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第三十四話 『メッセージ』 4. 大出世した人

 


 連絡通路に苦虫を噛み潰したような顔の忍の姿があった。

 原因は隣でぐちぐちとお小言をばらまく、調子づいた小田切ショーンである。

「ねえ、聞いてるの。さっきから黙ってるけど」

「はあ……」

 反応の薄い忍の態度に、ショーンがまったくもう、というあきれた仕草を差し向ける。

 大きな二つの排気口から噴火のような鼻息を巻き上げた時、何かが目に止まりその動きを止めた。

「?」

 急に静かになったショーンを、忍が横目で見やる。

 するとショーンは姿勢を正し、真顔で忍に目配せした。

「古閑君、正面からやってくる人に挨拶をしなさい。メガテクノロジーの重役だぞ」

 ちらと目の前を確認し、忍が不思議そうな顔をショーンに向けた。

「そんなに偉いんですか」

「あたりまえじゃないか。まだ若いけれど、僕達なんかが口をきけるようなレベルの人間じゃない」

 すかさず返したショーンをまたもや不思議そうに眺める忍。

「どれくらいのレベルなのかピンときませんけど……」取り巻きに慰められ、今にも死んでしまいそうな表情でゾンビ歩きをしてくる大城の姿が目に入った。「たとえば室長とかよりもですか。庶務の大城さんとか」

「比べものにならないよ!」

「……」

 忍が思わず苦笑いをした時、その声は通路を真っ直ぐ引き裂いてやってきた。

「おい~す、忍~」

 それを当たり前のように笑顔で受け止める忍。

「あ、綾さん。お久しぶり」

 当たり前ではないのは、ショーンの引きつった表情だった。

 そんなことなど気にもせず、一直線に忍へと到達する満面の笑み。

「なんだ、なんだ、元気がないぞ。もう一回、おい~す!」

「何それ……」

「いや、なんか、久しぶりにあんたの顔見たらテンション上がっちゃって。もっとちょくちょく帰って来たいんだけどさ、なんだか忙しくってさあ。仕事がらみじゃないと会えないっつうのが、せつないよねえ。ただで来れるのが唯一の救いだってばよ」

 あははは、とおもしろそうに忍が笑い返す。

 依然として引きつったままの顔を差し向けるショーンの目の前で、忍が少しだけ悪戯っぽい視線を綾音に向けた。

「でも綾さん、あたし達が口もきけないような人になっちゃったんだよね」

 途端に綾音の両目がつり上がる。

「ちょっと! 淋しくなるようなこと言うなってばよ。ぶっとばすよ、あんた」

「久しぶりに会ったのにぶっとばさないでほしいな」

「だって、久しぶりなのにあんたがあんまりにも冷たいこと言うから」うるうると淋し目を綾音が向けた。「淋しかったっちゅうねん。一年ぶりやんけ」

「ごめん、ごめん」

「あ、この人は?」

 綾音の気配りに、忍が、ん、という目線でショーンを流し見た。

「私の上司、……にあたるのかな。小田切さん」

 すかさず直立状態のショーンが、身体を直角に折り曲げた。

「小田切っ、ショーンですっ!」

 それを受け、ぱあああっと綾音の表情が華やぐ。

「あ、この人がションさん!」

「ション……」

「いや、それ、まずいって言うか……」

 再びの苦笑いとなった忍を見て、綾音が、やっちまったなあ、という顔をしてみせた。

「あ、すみません、つい知ってる人みたいな気になってしまって。柊さんや忍からよく聞いていますよ。変な人なんですってね」

「……」

「ね、忍」

「……言ってませんて、私は」

 ひくつく忍の顔をおもしろそうに眺め、綾音は肩をすくめるようにショーンに愛想笑いをしてみせた。

「これからもこいつのこと、よろちくお願いしますね」

「はい、こちらこそ、よろち、しくお願い申しまする……」

 綾音爆笑。

「ほんとだ、おかしいね、この人。あんたが言ってたとおりだ。あっはっは!」

「私は知りませんて……」

 バツの悪そうな忍の顔。恨めしげな表情で、ただ忍は硬直するショーンの横顔を眺めるだけだった。

「あっはっは…… !」

 次なる獲物を発見し、綾音の両眼がキラリと光を放つ。

 ターゲットを捕捉するや、コンマ一秒の早業で襲いかかっていった。

「ゆ~き~!」

「あ、綾さん、……んぐ!」

 間髪入れずのダイブハグを敢行。

 すでに夕季に逃げ場はなかった。

「あれ、おまえ、髪切ったの!」

「……うん」

「かわいいー! 姉さんみてー!」なでなでする。「マジかわいいー!」

「……やめて。くしゃくしゃになるから……」

「いいじゃん、いいじゃん。久しぶりなんだし」なでなでなでなで。「おほぉーっ!」

「綾さん、なですぎだよ。夕季、困ってる」

「だって、かわいいじゃん、もう」なでなでなでなでなでなでなでなで……。突然ポンと思い出し、忍へと振り返った。「あ、今日、あんた達のところに泊まるからね」

「いいけど」

「やめ……」

 一息つき、ようやく本来の心拍数を取り戻したショーンが、畏怖の表情を忍に差し向けた。

「いったい君は何者なんだ」

「はい?」

 その意味がわからず、忍が疑問符の付いたまなざしを送る。

 ショーンは眉間に皺を寄せ、綾音と忍を何度も見比べるようにそれを切り出した。

「柊副局長といい、伏見さんといい、すごい知り合いばかりで。これならその若さでの異例の大抜擢も納得できる。いったいどういう関係なんだ」

 すると忍が少しだけ淋しそうな顔になった。

「……。ただのみなしごですよ」

「……」

 ふいに伏し目がちな視線を上げ、ショーンにふっと笑いかける忍。

「家族は多いですけれどね」


 翌日は忍の案内のもとで、さまざまな視察を兼ねた挨拶回りに綾音は追われていた。

 以前従事した時に建物内の見学はしたことがある。だが今では立場の違いもあり、目的がまるで異なるものとなっていた。

 それもそのはず、綾音はすでにそこに勤める人間達とは次元の違う世界にいたからである。

 それはかつて一介の従業員だった職員が、親会社の社長となって足を踏み入れたようなものだった。

 受け入れる側にとってはもと同僚であるという感覚などまるでなく、綾音を有力な政治家を見るような態度で接してきた。

 上辺だけの愛想笑いを浮かべ、ただただ失礼のないよう、マニュアルどおりの接待を心がける。

「忍、頑張ったんだってね。姉さん、褒めてたよ。あの人があんなふうに人を褒めることなんて滅多にないから」

 お体裁の案内の途中で綾音にそう言われ、振り返った忍が嬉しそうに笑う。

「いろいろな人が助けてくれただけだよ。でなかったら今ごろ私は全部なくしてた。今思うとすごく怖くなってくるよ」

「そういうのも全部ひっくるめてあんたなんだろうね」感心したように、またあきれたように綾音が微笑みを返す。「当たり前じゃないけど、特別なわけでもない。でもあんたじゃなかったらそうはならなかった、ってとこなんじゃない」

「何言っちゃってんですか、重役ってば」

「てめえってば!」

 忍を案内役に選んだのはあさみの配慮でもあったが、気を許せる人間がそばにいることでほっとすると同時に、綾音は忍に申し訳ないような感情さえ抱き始めていた。

 ただでさえ周囲からは特異な視線を受けている忍が、自分と親しげに話していることで、さらなる偏見の目で見られるのではないかという心配だった。それは一目置かれるのとはまた違った、差別と敬遠を生むことになるはずなのだから。自分自身そういった軋轢の中に埋もれてきた綾音だからこそ、痛いほどにわかる。失敗はもとより、第三者の失脚によって忍が今の立場を追われれば、その見返りは本人の言い分などまるで通用しないほど手痛いものとなるのであろう。

 そんなことなどまるで気にせずに接してくる忍だからこそ、余計にそう思えたのも確かだった。

 この状況はいつまでも続くわけではない。

 いつか環境が激変し、平和か、或いはさらなる悪化を招いたとしたら、桔平や綾音達のいるポストは責任回避のスケープゴートとして存在していたようなものとなるからだ。

 それゆえに、何としてでも今のバランスをキープするのが、自分のすべきことだと綾音は強く感じていた。

 フロアの向こう側で雅と夕季を見かけ、寄っていく二人。

 その前に綾音が忍へと振り返った。

「今日もあんたんとこに泊まるからね」

「別にいいけど」

 嫌そうな顔一つせず、しごく当たり前のように忍がそう答える。

「雅、あんたもおいで」

「あいあいさ~」くるくるっと手首を返して敬礼する笑顔の雅。にんまりとして続けた。「しぃちゃんねえ、目、ぱっちり開いたまま寝てるんだよ。ビーム出まくり。夜中に起きて目が合うと、怖い、怖い。呼ぶとちゃんと返事するし」

「ひぇええええ~!」

 顔面蒼白の忍の横で、綾音が冷めた視線を雅へと投げかけた。

「そういうあんたも夜中に突然起きてきて、寝ボケながらバナナとか食ってんだろ。呼ぶとちゃんと返事するし」

「ひぇええええ~!」

 驚愕の雅の前で、復活した忍がおもしろそうに笑った。

「そういう綾さんだって、寝ボケながらパジャマ脱いですっぽんポンになっちゃうじゃない。呼ぶとちゃんと返事するし」

「ひぇええええ~!」

 一拍置いて、三人が夕季へ振り返る。

 夕季はドキッとなって目を見開き、反射的に身を引くことしかできなかった。

「……この子は何もないね」

「……ないよね」

「つまんない」

 なんとなく夕季が淋しそうに顔を伏せた。

 何故かそれを気遣うように忍がフォローを入れ始めた。

「でもたまに寝言言うよ」

「……」

「そう言えば、何だか言ってたかな」ふうむと綾音が首を傾げる。「名前呼ぶとちゃんと返事してたし」

「……」

「質問するとちゃんと答えるよ」あっけらかんと雅が告げる。「いろんな機密事項だだ漏れ」

「……く」

「ひぇええええ~! は?」

「……」

 止まらない雅。

「好きな人の名前は、って聞いたら」

 夕季が焦り始める。

「みやちゃん! ストップ!」

 顔を真っ赤にして両手で雅にストップをかけるも、雅は止められなかった。

「おんどれだって」

「……」

 綾音が不思議そうに首を傾げ続ける。

「誰、それ?」

「さあ」

「ははは……」

 忍ものん気に笑っている場合ではなかった。

「同じことしぃちゃんに言ったらさ」

「みやちゃん! ストッピ!」

 焦りまくる忍をあっさりといなして雅。

「しゅわちゃんがだいじょうブイとかって」

「……」

 綾音がほぼ真横まで首を傾けた。

「何じゃ、そりゃ」

「さあ」

 してやったりの雅の後ろで、忍が夕季に耳打ちをした。

「みやちゃん泊めるのもうやめようか」

「しぃちゃん、すどい! ねえ、夕季、ちょっと……」

「……」

「……まあ、あなたまで……」

 あっはっは、と綾音が豪快に笑い飛ばした。

「あんたが悪いかもね」

「ひぇええええ~」猛烈に反省して、雅が悲しげに眉を揺らした。「もうしませんから~」

「あっはっは、自業自得だねえ~」

 せつなそうな顔を雅が綾音に向ける。

「ちなみに綾さんの好きな人は静ゲン太郎様だそうです」

「ひぇええええ~……」







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