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第三十三話 『百人のわからずや・後編』 2. 鋼の女

 


 一段落し、疲れきった身体を背もたれに委ねる忍。

 背後からの足音に気がつき、一瞬で姿勢を正した。

 これからまみえる、本当の戦いに備えて。

「彼女はあなたの言うことにはすべて従うの」

 椅子に座ったままで、そろりと顔を向ける忍。

 そこには感情すら見えなかったものの、冷たい意識を存分に押しつけてくるあさみの顔があった。

「すべてではありません。私が間違った選択をした時には、判断を誤らないように伝えてあります」

「それは今のあなたの行為が正しかったと解釈してもいいのかしら」

「いえ……」忍がやや口ごもる。「本当のところ、自分でもよくわかりません。どれだけ頑張っても私達がすべての平和を守れるわけじゃない。それでも自分達にとって大切な人間だけは守りたい。いい、悪いじゃなく、それだけを彼女は汲み取ってくれたんだと思います。もしそれが過ちであることに気がついたのなら、彼女は自らの意志で戻ってくるはずです」

「あなたは誰を助けたいの。すぐ近くにいる人間? それとも、昨日今日出逢ったばかりの、通りすがりの知り合いなの」

「そういうのではありません。でも目の前に困っている人がいるのにそれを見過ごしてしまったら、何かもっと大事なものをなくしてしまいそうな気がするんです。損得なんかよりももっと大切な、自分が自分であるために必要な何かを。私はそういう人間でありたいし、そうでない人間にはなりたくない。他の人からしたら、ただの自己満足なのかもしれませんが」

「その自己満足のせいで、今度はあなたが自分の大切な人を守れなくなるわよ」

 即答の忍に楔を打ち込むあさみ。

 それでも忍の信念が揺らぐことはなかった。

「そうかもしれません。でも信じるのをやめてしまったら、何が本当に大切なことかすら見失ってしまいそうな気がする。そんな人間に他の誰かを守ることなんて、できるわけないですよね。その結果、誰も手を差しのべてくれなくなったとしたなら、私がそれだけの人間だったということです」

「そう、よくわかったわ。でもそんなことをこういう場所でおおっぴらに言う人を、ここに置いておけると思う?」

「思いません。少数の人間を救うために多くの人達を危険に晒すことは、容易に許されてはならないことだと思っています。でも誰だって大切な人やものを守るために強くなりたかったはずです。それなのに、強くなって背負っているものが大きくなるとそれができなくなるなんて、悲しすぎますよね。だったら他の誰かがその人を助けてあげるべきなんじゃないでしょうか」

「かわりにその誰かはすべての責任を負わされることになる。最悪の事態に陥ることだって。それにあなたがなれるの」

「はい。そのつもりです」

「そこまでしなければならない理由は何? あなたにとって、……なんだというの」

「きっと言葉では伝えられないものです。ずるい言い方ですみません」

 そんなざれごとがあさみに通用するはずがないだろうことは、忍もよく理解しているつもりだった。

 それだけは綾音からも口をすっぱくして言われていたことだ。

 決して見誤るな。誰にも踏み込んではならない領域があることを忘れるな、と。

 案の定、あさみがその手を緩めることはなかった。

「その覚悟を貫いて、誰に認めてもらうつもり。あなたが信じた人は、あなたを切り捨てていなくなってしまったのに」

「そんなこと、どうでもいいんです。言いましたよね。ただの自己満足だって」

「……」

「自分で言うのも変なんですけれど、私、自分のことをずっと優等生だと思っていました。でも違っていたみたいなんです。自分でも意外だったんですけれど、結構融通のきかないわからずやだったみたいです。でもそれでもいい。目の前の困っている人を救えないような人間にはなりたくないですから」

「どこかに困っている人がいたら、そうやって世界中のどこへでも駆けつける気なの」

「それは極論です。でも可能な限り、そうすべきだとは思います」

「理想論ね。壁に挟まった仔犬のニュースを聞いた途端に自分のすべき責務を放棄して飛び出していく人間を、その後始末をさせられる人達はどう思うかしら」

「それとこれとは話が違います」

「そう、違うわ。でも違うと思わない人もいる。その時その人が置かれた立場や状況によっても、考え方や感覚は違ってくるでしょうしね。もし自分が無一文になるまで慈善団体に寄付する人がいたら、それを見た人達は感謝するどころか、きっとバカにして笑うことでしょうね」

「……笑うんですか」

「……。その人が助けを求めて泣きついてきたならね。履き違えているでしょ。人助けは他人に迷惑をかけてまでするものではないわ。自分の身の丈を理解した上で行うべきよ」

「だったら間違っていませんよね」

「……」

「私達は理想を実現できるもっとも近い場所にいます。誰にもできないことをするのが特別だとは思いません。そしてそれは、逆に責任を負うことだと私は考えています」

「ここってそんなところだった? メガルって」

「……」目を見開いて絶句する忍。「そうでしたね……。どうして私は、そんなふうに思っていたんでしょうか。……当たり前のように、ずっと」

 そこまであさみは一度もまばたきをしなかった。

 ようやく一つ、二つとまばたきをし、細くはかないため息を漏らす。

「あなたの考えはよくわかったわ。私の見込み違いだったみたいね」

「……。すみません」

「謝らなくていい。責任は取ってもらうから」

「はい。わかっています」

「もう一つ、あなたは大きなことを見落としているわ」

 忍に背中を向け、噛み砕くようにあさみがそれを口にした。

「何をですか」

「彼らには、二百六便の人達にはどう言ってこのことを伝えるの」

「それは、今から助けが向かいますって……」

「今すぐ墜落するかもしれない状況で、どんなふうに彼らにそれを伝えればいいの。必ず助かる見込みもないのに」

「それは……。そんなこと、今議論すべきことでは……」

「あるわ。二百六便の覚悟を考えれば」

「覚悟……」

「おそらく機長は己の心臓すら引き裂く思いで助かることを断念したはずよ。二百六便のルートを見ればわかる。とても空港までは辿り着けないことを悟り、彼らはあえて生存確率の低くなるルートを選択した。自分達の死を受け入れてでも、それ以上の被害を拡大させないために。決断するにはそうしなければならなかった理由が必ずある。それはここにいる私達には理解できない、ぎりぎりの選択だったはずよ。藁にもすがりたかった人間が死を選ばざるを得なかった状況がそこにはある。彼らにしかわからない、彼らにしか下せなかった決断が。あなたはそれを無にしてまで、死を覚悟した人間に、あてのない希望だけを与えようとするの。それとも希望さえちらつかせれば、彼らの心が救われるとでも言うの」

「希望って何ですか。助かるはずがないって諦めてしまっている人達に、わずかでも望みを持ってもらうことが、そんなにいけないことなんですか」

「助かるかどうかもわからないのに助かるかもしれないと安心させるのが、本当に正しいことなのかしらね。保証のない希望を与えたばかりに、彼らはそれを信じて最期の覚悟もメッセージも残せずに死んでいく。迫り来る死の恐怖からは逃れられるかもしれないけれど、残された人達はどう思うかしらね。全員が全員、あなたのように強い人ばかりじゃないのよ。希望を持ちながら死ぬと言えば聞こえはいいけれど、自分の最期を見つめたいと思う人もいるはずよ。それを受け取りたい家族だって。不安さえ取り除ければそれでいいという考えは、必ずしも正しいと言い切れない」

「それはここだから言えることですよね」

「!」

「助かりたいと思う人も、助けたいと思う人も、そんなことは考えてはいないと思います。正しいとか、正しくないとかじゃなくて、一生懸命なんです。必死なんです。誰しも心の中にとめどもなく浮かび上がってくる気持ちでいっぱいで、愛する人達のもとへ戻ろうと頑張っている人達と、それが間近から垣間見えるから何としてでも助けたいと努力する人達。生きるってそういうことなんじゃないですか。一生懸命生きることをやめた人の祈りは、誰の耳にも届かない。私はそう思っています」

「それは自分の体験なの」

「過ちに気がついただけです。信じられるものがあることを知った。ただそれだけのことです」

 腕組みをし、あさみが深く深く息を吐き出す。

 それは諦めのようでも、落胆のようでも、悲しみのようでも、またそのどれでもないようでもあった。

「ことの顛末によっては、あなたはすべてを失うことになる。これまであなたが培ってきたものすべて。それでもいいの」

「はい、かまいません」

「古閑君!」

「古閑さん」

 心配そうに割り込んできたショーンを無視し、あさみが続ける。

「その影響はあなたの身内にまで及ぶことになるけれど。あなたの大切な人間から、大切なものを奪う結果になるでしょうね。それでも?」

「!」

 それまでどんな質問にも迷いなく返していた忍に、初めて戸惑いの色が浮かび上がる。

 それを感じ取り、あさみは少しだけトーンを落として続けた。

「たとえ彼女がこの世界から求められる人間だったとしても、ここでは何の意味もなさない。そんなこと、わかっているでしょ」

「……」

「どれだけ強い意志があろうと、個人的な感情だけでは組織は動かせない。覚えておきなさい」

「はい」前を見つめたまま、淡々と押し出した。「わかっています」

「そう。なら、いいけれど」

「割り切れないものを割り切ることができるのは人の心だけですから。そうおっしゃりたいのですよね」

「……」

 今度は忍の言葉にあさみが絶句する番だった。

 そのあまりの強さを目の当たりにして。

「……。妹さんにはどう説明する気」

 が、その死刑宣告にも等しい問いかけにも、忍は嬉しそうに笑ってみせたのだった。

「後で謝ります。許してもらえるまで。許してもらえないかもしれませんが……」

 あさみの目に動揺が見え隠れし始めていた。

 それ以上何も言おうとせず、考えにふけるあさみ。

 その様子にさすがに不安になった忍が、少しだけフォローを入れようとした。

「世界平和って何なんでしょうか。とても尊くて大事なことだとは思います。でもそれを口にする人達は、みんな自分の幸せを犠牲にしなければいけないんでしょうか。全体の平和と、自分達の平和って、一緒に考えちゃいけないことなんですか」

「……」

「いけないんですよね。だったら私は、この場所にふさわしい人間じゃない。当然ですね……」

「少し静かにしててくれない。どうやって責任逃れしようか考えているところだから」

「……」

 平坦にそう告げたあさみに、忍の心が後退する。

 やはり彼女は自分の考えが及ぶような人間ではなかったのだと。

 そんな忍の後悔をよそに、あさみは先につなげてまた淡々と言い放った。

「余計なことを考えてる暇があるのなら、アイデアの一つも出したらどう。あなただってひとごとじゃないんだから。こうなったら全力でもみ消すしかないでしょ」

「!……。……司令」

「小田切君も連帯責任よ。自分のクビがかかっていると思いなさい。いえ、もうかけたわよ。わかった」

「は、はい! ……うう」

「古閑さん、大城室長の出張予定はいつだったかしら」

 司令室別室でふいに何かを思い出したようにあさみが切り出す。

「確か、今日だったはずじゃない」

「……あ、はい……」

 夕季達のサポートに追われ、忍の対応が一瞬遅れた。

 それをじろりと見やり、あさみが用意していた言葉を口にする。

「至急調べてくれない? もし二百六便だとしたら、大変だから」

 光速で頭上に裸電球を点し、忍が無造作に端末をガチャガチャし始めた。

 やがて、切迫した表情をわざとらしくあさみへと差し向ける。

「大変です。大城室長の出張届、出ています。二百六便の可能性もあります」

「大城室長はその便には乗っておりませんが。確か新幹……」

「なんですって!」

 ショーンの声をかき消し、ギロリと威嚇する進藤あさみ司令官。

「もう一度しっかりと調べてくれないかしら。もし万が一があったら困るから」

「何度も確認いたしました。万が一にも間違いは……」

「はい、ただちにもう一度調べます」

 再びショーンを押しとどめたのは、今度は忍の方だった。

「ならもう一度、僕が調べ……」

「結構です!」

「う!」

 覆い被さろうとしたショーンの身体をグイと押しのけ、聞かざるオーラを存分に発する忍が大げさに驚いてみせる。

「ありました。二百六便です。大城室長は二百六便の搭乗手続きをしたという記録があります。鈴木副課長も同行しているようです」

「そんなはずは……」

 確認しようとしたショーンを、今度こそ忍が突き飛ばした。

「邪魔です!」

「ぐう……」

 体格に勝るショーンが、忍のブチかましをまともにくらって激しく壁に叩きつけられる。

 すっかり戦意消失してしまったショーンを、あさみは楽しそうに眺めた。

「そう。仲がいいわね。あなた達」

「とんでもありません!」

「ぐううう……」

 一瞬で表情を引き締めるあさみ。

「困ったことになったわね。彼らを失うのはメガルにとって大きな損失よ。癪だけど」それから白々しく続けた。「ちょっと遠いけれど、何とかならないの」

 それを受け、画面を見たままの忍がやや悪そうな顔になった。

「たまたまですが空竜王がすぐに向かえそうな状況です。マッハ六以上で飛行できる空竜王なら、ひょっとしたら間に合うかもしれません。今ならぎりぎりですが」

「そう。じゃあ仕方ないわね」

「仕方ないですね」

 あさみに振り返る忍。

 二人が顔を見合わせ、にやりと笑った。

 本当の戦いが、今、始まろうとしていた。




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