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01

 病的に白く白く、魔を封じ込めるために塗り込められたかのようなその天井は、どこか見覚えがある気がした。ちょうど木目にありもしない模様を錯覚するのと同じように、私はどこかで似たような天井を見たのだろうと思うことにした。その白さで、またその静けさで、そしてその固さで、私は病院のベッドに横たわっていることを直感した。そうなるまでにどれくらい天井を眺め続けていたのか分からない。私が目を覚ましたことに気付いた看護婦が私の顔を覗き込んで何事かを尋ねてきたので、そう長くはない時間だったろう。看護婦が患者から目を離しているはずがないのだから。けれども、私は何故かずっと長い間この天井を眺めていたのだと、これまた直感した。


「聞こえていますか? ご自分のお名前は分かりますか?」


 私は一度目を閉じて、彼女の声に頷いた。どうして目を閉じたのかというと、そこに濃密な女の体臭のような、押し付けがましさを感じたからだ。半ばはそれにうんざりしながらも、半ばは喜びを感じた。女の声に喜びを感じるのだから、私はきっと男なのだろう。今はまだ目を閉じて看護婦の声を聞いていたかった。


「お名前は?」


 しかし、看護婦が絨毯爆撃のように質問を浴びせかけてきたので、私は不本意ながらも目を開いた。それから答えようとしたが、私は自分の名前が分からなかった。ベッドの傍に何か手がかりを探そうと起き上がろうとしたが、それを看護婦の手が制した。私は苛立って、


「ここはどこなんだ?」


 と言った。

 名前が分からないのね、と看護婦は呟いた。そして書類か何かに私の状態を書き込む音がした。看護婦は私の問いに答えようとはしなかった。

 私は天井から視線を右側に動かした。看護婦がボードに留めた書類に文字を書き込んでいた。落ち着いた声からは想像できなかったが、若く、そして美しい女性だった。ちょうどボードに隠れてよく見えなかったが、程良い肉付きの魅力的な女性であることが分かった。しかし、私自身は何も感じなかった。彼女が若く美しいということを理解するのと、私自身が実際にそう感じるのとは、近いようでいて全く違うことだった。

 しばらく彼女の顔を見つめていたが、彼女は眉一つ動かさず何かを書き続けていた。彼女はドイツ語を理解するだろうか? 少なくとも英語は理解するだろう。あるいはフランス語を理解できるかもしれないが、古き日の外交官ではないのだからフランス語を理解する必要はない。そうやって相変わらず彼女の顔を見つめていたのだが、不意に彼女が私と目を合わせた。やはり彼女は表情を変えず、また私も何らの感情も抱きはしなかった。


「ここはどこなんだ?」


 目を合わせたついでに私はさっきの質問を繰り返した。彼女はやはり答えなかった。

 私は仕方なく自分の置かれている状況を理解するためにあちらこちらへと視線をやった。視線を左手に向ければ、壁の高い位置に長方形の窓が横たわってちた。外の様子を見ることはまず不可能だろう。そこで今度は自分の身体を見下ろした。よく分からない装置にでも繋がれているかもしれないと思ったが、私は点滴さえ受けていなかった。両手両足も問題なく動いた。それで少し、ほっとした。そして次の瞬間にはまた不安が首をもたげてきた。肉体に異常がないとすれば、私はどうしてこんなところにいるのだろう? 肉体でなければ、精神的な異常だろうか?


「私はどうしてここに?」

「すぐに先生が参ります。お待ち下さい」


 私が尋ねたのとほぼ同時に彼女は手を止めた。そして私に軽く一礼すると、ゆっくりとドアを開けて廊下に出て、ゆっくりとドアを閉めた。廊下側に窓はなく、そちらの様子は窺えなかった。ドアの向こう側でジャラジャラという音がしたかと思ったら、鍵の閉まる音がした。私は独り、病室に取り残された。


「ここはどこなんだ?」


 私は決して帰ってくることのない問いをドアに向かって投げかけた。






 病室には何もなかった。ベッド際に可動式の収納棚があるくらいで、時計さえなかった。私は身体を起こして棚の引き出しを開けてみたが、三段ある引き出しの中には何も入っていなかった。

 ドアの向こうでジャラジャラという音が聞こえたので、私は再びベッドに横たわった。鍵の開く音がして、ノックをせずに白衣の医者が、続いて先程の看護婦が入ってきた。私の主治医である医者は六十代くらいの老人だった。白衣の白さも姿勢も立派なものだったが、どこか好ましくない男だった。私がそう感じたのは、医者というにはあまりにギラギラとし過ぎる瞳のせいだったのかもしれない。

 二人はベッドの傍に立って、私と私のカルテらしき書類とを見比べた。私も遠慮無く彼らのことを観察してみたが、この老人と並ぶことによって看護婦の美しさはさらに輝きを放つようだった。魅力のある女性だったが、私はやはり彼女には惹かれなかった。医者はコホン、と軽く咳をすると、私に向かってこんなことを言った。


「完ぺきになおったね」


 私がその意味を問いかける間もなく、彼はくるりと背後に向き直って病室を出て行ってしまった。彼に対する直感は正解だった、と私は思った。


「私は正常なんだろうか?」


 彼女はどこまでも私の質問を無視するつもりでいるらしかった。そのために私はベッドに横たわっているしかなかった。


「では、簡単に説明します。入院中に守って頂く規則はたった一つ。この病院から出ないこと、それだけです」


 まあ、そうだろうと私は思った。患者が勝手に出入りするようなら治療などできるはずもないだろう。

 治療。治療といえば、私はどんな治療を受けるのだろう? 私は尋ねたくなる気持ちをぐっと呑み込んで、彼女の説明を聞くことにした。


「それさえ守って頂けるのであれば、あとは自由にされて構いません」

「自由というと、具体的には?」

「日中の過ごし方も自由ですし、食事もある程度は融通が利きます。裏庭や図書室や食堂など、病院内であればどこで何をされても結構です。他の患者さんや病院の人間、誰と交流されても構いません」

「なるほど。ちなみに消灯時間は?」

「午後十時です。とはいえ、それも便宜的なものですが」


 彼女の話を聞くうちに、私が精神に異常を抱えているという結論は正確であるように思えてきた。今のところ、私は全くの正常な人間であると思えるが、それは他者という鏡が存在しないためであり、その鏡の前に立てば何かしらの異常が見つかるだろうと思った。しかし、それは考えようによっては不思議なことだった。人は自分の正常さを探求することはあっても、自分の異常さを探求することはなかなかないように思えたから。


「他にご質問は?」

「時計が欲しい。それ以外に望む物もないし、君が答えてくれそうな質問はもうないよ」

「すぐにご用意します。では、くれぐれもご注意下さい」


 彼女はそう言うと、静かにドアを開けて去って行った。今度は鍵を閉めなかったので、ジャラジャラという音はしなかった。

 耳鳴りがしそうなくらいに静かな病室だった。私はまた取り残された。






 身体の調子は悪くはなかった。痛みやだるさなどはなく、腹具合は空腹でも満腹でもなかった。頭は少しぼんやりとしていたが、一つの症状として考えるほどのものではなかった。歩くのには申し分ない状態だった。

 ベッドから見て右手の壁に取っ手があり、そこがロッカーであることが分かった。そこに自分の服が入っているのではないかと思い、立ち上がってロッカーを開けてみることにした。さっき目を覚ましてから初めて立ち上がるので、ゆっくりと身体を起こしたのだが、二、三歩ほど歩いてみても問題はなかった。そのまま歩いてロッカーを開けてみると、ハンガーにかけられた入院着の着替えがあり、下の方に何組かの下着が畳まれていた。私の身分を示すような手がかりは何もなかった。

 ベッドに横たわっている間は気付かなかったが、廊下へ通じるドアの手前、こちらから見て左側に洗面台があった。洗面台があるということは、きっとトイレがあるのだろう。ひょっとしたらシャワーもあるかもしれない。私は恐る恐る洗面台に近づいて行った。自分では気付かない重大な欠損でもあるのではないかと思ったが、何の事はない、鏡の前にはごく平凡な青年男性が立っていた。年齢は三十歳前後、髪は長すぎず短すぎず、背も程々の高さだった。崩れたところはなく、むしろ整っているといえるが、それだけに面白味のない印象を受けた。それは、自分自身に対する評価としてはいささか辛辣に過ぎたかもしれない。しかし、それが私の正直な感想だった。

 飽きるまで眺め続けていられるほどの面白味がなかったので、私はそのまま廊下へ出ることにした。ゆっくりとドアを開けて、鍵がかかっていないことを確認する。空き巣に入るかのような慎重さで、私は後ろ手にドアを閉めた。完全といえそうなほどの静寂が訪れた。あまりにも静かだったので、私は一度咳払いをしてみた。上手くいかなかったのか、それとも上手くいったのにそれが響かなかったのか、とにかく静寂を払いのけることはできなかった。廊下の壁も天井もドアも床も、その白さが音という音を吸収してしまっているかのようだ。私は息苦しさを感じずにはいられなかった。

 息苦しさといえば、この廊下には窓がなかった。あの看護婦は裏庭があると言っていたが、これではどちらが裏庭なのか判然としない。前へ進むか後ろへ進むか、その判断すらできそうになかった。私はふと思いついて自分の出て来た病室の番号を覚えておくことにした。125号室。それが私という存在を他と区別する唯一の情報だった。




 さて、私は右と左のどちらへ向かうか迷った。しかし、その迷いも長くは続かなかった。右だ。右に進めば、124号室がある。そうやって番号の小さな方へ遡っていけば、この病院の中心部にたどり着けるような気がしたからだ。そうすれば、この病院の全貌とは言わないまでも、何かが見えてくるかもしれない。

 ベッドの脇に置いてあったスリッパを履いてきたせいもあって、靴音はまるで響かなかった。そんなことを考えているうちに124号室を過ぎ、123号室の前に差しかかった。ピッ、ピッ、という規則的な電子音が聞こえてきた。その音は、この部屋の中から聞こえてくるらしかった。私は歩を止めて、ドアに身を近づけた。人の気配を感じた喜びが私をそうさせたのだが、さすがに聞き耳を立てるほど倫理性を欠いてはいなかった。ただ、今はそこに人がいるのだということが確認できればそれで良かった。

 私は再び廊下を遡る作業に戻ったのだが、それにしてもこの病院の構造がどうなっているのか判然としなかった。直線に伸びるこの廊下は全部で十個の部屋に通じていて、それを遡った末に分厚いドアがある。私の予測ではそこがハブステーションに通じていて、車輪のようにこれと同じような通路がいくつもあるのだろう。もしかしたらそれが何層かに重なっているかもしれない。そう考えてみれば、ここは想像していた以上に大きな病院だということになる。しかも、なかなか奇抜な構造の。ここは公立病院ということになるのだろうか?

 公的な施設からは二つの印象を受ける。歩きながら、私はそんなことを考えた。一つは、息苦しさ。合理的なものに対する非合理的な自己の揺らぎ、近代官僚制の見えざる魔手。もう一つは安らぎ。公的なものから認められているという幻想、精妙に作り上げられた清潔感。

 しかし。私は身体を前に進めるのとともに思考も前進させた。合理的に過ぎるものは真に合理的ではあり得ないし、公的な機関は普通考えられているよりもずっと非合理的なものだ。それにここが公的な施設であるとは今のところは断言できないのだ。さらに言えば、私は後者の印象、つまり安らぎを感じていない。ただただ息苦しさや不安を感じている。その感情が私の背中を強く押し続けていて、私は早足になって正面の分厚いドアの前までたどり着いた。ドアは施錠されていないらしく、先程の看護婦の言葉が思い出された。病院内を歩き回る自由が私には与えられているのだ。

 重たいドアを引くと、私の想像していたような光景が広がっていた。何人かの看護婦が立ち働いている、そこはナースステーションだった。先程の看護婦の姿は見えなかったので、私の見えない奥の方にいるのか、それとも別の病室に行っているらしかった。看護婦たちは書類を整理したり何事かを相談し合っていたりして、私には注意を払おうとはしなかった。これまた予想していたように、私の入ってきたドアを含めて六つのドアが別々の空間に繋がっていた。向かって右側のドアは他のものと比べて色や厚みが違っていて、その上には非常口を示すマークがあり、他のものとは性格が違うことが分かった。

 広い空間に出てきたことで多少の開放感を味わうことはできたが、ここにも窓はなく、外の様子を窺い知ることはできなかった。また、病院内の地図のようなものもなかった。五つの分厚いドアの横には病室の番号を示す数字が表示されていて、右側のドアの傍には本館へ通じるという意味の情報が示されていた。私は迷わず本館へと向かうことにした。

 本館へ通じる通路もまた長かった。ただ、ジュースや軽食の自動販売機が設置されていたり、隅に観葉植物が置かれていて、ようやく人間らしい雑多な雰囲気を味わうことができた。本館側のドアを開けると、涼しい風が流れてきた。それで初めて私のいた病棟の空気が生温く淀んでいたことが分かった。

 本館に入ると、まず広い空間にぶつかった。観葉植物が置かれていたり、どこか異国の風景が描かれた小さな絵画が壁にかかっていたりした。正面に見えるドアは、やはり病棟に繋がっているらしく、東病棟と表示されていた。となると、私は西病棟から来たことになる。南側には病院の玄関口があり、北側に病院の他の機能が集約されているらしかった。左手、つまり北に向かって進むと、案内板が掲示されていた。本館には総合窓口や様々な検査室や事務室があり、他には図書室や食堂がある。地上一階と地下一階の二階建てだった。想像していたよりも小さかったが、それでも相当の面積であることは確かだった。私はくるりと振り向いて玄関口に目をやった。紛れもない太陽の光がきらきらと輝いている。その光の強さから察するに、今はちょうどお昼時を迎えた頃のようだった。それを確認できただけでも、少しは自分の置かれた状況が理解できたような気がして、すこしばかり不安が削ぎ落とされた。

 私は総合窓口の方へ歩いて行くことにした。そこで訊きたいことは山程あったが、おそらく私自身に関することは何も教えてはくれないだろう。それでも、この施設のことについては何かしら教えてくれるだろう。

 窓口があるのはさっきよりもずっと広く大きな空間だった。天井が高く、開けた場所に来たので私はようやく息苦しさから開放された。窓口の前にはいくつもの椅子が並んでいて、待合室としての機能も備えているらしかった。窓口に人影はなく、患者やその家族の姿もなかった。そして、穏やかなクラシック音楽が流れていた。音楽、そう音楽だ。私がようやく安らぎを覚えたのは、その音楽のおかげでもあるらしかった。この病院は不気味な程に静まり返っている。外から聞こえてくる音もなく、ここは郊外の静かな場所に建てられた病院なのだろうと私は推察した。窓口の近くにマガジンラックがあり、週刊誌や婦人向けの雑誌が置かれていた。新聞を見ればここがどこなのか今はいつなのか、それらが分かるような気もしたが、新聞はなかった。

 私は今、どこにいるのだろう?

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