第三十四話 『メッセージ』 6. かわらない人
メック・トルーパー事務所の休憩所では、礼也による怒りの噴火活動が長らく続いていた。
おろおろとうろたえる光輔の横で、あきれるように頬杖をつく夕季の姿がある。
それもそのはず、礼也の激怒の理由は、買い置きのメロンパンがなくなっていたことなのだった。
「誰だ! 俺のお宝、全部食ったバカちんは!」
すっくと夕季が立ち上がる。
それに反応したのは光輔だった。
「夕季、どこ行くの。トイレ」
「……ジュース買いに行くだけ」
「あ、俺も行こうかな」
「勝手にすれば」
「うん、そうする」
夕季の後を追い、逃げるように立ち去る光輔。
それに気がつき、礼也が燃え上がる両眼を差し向けた。
「てめーら、どこ行く気だ!」
「あ、と、ジュース買いに」
「食い逃げじゃねえだろうな!」
「まさか!」蒼白の光輔。「……礼也もなんか飲む」
「んだあ、コラー!」
「……あ、コーラね。わかった」
「あと、そこいら中の奴らに言っとけ。ぜってー犯人探し出して叩きのめすってな」
「あ~……」
憎しみのまなざしを受け止めきれず、あぶら汗にまみれる光輔。
対照的に夕季は、げんなりした様子でとっととその場から離れようとしていた。
「いいか、これだけは言っとく」陸竜王よろしく、礼也の眉間の皺はぱっくり割れ、顔色が灼熱の赤に燃え上がっていた。「俺の宝モンぶんどった奴は許さねえ。ぜってー、ぶっ殺すぞ! 誰だろうと許さねえ! たとえどっかの大統領だろうが、ゆるゆるご当地キャラだろうが、ぜってーぶっちめる! 覚えとけ! けっちょんけっちょんのぎったんばっこんにのしまくってやるって。この俺、がだ!」
「は、はは……」
「……」
「ったくよ、どこの命知らずの冒険野郎だ! それとも特攻野郎かって!」
「何、何、なんの話?」
綾音の声がし、礼也が振り返る。
その満面の笑顔に、礼也が思いのたけを吐露した。
「聞いてくれって、綾さん。ここにあった俺のメロンパン、全部食っちまった奴がいてよお……」
「あ、ごめん、それあたし」
あんぐりと口を開けたまま、一瞬で礼也のマグマが収縮した。
「……。綾さん、かよ……」
「イエス、マイ、ラブ!」
「ああ~……」
ふいに夕季の眉間に魂が宿る。
「大変だよ、綾さん。絶対に許さないって言ってた。この俺がぶちのめすとか」
「はあ!」キッと夕季に振り返る礼也。「……何わけわかんねえこと言ってんのかな、ちみは」
「食い逃げした命知らずを必ず叩きのめすって大騒ぎしてた。危険だから、もう二度と礼也の前には現れない方がいいかもしれない。まさか犯人が綾さんだったなんてあたし以外は知らなかったみたいだけど、礼也には関係ないと思う。礼也は空気読めないから」
「そうそう、あたしが犯人なんだよねえ~。て、マジかよ!」
「てめえ、知ってやがったのか……」
思わず言葉をなくし、夕季を睨みつける礼也。
それにも顔色一つ変えない夕季を、光輔が卑屈な笑みで眺めた。
「俺もなんとなくわかってたけどね……」
「でも礼也の怒りも仕方ないと思う。黙って食べた綾さんが悪いから。外がカリカリで中がほわほわのおいしさみたいだから。綾さん、さよなら」
「……てめえ、根に持ってやがんな」
「え? え? マジで殺されるのか? 何、末端価格で一個一億円とかするの?」
「てめえ!」恥ずかしそうに顔を赤らめて。「……あれは、ジョークだってばよ」
「なんだ、ジョークなんだ。本気かと思った」
「本気なわけねえだろ。……てめえ、桐嶋に言うぞ」
「それはやめて。……ジョークだから」
「なんだ、ジョークか! 嘘こけ、てめえこのやろー!」
「だよね。メロンパン五個食ったくらいでいちいち殺されてちゃタマんないって。ジョーク、ジョーク。あはははは!」
「く! こらえろ、俺。まだチャンスはある……」
「人のもの黙って五個も食べちゃ駄目だよ、綾さん」
「てか、おまえ、あたしが食べてるとこずっと黙って見てたよな。知ってたなら言えよ!」
「礼也のだと知ってて食べてると思ったから」
「知らないよ! 一個食べたとこで止めるだろ、普通!」
「顔がこわかったから……」
「一個は食べてもいいんだ……」
繕い笑いの光輔と、困った様子の夕季が、顔を向け合う。
「まさか全部食べちゃうとはおもわなかった」
「それはこっちのセリフだよ!」
「何怒ってるの……」
「あたしだって礼也のだってわかってたら食べなかったよ!」
「じゃ、誰のだと思って全部食べちゃったんだろ……」
繕い笑いの光輔の顔をちらと眺め、夕季が販売機へ向かう。
その後から逃げるように光輔が続いた。
バツが悪いを通り越し、居たたまれなさに全身を震わせる礼也。
その真っ赤な顔を眺め、綾音が悪戯っぽく笑いかけた。
「ごめんね、礼也。一つだけ貰おうと思ったんだけどさあ、おいしくてね。とまんなくなっちゃった。まさに加速するメロンパンってやつだね」
ピクンと礼也の耳が蠢く。
「ほんと、ごめんね、礼也。お金払うから、勘弁」
「お、おお……」むふんと満足顔で振り返った。「そういうことなら仕方ねえな」
「怒りたくても怒れないやるせなさと、褒められて嬉しいのがごっちゃになってるね」
光輔の考察に一瞬だけ顔を向け、どうでもよさそうに夕季がコインを投入した。
その視界の彼方でまだまだ続くメロンパン談義。
「こんなおいしいメロンパン食べたの初めてだよ。どこの?」
「フレールっつうガッコの近くの店だけどよ」
ベタ褒めの綾音に、得意満面で胸を張る礼也。
するとさらに鼻息を荒げ、綾音はぐいぐいと礼也のテリトリーに侵入してきた。
「すごいね。こんな完璧なメロンパンには今まで出会ったことないよ。いろんなバランスが極めて黄金比率だわ。あたしが作ろうとしてたどり着けなかった神業の境地に達してるよ。その正体、実はどこぞの三つ星レストランで修行してきた有名パティシエって人なんじゃないの」
「五年くらい前まで保育園で給食作ってたって言ってたけどよ」
やや引き気味に礼也が答える。
少しだけ綾音の表情に綻びが表れた。
「……でもさ、作ってる人、絶対、一子相伝のプラチナレシピ持ってるよ。間違いなくメロンパン・マイスターだわ。いったいどんな専門書で学んだのかしらね。知りたいわ~」
「確か、二十年くらい前に古本屋で買った、おいしいパンの作り方って本見ながら作ってるって言ってたな。表紙にへろへろの子供の絵が描いてあった」
「……」
紙コップを両手に持ち、夕季と光輔が二人のテーブルにやってくる。
綾音の横顔を眺めつつ、夕季がココアが入ったカップを差し出した。
「さんきゅう、夕季」ずずずず~の後で、ピカッと頭上電球点灯。「そうか、わかった。最新のすごい設備が揃っているんだ! それなら納得」
光輔からコーラを受け取り、グビッとやってから礼也。
「昔の知り合いからただ同然で譲ってもらった、ボロボロのオーブン使ってるってよ。時々煙が出るんで早く買い換えてえって」
「……」ずずず……。「もうなんもかんもミリ単位の仕事だからだね。それだけで充分人の域を超えてるはずだから納得だよ」
「結構適当に作ってるっておばちゃん言ってたけどよ。今でもたまに水の分量間違えて失敗するとかって話だ」
「は! 太陽の手! エスパーだったりなんかしちゃったり! それで納得!」
「ひでえ冷え性で冬はつらいってよ。……なんでエスパーがパンつくんだって。能力の無駄遣いだろ」
「もう!」くしゃっとカップを握り潰す。「夕季、おかわり」
「うん……」
「もう、って……。飲むの、はええな」
表情もなく立ち上がった夕季の背中を、礼也と光輔が目で追う。
「熱くなかったのかな、綾さん」
キッと光輔を睨みつける。
「あっついわ!」
「あ、やっぱり」
「舌ひりひりする~。やっぱり一番大事なレシピは愛情ってことかしらね」
ひりひりする舌をれろれろ出しながら、腕組みする綾音がもっともらしく頷いてみせた。
「結局今までの全部、どうでもよくなっちまったじゃねえか……」
キッと睨みつける綾音に、礼也が思わずビクンと反応した。
「あんた、知り合いなの」
「知り合いってか、常連なだけだけどよ」
「紹介しな」
「はあ? ……連れてくくらいならいいけどよ」
「んじゃ、早速」
「今からかよ! さっき行ったばっかだって、おりゃ」
どうしたものかと思案し始める礼也。
その不安を一蹴するように、綾音は猛禽類特有の鋭いまなざしを向けた。
「あたしには時間がないんだよ。あたしはねえ、一夜の命にすべてを託す可憐ではかない月下美人なのさ。……ひっくしん! あ、ハナ出てきた、ティッシュちょうだい」
「どこが可憐だって……」
「はかなさのかけらもないよね……」
「目的どおり、必ずメガに完璧なメロンパンのレシピを持ち帰ってみせるから。ああ~! 舌ひりひりする~!」
「何しに来たんだって……」
「綾さん、メガネずれてる……」
その時、タイミングよく忍が通りかかった。
「忍、乗せてって」
「あ、ええ……。どこに」
「どこだっけ」
「フレールだって」
「そう、フルーレ」
「いや、フレールだって」
「そう言ったじゃんか」
「もういいって……」
「ああ」ぽんと忍。「礼也の行きつけのパン屋さんだよね。あそこのクイニーアマン、おいしかったなあ」
「あれ、たけえだろ。ウメえけどよ」
「あんなもんだよ。あの値段であの出来なら、あたしはお得な方だと思うよ」
「よし、それも買おう。十個」
「今から? 十個?」
「今からに決まってるでしょうが」はああん、と綾音。それから礼也へと振り返った。「礼也、行くよ」
「あ、おお……」
「この時間だともうそんなに残ってないかもね」
そこへ夕季がココアのおかわりを持ってやってきた。
「あ、さんきゅう。夕季、あんたも来な」
「どこ行くの」
「フルーレにメロンパン買いに行くから」
「……微妙」
「んだと、てめえ!」
「何でも食べたいモン買ってあげるからおいで。あちちち!」
「あ、うん……」
「子供か、てめえは」
あきれた様子で礼也がたしなめる。
その顔を夕季がしげしげと眺めた。
「嬉しそうな顔して何言ってるの」
「てめえ!」
「よし!」紙コップをくしゃっと握りつぶして、綾音が立ち上がる。「行くよ、礼也、案内しな」
「しゃあねえな。……って、もう飲んだのかよ」
「熱くないの、綾さん」
「あっついわ!」
「あっついんだ……」
「光輔、おかわり!」
「はいはい……」
「なんかワクワクしてきたね。あ~、舌ひりひりする!」喜びに身震いする綾音。「雅も呼ぼっか。帰り、みんなでファミレス行こうよ」
「そんなに乗れません……」
満面の笑顔でくるりと忍に振り返る綾音。
「後ろに四人乗れば大丈夫だって。あ、じゃあさ、夕季、あたしの膝の上乗んなよ」
「もしもし、綾さん……。捕まるのあたしだから」
「昔はよくやってたじゃん。チャイルドシートとかなくてさ、こっそり」
「昔はね。子供だったからね。……今思うとこわいけど」
「大人しくちょこんと座っててかわいかったよね、夕季」
「う……」
「酔って気持ち悪いの我慢してたんだよね。言えって。実はあたしも足痺れてたんだけどね。あっははは」
「ううう……」
「ははは……」
引きつる忍の顔を表情もなく眺め、礼也と夕季が横目をぶつけ合った。
「てめえ一瞬やろうかどうか迷った顔したろ」
「自分だってうらやましそうな顔してたくせに」
「何言ってやが! んが、ふんぐ!……」
礼也、赤面。
それに気づき、綾音が膝をぱんぱん叩く。
「じゃ、礼也、膝の上に乗る?」
「……」
「……。迷ってる」
再び横目でちら見し合う二人。
「……そりゃ迷うだろ」
「……ん」
「もぞもぞもぞもぞしてかわいかったよね、礼也も。おしっこ我慢してるのなら言えって。あっははは!」
「……いや、そんなよ……」
「あ、綾さん、ココア買ってきたけど」
「あ、さんきゅ、光輔」ごきゅ、ごきゅ、くしゃ。「ぶはあっ!」
「一気かよ……」
「熱いよね……」
「たりまえだっての。舌やけづったわ! はあ~ん、ひりひりする~」
「だよね、はは……」
「じゃあ、あんたがさ、あたしの膝の上に乗ってきなよ」
「あ、うん。……え、何?」
「光輔!」
「てめえ、ぶっ殺すぞ!」
「なんで二人とも怒ってんの……」
「そういや、あんたさ。酔ってあたしの膝の上で吐いたことあったよね。おしっこも」
「……なんで今そんなこと言うの」
「ざまみろ、光輔!」
「いい気味」
「いや、だからなんで……。どこ行くの」
「パン屋さんに行きたいんだって、光ちゃん」
忍に言われ、光輔が、ポンと納得する。
「ああ、フレールか」
「フルーレだってば!」
「いや、フレールだって……」
その時すでに綾音は電話を手に取っていた。
「あ、雅。……。うん、今からさ、行くよ。メロンパン買いにさ。……。うん、そう、メロンパン。……。うん、だからさ、フルーレのメロンパンを……。あん? メロンパンだって言ってるでしょ。アハンハン? いや、舌やけどしててうまくしゃべれないんだけど……。メロ……。アハンハンじゃねえわ! メロンパンなの! メ・ロ・ン・パ……。おまえ、わざとだろ!……。ああ、わかった、わかった、それも込みでいいって! とにかく行くよ、おいで。え? あたしの膝の上に乗ってく? いくつだ、てめえ! ……。いや、アハンハンじゃなくてメロンパンだから……。また最初からやんのか!」
終了するや、都合よく通りかかった木場を捕獲した。
「あ! ちょうどよかった。木場兄さ~ん!」
木場が振り返り、嬉しそうな顔を向けた。
「お、綾音か」
「もう上がりですよね」
「おお」
「今日、お時間ありますかね」
「おお、まあ」
「すみません、今からみんなを乗せてパン屋さんまでひとっとびしてもらえませんか」
「ひとっとび?」
「あ、間違えた。連れてってほしいんですけど。木場兄さんの車、八人まで大丈夫でしたよね」
「ああ、別にかまわんが、急にどうしたんだ……」
「あ~、舌ひりひりする。はああ~ん……。あ、ちょっとフルーレのアハンハンを買いに行きたくて。ついでに食事も。お金はこちらで出しますから」
「あはんはんってなんだ?」
「違うでしょ! さっきからフレールのメロンパンだって言ってるのに!」
「……なんかすまん」
「あ、すみません! ろれつがまわらなくて!」舌をれろれろ出しながら謝った。「はああ~ん……」
「……。舌、やけどしたのか?」
「あはんはん……」




