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第三十六話 『バニシング・ポイント』 9. バニシング・ポイント

 


 一穂の祖父の葬儀の日に雪は降った。

 出棺を見届けた後に葬儀場に残った礼也が、遅れてやってきた楓とともに、焼き場から戻った一穂を出迎える。

 礼也がまだ残っていたことに複雑そうな顔をしてみせた一穂だったが、その顔を確認し決心したように学生カバンの中から大きな茶封筒を取り出した。

「これ」

 礼也が封筒を受け取ると、目を細め一穂が話し始めた。

「爺ちゃん、あんたのことずっと調べてたんだ。あんたに謝りたくて。あんたのお母さんとお父さんのこともそこに書いてある」

 そこに記された内容を凝視し、礼也が目を見開く。

 礼也の本当の父親は、礼也が産まれる前にすでに亡くなっていた。周囲からのプレッシャーに耐え切れず、自殺していたのだ。それを祖父達は、自分達が責め立てたせいだと責任を感じていたようだった。

「あんたに渡そうと思ってお金も貯めてたみたいだけど、入院費と葬式代でほとんどなくなっちゃった。もう何も残ってないよ。残念だけど」

「あんた、あんたって、てめえなあ」

「他人だものね。私達は」朗らかに笑った。「本当に血がつながってるかどうかだって、わかったものじゃない。今さらそんなこと信じろって言う方が無理だよ。……こっちだってさ」

 その笑顔の中に拒絶を感じ取り、何も言えなくなる礼也。

 それを見抜いたように、一穂もふっと笑ってみせた。

「……なんで嘘ついた。弟とか」

「別にどっちでもよかったんだ。爺ちゃんにあんたを会わせることができるなら。どうせもう会うこともないと思ってたし。それに、妹って言うと、何となくあんたが嫌がるような気がしたし」

「俺が爺さんを許してるとでも思ったのか」

「怒ってるのはわかってた。爺ちゃんもしかたないって言ってたし。でも大丈夫だって思ったんだ。なんでかわからないけど」

「……」

「私、帰るね。また今日から的井さんちの子だ。もうひのとって言えなくなっちゃったけど、しようがない」

 心からの笑みを向けた。

「……さよなら、礼也君」


 視界を妨げるほどの降りとなった予想外の大雪の中、傘もささずにとぼとぼと一穂が側道を歩いていく。

 白一色に染まった雪景色の彼方へと消え去ろうとした一穂を追いかけ、引き止めたのは楓だった。

「待って、一穂ちゃん」

「何」

 降りしきるぼた雪の向こうに映る、振り返ったその表情のない顔に、楓が一歩退く。

「……本当にあれでよかったのかなって」

「いいよ、別に」

 明らかな拒絶反応にも、なんとか楓が踏み止まった。

「あ、でももうちょっと話したいこととかあったんじゃないかなって……」

「話すことなんて何もないよ」キッと睨みつけて突き放す一穂。「もうほっといてよ。関係ないんだから」

「そうだけど……、あ、待って」

「いつっ!」

 引きとめようと手首をつかんだ時、不自然に一穂が痛がったのを見て、楓が困惑するような表情になる。

 しかしわずかに眉を寄せると、覚悟を決めたように一穂の袖を捲り上げた。

「!」

 あらわになった傷だらけの一穂の腕を目の当たりにし、思わず絶句する楓。

「……。どうしたの。何、これは」

 一穂の目を真っ直ぐ見つめ、その傷のわけを楓が問いただす。

 それを一穂はヒステリックに喚き散らし、振りほどこうとした。

「なんでもない!」

「なんでもないことないでしょ。一つや二つじゃない。あなた……」

「うるさいなあ、ほっといてよ!」

 力一杯振り払った腕が偶然楓の頬を叩いてしまい、泣きそうな顔になって硬直する一穂。

 痛みに顔をゆがめた楓だったが、すぐに表情を正し、また一穂の袖口をしっかりとつかんだ。

「ほっとけないよ」

「!」

「自分の兄弟がひどい目にあってるかもしれないのに、ほっとけるわけないでしょ。彼のこと、なんだと思ってるの」

 楓の直視に耐えられず、それまで頑なに支えてきた一穂の感情と精神が崩壊していく。

「お兄ちゃんには言わないで……」突然、顔をゆがめ、小さな子供のように泣き始めた。「お兄ちゃんには迷惑かけたくない……」

「一穂ちゃん……」

「お願い……」

 相手の身を案じて懇願するその姿に、楓は何も言うことができなくなった。


 一穂と別れ、その後なかば喧嘩ごしに楓とも解散した礼也が、雪道をとぼとぼと歩いて行く。

 夕刻になり、暗さとともに降雪もますます量を増してきたようだった。

 それに後ろから楓が追いつく。

 ものも言わずに前を歩き続ける礼也を上目遣いに確認してから、楓が重い口を開いた。

「話があるの」

 ぴくりと反応し、礼也が足を止める。

 礼也が次に何を言うのか楓にはわかっていたが、真剣な表情を崩すことはなかった。

「またおせっかいか」

「大事な話なの」

 力ない礼也の嫌味にも、顔色を変えずに楓が見据える。

「今度は何言ってきたんだ、あいつに」

「気になったことがあるの。一穂ちゃんのことで」

「……気になったこと?」

 礼也の顔を見つめながら頷き、楓が先の一穂とのやり取りを口にした。

「一穂ちゃん、腕に痣みたいな傷があった」

 楓が静かにそう告げると、礼也がゆっくりと振り返った。

「あざ? 何の」

「教えてはくれなかった。でもずっと言い続けてた。あなたには心配かけたくないって。泣きながら黙っていてほしいって言われたけれど、そういうわけにはいかないよ」

「……。部活でなったんじゃねえのか……」

「スポーツでできる傷じゃない。誰かが意図的にそうしなければ、そんなふうにはならない」

「何故おまえにそんなことがわかる」

「……私も、母に嫌われていたから」

「……」

 じっと礼也の顔を見据え、懇願するように楓が訴え始める。

「私にはお父さんがいた。弟達も。でも一穂ちゃんには、……もう誰もいない。……きっと」

「……」

「今まではお爺さんがいてくれたから、つらいことでも我慢できていたんだと思う。でももう彼女には、支えてくれる人がいなくなってしまった。自分自身を無理やり押さえつける理由が、何もなくなってしまった。誰からも必要とされない人間が生きていくことがどれほどつらいことなのか、礼也君ならわかるでしょ」

「てめえに……」

「わからない。私にはわからないから、もう二度と言わない。これっきりにする。おしまいでもいい。だから、今日は最後だから、言わせて」楓がぐっとこみ上げるものをこらえる。「彼女、お兄ちゃんには黙っててほしいって言ってた。お兄ちゃんって。ずっとそう呼びたかったんだと思う。でもあなたが迷惑するんじゃないかって思って我慢してたんだよ、きっと。弟だって嘘ついたのもそうだよ。本当のことを言って、もしあなたに受け入れてもらえなかったらどうしようって考えて、こわくなったからだと思う。あなたに嫌われたくなかったから。ああやって虚勢をはってるのも、それを見透かされないためにだと思う。本当はいつも不安で仕方がなくて、誰かに助けてほしいはずなのに、相手に迷惑をかけたくないから一人で我慢してる。ずっと泣きそうで、助けてって叫びたくて、すぐそこまで声が出かかってるのに。本当に……、よく似てるよ」

「……おまえ」

「行かなきゃ駄目だよ。今行かないと、絶対後悔するから。このままだと、もう二度と兄妹に戻れなくなるよ」

「……」

「家族なら一緒にいた方がいいよ。……私は、そう思う……」


 辺りは一面の雪景色だった。

 時を刻むごとにその降り方は濃度を増し、夕刻の薄暗さとともに真綿のような白雪が街のすべてを覆い隠そうとしていた。

 一穂は丘の上から祖父の家を見下ろしていた。

 葬儀も終わり、親戚達からそこにはもう立ち入らないよう告げられていた。

 祖父の荷物はほとんどなく、わずかな整理をすませれば人手に渡る手はずとなっていた。

 降り積もる雪にまみれたまま、一穂はそこから動こうとはしなかった。

 丘の上から見える街並みは見慣れていたはずのものなのに、白く染まるだけで別の国の景色のように一穂の目には映っていた。

 坂も街も空も消えた白一色の世界で方向を見誤る。

 それは今日と明日の境界すら奪うほど暴力的で、また静かな眺めでもあった。

 葬儀場での格好のまま制服の上にコートも羽織らず、帰る場所を見失った迷子のように顔をゆがめて口もとを震わせる。

 少しだけうつむくと、頭の上に積もった雪の塊がばさっと落ちた。

 それでも歯を食いしばり、涙を堪える。

 今泣いてしまえば、もう二度と自分の居場所を探せなくなるような気がしていたからである。

 どこへ行くべきかわからなくなるような気がしていた。

 苦しさとつらさと、生きていくことの境界線すらも。

 滲んだ視界の先には何も見えなくなっていた。

 うつむいたまま拳を握り締める一穂の頭の上には、また新たな雪が積み重なり始めていた。

 払っても払ってもすぐに降り積もる、重い重い層となって。

 ふいにその頭を、背後からの手がぽんと叩く。

 一穂の頭を覆うほどのその大きな手のひらは、積もった雪を払うようにがしがしと揺らした。

 何も言わず、一穂がくしゃくしゃになった顔で泣き始める。

 やがてその影が、「行くぞ」と一言告げると、一穂は涙を流しながら、「……ん」と小さく頷いてみせた。






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