第三十六話 『バニシング・ポイント』 10. 昨日と今日
楓は寒さに震えながら、一人、駅前のバスターミナルで周囲の様子をうかがっていた。
見知らぬ街の見知らぬ景色は雪に彩られ、そこがまるで遠く離れた異国の地であるかのように錯覚させた。
やがて夕闇が暗く雪を汚す頃、街灯の淡い光に包まれて、二つの影が現れる。
会話もなく並んで歩く礼也と一穂の姿を確認すると、安心したように楓が笑みをこぼした。
一穂は礼也の横でうつむいたまま元気がない様子だったが、礼也の上着を肩からかけ、時おり横目を向けて隣を確認するような仕草を見せた。
楓に気づき、礼也が少しだけ表情を曇らせる。
「先に帰っとけって言ったじゃねえか」
「仕方ないでしょ。電車が運休になっちゃったんだから」いたずらっ子をたしなめるように笑った。「待ってるのはかわりのバスの方。別にあなた達を待ってたわけじゃありませんから」
「……」
一穂がちらと目線を楓に向け、目が合うとさっとそむけた。
表情も会話もない二人を、楓が静かに見守る。
ターミナルの屋根の下で、頭と服に積もった雪の塊を二人が払い始めた。
「傘、持ってきてないの」
「んあ?」眉を寄せてそう言った楓に、礼也が怪訝そうな顔を向ける。「雪に傘さすバカがいっかよ」
「そんなの初めて聞いた……」
無言のまま、礼也と一穂が同じアクションで頭上の雪をばさばさと振り落とす。
「待ってて、タオル持ってるから」
「いらねえって」
「風邪ひくよ」
「んなことで風邪なんかひいてられっか……」
突然、ぴゅうと風が吹き抜け、三人の身体がぶるっと震えた。
「へっくしん!」
「へっくし!」
二人が同時にくしゃみをするのを見て、一瞬あっ気に取られた後で、楓が安心したように笑う。
「とりあえず髪くらい拭いといたら」
「俺は別に……」
「一穂ちゃんの方がよくないよ。ちょっと赤い顔してるし」
「んだ?」
楓から手渡されたタオルを、礼也が一穂に差し出す。
嫌がる一穂の頭を無理やりガシガシ礼也が拭き始めると、そのやりとりはちょっとした小競り合いのようになった。
思わず苦笑いの楓。
「あ」
ふいにバッグの中のそれに気がつき、紙袋に入ったメロンパンを二人へと差し出した。
「お腹すいてない? これ食べて。礼也君も」
「……おう」
楓から差し出されたメロンパンを受け取り、タオルで髪の毛を拭きながら、一穂がもくもくと食べ始める。
それを嬉しそうに眺め、楓が笑いかけた。
「おいしいでしょ。今朝買ったのだけど、まだかたくはなってないはずだから」
「……ん」
「なんか言えって」
メロンパンを持つ反対の手で、礼也が一穂の頭をぱちんとはたく。
すると申し合わせたように、一穂も礼也の足を蹴りつけた。
「ってえな」
楓が楽しそうに笑う。
同じようにパンを頬張ったまま二人が表情のない顔を向けると、楓はやれやれと言わんばかりの様子で二人を見比べて言った。
「よく似てるね」
「はあ! なんでこんな奴と俺が!」
「そっくりだよ」
「……」
不服そうな顔の礼也を眺め、楓が微笑ましげに目を細める。
その母親のような表情に、礼也は何も言えなくなった。
一穂も少しだけ口もとを震わせたが、頬にかかった雪を手で払ったのか涙を拭ったのかわからない仕草を一度だけして、何も言わずにメロンパンを食べ続けるのだった。
会話が途切れた頃合いで、タイミングよく代替えのバスがのろのろと姿を現すと、楓は控えめに二人に笑ってみせた。
「私、行くね。乗る方向違うから」自分が持っていた傘を礼也に渡す。「これ使って。私はもう一つ折りたたみのがあるから」
「おまえのカバンの中には何でも入ってんだな。心配性にもほどがあんだろ。その様子じゃ無駄なモンがまだまだいっぱい……」
「やかましいです!」
「んぐ……」
真顔で楓に返され、少しだけ礼也が反省する。
それを眺め、くすっと楓が笑った。
「しようがないじゃない。そういう性分なんだから。別に誰かに感謝されようとか、期待なんてしてないよ。でもいいの。好きで重たいカバンを持ってるだけだから」
「……桐嶋」
背中を向けた楓を、礼也が引き止める。
振り返る楓に、礼也は穏やかな表情を差し向けた。
「……。サンキューな」
「……うん」
少しだけ淋しそうに笑い、楓が二人のもとから去って行く。
礼也と一穂はその車影が見えなくなるまで見守っていた。
メック事務所の応接室に難しい顔を突きつけ合う、礼也と桔平の姿があった。
小さなテーブルの上に散らばった書類を見比べ、ソファに差し向かって二人が座る。
「……とまあ、だいたいそんな感じで話を持ってった」
丸めた書類をぽんぽんと手のひらで受けながら、桔平がその話のまとめに入った。
「公証人立てて書面突きつけてやったら、あちらさん、真っ青になってたってよ。世間体がどうのとか奥さんの方がキーキー言い出しやがったようだが、結局本人呼び出して、おまえと一緒にいたいっていう意思を伝えたら折れやがったそうだ。もともとやっかい払いをしたかったのもあるんだろうが、向こうさんにも体裁があるからな。で、一つ条件を出してきた。今後一切自分達には関わらないでほしいってよ」
「……おお」
「そこまでメガルの名前は一言も出さずに、おまえがすでに給与所得者であることを告げただけだ。後で金の話になった時に、おまえがここの正式採用を受けたことを初めて明かしたらしい。どうやら父親の方はうちの関連会社の取引先みたいで、それ聞いて、穏便に穏便にって何度も繰り返してたってよ。経緯が経緯なんで、あちらさんからの援助は一切ないが、仕方ないよな」
「ああ、わかってるって。いろいろありがとよ」
報告書の束から目を離し、礼也が真剣な顔を向けた。
「あと、不自然な痣が多いことだけは、ちらっとほのめかせたらしい。それ以上は突っ込まなかったようだが、向こうも黙っちまったってよ。まあ、おまえ本人が話したい気持ちはわかるが、それだと滅茶苦茶になりそうだったからな。そんなとこで勘弁してやれ」
「わかってるって。……取り返しのつかねえことになっても困るしよ」
悔しそうに拳を握り合わせる礼也を眺め、桔平が、ふん、と憤りを噴き上げた。
「よくわかってるじゃねえか。かくいう俺もだがな」むすっと顔をそむける。「同じことをあさみに言われた」
桔平から目線をはずし、礼也がまた報告書を食い入るように読み始める。
それを眺め、桔平が安心したように一息ついてみせた。
「一旦あっちの家に帰ることになるが、まああの様子なら大丈夫だろうってよ。気まずいのだけはしばらく我慢するしかないな。何かあったら、こっちがすぐ動くから、その子には何でも隠さず報告するよう言っとけよ」
「ああ、すまねえ。何から何までよ」礼也が感謝の意を桔平に伝える。「勝手に空いてる部屋使っちまって、悪い」
「そのことなら心配すんな。おまえの給料から日割り計算で二部屋分引いておくから」
「せけえ……」
そこまで進め、桔平が意を決して本題へと移行する。
「で、どうする。鑑定するか」
その意図に気づき、礼也は迷いのない顔を桔平に差し向けた。
「調べなくていい。血がつながっていようがいまいが、今さら何の意味もないだろ」
それが決して真実を知ることを恐れての発言や強がりではないことを桔平は知っていた。
続けて足された礼也の発言に、確信を持つ。
「血のつながっていない家族ならくさるほどいるからな……」
「……て感じだ」
それまでの経緯を楓にすべて話し、礼也が頭の後ろで手を組んで彼方を見据える。
「まだちっとだけはあの家のやっかいにならなきゃならんが、なるべく早く引き取るつもりだ」
「そう。早くこっちにこれるといいね」
「おお。だがそれまでは、やっぱ辛抱するしかねえってことだからな。ぶったたかれるようなことはなくなったみたいだが、よそよそしさによけい拍車がかかったってよ。もともと誰の目の中にも入ってねえような状態だったらしいが、完璧にシカトされるくらいならぶったたかれた方がまだマシかもしんねえな。あんなモンでも、透明人間扱いはさすがにつれえだろ」
「……」
何も言わずにじっと見つめてくる楓に、礼也が気まずそうな顔になる。
「……なんかまた俺、おまえがイヤんなるようなこと言ったか?」
「別に」
「……」
「言ったら怒るんだろうなってこと、考えてただけ」
「……」カッと顔を赤らめる。「ふざけんな、てめえ! 俺はそういう優しいとか、決してそういう感じの人間じゃあなあ!」
「まだ何も言ってないよ……」
「……」
バツが悪くなりそっぽを向いた礼也を眺め、楓が楽しそうに笑う。それから、ふっと表情を和らげた。
「大丈夫だよ」
優しげな楓の声に振り返る礼也。
その顔を穏やかに見つめながら、楓は礼也に笑いかけた。
「今の彼女ならきっと乗り越えられる。明日がくることを知っているから……」
朝の陽射しを浴び、気持ちよさそうに一穂が伸びをする。
物音に気がつき振り返ると、怪訝そうな顔をさっとそむける弟の姿を認めた。
「おはよう」
にっこりと笑いかけ、一穂が挨拶をする。
それを無視して弟は自分の部屋へと戻っていった。
その様子に心を揺らすことなく、一穂がまた窓の外の朝陽に向かう。
射し込む朝の光りを受け止め、楽しそうに笑った。
空と大地の境目、昨日と今日の境界を眩しそうに眺めながら。
了




