第二十九話 『いびつな器』 4. 身近な人間
「これコピーしといて」
OAルームでさらっとショーンに言われ、忍が鬼気迫る表情で振り返る。
「はい」すべきことが重なり、てんてこまいの状態だった。
そんなことなど一向に解す様子もなく立ち去ろうとしたショーンを、偶然い合わせた三田が呼び止めた。
「小田切、そんなことは自分でやれ。彼女にもすべき職務があるのだ」
ショーンが口ごもり、渋々忍から書類を引き取った。
直属の上司というわけではなかったが、三田が桔平の部下となったことで無視できない上下関係ができてしまっていた。
「私がやりますから」
書類の束を抱え、忍がショーンから書類袋を取り返す。
ショーンはちらと三田の方を確認し、何も言わずに引き上げていった。
苦笑いの忍をその場に残して。
「まったく、しようのない奴だ」
三田の憤りに忍が振り返る。
「自分だけが特別な仕事をしていると勘違いしているから、雑用など他の者がすることだと見下しているのだ。たいしたこともしていないのに」
「それは違うと思います」
忍の意見に三田が注目する。
忍は厳しい表情で眺める三田にも臆することなく、涼しげな顔で先へとつないでいった。
「小田切さん、頑張っていますよ。少し焦っているところはありますけど、自分が司令部を支えていこうと一生懸命なんです。私にはとても真似できません。ですから、せめて雑用くらいは手伝って、お役に立ちたいなと思っています」
三田にまじまじと見つめられ、忍が、はっとなる。
「すみません。偉そうなことを言ってしまって。お心遣い、ありがとうございました」
忍が深々と頭を下げる。
くるりと向けたその背中を、三田の声が追いかけた。
「ならば、手のすいた者から雑用仕事をすればいい。上司も部下も関係なく。それがもっとも効率的だろう」
「あ、……そう、です……、でしょうか……」
「今の私は手すきだ。手伝おう」
「あ、あの、それは……」
自分から仕事を奪い、勝手に書類をコピーし始めた三田を、忍は苦笑いで受け流すことしかできなかった。
クラス対抗混合リレー、決勝レースへのカウントダウンが始まり、六人の第一走者がスタートラインにつく。
全員男子のそのメンツの中に仏頂面の茂樹がいた。
しかし睨みつける半周先に夕季の姿はない。
予選で致命的なバトンミスを犯した茂樹を、もっともリスクのないトップに置き、より上位を狙おうという試みだった。
なるべく目立たないように控えめな行動を心がける夕季に、ガッツリ柔軟体操の光輔がニヤリと笑いかけた。
「な、俺の言ったとおりだろ」
肩の下辺りまである髪をみずきから借りた留めゴムで束ね、不安げな様子で夕季が顔を向ける。
夕季の出走順位は光輔と同じく、アンカーだった。
もとよりクラスで一番速いのだからと仲間達から頼まれており、渋るところを、光輔の一言が心を動かしたのである。
夕季達のクラス以外はすべて体育クラスでもあり、アンカーならすでに順位が決着している可能性が高い。それなら目立たないのではないか、と。
そして、もう一つの真なる目的。光輔には大いなる野望があった。
衆人環視のもと、今や注目の的となった夕季と韋駄天田村に、圧倒的な差をつけて優勝することである。
「夕季、ひとこと言っとくぞ」
何となく腹立たしいその物言いに、夕季が軽くムッとする。
「目立ちたくないのはいいけど、手加減する必要ないからな。もし先に走ってたって、どうせ俺がブチ抜いてっちゃうからさ。それでそんな目立たなくなるっしょ」
へらへら笑う光輔を睨みつけ、夕季の口が、ムムムッとゆがむ。
それは互いのプライドとプライドをかけた、真剣勝負のフラグを導いていた。
火花飛び交う修羅達の睨み合いのただ中、そこにまたもや一人の男が舞い降りる。
その男、韋駄天田村は光輔に背中を向け、邪魔をするなと言わんばかりに夕季の眼前に仏頂面を晒した。
「田村っス!」
「……」
「ゆうちゃん先輩っスよね」
「……は、い」
夕季が顎を引いてかまえると、ふいに田村はクワと顔をゆがめ、激情を叩きつけた。
「先輩、握手してください!」
田村が百二十度まで腰を折り曲げる。
硬直状態でぽかんと見つめる光輔も何のその、戸惑う夕季から無理やり握手をもぎ取った田村がでれんと破顔した。
途端に周囲から巻き起こるブーイングの雨あられ。
特に茂樹からの怨嗟の叫びはすさまじいものだった。
「俺ですらにぎにぎしたことないのに! しねー! 転んで膝小僧擦りむいてしねー!」
はからずも必要以上の注目を浴びることとなり困惑しかりの夕季に対し、完全アウェイ状態に陥ってもなお折れることのないメンタルの強さを誇る田村が、さらにグイグイ間合いを詰めていく。
「あの、さっきすごかったスよね。俺、ずっと先輩のファンだったス。さっきから。あ、俺、田村っス」
「さっき聞いた……」
「先輩と同じアンカーで走れるなんて、俺、光栄っス。なんか、マジ、てかてかのわくわくモンっス。俺、自分の優勝はそれはそれとして、先輩のことも応援してますから、先輩、頑張ってください。あ、もし先輩が勝ったら、俺、お祝いでたい焼きおごります。負けないスけどね。ブロンソンのチーズたい焼き、マジ腰ぶっこ抜けますよ。ノーマルの五割増しのウマ加減ス。ウマ加減て笑っちゃうスね。どんな馬スか」馬面をぐいぐい近づけ、ブヒブヒ鼻の穴を広げて笑う。「てか、俺が先輩のために頑張りますから、優勝記念のお祝いで五個でどうスか」
「どうって言われても……」
「俺との真剣勝負が二個なのに、勝負関係なく五個っておかしいだろ。しかもチーズたい焼きとか!」
「いや、真剣勝負とかじゃなくて、デートの話なんスけど。映画とかどうスか。割り勘で」
「嫌」
「あ、嫌スか。ま、そう言わないでどうスか。ジャッキーのリメイク、3Dですごい迫力らしいスよ。オールCGスけど」
「嫌」
「え~、ジャッキーがスかあ! ハードル高すぎっスよ!」
「……」
「気が変わったらいつでも言ってください。なんなら勝ち譲ってもいいスよ。世の中には真剣勝負なんかよりもっと大事なものがありますから」
「そういうのもっと嫌」
「あ、やっぱ嫌スか。今のなかったことでお願いします。お互い正々堂々と頑張りまショー」
「おまえ、すごいな。いろいろと……」
光輔のことなどもはや眼中になく、田村は熱いまなざしで夕季だけを一直線に見つめていた。
「よーし、こうなったら、俺、ゆうちゃん先輩のために、穂村先輩叩き潰します。ゴキブリをハエ叩きで叩き潰すみたいに、コンシンのチカラで叩き潰すっスよ。びちゃあ、オエ~って」
「いや、おまえ、何言ってんの」
「はっくちん! ……ごめんなさい」
「あ~、くしゃみかわいいスね。計算スか」
「違う……」
「ハゲモニー!」
「……」
「すいません、俺もくしゃみ出ちゃいました」
「嘘だろ!」
「いや、ホントっスよ、なんかぴろぴろしててフガフガして。あ、また……、フンガ、……ハ、ハ、ハ、ハゲモニーッ!」
「いや、ないだろ! おまえ! なんだよ、ハゲモニーって」
「知らないんスか。習ったじゃないスか」
「いや、知ってるけど……」
「ヘゲモニー」
「……」
「……」
点の目の二人に見つめられ、夕季がやや焦り気味に顔をそむける。
「田村君が言っているの、きっとヘゲモニー」
「すごいっスね、天才っスね!」鼻息を荒げながら、田村が目を輝かせてぐいぐい夕季に迫る。「で、どういう意味っスか」
「覇権とか支配権って意味だったと思う……」
「なるほど! やっぱり!」
「おまえ、知らないであんなふうに……」
「何言ってんスか。知ってますよ」素敵な笑顔で夕季に迫る。「覇権業者の覇権スよね、ね」
「違う……」
「あ、やっぱり。でも俺が言ってたのは、二人で歌ったりしてハモる方のやつですけどね」
「それは明らかにハーモニーだよな!」
「うちじゃ一家揃ってそう言うんスよ。オヤジが最初に間違えて言い出したんスけどね。自分もハゲてるくせに大笑いっスよ。ズレてるよって、音程がズレてるのかヅラがズレてるのかどっちだよって。でもきっと、俺もいつかハゲるんスよね。遺伝スから。俺にはどうすることもできないんスかね」
「知らんがな……」
「ところで、なんで俺の名前知ってるんスか? 知ってたんスか?」
「さっき聞いた……」
「え~、マジスか~! ホントはひそかに気になってたりして~?」
「……」
「すごいな! ほんと、おまえは!」
「え~、何言ってんスか~? またまた~」両ひとさし指でピュッと光輔を指す。「ぴゆ~う」
「いや、褒めてねえよ!」
「あ、また……、フガ……、ハ、ハ、ハ、ハク……、ハゲモニッ!」
「いや、わざとだろ! 強引だろ!」
「あ~、あぶなかった」
「おい!」
「ぶっちゃけ、アンカー対決なんてもうどうでもよくなってきたっスね。あははは!」
「うぜ~……」
「!」
異変に気づいて木場が眉間に皺を寄せる。
「どうした、桔平」
すると同じ顔で桔平が振り返った。
「まただ」メガル敷地内にある立体駐車場で自家用車両のドアを閉め、深く息を吐き出した。「またやられた」
「すりかえられたのか、また」
「ああ……」神妙な様子の木場にため息で答える。「ほんの今な」
木場の表情が驚きにゆがむ。
それをしげしげと眺め、桔平は黒いRV車の後部ドアにある小さな傷を指でなぞってみせた。
「昨日パチンコ屋でつけられたキズだ。こんなものは序の口で、小さな擦りキズまで正確に再現してある。車体やエンジンのくたびれ具合だけでなく、車内の汚れや匂いまで正確にな。俺のタバコの銘柄もだ。まったくもって、見事と言う他ない」
「何故わかった」
「さっき吸ったタバコの匂いがしない」ちらと木場を見やる。「昼に三田さんから貰ったやつだ。今までに吸ったことがない銘柄のヤツで、二、三回煙を吐き出しただけですぐ忘れ物を取りに外に出たから、車内には吸殻も残っていない」
「……わかるのか、そんなことで」
「ああ。鼻には自信がある」
自慢するでもなく当然のようにそう言い切る桔平に、木場が畏怖の表情を向ける。
それを受け流し、桔平は全身の穴から憤りを噴出した。
「もう何度目なのかも忘れちまったよ。別段、爆発物とかが仕掛けられているわけでもないから、影響はないがな。何をしたいのかよくわからんが、どうせならいっそ中古をトレースするんじゃなく、新車にしといてくれればいいのによ」
「目的はわからんが、ここまでする必要があるのか。俺達に気づかれるリスクを冒してまで」
「さあな」首をすくめて木場に注目する。「だがこんな短時間にここまで正確な仕事をする人間となると、条件は限られてくる。俺達の極めて身近な人間だ」
木場がごくりと唾を飲み込む。一瞬たりと桔平から目をそらさず、それを口にした。
「朴か……」
「……ああ」
誘導灯が照らし出す薄暗い立体駐車場の中心で、二人は見えざる何かを睨みつけるように立ちつくした。