第三十六話 『バニシング・ポイント』 2. バッティング
洋一とほのかを連れて、光輔と礼也が河原のグラウンドへ向かう。手には野球道具が握られていた。
バッティングセンターでの光輔のヘタレぶりを洋一らがカミングアウトし、調子に乗った礼也がスポーツ万能を謳ったせいで、河原でのマッチングが実現したのである。
日没までタイムリミットは約一時間。
ちなみに夕季は当初からの目的どおりジョトの散歩係を買って出て、四人から離れて気ままに河原を散策していた。
子供相手にも容赦のない礼也に対し、ここでも光輔はヘタレぶりを遺憾なく発揮し、キャッチボールの際、ほのかからのリリースをそらして金的にヒットさせるという奇跡まで起こした。
うずくまる光輔を、ジョトの散歩から帰還した夕季が不思議そうに眺める。
「どうしたの、おなかでも痛いの」
「いや、ほっといて……」
それに勝ちどきを上げたのはほのかだった。
「とったど~!」
「いや、どっちかって言うと、一瞬一つ増えたんだけどね……」
「?」
意味がわからない夕季に礼也が追い討ちをかける。
「てめ~のそのちんけなバットがへし折れたんじゃねえのか」
「またそういうことを……」
「光輔のバットが折れた!」
「光輔のチンケなバットをヘシ折ってやったど~!」
「そこを強調して言うと語感がヤバいから……」
夕季がベンチに置かれたバットをちらと見やった。
「折れてるの、これ。金属バットなのに」バットを手に取りしげしげと眺める。「これって大沼さんのだったよね」
「そっちじゃねえって」
「そっちじゃないよ~!」
「そんな立派なバットじゃないど~! 光輔のチンケな方の~!」
「もうやめなさいってば……」
「……」
「てめ、気づきやがったな」
「……何が」
「何がって、とぼけやがって。おぼこいふりしてしらばっくれやがって実は存外てめえも……」
「だからもうやめなさいってば……」
「なんで桐嶋さんがイチゴ姫なの?」
河原でジョトも交えて戯れながら、光輔が不思議そうな顔を向ける。
それを礼也は、やれやれといった様子で見下ろした。
「あんなモン見せられたら、それっか言い表しようがねえって」
「は? 何言ってんの」
「いいのか、光輔」グッと眉間に力を込める。「それを知ったら、おまえは奴から確実に嫌われる。その覚悟はあんのかって聞いてんだ」
「いや、だったらいいし……」
「いいか、いくぞ」
「だからいいって……」
すると洋一が嬉しそうな顔を上げてきた。
「お気に入りなんだよ」
「勝負のイチゴー!」
「おまえら!」礼也があわを食ったようにのけぞる。
「え? どういうこと?」
傾げた首を向け合う光輔と夕季に、無邪気な二人のデンジャラスなカミングアウトが始まった。
「誕生日にほのかと二人でプレゼントしたんだよ」
「しかたなくと言いながらも、ずいぶんと嬉しそうですがな」
「てめえらが買ってきたのか……」
「ツマムラで三枚セットだった」
「ちょーおかいどく~」
「三枚も持ってんのか! ……よく買えたな」
「レジのおばちゃんがニタニタ笑ってた」
「ラッピングしてもらった~!」
「だろうな……」
「体育のない日がポイントなんだよ」
「身体検査の日、慌ててとっかえてったー!」
「え? え?」
わけのわからない光輔らを差し置き、慌てた様子の礼也が二人の口を手で塞ぐ。
「んが!」
「ふんぐ!」
二対の純粋な目に見つめられ、礼也は切羽詰った表情を差し向けた。
「……。おまえら、そのこと他の奴に言うんじゃねえぞ」
「なんで?」
「なんじゃらほい!」
解放された洋一とほのかが何のてらいもなく疑問をぶつける。
しかし礼也の顔つきは引き締まったままだった。
「そいつあ、姉ちゃんが今の学校を転校しなきゃならねえほどの激ヤバ情報だ」
「なんで?」
「なんでぞなもし!」
「リアルな話すりゃ、おまえら親戚に預けて、一人でド田舎に引っ越しちまうレベルだぞ。サルしか来ねえような温泉がある、この世の果てみてえなとこへだ。そんなのやだろ」
「やだ!」
「やだ~! 温泉なら一緒にいく~!」
「あ、なんとなくわかったちゃったかも……」
への字口を向ける夕季と目が合い、光輔が卑屈な笑みを浮かべた。
「なら黙ってな」ほっと一息つき、礼也が、うんうんと頷いてみせる。もう一度真剣な表情に戻った。「よくよく考えてみりゃ、日本語がうまくしゃべれねえ夕季はともかく、光輔の奴はおしゃべりだからな。あいつがポロッと雅にでももらした日にゃ、すぐに日本中に知れ渡るぞ」
「なんだと!」
「むっしゅむらむら~!」
「え? え?」
ポカンと様子を見守る光輔に、正義のまなざしをたたえる小さな戦士が睨みをきかせる。
「光輔の野郎!」
「信じられな~い!」
「え? 何が?」
「とぼけるな!」
「とぼけるな、てんめ~!」
二人の直接攻撃が始まった。
「ちょ、ちょっ、なんで、急に……」
「しらばっくれるな!」
「ネタはあがってんのだぞ!」
「え、何言ってんの? ……あててて! そこはダメだってば!」
「おまえ、みやびに言うつもりだろう!」
「みやびに言ったら終わりだしょ~が! かんでない!」
「なんで雅が出てくんの?」
「ふざけんな! ところでみやびって誰だ!」
「実は知りませんがな!」
「……何それ」
おぼろげに事情がつかめてきた光輔が、いまだ硬直状態の夕季におそるおそる振り返る。
「夕季も苺好きだったよな」
「……だから何」
「そう。じゃあさ……。……持ってないよね、たぶん」
「……」
「……いや、何でも」
思いとどまり、光輔が卑屈な笑みを浮かべた。
「?」
金網越しにその人影はあった。
ジャージ姿の小柄な少年は野球帽を深く被り、フェンスの網目を両手で掴んで、ずっと礼也らのやり取りを眺めていた。
「う~、さむ」
すっかり暗くなった頃合い、洋一とほのかを送り届けて光輔が身を震わせる。
それを笑顔で楓が出迎えた。
「寒波がやってきているって。今年は例年より早く雪が降りそう」
「どおりでね」
「カンパの大冒険!」
「……え?」
「二人ともうちに寄ってかないの」
何ごともなくほのかをスルーし、楓が光輔と夕季にたずねる。
二人は顔を見合わせ、帰る旨を楓に伝えた。
「今顔見ると、他のものにしか見えないし」
「え? 何?」
「いやいや、何でもないから!」
大げさな手振りで否定する光輔。
そのアクションは、ぱんつーに近いものだった。
「夕季のうちで食べてくことになってるから」
「聞いてない!」
「いやいや……」
「そう。また遊びに来てね」礼也へと振り返った。「礼也君は」
「んあ」親指で鼻をほじくりながら、礼也が間抜けヅラを向ける。「俺も帰るわ。観てえテレビもあるし」
「そう……」
楓が視線を落としてそれを受け入れる。その表情は明らかに光輔達に対するそれとは違ったものだった。
「おばけのやつ?」
「おばけのやつだって」
光輔と礼也の確認を夕季が何気なく眺める。それが今晩のテレビ番組のことだとすぐにピンときた。
「夕季も観るの」
「観ない」
光輔に振られ、即答する夕季。
すると光輔がおもしろそうな顔になった。
「こわいんだ」
「別に。こわがりは光輔の方じゃない」
「よし、だったら一緒に観よう。今からおまえんち行くから」
「嫌」
「なんで」
「こわくなって帰れなくなるよ、光輔」
「そんなわけないじゃんか!」
「ほんとに」
「……たぶん」
二人の他愛もない会話を聞いていた礼也が何かを思い出し、はっとなる。
「いけね。桐嶋んちにケータイ置いてきた」二人に振り返る。「俺ちっと戻る」
「俺ら、先に行くから」
「おう、気ぃつけて帰れ」
「大丈夫、夕季がいるから」
「どういう意味!」
二人と別れ、ちっと舌打ちしながら礼也が足早に楓の家を目指す。
コートもマフラーもしていなかった礼也は、その寒空にぶるっと身を震わせるのだった。
「ほんと、雪でも降んじゃねえか」
「あんた、霧崎礼也」
細い声に呼ばれ、礼也が顔を向ける。
常夜灯の影となる場所にその声の主はあった。
身長百五十センチメートル程度の細身の少年。上下ジャージ姿で、野球帽を深く被った、例の少年だった。
「てめえ、誰だ」
凄みを込めて礼也がそう言うと、少年が一歩たじろぐ。
それでも生唾を飲み込みながら、震えるその声をしぼり出した。
「……ひのと」
低い発声を試みたものの、か細く高いその声はまだ声変わりしておらず、体型からも小学校高学年から中学一年生程度だと推察された。
「ひのと?」
「……。あんたの……」
「礼也君!」
楓の声に振り向く二人。
息を切らせ駆けて来るその手には、礼也の携帯電話が握られていた。
「よかった、間に合った」安堵の表情を浮かべて、腰を曲げる。「駄目だよ、忘れてっちゃ」
嬉しそうに顔を上げた時、それが場違いな場面であることに楓が気づいた。
「あ、どうしたの……」
礼也が改めて少年に向き直る。それから顎でしゃくるように、楓に目線をくれた。
「知らねえよ。そいつがいきなりよ。ひのとだったか。なんだ、さっき何言いかけた?」
するとその少年、ひのとが、ぐむむむと口を結んで身体を震わせる。
「なんでもねーよ!」
突然ダッシュするひのと少年。その進行方向には楓がいた。
「おい、桐嶋、そいつ逃がすな!」
「え? ええっ!」
訳もわからず棒立ちとなり、結果的に立ちふさがる形となる楓。それを崩すには突き飛ばすしか方法がなかった。
ちっと舌打ちし、ひのとが突然の暴挙に出る。
楓のスカートを思い切り下からめくり上げたのである。
「はああああ~っ!」
変な悲鳴とリアクションを巻き込み、楓の顔が真っ赤に染まる。
ひのとにとって計算外だったのは、それに見入ってしまったことだった。
「……あ、いちご」
「捕まえたぞ!」
礼也に羽交い絞めにされ、ひのとが観念した。




