第三十四話 『メッセージ』 5. 女神再降臨
「待って~、ゆうちゃ~ん、ゆうちゃ~ん」
「!」
学校の廊下でみずきに呼び止められ、夕季がギクリとなって振り返る。
その隣にいた光輔も同様だった。
「どうしたの」
「……別に」不思議そうに覗き込むみずきに、夕季がやや口ごもりながら言った。「なんとなく、聞き覚えがあったような気がしたから……」
「俺もなんとなく、言い覚えがあるような気がした……」
光輔と夕季はサッカー部の催し物の買い出しに出かけるところだった。
そこへ同じくクラスの買い出しに出向くみずきと茂樹、おまけの祐作が合流することになったのだ。
茂樹一人だけが妙に舞い上がっていた。
光輔とみずきをクッションがわりにし、ここぞとばかりに夕季に話しかける。
夕季は戸惑うような表情でそれに相づちを打つばかりだった。
一行が職員室の近くを通りかかった時、その不穏な雰囲気に気がついて立ち止まった。
来客者に教頭がぺこぺこと頭を下げる現場に出くわしてしまったからだ。
山凌高校ではよくあることで、定期的にスポンサーの視察団が来校する日が今日だったためである。
偉そうにふんぞり返る来客者を教頭ら教諭陣がへりくだってもてなすのを目の当たりにし、嫌な気持ちになる一行。
「なんだ、ありゃ。普段は俺らに偉そうに人の道語っちまうくせに。結局自分より強いものには無条件降伏かよ」
茂樹のグチにみずきがやるせない顔を向ける。
「しょうがないよ。スポンサーなんだから」
それを受け祐作も仏頂面を形作った。
「確かにな。あの人らがケツまくったら、俺らの通うとこなくなっちまうんだもんな。どんだけエレえんだよって話だ」
「ははっ……」
夕季の顔をちらと見て、光輔が卑屈に笑う。
それに気づいたみずきが不思議そうな顔を向けた。
「何?」
「別に……」
「別にねえ……。ははは」
「?」
それがメガルの関係者に間違いないことを知る光輔らは、ただ苦笑いするしかなかった。
「お、来るぞ」
祐作の声に振り返る面々。
「偉いさん見かけたら挨拶しろって言われてたろ」
「ふざけんな」激高の茂樹。「俺はあんなふんぞり返った偉そうな奴には挨拶なんてしないぞ!」
その二秒後、真っ先に客人に会釈をしたのは、茂樹だった。
「おまえさ……」そう言いかけた光輔の言葉が途切れる。客人の顔を確認してのことだった。「え、と……」
同様の表情を夕季もしてみせる。
「あ……」
その客人は茂樹の挨拶すら無視して通り過ぎようとしていた。
まるで自分の偉さを誇示するように、おまえ達とは違うのだよ、とでも言わんばかりに。
「あの野郎、偉そうに……」
誰にも聞こえないようにこそっと茂樹が悪態をつく。
するとそれが耳に届いたのか、客人の足がぴたりと止まった。
「やべ……」
茂樹が光輔の背中に隠れる。
「おまえさ……」
その苦笑いする顔を客人は睨みつけた。
びびりまくる茂樹をではない、光輔の顔を見て、首を傾げたのである。
まさか、といった表情になり、客人がまた背中を向ける。
すぐさま仰天の顔で振り返った。
今度は夕季を二度見するように。
そのタイミングで、絶妙な感じで彼にとっての災難は訪れたのである。
「お、エロガッパじゃねえか」
おそるおそる振り返る茂樹の目の前に、その行動に相応しい人物が現れた。
隣で困惑する桐嶋楓とともに。
「光輔もか。何やってんだ、こんなとこで虫みてえに集まりやがって」
「別に集まってるわけじゃないんだけどさ……。虫?」礼也の顔を情けなさそうに光輔が見上げた。「お客さんがさ……」
「おい、桐嶋、こいつ覚えてるか」
光輔の声を吹き飛ばして礼也が楓に振り返る。
礼也は茂樹を思い切り指さし、大声をぶち上げた。
「バーベキューん時いたろ、このエロガッパ」
「……うう」楓が茂樹を眺めて困った顔になった。「覚えてる」
「なんつったかな、こいつの名前。おまえ覚えてるか?」
「う、ん……」
礼也に問われ、楓と茂樹が真顔を向け合う。
そこはかとなく、名前を知らないとは言いづらい雰囲気が漂い始めていた。
「……ガッパ君」
それに茂樹が反応する。
「……。今、小さな声でエロガッパって言いましたよね」
「……ごめんなさい」
恐縮する楓。
それをかばうように、茂樹が持ち前の男前を発揮しようとした。
「そんなに自分を責めないでください。桐嶋先輩の口からその言葉が聞けたのなら本望です」
「……」
「ドン引きじゃねえかよ!」
礼也のまとめに一同がさっと引く。
それ以上に蒼白となる人物が他にもいた。
「どうかなさいましたか」体調の悪そうな客人の顔を教頭が気にかけた。「お顔の色が優れないようですが」
「いや……」
青白い顔で否定する客人を不思議そうに眺め、教頭は光輔達へと向き直った。
「ほら、みんな、お客様にご挨拶をしなさい」
「あ!」
客人の制止する間もなく、教頭が光輔らに挨拶を強要する。
仲間達とともに光輔と夕季がそれぞれの表情で頭を下げると、客人は取り残された迷子のような顔になってそれに深々とお辞儀を返した。
「どうなってんだ……」
ムッとなる茂樹のそばで、祐作とみずきが腑に落ちない様子で顔を見合わせた。
「霧崎、君もだ」
「あ!」
教頭に対していきり立つ礼也を、楓が肘うちで諌めようとする。
「うぼ! 何すんだって」
「お辞儀しなよ」
「いや、てめえ、今綺麗に入ったぞ。……あ、気持ち悪くなってきやがった」
「大丈夫!」
「だいじょぶくねえ!」
「……それはごめんなさい」
「なんで俺が世話にもなってない奴に!」
怒りの矛先を無理やり転嫁すべく、そこまで言いかけ礼也が口をつぐむ。
礼也達の前で顔中から大汗を噴き出し、焦ったようにハンカチで拭き拭きするその人物を見つけてしまったからだった。
「お、どっかで見た顔だと思ったら、あんたじゃねえか」面白そうに笑ってまじまじとその顔を注視する礼也。「またこんなとこで偉そうにふんぞり返っちゃってよ。世話にもなってねえどこぞの偉いさんならともかく、あんたになら頭下げねえといけねえな。これ、このとー、りっと!」
ぎらつく目線を向けながら身体だけを折り曲げて挨拶の振りをする礼也をくわと見据え、その人物、切れたナイフ大城は派手に顔を引きつらせた。
それを一大事だと判断し、教頭が事の収集に躍起になり始める。
「こら、やめなさい」おろおろと大城、礼也間を何度も往復するだけの雇われ教頭。「この生徒はまったくどうしようもない生徒で。すみません。こら、お客様に失礼をお詫びしなさい」
「いいけどよ、別に」親指で鼻の穴をほじくりながら、ぞんざいに礼也が大城へ告げる。「ひいらりんにはちゃんと言っといてやるって。あんたがメガルの看板しょってナメられないように仕事してましたよってな」
「こら、霧崎、いい加減にしろ。すみません。本当に。まったく!」
「いや、いい、いいから……」
「いいってよ。じゃ、いいじゃん」
「霧崎、あとで職員室へ来い!」
大城の機嫌を損ねないよう教頭が気を遣えば遣うほど、状況はより悪化していった。
「あー、メンドくせ。あんた、何とかしてくれよ」
「……あ、あう……」
「こら、霧崎!」
「ああん?」
そこへ待望の助け舟が訪れる。
「礼也、いい加減にして!」
つかつかと礼也に詰め寄る夕季を、女神を見るようなまなざしで大城が注目した。
「いつまでも子供みたいなことやってないで、早くあっちに行って。迷惑だから」
「んだと、てめえ! あっちに行けって言い方はやめろ! せつなくなるだろ!」
「他人に不愉快な思いをさせてるの、わからないの! だから嫌われるんだよ」
「まったくもってストレートだな、てめえ! 真顔で刺激的なことばっか言いやがって。さっきからオブラートなしで、人の心臓グサグサ突き刺しまくってんのに気づいてねえのか!」
「オブラートって何だっけ?」
「あたしも聞こうと思ってた」
「薄くて透明なセロファンみたいなやつだよ。飲みにくい薬を飲む時とかに包むの。たぶん子供の時にお母さんが使ってたはずだよ」
祐作とみずきの疑問に、素で答えてみせる楓。
「さすが桐嶋先輩」
おおーっ! という感嘆の声に、楓が微妙な顔で苦笑いした。
「……」
ふいに黙り込む夕季に礼也が痺れを切らす。
「おっとびっくりだな! 何、キョトンとしてやがんだ。マジで気づいてねえな、この狂犬女!」
「誰が狂犬なの!」
「てめーしかいねーだろ! いい加減気づけって、マジで! いや、天然ボケか!」
「礼也には、……だけには言われたくない!」
「だけにわって何だ! だけにわってよ! わざわざ言い直しやがって、まあ。必殺技くらわすぞ、てめえ!」
「メロンパンだったらいらない」
「いや、やらねえが!」
「よかった。あれあまり好きじゃないから」
「はあん! てめ、そりゃ言いすぎだろ! あやまれ、くらあっ!」
「やだ」
「メロンパンが綾さんだとしてもか!」
「バカなの?」
「くああっ!」
「ゆうちゃん、すごい……」二人の不毛なやり取りを眺め、戦慄のみずきが思わず呟く。「霧崎先輩と五分に渡り合ってる」
それを光輔が、ははは、と受けた。
「てゆうか、明らかに押し気味だけどね……」
楓や茂樹らは黙って見守ることしかできなかった。
大城と教頭も。
「……」
「……」
ふいに大城が告げる。
「ケーキを、買ってきていただけませんか……」
「はあ?……」
「ご褒美に」
「?……」
「礼也君、もういいでしょ!」
はっ、と我に返った楓が緊急参戦を表明し、二人の間に割って入った。
夕季を睨んだままの礼也の手を引っ張って行き、途中ですれ違う大城と教頭に会釈する楓。
「すみません。……。すぐ人にからむんだから。やめなさいよ」思い出したように夕季に振り返り、笑いかけた。「あ、古閑さん、またうちに来てね。弟達がお姉ちゃんに会いたいって。ジョトも」
夕季もペコリと頭を下げる。
「……ジョトも?」
それに不快そうな反応を示したのは礼也だった。
「ほっとけって。あんな奴に触られたら、ジョトまで狂犬病になっちまうぞ。あう~ん、わふん、わふんもう駄目だわん、ってよ」
「誰が狂犬病なの!」
また始まる、第二ラウンド。
「てめーしかいねーだろ! 空気読めって。マジで怒んぞ!」
「空気読めてないのはどっち! くだらないことばかり言って恥ずかしい」
「いや、恥ずかしくねえ! ちっとも!」
「メロンパンみたいに頭の中がぱさぱさでスカスカだからわかんないんだね」
「やろー! あやまれ! メロンパンにあやまれ! 俺はバカにされてもいいが、メロンパンをバカにするやつは許せねえぞ」
「そういうバカなことばかり言ってるから嫌がられるんだよ!」
「んだと、てめえ!」
「桔平さんと同じだよ。いい加減、気づきなよ!」
「何! マジか!」
「なんだか憐れになってきた」
「ううう……」
「勝負あった、かな……」
「う~ん……」
光輔の判定にみずきが頷いた時、たたみかける夕季の行き過ぎた行為に対し、思わぬカードが主審によって提示されることとなった。
「そんな性格だから、あんなべちゃべちゃしてるものがおいしいと思うんだよ」
「ぐむむむ、こら、てめえ、言っていいことと悪いことが……」
「あら、古閑さん。おいしいメロンパンって中はやわらかいけれど、外はカリカリなのよ」
「……」
突然の楓の厳重注意に言葉をなくす夕季。
その顔が至って真剣だったためか、夕季は黙ってその判定を受け入れる他なかった。
「うちも家族揃ってメロンパンが好きだけれど、そんなふうに思ったこと一度もないよ。悪いけれど、べちゃべちゃなのは古閑さんが本当のメロンパンに出会ったことがないからじゃない? それにね、中身ってスカスカじゃなくてほわほわなの。違うのよ。べちゃべちゃでスカスカじゃなくて、カリカリでほわほわなの。わかる? ちなみにぱさぱさなのはあまりいいものじゃないからかもしれないけれど、時間が経ってるせいもあると思うよ。パンだったら仕方がないことだから、早く食べなかったのを棚に上げてそういうこと言っちゃ駄目。フレールのだったら、二日くらい経っても中はしっとりしているけれどね」
「……」ぐむむむ、と口をゆがめる夕季。「ごめんなさい」
「謝った!」
光輔、茂樹、祐作の三人が一斉に叫ぶと、くわっと夕季が振り向いた。
「睨まれた!」
「あ、そういう意味じゃなかったんだけど……」
神妙な夕季のリアクションに少々言い過ぎてしまったと楓が反省する。
その心知らず、尻馬に乗りまくる男がいた。
「ざまーみろ」礼也が思い切り挑発するように、アカンベーをする。「外はカリカリ、中はほわほわ、なーんだ? だ!」
「……」むっと礼也を睨みつける夕季。
それをおもしろそうに眺め、礼也が調子に乗って聞かれてもいない正解を押しつけた。
「答えはフレールのおいしいメロンパンだ、このやろう! カリカリしてるだけで食うとこもねえ、てめえとは大違いだ! 覚えとけ!」
夕季がキッ! となって悔しそうに唇を噛みしめる。
「外も中もべちゃべちゃ」
「はん?」う~ん、としばし考察。「……ひょっとして俺のこと言ってやがんのか?」
「はい、先輩」
「てめえは!」
「礼也君、いい加減にして!」乱闘寸前でストップをかける楓が、無表情に傍観している光輔の存在を咄嗟に気にとめた。「あ、穂村君、こんにちは」
「あ、うん」ペコリと光輔。「……さっきからいたけど」
「てめえ、おぼえてやがれ!」
礼也の捨てゼリフを、ぷいと顔をそむけて流す夕季。
「行くよ、礼也君」
「おい、待て、こら」
「フレール行くんでしょ」
「ああ、そうだった」
「ほら、前向いて」
「お、おお……」
興奮冷めやらぬ礼也を、楓が無理やり引きずっていった。
「おいおいおい、桐嶋先輩最強説浮上か」
茫然となる祐作の呟きを、茫然となるみずきが受ける。
「一気にトップに踊り出たね」
「……」茫然となった茂樹が、ふと先のことを思い出した。「やべっ! 古閑さんに睨まれた! 嬉しっ!」
「……今の女生徒は?」
茫然と二人を見送る大城が、茫然となる教頭に問いかけた。
「……あ、昨年度の生徒会長です。とても真面目で面倒見がよくて……」
「ケーキをもう一つ……」
「はあ?」
「ご褒美です」
「……はあ」




