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第三十七話 『ベリアルの友人』 6. 見ている人

 


「しぇ~んぱい」

 朗らかな声に礼也が振り向くと、茜の笑顔が飛び込んできた。

「おう……」礼也もごく自然にそれを受け止める。「……っと、あれだ。……しぇんぱい?」

「水杜です」

「……おう」

「……」

「……」

「み~な~も~り~っ!」

「知ってるって!」

「すっかり忘れてましたよね、私の名前」

「すっかりわかってたって!」

「嘘ですね。わかりやすい顔してますよ、ズバリ」

「マジかって……」

「当てましょう。ほんとは、プライアントがやってきやがったなちきしょうめ、って思ってたんでしょ」

「熱でもあんのか……」

「ちっとも!」

「ちっとも?……」

「……。ふふふふ……」

「……こえ~から、変な思い出し笑いすんな」

「すみません。あまりにもあの時の感触が気持ちよかったから、つい思い出し笑いを」

「……」

「こう、下の方からズコンときた時の、イッタ~っていうあの快感です。ああ~ん、かんにんしてえ~!」

「どうせ全然違うこと言ってんだろうから、わざと昭和のハレンチマンガみたいな言い方すんのやめろな」

「ダダダダダダダダダ! かいっか~ん」

「マシンガンの引きがねが二つになってんぞ」

「快っ感!」

 降り注ぐ陽射しを見上げ、気持ちよさそうに茜が伸びをしてみせる。

「あ~、先輩にも見せたかったなあ、私のうっふん足打法改」

「ったくよ、昼間っからしこたま酔っ払ってやがんのか」

 その顔を眺め、茜がいたずらっぽく笑った。

「ん?」

 じっと見つめる茜に、礼也がいごこちの悪そうな顔になる。

「なんだ。なんかあんのか」

「先輩、何か心配事とかありません?」

「!」ドキッ。「……なんも」

「今、ドキッて顔しましたね」

「……ちっとも」

「嘘です。何か悩みごととかあるよって、ばっちり顔に書いてありますよ」

「……」礼也が覚悟を決めた顔になる。「実はよ、この先世界経済がどうなってくんだろうって考えてたらプチアンニュイになってよ。或いは、いっそデビル族とかが攻めてきて、地球がぶっ壊れでもしたら、人類はどうしたらいいんだろうってことを常々だな……」

「それもあらためてたっぷりのりつっこみしたいくらい大事なことかもしれませんが、出席日数が足らなくてこのままじゃ卒業できないかも、とか先生に言われたんじゃないですか。たった今」

「おまえ、エスパーか!」

「そう顔に書いてあります。一言一句たがわずくっきりと」

「そんなドンピシャにか……」

「ズバリ!」


 渡り廊下を歩いていた夕季が足を止める。

 誰かに呼ばれたような気がしたからだった。

 しかしそこには誰もおらず、なんとはなしに沈んだ気持ちになる。

 ふと目を向けた先で、季節はずれの陽気に包まれ中庭で嬉しそうに笑う礼也の姿を見かけた。

 礼也がそんなふうに笑うのは、身内の他は楓しかいないはずだった。

 だが、夕季に背を向け、礼也と向かい合うその後ろ姿が、楓以外の人間のものであると気づく。

 茜だった。

「ほらみろ、俺の言ったとおり優勝したじゃねえか。楽勝だったろ」

「そんなことおまへんがな」

「どこがだって。ぶっちぎってたろ。二位の奴に十倍くらい差をつけてたそうじゃねえか」

「まあ、実際はそんな感じだったんですけど、そういうことにしとかないと好感度が下がるから」

「なんだ、そりゃ」

「優勝するのもそうだけど、好感度をキープし続けるのはもっと大変なんですよ! わかってます!」

「いや、俺、怒られてんのか……」

「すみません、今、好感度のことでぴりぴりしてて。こないだちょっと下がりかけたから。はあ~……」

「……なんかよくわかんねえが、けっこう大変そうだな」

「ええ、そうなんですよ。おかげさまでなんとか、絶賛キープ中ですけど」

「誰が絶賛してんだって……」

「そんなことより、先輩、約束は守ってもらいますよ」

「約束?」

「プレミアムのメロンパン、五個」

「あ、ああ、ああ。したっけな。そんなの。……したか?」

「すっかり忘れてましたね」

「いや、したした。した。……三個じゃ」

「五個です」

「だったか。……プレミアムか」礼也がふうむと考え込む。「三個までなら普通に買えるんだけどな。あんまおばちゃんに無理言うのもなんだし、後でツンケンと買いに行くか」

「だったら私が行きます」

「ん?」

 不可思議な様子で顔をゆがめる礼也に、にっこり笑いながら茜が言った。

「フレールでしょ。実はこの前私も行ってきたんです。霧崎先輩の知り合いだって言ったら、おばさん一つサービスしてくれました」

「俺の名前出したんかよ。勝手に」

 気持ち、ぶすっとなる礼也。

 が、それすらも笑顔で受け止めて、茜は続けた。

「おばさん、先輩のことすごく褒めてましたよ。見た目は怖そうだけど、礼儀正しくていい子だって。お孫さんとも遊んでくれて、暴走族なのにとても優しいところがあるって」

「お、やめ……、暴走族っつってたのか?」

「前に来た先輩の知り合いの人達に聞いたって言ってましたよ」

「俺の知り合いって……」

「口が大きい人と背が高い人」

「綾さんとしの坊だな。なろ」

「と一緒に来てた人」

「てこた、夕季か。カレーパンいっぱい買ってった奴って言ってたろ」

「ああ、あれ古閑さんのことだったんだ」

「やっぱりあの野郎か!」

「その人達と一緒にいた意地悪そうなかわいい子だって」

「雅じゃねえか!」

「コンテストで優勝したらまたサービスしてくれるって言ってくれました。全部先輩のおかげです」

「お、おうん……」

 怒りを上回る照れ放題に礼也が戦意をそがれる。

 それをおもしろそうに眺め、茜は太陽のような笑みを礼也へと向けた。

「……普通のなら今持ってるが、食うか」

「いただきます!」

 礼也からメロンパンを受け取り、茜が一まとめに口に放り込む。

「お、おいひい!」

「またおまえは一口でよ……」

「んがっふんぐ!」白目を剥いて胸を激しく叩き始めた。「おっほ、おっほ!」

「ゴリラか……」

「死んじゃう! 駄目、本当に死んじゃう! あかん! 何かが出ちゃう!」

「……何がおまえをそこまでさせんだ」

「うまい! おえええ~っ!」

 その光景を夕季は複雑そうに見守っていた。

 表情も変えずにそこから立ち去る夕季。

 入れ違いに現れた楓が不思議そうにその背中を追った。

 首を傾げながらも思い直して、楓は礼也の方へと向き直った。

「れ……、霧崎君」

 楓の呼びかけに二人が振り返る。

 二人とも笑顔ではあったが、礼也のそれはとりわけ助かったという意味合いが強いものだった。

「おう、つ、……桐嶋」

「今、つんけんって言おうとしたよね」

「……ちっとも」

「ちっとも?」

 笑顔のまま礼也と二言三言交わし、茜がぺこりとお辞儀をする。

 その背中を見送る礼也の顔も笑顔だった。

「こんにちは。失礼します」

「あ、み……」

 茜に挨拶を返そうとした楓の声がそこで途切れる。

 表情こそ柔和なままだったものの、茜が真っ直ぐ前を向いたまま通り過ぎようとしたからだった。

 楓の方を一切見ようともせず。

 まばたきも忘れ、楓がその背中に釘付けとなる。

 不思議に思った礼也が近づいて来た。

「なんだ、何かあったのか」

 礼也に言われ、弾かれたように振り返る楓。すぐさま笑顔を構築した。

「なんでもないよ」

「ほんとか」

「ほんとだよ」

 その笑顔が乾き出したことに礼也は気づくよしもなかった。

「……あのな」

「何」

「……いや、やっぱいいわ」

「……」


 夕季の中で茜の印象が変わりつつあった。

 茜にしてみれば、みなと親しくなり自然と距離を縮めただけなのだろうが、なんとなく自分だけがそこから取り残されているような気がしていた。

 別段、茜が悪いわけではない。

 自身が社交的でないことや、対照的に茜がそれに秀でていることも承知している。

 以前ならば、そんなことなど気にも止めなかったはずだった。

 だが少ないなりにも周囲との信頼関係を築いてきた今となっては、逆に己の拙さを痛烈に思い知ることとなっていたのである。

 そういった感情を夕季はうまく整理できずにいた。

 説明しようがない不安につつまれる。

 心のどこかで引っかかる、悪気はないのに、取られたような気分。

 かつての礼也が過剰に反応していた感情に他ならなかったが、その気持ちも今ならば理解できそうだった。

 茜が不思議な魅力を持つことは、夕季も認めていた。

 そこにいるだけで着実に笑顔の輪を広げていく。

 どこまでのエリアを網羅しているのかはわからなかったが、少なくとも夕季の周囲にいる人間達はすべてその輪の範疇にいるはずだった。

 前にトラブルになった傘泥棒の仲間の輩ですら、茜と親しげに話すのを目撃していた。

 その笑顔に接することで、誰もが茜と親しく話すようになる。

 そして何故だか、自分一人だけがそこから取り残されたような感覚に見舞われていた。

 得体の知れぬ、惨めな敗北感とともに。

「古閑さん」

 廊下で声をかけられ、夕季が振り返る。

 そこには出きらない勇気を無理やり振り絞ったような、やや卑屈な秋人の笑みがあった。

「これ、よかったら」

 秋人が差し出した紙袋の中を夕季がそっと覗いてみる。

 ずっしり重そうなそれには、みずきらとの話題にあがった漫画本がびっしり入っていた。

「篠原さんから返ってきたんだ。あの人、もう全部読んじゃったんだって。よかったらどうかなって。つまらないかもしれないけど」

「……」

 無言硬直状態の夕季に、秋人の心臓の鼓動がひとりでに跳ね上がった。

「あ、つまらないかもしれないけど、俺はけっこう好きでさ。古閑さんのお姉さんとかも読むかなって思って。シリアスなとこもあるけど、基本、ギャグマンガだし。穂村君もまた読むかもしれないし。篠原さんもバカバカしいけどおもしろかったって言ってたし。いらなかったら持って帰るけどさ。あ、重いし、邪魔になるかな。電車だと持ってくの大変だよね。穂村君に渡しとこうかとも思ったんだけど。あ、ほんとにさ、どっちでも好きな方で……」

「ありがとう」

「あ……」

「おもしろそうだから読みたい。借りていい?」

「……あ、うん」

 安心したように秋人が笑う。途端に肩の高さが五センチも下がった。

「お姉ちゃんもこういうの好きだと思う。昔のカンフー映画とか好きで、DVDも集めてるくらいだし」

「あ、はは。……ジャッキーとか」

「うん、それ」

「はは、おもしろいよね、あれ」

「うん」

「水杜さんも好きだって言ってたけど」

 その一言にわずかに反応する夕季。

「水杜さん、いい人だよね」

「うん。だけど、俺は苦手かな」

 淡々と発した夕季に、秋人がそう答える。

 それが理解できずに夕季は、「どうして」とごく自然に聞き返していた。

 真顔で夕季に問い詰められ、困惑の表情をみせる秋人。だが先ほどまでの動揺は出さすに、落ち着いた様子で思っていることを口にした。

「どうしてって聞かれてもうまく言えないんだけど……。うん。何を考えているのかよくわからなくて。あ、俺なんかがこんなこと言うの変だけど。他の人のことだってよくわかんないんだけど」

「……」

 メガネを曇らせ、焦って手をばたばたさせる秋人の姿も、夕季の目には映ってはいなかった。

 メールの着信を確認する。

 二件あり、みつばとみずきからのものだった。

 みつばからのものは、先日の野球部との交流試合を見て夕季のファンになったという同級生達を、今度連れて行きたいという内容だった。

 みずきからは、一緒に観に行く約束をしていた映画の前売り券を買ったことが書かれていた。

「……」

「あ、そういえばさ、あのゲームってまだやってる……」





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