことをすっかりと忘れてしまった。この病院の内情は分からなかったが、院長が直々に診るということはそれなりの意味があるように思えたから。
「私の症状はそんなに重いのですか?」
「いえ、そういうことではないのです。この病院の医師は一人、院長だけです。ですので、貴方が特別だということではありません」
「そうか、しかしそれは……。こういうことを訊くのもどうかとも思いますが、それでこの病院は成り立っているのですか? こんなに大きな病院で患者も少なくはないだろうし」
「ご心配はいりません。院長は精力的な方で、丸一日働いていても平気なのです。それにその代わりというわけではありませんが、スタッフはたくさんいますので、緊急時の対応にも問題はありません。ここには外科手術が必要な患者さんもいませんし、比較的症状の軽い方ばかりなのです」
「そうは言っても――」
「今は腑に落ちないこともあるかもしれませんが、この病院はそうやって成り立っているのです。まずは一週間、我々に時間を下さい。それで納得できなければ、退院されても構いません。それも自由なのですから」
そう言って、彼女は私に微笑みかけた。作った笑顔であることが分かっているにも関わらず、実に魅力的で、彼女が私の好みだったならきっと言いくるめられていたことだろう。まるで通信販売のクーリングオフのようだと皮肉を言おうかとも思ったが、私もここは一旦了承することにした。
彼女が出て行ってから、私は60号室の彼と同じようにぼんやりと天井を見上げた。ここには百以上の病室があるが、きっと誰もがこうして同じように天井を見上げていることだろう。ここではそうするより他にないのだ。
それから、私は一度顔を合わせたきりの院長の顔を思い出した。彼は私を見て何と言っただろう? 私がその言葉を思い出したのは、眠りに落ちる寸前のことだった。
「完ぺきに治ったね」