第三十六話 『バニシング・ポイント』 7. 知らない人
下校時の通学路を、楓と礼也は並んで歩いていた。
結局心から悪かったと礼也がわびを入れ、楓が承服する形で収まったのである。
それからは礼也も楓に意見を求めるようになり、楓も相手の領域に無闇に踏み込まない程度の相談を受けるよう心がけていた。
それとは反比例して、あれ以来一穂は姿を見せなくなっていた。
おおよそ一週間振りとなる今日まで。
「……」
ふいに姿を見せた一穂に、二人が眉間に皺を寄せて足を止める。
楓は一穂の顔を見据えたまま、スカートを押さえて礼也の後ろに隠れていった。
それをちろっと一穂が見やる。
「またあのぱんつはいてんの」
「……」
「おい」
礼也に呼ばれ、向き直る一穂。
「今日こそ来て」
「いや、やめとく」
即答する礼也に不服そうな顔を向け、一穂は口を尖らせてみせた。
「どうしてそんなに嫌がるの」
一穂に問われ、今度ははぐらかすことなく、礼也が楓らとの相談の結果を提示した。
「もしおまえが本当に俺と血がつながってるってんなら、会ってくれってのは身内の誰かのことだろがよ。そんな奴らに今さら会ったところで、こっちゃ怒りの感情以外浮かんでこねえ。ましてや母親だってんのなら、ぶち殺したいと思いこそすれ、顔も見たくもねえってことだって。どうせ会ってもろくなモンでもねえだろうからな。もとから懐かしがって抱き合えるような血でもねえ。お互いがヤな思いするだけなら、会わねえ方がよっぽどマシだって」
「……」
「ほんとはよ、一発くらいぶん殴ってやるかどうか引きずってて、いろいろ考え込んでたんだがよ。んなモン、今の俺には必要ないってわかったんだよ。そのうちぶん殴りたくなったらふらっと行くかもしれねえがな。今んとこ、会う理由がねえ。これが答えだ」横目でうかがう楓を、親指でくいと指す。「こいつは会った方がいいって最後までうるさかったけどな」
「うるさくて悪かったですね」
「……おう」
く、と下唇を噛みしめて、一穂が背中を向けた。
「どうしても駄目なの」
「ああ、どうしてもだ」
「……」
諦めたように一穂が歩き出す。
それを引き止めたのは楓だった。
「待って」
「おい」
「どうしてそんなに、彼にその人を会わせたいの」
礼也を差し置いて前に出る楓。
それに対して、一穂はぶすりと拒絶を差し向けるだけだった。
「あんたには関係ない」
「関係ないのはわかってる。でも……」
「爺ちゃんに会ってほしい」
唐突にそれを切り出した一穂に、二人が絶句する。
礼也の頭が沸騰するのに、たいして時間はかからなかった。
「今さらどのツラ下げて、んなこと言いやがる。さんざん知らんぷりしてきやがってよ」背中を向けたままの一穂にも、怒りが収まらない礼也。「俺に会いてえんなら、そっちから来いって伝えとけ。そっこーでぶん殴ってやるから。会う気もねえがな!」
「それができるくらいなら、とっくにしてる!」
「何!」
一穂が力を抜いて肩を下げる。
それから消え入りそうな声で続けた。
「お願いだから会ってほしい。それで、会ったら、もう気にしてないって言ってほしい。お母さんのことも全部許してるって」
「はあ!」
「……明日また来るから」
そう言って歩き出した一穂の後ろ姿を、二人は何も言えずに見守るだけだった。
「ねえ」
追いかけてきたその声に一穂が振り返る。
そこには心配そうな表情の楓がいた。
周囲を見回し、礼也がいないことを一穂が確認する。
「礼也君は」
「帰った」少しだけ悲しそうな顔になり、楓が笑った。「また怒らせちゃった。おまえとはもう二度と口をきかないって。……今度こそ本当に、だって」
「何か用なの」
「……。本当にそれでいいの」
「……」
真剣なまなざしの楓に見つめられ、一穂が言葉を失う。
そこから目をそむけることなく、楓は本心を打ち明け始めた。
「もしあなた達が本当の兄妹なら、ああいうのは間違ってる。あのまま別れたら、あなた達はもう二度と兄妹になれなくなる。だから考え直してほしいって、彼に言った」
「……。あんた、あの人の何なの」
「友達だよ」即答し、楓が笑ってみせる。「大切な友達。失いたくない、大切な友達。でもそれを失ったとしても、本当の家族が誤解が解けないままで別れ別れになるよりはいいって思った。その人が本当に必要なのは何で、失ってはいけないものが何なのか、私なりにずっと考えてたから」
「……あんた、バカじゃないの」
「……」
「おせっかいはいらない。どっかいってよ」
「もう一度あなたが彼とちゃんと話をしてくれるって約束してくれたらね。行きたくないって言いながらも、はっきりと断らないのは、どこかに未練が残っているからだと思う。完全につながりを断ちたくないから。あなたや、その身内の人とも。わかってあげて」
楓の顔を見据えたまま、一穂がそのスカートをめくり上げる。
だが楓は顔色一つ変えずに、一穂の顔を見続けていた。
「ちゃんと話せばわかってくれるよ。彼ならきっと」
「……」
「お願い」
「あんたには関係ない……」
その時だった。
着信を受け、携帯電話を一穂が手に取る。
その瞬間、一穂の顔色がすうっと変わった。
「はい、はい……」
青白い顔を不安げにうろうろさせる一穂。
走り出そうとするその腕をつかみ、楓が引き止めた。
「どうしたの」
振り返ったその顔は、今にも泣き出しそうなほどに崩れかけていた。
「……。爺ちゃんが……」
「!」
仏頂面のまま礼也が駅へと足を踏み入れた。
また楓といざこざを起こしたことに、わずかながら後悔の念を抱く。だが他人の心に平気でずかずかと入り込んでくるような楓の態度が、どうしても容認できなかった。
本人にとってはよかれと思っていることでも、過ぎればただのお節介となる。
それを重々承知していながら、尚も引くことがなかった楓の様子も気になった。
お互いにもう気まずい思いはしたくないと感じていたはずなのだから。
「?」
携帯電話の呼び出し音に気づき、礼也が手に取る。
楓からだということがわかると、しばらく仏頂面のままその画面を睨みつけていた。
取ろうか取るまいか思案し、結局、不機嫌そうにそれを受け取る。
「……なんだ」
『礼也君、今すぐ坂井野の市民病院に来て!』
いきなり切羽詰った様子で用件を切り出す楓に、礼也が度肝を抜かれる。
車の中からなのか声がやや聞き取りづらく、疑心暗鬼の面持ちで画面をまた眺めると、確認を取る間もなく楓からの追加が飛び込んできた。
『一穂ちゃんのお爺さんが大変なの! 早く来て!』
タクシーを降り、礼也が坂井野市民病院のフロアへと足を踏み入れる。
待合所のソファには楓の姿があり、礼也を見つけると沈痛な面持ちで立ち上がって近づいて来た。
楓に連れられ、五階ではなく地下の霊安室へと向かう礼也。
部屋を覗くと、幾人かの人の塊の中に一穂の顔を確認した。
その視線の先には、すでに生き続ける苦痛から解放された老人の遺骸が見受けられた。
衰え力尽き、それでも苦悩を捨てきれずに苦悶にまみれたその表情。
誰に言われるまでもなく、それが自分と一穂の祖父であると、即座に礼也は理解した。
礼也の姿を見かけると、親戚達の合間を縫って、一穂が部屋の外へ出る。
先に顔を向けたのは楓にだった。
「……お金、後から返すから」
「そんなのいい」
「よくない。他人の施しは受けたくない……」
淡々と楓に告げてから、表情のないその顔を礼也へと差し向ける。
何も言わずに見つめ続ける一穂を、礼也が複雑そうに眺めた。
「おい……」
「爺ちゃん、死んじゃった……」
礼也が声をかけた途端に、堰を切ったように一穂が話し始める。
大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、弱々しく震えるその声で。
「ずっとあんたに謝りたかったのに。自分が悪いってわかってて、ずっとつらくて、苦しんでて、だからあんたに謝りたくって、殴られても仕方ないから、それでも謝らなきゃいけないって、ずっと言ってた。でも死んじゃった。謝れないで苦しくてつらいまま死んじゃった。悪い爺ちゃんのまま、死んじゃった。本当はいい人なのに……。私達がいたから……。私達のせいで悪い人になってしまった。私達なんていない方がよかったのに。生まれてこない方がよかったのに……」
「……」
何も言うことができずに礼也と楓はただ立ちつくしていた。
あふれ出る涙を一穂が何度も制服の袖で拭う。
それが二人の目には拒絶のように映っていた。
「?」
せわしげな足音に振り返る二人。
「一穂さん!」
その声を聞き、一穂が、はっとなって顔を上げた。
一穂の母親だった。
「どうしてこんなところにいるの」
つり上がった両目で一穂を厳しく見据える母親。
その鬼気迫る表情に、また一穂は唇をわなわなと震わせ出した。
「ここにはもう来ないって約束だったでしょ。どうして約束を守れないの」
何も言い返せずにただその顔を見続けることしかできない一穂。
何を言っても埒があかないと判断し、母親は早々にその場から引き上げようとした。
「さあ、帰るのよ。あなたはもうこちらとは関係ない人間なんだから」
一穂の手をつかみ、強引に引く。
その瞬間びくっと反応し、呪縛から逃れたように一穂は抵抗を開始した。
「やだ。帰らない」
「何を言っているの、あなたは。いつもいつも迷惑ばかりかけて。さあ、行くわよ。外にタクシーを待たせてあるんだから」
「いやだ、行かない!」
顔をゆがめながら、一穂が重心を落としてその場に踏み止まる。
「何言ってるの。帰るわよ」
「いやだ! 爺ちゃんと一緒にいる。はなして!」
聞き分けのない一穂の様子に、ムッとなり激情を差し向ける母親。
手を振り上げる仕草にびくっと竦み上がった一穂だったが、涙をばらまきながらも睨み返して抵抗を続けた。
「爺ちゃんと一緒にいる。爺ちゃんといる……」
「一穂さん!」
「おい、やめとけって」
殴りつけるためにその手を振り下ろそうとした瞬間、礼也の押し殺した声に母親が振り返る。
表情はいまだ爆発寸前だった。
その顔を値踏みするように眺め、礼也はぶすりと突き刺すのだった。
「場所と状況考えろよ。こんなところで暴力なんてな、常識疑うぜ」
「何を言うの。しつけでしょ。聞き分けがないから仕方なくでしょ。他人はよその家のことに口を挟まないでちょうだい」
「こいつはクソ生意気な奴かもしれねえが、殴らなきゃわかんねえようなバカでもねえ。そんなふうに無理やりしつけしなきゃ言うこと聞かせらんねえってんのなら、あんたの教え方に問題がある」
「子供のくせに何偉そうに説教してるの!」
「説教してるわけじゃねえ。あんたみてえな救えねえ大馬鹿野郎が嫌いなだけだ」
「なんですって!」
「どう見てもあんたが悪い。自分の身内が死んだのに関係ねえってこたねえだろ。それに、他人だろうがなんだろうが、こんな場所で死んでる人間に敬意がはらえねえような人間はクズだ。ちったあ、空気読めよ。そんなこともわかんねえくせに、相手の気持ちも考えねえで暴力ふるおうとするような大馬鹿野郎だから、救えねえって言ったんだ。あんま周りに迷惑ばっかかけんなって」
不機嫌そうに口撃を続ける礼也を、楓と一穂が心配げに見つめる。
その顔つきは、すでに一穂のことではなく、自分の身にことを置き換えて相手と対しているようでもあった。
「あなたねえ! ここまで人を侮辱しておいて、ただではすまさないわよ。主人に報告して、法的な手段を取らせますから覚悟しなさい。後から謝ってももう遅いわよ! あなたの名前は! 学校もおっしゃい!」
「親子ゲンカでもいちいちそんなこと言わなきゃいけねえのか」
「はあ!」
「あんた、こいつの母親なのか」
「それがどうかしたの!」
「だったら……」
「違う!」
突然大声をあげた一穂に、礼也が振り向く。
一穂は口を結び、両方の拳を握り締めながら、礼也と母親を見据えた。
「違うって……」
礼也の言わんとせんことを察し、一穂が目にぐっと力を入れて見つめ返す。
「この人は違う。あんたの本当のお母さんは、……もうこの世にいないから……」
そう告げて一穂がまた涙を拭う。
嗚咽にまみれ、一穂はそれ以上顔を上げることもできなくなった。
状況が受け入れられず、ぽかんとなる礼也と楓。
一人おさまらない一穂の母親が、いきり立つまま礼也を睨みつけた。
「あなたは誰なの。一穂さんとどういう関係なの!」
毒気を抜かれた顔を一穂の母親に向ける礼也。
「俺はこいつの……」
「知らない人だよ」
重なった涙混じりの一穂の声に、礼也は何も言えなくなった。
「もう……」




