第三十六話 『バニシング・ポイント』 1. ターゲット
とある午後、廊下で声をかけられ、夕季が振り返る。
そこには卑屈な笑みを浮かべる光輔の顔があった。
「何」
すると、いや~、と後頭部をかきながら光輔がそれを切り出した。
「今日さ、急に洋一達の面倒見てって桐嶋さんから頼まれちゃったんだけど、一緒に行かない?」
「……」じっと光輔の顔を見る。「礼也は」
「あ、うん。桐嶋さんが買い物に行くのに荷物運びで着いてくらしくてさ。なんか夜遅くなるみたいなんだよ。ジョトの散歩とかもあってメンドいから、おまえにもたのもっかなあって思ったりしたんだけどさ」
「……」
「なんか、用あるの」
「……。大沼さんとバッティングセンターに行く約束した」
「ああ、そっか。ならしょーがない。無理言っても悪いし」
「……」
「……。なんでずっと睨んでんの」
「……さあ」
「さあってさあ……」
放課後、光輔が夕季とともに楓の家へ向かう。
礼也は一足先に到着していた。
夕季と光輔の顔を確認した途端、洋一とほのかの顔が光り輝く。
「ゆう姉ちゃん!」
「光輔!」
飛びついていった二人を眺め、礼也が怪訝そうな表情になった。
「俺はただの兄ちゃんなのに、こいつごときがゆう姉ちゃんかよ」
「俺は呼び捨てなんだけどね……」むっとなって顔を向けた夕季の横で、光輔が悲しそうに笑った。「あ、そこ蹴っちゃダメ!」
「だってお姉ちゃんはお姉ちゃんだから」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだけだからあ!」
どうやら楓のことを言っているらしかった。
「何言ってやがんだ、てめーらは」
「しょせん光輔は光輔どまりだしな」
「しょせんどこまでいっても光輔は光輔でしかない~!」
「何言ってんの……。だから、そこ蹴っちゃダメだって!」
さっそく光輔らと戯れる洋一とほのか。
その目の前をやや余裕のない顔の楓が通り過ぎようとした。
「ごめんね、急に。ほんと、ありがとう。古閑さんもね」
光輔と夕季に感謝の意を伝え、洋一らにいい子にしているよう釘を刺す。
通りの向こうには急かすように手を振る礼也の姿があった。
「おい、早くしろって。電車くんぞ!」
「ああ、ごめん、礼也君」
それからもう一度顔を向ける楓。
その先には薄笑みを浮かべながら見守る大沼の顔があった。
「すみません、ご無理を言ってしまって。弟達をよろしくお願いします」
そのきっちりとした姿勢に大沼がやや面食らう。
「いや」隣の光輔に耳打ちした。「とてもしっかりした先輩だな」
「ええ」光輔が真顔で答える。「礼也の保護者を進んでしてくれてるような人ですから」
「なるほどな。どことなく忍に似ているような」
「あ、そう言われてみれば」
「あいつほどおっちょこちょいではなさそうだがな」
「はは、は……」
大沼に深々と頭を下げ、楓が片側二車線の道路を隔てた礼也のもとへと向かう。
数歩歩き、何かに気がついたように楓が光輔と夕季に手を振ってきた。
「なんだろ」
光輔が気づくと、楓は口もとに両手を当て、スピーカーの真似をしてみせた。
「何か用があるみたいだね」
「……」
二人が見つめる中、騒音で声の届かない通りの向こうから、楓がジェスチャーを開始した。
まず拝むように手を合わせる。
それから右手でピースサインを作り、それをオーケーサインにチェンジしてから右目の前で覗く仕草をした。
続けざま同じオーケーサインを左目に。
最後に右手で手刀を作って、にっこり笑顔で大げさに敬礼の格好をしてみせた。
「ぱんつーまる見え……」
すべてを見守った後で光輔が呟く。
間抜けヅラを横に振ると、間抜けを見るようなツラの夕季と目が合った。
「夕季、わかった?」
夕季がキッと口もとを引きしめる。
「……。ぱんつーまる見え……」
「だよな」
「……うん」
真顔になった光輔が一本指を立てて、彼方の楓へとアピールし始めた。
「もう一回! 桐嶋さん、もう一回やって!」
光輔からの泣きのワンチャンスを、通りの向こうから承諾する楓。
「何やってやがんだ」
怪訝そうに割り込む礼也をジロリと眺めてから、楓はリトライを開始した。
まず勢いをつけ、弾ませるように手を合わせる。「ごめんね」
「ぱん」
右手でピース。「二人の分の」
「つー」
親指と人差し指で輪っかを作ってオーケーサイン。「お金は」
間髪入れず、二つ目のオーケーで双眼鏡の完成。「渡してあるから、大丈夫です」
「まる」
ほぼ水平の敬礼。「よろしくお願いします」
「みえ」覗き見状態の楓をちらと見る礼也。「ぱんつーまるみえだって」
「ちょっと、変なこと言わないで!」
言いがかりをつけられ、思わず楓がむっとなる。
「いや、そうにしか見えねえだろって」
「そんなはずないでしょ。そんなふうに見えてるの、礼也君だけだよ」
「いや、んなこたねえだろ。ぜってー、伝わってねえぞ」
「そんなことありません。ちゃんと伝わってます」
「んとかよ……」
その光景を遠くから眺め続ける光輔と夕季。
表情のない顔で二人が大沼へと振り返った。
「!」ぎょっと後退する大沼。年長者として彼らの求めに応じなければならなかった。「……ぱんつーまる見えだな」
「あ、やっぱり……」
「……」
「あ、わかったって」頭の上で大きな両手の丸を作り上げる光輔に、楓が満足そうに振り返った。「ほら、わかってくれた」
「ほんとかよ」
「ほんとでしょ。そんなこと言ってるの、礼也君だけだよ」
「解せねえ……」
「じゃあ、よろしく頼んだから~!」
大きく手を振って、楓と礼也が小さくなっていく。
その光景を光輔らはぽかんと見続けていた。
「結局よくわかんなかったね……」
「……うん」
「後でメールで聞いてみよ」
二人を横目でちらと見て、大沼がぼそりと口を開く。
「かわった先輩だな」
光輔と夕季が恨めしそうに大沼を見上げる。
「……忍に似て」
「似てますかね……」
「……」
「……やっぱり」
その様子を物陰から見守る視線があった。
それは礼也らが完全に視界から消えると、また隠れるように物陰へと戻っていった。
ギャラリー達の視線はその一角に集中しつつあった。
球速百三十のコーナーで長打を連発する大沼の美技に惹かれて。
タイミングよくリリースされたバットは一定のリズムで白球を叩き続け、そのいずれもがライナー性の弾道を描き、ネットに深々と突き刺さっていく。
その中の何発かが、ホームランサークルを射抜いていた。
野球少年達の、おお~っ、というどよめきに混じり、多くの大人達も腕組みをしながら笑顔で顔を見合わせ、首をかしげる。
こりゃまいった、のサインだった。
店員からホームラン数のタイ記録であることを告げられると同時に、ギャラリー達から一斉に沸き起こる拍手。
するとサングラスを装着しポーカーフェイスを貫いてきた大沼の顔がわずかに赤らみ、その口もとが少しだけ嬉しそうにうごめいた。
観賞対象を失ったギャラリー達が霧散する中、びっくり顔の面々が待合シートで大沼を出迎える。
「すげー、大沼さん」
「すごい」ふんごー、と鼻息を荒げる。
光輔と夕季に絶賛され、洋一のパンチを軽々とかわす大沼が口もとをかすかにひくつかせた。
「今日は調子がよかった方だ」
「タイ記録だって。ホームランの」
「すごい!」ふんごー!
「それでもあと一本がなかなか出なかったんだけどな」ほのかの急所蹴りをこともなく捌く大沼。「夕季、やるか」
チャレンジャーの消えた百三十キロゾーンを睨みつけ、夕季がへの字口でこくりと頷いた。
そのわずか数分後のことだった。
開いた口のふさがらない大沼と光輔は、動くことすら忘れてしまったようだった。
その硬直を解いたのは、洋一とほのかの同時攻撃だった。
「うお!」
「あ、そこ駄目だってば……」
「とったどー!」
呪縛から逃れた二人が戦慄の表情を一点に注ぐ。
そこにはヘルメットをかぶり、時速百三十キロの球をバカバカ打つ夕季の姿があった。
制服のスカートのままで足を開いてスタンスをとり、流れるようなテイクバックから、ダイナミックかつ豪快なフルスイングをぶちかます。
大沼に教えてもらったばかりの一本足打法で、どんぴしゃりのタイミングで打ち込まれた弾道は、大沼のそれと何ら違いはなく、ぐさぐさとネットを揺らしていった。
知らず知らずのうちにギャラリーを呼び戻し、夕季がへの字口の顔をぽっと赤らめる。
やがて店内放送でホームラン数の新記録を打ち立てた旨が告げられると、倍増となったギャラリー達の大喝采の中、不機嫌そうな夕季が光輔らのもとへと戻ってきた。
「なんで怒ってんの……」
光輔に問われ、キッと振り返る夕季。
「見られてるとやりにくい」
「そりゃ見るだろ」やれやれと言わんばかりの光輔。「制服着た女子高生が百三十キロの球をバカバカ打ってたら」
「……」顔を赤らめ、大沼に助けを求める。「恥ずかしかった」
「おまえよりホームランが少ないのにドヤ顔で出てきた俺はもっと恥ずかしい……」
「……。光輔の番」
「ええっ! いや、無理だから、俺」
「……」
夕季からの無言の圧力を受け、押し出されるように光輔がボックスへと向かう。
次なる見せ場を求めてとどまったギャラリーの注目を浴び、非常にやりづらそうに光輔がバットをかまえた。
初球を当然空振りする。
夕季の後でやりづらいということもあったが、基本的に光輔は百キロ未満のボールにすらろくにかすりもしなかった。
「光輔、へたっぴー!」
「へたぴー!」
十数回の空振りを繰り返した後に、洋一達からの野次にムッとなり、光輔が一大決心をし打開策を試みる。
低く体勢を落とし、バットを短く持った。
「あ、バントしようとした!」
「ひきょーものー!」
「いや、してねえし、まだ!」
慌てて元のスタイルに戻すチキン光輔。
「くはっ!」へっぴり腰で空振りし、今にも死にそうな表情で夕季へと振り返った。「どうやったらこんなの打てるんだよ! コツとか!」
一瞬の思考の後、夕季が真顔で答えた。
「ボールが止まって見えるところまで引き付けて思い切り……」
「それおかしい! 最初からおかしいだろ!」
むっとする夕季。
「……せっかくアドバイスしてあげてるのに」
「いや、もう、全然アドバイスになってねーし!」
その後、懸命にボールに食らいつき、なんとか初めて触れることに成功した。
「お?」
少しだけ手ごたえを感じるとともに、微修正を重ね始める光輔。
チップ。
「むむ!」
またもやチップ。
「おお!」
カスン!
「これは!」
カッスン!
「きたかも……」
次球がファールになるや、一気に開眼したようだった。
「よし、見切った! 次!」
見よう見真似の一本足打法が痛烈なファールとなり、光輔の瞳が燃え上がった。
「よーし、さあこい! こっからだ!」
完成したフォームで次の獲物を待ち受ける。
その顔つきはさながら獲物をロックオンした獣のようでもあった。
シーンと静まり返る身内ギャラリー。
そして。
「……」
シーン……
「終わりかよ!」




