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CHERRY

作者: ようこ

 ベランダに出るとひときわ寒い。

 ひとまわりもふたまわりも大きいダウンジャケットにくるまれ、赤い指先をぽってりとしたマグカップにあてて暖を取る。

 ふわふわとしたファーに顔を埋めると、ほのかに匂う「チェリー」の香り。

 染みついた紫煙。

 目を閉じたら、脳裏に浮かぶのは、あの赤いパッケージから1本取り出して、愛用のジッポーで火をつける哲司さんの姿だ。

 すうっと肺に煙を吸い込み、ゆっくりと味わってやがて吐きだされる白い煙。わずかに細める目。その時の哲司さんはずいぶんと扇情的であたしはいつもくらりとする。


「熱…っ!」


 カップに注いだばかりのスープはまだ湯気が立っていて、ずいぶんと熱い。

 あたしは猫舌なのだ。

 熱々が好きなのに、あたしには飲めない。

『片思いだな』

 それを聞いた哲司さんは意地悪そうな顔で笑った。童話に出てくる狼のような、もしくはあたしを食べてしまうような。そんな顔。

 ふー、ふー、とスープに息を吹きかける。少しだけでも冷めればだいぶ違うのだ。

 そこでちょうど聞き覚えのあるエンジン音がした。そろそろ換えないとな、と哲司さんが時折漏らしているブレーキパッドは未だに換えられてない。独特の耳障りな音。


 マンションの2階なので上がってくるのはすぐだ。

 哲司さんは部屋のカギがひとつ開いていることに気づいて(うちのマンションはついこの間ツーロックになったのだ)、きっとまっすぐベランダに向かってくるだろう。


 ふー、ふー。再び息を吹きかける。

 まだ冬には入ってないとはいえ、さすがに素足をちくちくと刺す冷気は痛い。


「こら。お前はまたそんなとこでスープ飲んでるのか」

「哲司さん、おかえり」

「…ただいま」

 さっと哲司さんの手があたしからマグカップを取り上げて、ベランダの窓から少し離れたフローリングの床に置いてしまった。

 ぎゅっと腕を回されて、剥き出しのうなじにひたりと額をあてられた。その冷たさにひやっとする。哲司さんのスーツからふわりとアルコールと香水と紫煙の香り。そして何より哲司さんのにおい。


「しず は体温が高いから暖かいな」

「…また、子供だからって言うんでしょ」

「湯たんぽにいい」

「またそんなこと」

 洗いざらしの髪をくしゃりと撫でられて、あたしはなんだか甘やかされている飼い猫みたいな気分になる。

 でももちろんあたしは猫じゃないし、「にゃあ」以外の言葉が話せる。哲司さんの腕の中にいるのに小さすぎないし、哲司さんの首に回すのには腕の長さも十分だ。

 それってとてもいいことだ。

 だから、あたしはゆっくりと身体を預けるように振り返って、少しネクタイの緩んだ哲司さんのえり元に自分の手を伸ばす。

 あたしがあたしである幸運のために。


「哲司さん、おかえり」

「…それさっき聞いた」

 

 そんなこと言うくせにあたしを抱き寄せる腕にぎゅっと力を入れる。

 されるがままになっていたら、お母さんが子供にする『おやすみなさいのキス』みたいな小さくて優しい口付けが降って来た。

「ただいま、しず」

 普段はどっちかって言うと意地悪なのに、こういう時だけびっくりするぐらい優しい顔をするから、哲司さんってほんと困るのだ。



* * *



 哲司さんがシャワーを浴びている間に、あたしは程よい温度になったスープを飲みほした。『もう今日は外で飲むんじゃないぞ』とさっきの優しい顔なんか想像できないくらい恐ろしい形相で厳命されてしまったので、仕方なくリビングで飲んだ。

 哲司さんの部屋のリビングは哲司さんらしくて好きだ。大きめのガラステーブルに時折広げられたままの書類や、煙草がずいぶんといっぱいになっても放置してある灰皿、まだ少しコーヒーが残っている無愛想な色づかいの無地のカップ。

 隣のあたしの部屋と同じ間取りなのに、来るたび全然違う部屋のような気がする。

 まだ大学生のあたしと、とっくの昔に社会人になった哲司さんとの間には、時間帯が合わなかったりとか金銭感覚が違ったりとか、それなりの、けど他のカップルに似たような当たり前の悩みだってある。

 けど、あたしがまだ学生であることをあまり負い目に思ったことがないのは、哲司さんがずいぶんと気を使っているのだということくらい分かっている。ああ、見えて、哲司さんはいつだって優しいのだ。いじわる言う時でも、叱るときでも。


 きゅっ、という音と共にシャワーの水音が止まった。

 

「しず?」

「哲司さん?どうかした?」

 がちゃりと遠慮なく脱衣所のドアを開け放った哲司さんは、腰に巻いたタオル以外何も身につけてない。上がったばかりでまったくタオルで頭を拭いていないらしく、ばたばたと雫がマットの上にいくつも点を作っている。


「今日は『お背中流します』はないのか?」

「あたしはどう見てももうパジャマでしょ」


 そう言って笑うあたしがパジャマのボタンを外すのを、哲司さんは肉食獣のくせに待っている。

 あたしが哲司さんの濡れた腕の中に収まるまでにそう時間はかからないと、お互いにちゃんと分かっているのだ。


 湯船の中であたしの背中をするりと撫でた哲司さんの大きな掌に、あたしはぞくりと身を震わせた。

 その掌で、あたしがあっという間にどろどろのぐちゃぐちゃになってしまうのも、お互いわかりきっていることだった。



* * *



 背中が暖かい。とくり、とくりと確かに熱を伝えてくるそれは、ふいにぎしりとベッドを揺らして離れていった。背後で、そろそろとカーテンが開けられる音。哲司さんの気配は再びあたしに近づいて来たけど、あたしは彼に背を向けているのでどんな顔をしているかは分からない。

 あたしはそこでじっとしたまま、そこで『寝ていることになっ』ている。本当はぱちぱちと瞬きをして、息を潜めているのだけれど。目を覚ましてしまうと、哲司さんがいつものをしてくれなくなるから。

 うなじのぽこりとでっぱった骨にそっと哲司さんが指をそわせた。これがいつもの、の始まりの合図。

 そのまますーっと頭の方へと背骨をなぞる。

 あたしのものとは全然違う硬い哲司さんの手が、あたしの髪に静かに絡まる。そろそろとあたしの髪をすいている。

 ぎゅっと目を閉じていると、あたたかさがより強く感じられる。

 やがて、小さな物音がした。わずかな冷気がそろりと入り込んできて、あたしは寝ぼけているふりで「んー……」と布団の中に少しだけ潜り込む。

 数瞬だけ手があたしの頭を離れ、ベッドサイドへ伸びた。くしゃりと袋をつぶす音。カチンッ、ぽっ、カチンはジッポーの音。この音がすると、手は再び戻ってくるのだ。

 流れ込んでくる冷気は細く開けた窓からで、紫煙は窓の外へ、あたしを『起こさないように』ひっそりとのぼっていく。こうして背中を向けていてもありありと想像できるほどだ。

 この一服が終わると、いつもの、はおしまい。きっと味わったら苦味を感じさせるに違いない唇で、うなじの骨に音のするキス。これが本当に終わりの合図。


 それからはまるでこの数分間なんて何もなかったかのような顔で、哲司さんはさっさと洗面所へと向かってしまうから、あたしはこのことをまったく知らないことになっている。


 今度こそ本格的に布団の中に潜り込む。ぬくいところぬくいところへと、体は自然に動くようになっているのだ。

 この、哲司さん独特の『好き』の表現が、あたしはとても好きだ。

 とてもとても好きだ。


 でも、目を覚ましたら止めてしまうだろうから、あたしはいつも我慢しなければならない。


 哲司さんの愛情は『CHERRY』のにおい。


 バスルームから流れるシャワーの音を聞きながら、あたしは再び穏やかな眠りへと落ちていった。





   ……The End?





 ……そっと息をひそめる様子がかわいいから、あいつが起きているのはいまでも知らないふり。

 そんな小さな秘密はあっという間にシャワーで流れて、もう、どこへいったとも知れない。



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