第三十六話 『バニシング・ポイント』 8. 言わなかったこと
坂井野市の寂れた場所にある一軒の民家に礼也はいた。
山凌市からは三つ隣の市で、山凌高校からは分岐駅を経て私鉄を七駅乗り継げばそこへ辿り着くことができた。
現在の一穂の住む家はその隣の市にあり、坂井野よりも山凌市寄りだった。
何十年も時を経たその家は古くはあったがそれほど傷みはない。
ただ人が住んでいる気配がなく、それゆえ薄ら寒く感じられた。
その部屋にだけ明かりが点され、畳の間の中央に敷かれた布団に横たわる祖父の顔を、一穂が正座して見下ろす。
部屋の入り口に立つ礼也の背後から、心配そうな表情を楓がのぞかせた。
気配に気づき礼也が振り返ると、一穂が背中を向けたまま語りかけてきた。
「爺ちゃん、ずっと家に帰りたがってた。入院してから一度も戻れなかったから。死ぬ時は自分の家で死にたいって昔から言ってたし。だから、一日だけでも、ここにいさせてあげたい……」
祖父の遺体は本来ならば、直接葬祭場に運ばれる予定だった。
もとより家には祖父以外誰もおらず、防犯上でも不安だという親戚達の反対を押し切って、一穂は祖父との最後の夜をともにすごすことを望んだのである。
近隣の家々にも承諾をえてあった。
親戚の中には、ともにそこへ泊まることを望んだ者もいたが、頑なに一穂はそれを断っていた。
礼也とそれにつき合う楓をのぞき。
「さっきの人、ママ母なんだ」
一穂の突然のカミングアウトに礼也と楓が息をのむ。
「お父さんと私は血がつながってる。さっきの人とお父さんが結婚する前に、本当のお母さんはお父さんとつき合ってて、私が産まれた。お父さんには黙ってたんだよ、私のこと。中絶しろって言われてお金まで出してもらってたから。私は産まれるはずがない子供だった。だから私はいらない子なんだ。お母さん、私を産んでから、お父さんとその人が結婚したことを知って自殺しちゃったんだって」
「……」衝撃の事実に言葉もでない礼也。
それを察したように苦しそうに一穂も話を続けた。
「お母さんさ、お父さんがその人と結婚を前提におつき合いしてたことを知りながら、お父さんとつき合ってたんだって。今、そこんちにご厄介になってるんだけど、すごくお金持ちの家でさ、ずっと前から両親が決めてた結婚なんだって。でね、お父さん、それが嫌でいつか家を出るつもりでいて、そしたら一緒になろうってお母さんに話してたんだってさ。お母さん、それ信じちゃったんだよ。馬鹿だよね。そんなの信じないよ、普通は。でさ、やっぱりお父さん、その家から出られなくてさ、て言うのか、向こうの両親がさ、もう死んじゃっていないんだけど、私の向こうの家の爺ちゃんと婆ちゃんがうちにやって来て、お金渡して、お母さんにお父さんと別れるよう言ってったんだってさ。すごく汚いものを見るような目でさ。普通怒るじゃんか、親だったら。でも、爺ちゃんも婆ちゃんも何も言えなかったんだって。なんでかって、礼也君の時に自分達も同じことしてたから」
「……」
「私さ、お母さんの顔、覚えてないんだ。もの心ついた時から、私には爺ちゃんと婆ちゃんしかいなかった。爺ちゃん達、礼也君にしたこと、すごく後悔するようになって、でも今さら取り返しがつかないから、礼也君の分まで私のことを大事にしてくれたんだよ。礼也君からしたら、何言ってんだって思うだろうけどさ。でも私にとっては、二人とも、いい爺ちゃんと婆ちゃんだったんだ。礼也君のことでずっと苦しんでるのが、かわいそうで見てられなかった。なんでこんなに苦しめるのって、見たこともない礼也君に逆恨みしたこともあった。それくらい大事な家族だったんだ、二人とも。でも婆ちゃんが先に死んで、爺ちゃんも病気がちで入退院を繰り返すようになって、私のことどうしたらいいのか爺ちゃんは困り出したんだ。親戚の人達は経緯を知ってたから、もともと私のことをよく思ってなかったし、私は施設に行くって言ったのに、それは駄目だって爺ちゃんが言い張ってね。ずっと家族らしいことしてこれなかったから、そういうとこに行かせるのすごく抵抗があったみたい。私はその方がよかったんだけどさ。結局、どこいっても面倒なのはわかってたし。で、爺ちゃん、いろいろな手を使ってお父さんと話をつけてくれて、私を今の家の娘にするよう頼んだんだ。この家とは一切の縁切りが条件でね。すごく迷惑な話なんだけど、爺ちゃんが心配して、してくれたことだから、嫌だって言えなくて。ママ母の人もさ、私が、自分がお父さんとつき合ってる最中にできた子だから怒り狂っちゃってさ。仕方ないよ。あんなふうになってるのも、たぶん私のせいもあるんだ。あの人もかわいそうな人なんだなって思う。悪いのはお父さんだよ。今もずっと、ことなかれでさ。そりゃ腹立つって。今は、ひのと、なんだけど、もうすぐ的井って苗字になるんだ、私。なんかやだな、はは……」
「その爺さんがてめえにそう言ったのか」
「違うよ」礼也の質問に明るさを繕って答える。「婆ちゃんが書き記したノートを偶然見ちゃったんだ。もうどこにいったのかわからないけど。たぶん私に見られたことを知って、爺ちゃんが処分しちゃったみたい」
「……」
「安心して。今のお父さんもお義母さんも礼也君とはなんの関係もないから。礼也君のお父さんのことは知らない。お母さんが学生の時につき合ってた同級生だったとかも聞いた。家庭教師の人だったのかもしれないけど……」
「……」
「礼也君」
一穂の言葉が途切れた頃合いで、楓が小さくそれを切り出す。
「私、もう帰るね」
「お、じゃあ……」
「いいよ、一人で帰れるから」
「いや、送ってく」
壁掛け時計をちらと見る。時刻は九時をすでにまわっていた。
それを愛想笑いで返す楓。
「今日はここに泊まってくんでしょ。だったら、いなよ」
「いや、駄目だ、おまえの家まで送ってく。遠いしよ。いろいろ世話になったしな」
傷心で動きの取れない一穂のために、楓は身の回りのこまごまとした用事を率先してこなしていた。
家の掃除をし、片付けと身の回りの仕度、明日の夜までの礼也と一穂の食事まで用意していた。
「じゃあ、駅まででいいよ。遅くなっちゃうし……」
「家まで送ってく。俺らも、どうせもう寝るだけだからよ。光輔達にも一言言っときたいしな」
「……」
礼也からの連絡を受け、洋一とほのかの面倒は、急遽、光輔と夕季が見てくれていた。
「おい、こいつを家まで送ってくるからな。たぶん遅くなるから、鍵、借りてくぞ」部屋の外から一穂に声をかける。「送ったらまた帰ってくるから、てめえもたいがいにして寝とけ」
一穂は何も答えなかった。
小さく頭が動いたが、それが相づちなのか否かは二人にはわからなかった。
「悪かったな、桐嶋」
並んで歩く礼也に言われ、白い息をほっほと吐き上げていた楓が横を向く。
「いろいろ助かった。あのな……」
言いにくそうに言葉を詰まらせる礼也の横顔を、じっと眺める楓。
「悪かったと思ってる。ほんとによ。おまえが言ってることの方が正しいってのはわかってた。でもよ、やっぱ認めたくねえもんもある。信じらんねえかもしれねえがよ」
「わかってる」
楓が穏やかに笑う。
礼也が顔を向けるとそれににっこり見つめ返し、楓は暗く静かな空を見上げた。
「ごめんね、おせっかいばかりして。自分では正しいことをしていたつもりだったんだけれど、やっぱり感情だけはどうすることもできないものね。私だって、今、お母さんが目の前に現れて、今までのことを全部なかったことにしろって言われたら、きっと納得できない。礼也君の場合、それよりもっと複雑でヘビーなんだものね。私こそ謝らなくちゃいけない」
「……」
「でもね、一穂ちゃん、なんだか悪い子には見えなかったから。乱暴なところもあるけれど、たぶん彼女なりにあなたのこと考えた上でのことだったんだろうなって思った。そういうのも含めて関わりたくないんだろうなって感じはしたけれども、切り捨てるのはいつでもできるから」
風が吹き抜け、その冷たさにマフラーの中に口まで埋まる楓。
空には雲も星も見えない。予報では寒気団が接近しており、山間部の方から雪模様となっていくらしかった。
楓の横顔を眺めていた礼也が、楓と同じく暗い空の彼方へと視線を投げかけた。
「わからなくなった。憎くて憎くて仕方なかったのに。でも俺は、あの爺さんに会って許さなけりゃならなかったのかもしれねえって、今になって思えてきてる。それともただ、ぶん殴りゃよかったのか」
手袋越しに手をこすり合わせていた楓が、動きを止めて目を細める。
「いくら考えても答えは出ないと思う。会ったこともない人間の気持ちなんて、わかるはずがないから」
「……」
「礼也君だって自分なりにいろいろ考えてるんだよね。それくらい、私だってわかってたんだけど、でもやっぱり、逃げちゃいけないこともあるって思ったから。ごめんなさい。私なんかが人のこと言えた義理じゃないよね。でも、一穂ちゃんの気持ちもわかる気がするから。私も、どうして生まれてきてしまったんだろうって考えてた時期があったから」
「……おまえが」
「うん。私なんて誰も必要としていないんじゃないかって思って。本当にそうかもしれないんだけど」
「……」
にっこり笑いかける楓に、礼也が毒気を抜かれる。
沈痛な面持ちになり、礼也は穏やかな口調でそれを切り出した。
「必要のない命なんざ、一つもない。そう言ってくれた人がいる」
「……」
「どんな命だって望まれて生まれてくる。生まれてこなきゃよかったモンなんて、一つもないってよ。それで少しゃ、気が楽になったが、やっぱ全部は納得できねえ」
「でもその人の言葉で救われたんだよね。だったらそれを他の人にも言ってあげるべきだよ。どう受け止めるかは人それぞれだから仕方がない。だけどあなたは、それを他の人に伝えてあげなければいけないと思う。そんな大事なものを、なくしてしまってはいけないと思う。そう思ってるんでしょ、自分でも」
「……」ちらと楓の方へ目を向けた。「おまえはいつも、なんでもわかったふうに言うんだな」
「そんなことないよ」顔の半分をマフラーに埋めたまま、楓が礼也に目線だけを向けた。「でも、あなたの考えていることなら、なんとなくわかる気がする」
「……」
言葉をなくす礼也に、あはは、と笑って楓が続けた。
「前にも言ったかもしれないけれど、私はいつもいろいろなことを計算して行動してる。誰かに親切にする時は、その人からどれだけの見返りがあるんだろうって考えながらとかね。自分でも嫌な人間だなって思う。でも損得勘定しちゃうのをどうしてもやめられない。本当はね、彼女にもう来ないでほしいって言うつもりだった。彼女の話を聞く時、……とてもつらそうに見えたから。でも言えなかった。彼女の顔がすごく淋しそうだったから。あなたに似て。何の根拠もないけど、きっと本当の兄妹なんだなって、その時、そう思ったの。兄妹なら、一緒にいた方がいいと私は思うから。彼女、ああやって強がってるけど、本当は臆病で、内心びくびくしてて、いつもまわりに気を遣ってて。なんだか、誰かに似てない?」
「……」
それからまた前を向く楓。
「今まで言わなかったのは、それを言うと嫌われるんだろうなってわかってたから。たぶん、言ったらおしまいなんだろうなって気がしていたから。でも、これですっきりした。言ってやったぞ、って。あははは」
それ以上は何も言わず、ただ暗い空へと視線を投げかける楓。
顔がマフラーで隠れていたため、その表情を礼也は読み取ることができなかった。




